忘却の花が囁く
自然魔法が社会全体を支える大陸ヴェルダンシアで、十七歳の少女ミラは常に人間よりも植物に囲まれていることが心地よかった。志望植物学者として、失われた珍しい草花を記録し、時間の彼方に消えた種を発見することを夢見ていた。しかし、その静かな日々は一つの森との出会いで一変する。ソーンウッド——周辺の村人たちから呪いがあると囁かれている禁忌の森だ。
科学的好奇心と、説明のつかない不思議な引力に駆られ、ミラは警告石を越えて森の奥へ進む。そこで彼女が発見したのは、時間に取り残された隠された空き地。その中心に咲いていたのは、ソウルハート・ブロッサム——成仏できない魂の断片を宿す伝説の花だった。ミラが震える手で花弁に触れた瞬間、魔力が爆発し、一人の青年が現れた。キーラン、十八歳。妖しく美しく、心に深い傷を抱える彼は、その森の守護者として縛り付けられていたのだ——理由さえも本人が覚えていない。
ミラとキーランの出会いは、ぎこちなく、そして電撃的だった。キーランは優しく魅力的だが、断片的な記憶と呪いは彼を危険な存在にしていた。しかしミラの目には、脅威ではなく一人の人間が映り、自分と同じくらい孤独な者が見え
忘却の花が囁く - Gears, Sparks, and Someone Else's Hands on Your Notebook
緑翼学府の実習工房は、夜明け前の時間帯がいちばん静かだ。
Miraは器具棚の鍵を返却ポストから抜き取り、奥の作業台に直行した。「維管束フラックス分析器」——Thornwoodの魔力読み取りに使うつもりで三日前から借り申請していた精密計器だ。封筒の薬草標本と、手書きの修理図解を三冊の技術マニュアルと照合しながら十ページ分のメモに落とし込んである。完璧な準備だ、と思っていた。
四十分後、分析器はバラバラになっていた。
Miraは作業台に肘をつき、解体された計器の部品を眺めた。接触端子が七個、測定コイルが二本、樹脂製の固定板が割れて三つになっている。
(……どこで間違えた)
技術マニュアルの図解を指でなぞる。修理図解の手順は正しかった。間違えたのは「どの部品が壊れているか」の判断の方だった。ボタニカ——植物に触れて体内の樹脈を共鳴させる植物魔法——の測定回路と、通常の電気系統が混在する機器の場合、故障箇所は外見だけでは判断できない。それをMiraは知っていたはずだったが、実際にやってみると違った。
「それ、測定コイルじゃなくてインピーダンス調整板が焼けてますよ」
声がした。
隣の作業台に、見たことのない男子がいた。
年はMiraとそれほど変わらない——十六、七歳くらいか。茶色い癖毛が後ろにはねていて、作業着の袖に工具が三本差してある。手元では何か小さな機械を組み立てていて、台の上には樹液機関のパーツと音楽箱の歯車が混在していた。親指の関節に油の汚れが光っている。学府の制服ではない。
Miraは一瞬止まった。
「どなたですか」
「ティンカーベル工房の配達員。部品を持ってきたついでに充電中です。あなたのその計器、インピーダンス調整板が逝ってます。コイルは無傷」
男子——Rileyは、Miraの計器を指さした。
「見ていいですか」
「……どうぞ」
言ってから、(なぜ許可したんだろう)と思った。でも彼が「インピーダンス調整板」を即座に指摘したのは事実だった。Miraが四十分かけて到達できなかった診断を、彼は八秒で出した。
Rileyは計器を引き寄せて、部品を指でひとつひとつ確認し始めた。動作が無駄ない。機器を見る目が、Miraが未分類の植物標本を見る目に似ている——世界が一時停止したみたいな、集中した静けさ。
「調整板は交換すれば直ります。工房に予備がある。あと、感度を三割上げられる改造もできますけど」
「改造は結構です。精度の方が重要なので」
「了解。四分待って」
本当に四分後、計器は完全に組み上がっていた。Miraはノートに手順を書き写しながら、Rileyの作業を観察した。書き写すことで敗北感が少し和らぐ。科学者は観察を通して学ぶのだ。それだけだ。
「で、これで何を測るんですか」
Rileyが聞いた。作業台を片づけながら、あっさりとした口調で。
Miraは準備していた答えを使った。
「学府の実習課題。北東の外縁部で背景魔力密度の調査をします」
「北東」
Rileyの動きが、一拍だけ止まった。それからコートのポケットから折り畳まれた紙を取り出して、Miraの標本データの上に広げた。何も聞かずに。
「これ、うちの工房で受けた修理依頼を地図に落としたやつです。六週間分」
地図だった。カレイド・ヴェールの樹液機関ネットワーク全体が書き込まれていて、赤いマークが三箇所——いずれも北東方向に伸びる中継ステーション付近。
「この三ヶ所、同じ種類の効率低下が出てます。不規則な魔力消費パターン、外部からの吸い取り。もとを辿ると——」
指が地図の上を北東へ移動した。
Thornwoodの方角で止まった。
「ここです」
Miraは手が止まった。
標本ノートが作業台の上で開いたままになっている。「北東辺境」という記述、乾燥紙の押し花、EP2で写し取った軍用靴底の模様。Rileyの視線がノートに落ちた。種の学名を読んでいる。地図と見比べている。
十秒の沈黙があった。
(否定できるか。否定できない)
Miraは計算した。ティンカーベル工房——カレイド・ヴェールで樹液機関の修理を請け負う発明家の集会所——の技術者が六週間かけて魔力消費異常を追跡していた。その異常パターンはMiraがThornwood内部で記録したものと一致する可能性が高い。そしてこの人物は、Miraが持っていない能力を持っている。
「……本当のことを少し話します」
Rileyが顔を上げた。
「その吸い取りパターンは、Thornwoodの内部でも確認できます。私は標本採取のために——」
「Thornwoodって、300年前から立入禁止のやつですか」
「そうです。違反したら禁固五年。分かっています」
「なんで入ったんですか」
「必要があったから。その吸い取りが誰の仕業か突き止めれば、証拠になります。何かが計画的に森の魔力を採取していて、そのパターンが市街の機関網にまで出ているなら——これはVerdant Syndicateの仕業です」
Verdant Syndicate——七十二年前に設立された大陸最大の魔力植物採取企業。表向きは合法的な資源会社だが、裏では違法採取と政治工作を常態化させている巨大組織だ。フィロメラ国内には採取許可証を持っていない。
Rileyは三秒黙っていた。
「俺もThornwood、来週入ろうとしてました」
今度はMiraが止まる番だった。
「この魔力パターン、自分で確認したかったので。同じことを考えてたんですね、俺たち」
彼は地図を折り畳んで、Miraの標本ノートの隣に置いた。二つを並べると、欠けていたピースが埋まる。Miraの森の中のデータと、Rileyの市街の機関データが一枚の絵を作る。
MiraはKieranのことを話さなかった。まだ話す理由がなかった。
「夕方に出発しましょう。目撃者が少ない時間帯の方がいい」
「荷物何持てばいいですか」
「あなたの共鳴計測器と、機械系の修理道具。私が分析器と標本用具を持ちます」
「了解」
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夕方、二人はカレイド・ヴェールの北東門を抜けた。
空が橙色から青紫に変わり始めている。Thornwoodまでの五キロは、最初の二キロが畑地で、残り三キロが緩やかな森の道だ。Rileyは歩きながらも地図を見ている。Miraは分析器を背負って、距離感を確かめながら進んだ。
「ところで俺、Riley Hatch。さっき名前言い忘れてたなと思って」
「Miraです」
「Miraさんって、いつもこういう感じで人を勧誘するんですか」
「人を勧誘したのは初めてです」
「それはそれで大丈夫なの」
Miraは返答を考えて、結局しなかった。
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Thornwoodの外縁に着いたのは、日が完全に落ちる直前だった。
警告石の列——約三百年前に設置された高さ二メートルの石柱で、刻まれた古代文字が侵入者への忌避魔法を放つ——が闇の中に等間隔に並んでいる。その列を見た瞬間、Miraの足が一瞬遅くなった。
三つ目の石柱が、割れていた。
割れ方が内側から外側へ向かっていた。
「……これは」
「内側から割れた。忌避魔法が漏れ出しています」
四つ目も割れていた。五つ目も。合計三本の警告石が、ほぼ同じ破壊パターンを示していた。空気が変だった——Miraが感じる樹脈の振動数がおかしい。基準値より高い、チリチリとした感触。
Rileyが共鳴計測器を取り出した。小さな計器で、針が揺れる。
「エンジンを逆回転させた時みたいな感じ。この数値は」
「樹脈周波数の干渉です。ベースラインより四点二サイクル高い」
Miraはかがんで地面を見た。苔の中に靴底の跡が残っている。格子の間隔は七・三ミリ、深さは均等。前回と同じ——軍用底の、Verdant Syndicateの「刈り手」が使う種類だ。
それが一組ではなかった。少なくとも三組の跡が内側に向かっている。二組は戻っていない。
空気に焦げた樹液の匂いが混じっていた。甘くて、少し辛い。最低でも数時間以内に、何らかの動力機器がこの付近で稼働した証拠だ。Syndicateが希少種の位置特定に使う高感度魔力追跡装置——その可能性が高い。
「撤退します」
「ですよね」
Rileyがかがんだまま、静かに言った。振り返らずに。
「でも後ろ、十五メートルくらいのところに四人います。二分以上前からいる」
Miraの動きが止まった。
「……どうして分かるんですか」
「共鳴計測器が生体反応を拾います。俺の改造版だと人間の樹脈も読めるので」
(改造したのか、この計器を)
「振り返らない方がいいですか」
「もう遅いと思います」
木立の中から、四人が出てきた。
全員が無印の暗色の装備をつけていた。軽装だが動きが訓練されている。手元に短いロッド型の機器——魔力追跡装置だ。先頭に立つのは三十代に見える小柄な女性で、声を張ることなく口を開いた。
「ここはアクティブな調査区域です。二人は不法侵入に当たります。三十秒で説明してください。納得できれば見逃す。できなければ街まで強制案内します。快適ではありませんよ」
Miraはリーダーの目を見た。目線が二度、割れた警告石に戻った。あちらも別の仕事がある。こちらのために時間を使いたくない。
「あのー、俺たち緑翼学府の学生で、共鳴調査の許可を——」
「Riley」
「はい?」
「止まってください」
Miraは分析器の数値を確認した。さっき計測したベースラインからのズレ、警告石の破損位置、樹脈干渉の方向性。全部が一致している。
「魔力追跡装置の精度が落ちています」
リーダーが眉を動かした。
「割れた警告石から干渉波が出ています。半径二百メートル以内の読み取りに偽陽性が出る周波数です。今この場所で機器を走らせると、正確なデータが取れない」
Miraは自分の分析器を差し出すように軽く持ち上げた。
「私の計器でも同じ干渉を計測しています。私と、この人は今すぐここを離れます。あなた方の調査の邪魔もしない。それで、お互いに時間を使わずに済む」
三秒の静寂。
リーダーの目線がもう一度警告石に向いて——戻った。
頷いた。小さく、一度だけ。
四人が一歩、横に動いた。道が開く。
MiraはRileyの肘を軽く押した。歩き出す。走らない。走ると「逃げた」になる。
警告石の列を抜けた。曲がり角を越えた。
三十メートル進んだところで、Rileyが近くの木の幹に手をついた。
「……呼吸してなかったと思う、今」
「してました。ちゃんと」
「したっけ」
Miraは分析器を下ろした。手が、少し震えていた。これは気温の低下による筋肉反応だ、と分析した。どちらにしても手が動くうちに記録した方がいい。ノートを開いて、リーダーの靴底の模様を記憶から書き写す。格子の間隔、歯の深さ、踵の摩耗パターン。手が震えていても記録は正確にできた。
RileyがMiraの手元を見た。
「今それを書くの?」
「証拠が薄れる前に」
「……こわ」
笑いの混じった声だった。批判ではない。少し違う種類の反応だった。Miraには正確に分類できなかった。
道が暗くなっていた。カレイド・ヴェールの明かりが遠くに見える。二人は並んで歩き始めた。
Rileyが地図を広げて、割れた警告石の位置をマークした。
「これ、Syndicateが前衛チームを入れたってことですよね。偵察じゃなくて定着」
「靴跡が戻っていなかった。内側に二組」
「となると——」
Rileyがマーク位置を指でなぞった。
「あの樹液焦げの匂い、魔力追跡装置が動いてた。追跡範囲が外縁から五十メートルだとすると——」
指が止まった。
「森の中に、何か……いるんですか。心配してる対象が」
Miraが止まった。
その単語を使ったつもりはなかった。森に入るたびに外縁確認をすること、リーダーに対して「逃げる」ではなく「交渉する」を選んだこと、樹液の匂いを嗅いだ瞬間の顔。Rileyはそれを全部見ていた。機器が人の樹脈を読むように、この人は状況を読んでいる。
十五秒、歩きながら考えた。
「……います」
Rileyが地図を折り畳んだ。
「じゃあ、今の入り方じゃダメですね。別のルートと、もっとちゃんとした装備と、あの追跡機器に対応できる方法を考えないと」
責めている声ではなかった。ノートに次の手順を書き始める時と同じ、問題を解こうとしている声だった。
Miraは自分がどんな表情をしているか分からなかった。分析するより先に、少し奇妙な感触が胸の中にあった。誰かが既に「どうするか」を考えている。Miraが頼む前に。
今まで全部一人でやっていた。そうする方が確実だったから。でも今夜、Rileyの地図とMiraの標本データが重なった。一枚になった絵の方が、どちらか一枚より正確だった。
道の先にカレイド・ヴェールの灯りが増えていく。夜の街。魔力蔦が壁面で静かに光っている。
Thornwoodの中に、Syndicateの前衛がいる。追跡装置が動いていた。Kieranのグレイドまで二十メートルも離れていない場所で。
Miraはノートを閉じた。手の震えが止まっている。
今夜は戻れない。次に行くまでに、もっと確実な方法が必要だ。Noveliaとは?
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