忘却の花が囁く
自然魔法が社会全体を支える大陸ヴェルダンシアで、十七歳の少女ミラは常に人間よりも植物に囲まれていることが心地よかった。志望植物学者として、失われた珍しい草花を記録し、時間の彼方に消えた種を発見することを夢見ていた。しかし、その静かな日々は一つの森との出会いで一変する。ソーンウッド——周辺の村人たちから呪いがあると囁かれている禁忌の森だ。
科学的好奇心と、説明のつかない不思議な引力に駆られ、ミラは警告石を越えて森の奥へ進む。そこで彼女が発見したのは、時間に取り残された隠された空き地。その中心に咲いていたのは、ソウルハート・ブロッサム——成仏できない魂の断片を宿す伝説の花だった。ミラが震える手で花弁に触れた瞬間、魔力が爆発し、一人の青年が現れた。キーラン、十八歳。妖しく美しく、心に深い傷を抱える彼は、その森の守護者として縛り付けられていたのだ——理由さえも本人が覚えていない。
ミラとキーランの出会いは、ぎこちなく、そして電撃的だった。キーランは優しく魅力的だが、断片的な記憶と呪いは彼を危険な存在にしていた。しかしミラの目には、脅威ではなく一人の人間が映り、自分と同じくらい孤独な者が見え
忘却の花が囁く - The Boy Who Smells Like Rain and Sarcasm
あの夜から、Miraはずっと考えていた。
声のことを。
名前を呼ばれた、あの一語のことを。植物学の教科書には「森が人の名前を知っている」という項目はどこにもない。ブラムリッジ村の薬草農地が枯死し続けているのも、Thornwoodの封鎖令が三百年間破られなかったのも、全部つながっている気がした。気がする、というのは仮説であって証拠ではない。証拠を集めるには、もう一度あの場所に行くしかない。
翌朝、Miraは机の上に一枚の紙を広げた。
昨夜の深夜に書いたものだ。タイトルは「Thornwood内部環境リスク分類表」。左列に危険要素、右列に対処法。縊り蔦——意思を持つように動く捕食性の蔓植物——には炎。トゲネズミ——体長六十センチ、毒棘を持つ齧歯類——には高い場所。胞子幻獣——巨大キノコから放出される胞子が集まって幻影を作る存在——には口元を布で覆う。発光苔のルートを記憶し、迷ったときの帰還経路を確保する。
「十七個だ」
Miraは紙を見ながら呟いた。潜在的な死因を、確率の高い順に並べると十七個ある。第一位は方向感覚の喪失による遭難。第二位は縊り蔦。第三位は低体温症——ボタニカを使いすぎると体温が下がる、という植物魔法の代償だ。
十七個全部に対策が書いてある。
準備は完璧だ、と思った。
鏡の前でショートボブを整えながら、(でも声の正体が十八個目の危険かもしれない)とも思った。それは対策表に書けなかった。書き方がわからなかったから。
革製ベストのポケットに標本ノートを入れて、Miraは扉を開けた。夜明け前のブラムリッジ村は静かで、空気に湿った草の匂いが混じっている。北東の方角に、Thornwoodの輪郭が暗く浮かんでいる。
(行こう)
それだけ考えて、Miraは歩き出した。
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警告石の列を越えたのは、空がようやく白み始めた頃だった。
高さ二メートルの石柱が等間隔に並んでいて、刻まれた古代文字が微弱な光を放っている。これを設置したのは三百年前のフィロメラ当局で、侵入者を追い返すための忌避魔法が今でも残っている。Miraは通り抜けるとき、首の後ろに細かい鳥肌が立つのを感じた。魔法の残滓が皮膚に触れる感触だ、と分析した。怖いわけではない、多分。
Thornwoodの内部は、前回よりずっと暗かった。
巨木の枝葉が空を覆い、差し込む光がほとんどない。代わりに地表を発光苔がぼんやりと照らしている。青白い光で、見覚えのあるルートを確認しながらMiraは進んだ。標本ノートには前回の経路が鉛筆でスケッチされている。中層域に入ると、空気が変わった。甘みと腐敗が混ざったような複雑な匂い。キノコの胞子か、あるいは——
ぐしゃ、と顔が何かに触れた。
Miraは立ち止まった。
ゆっくりと顔の前に手をやると、太い蔦が鼻梁のあたりに張り渡されていた。縊り蔦ではない——固定されていて動かない、ただの普通の蔦だ。でも粘着性のある樹液が頬と額と、なぜか前髪の右半分にしっかり貼りついていた。
(……対策表になかった)
Miraは蔦を剥がそうとした。ぴっ、と音がして、前髪がそちらの方向に引っ張られる。剥がせる。でも遅い。右手で蔦を持ち、左手で前髪を引き、慎重に慎重に——
三分かかった。四分かかった。
近くで、発光キノコがふわりと光った。まるでこちらを見ているような、ほんの少し間の悪いタイミングで。
Miraは整えようのなくなった前髪を手のひらで押さえた。科学的な観察眼は無傷だった。威厳は、ちょっと傷ついた。
「記録する」
標本ノートを開いて「低位置横断蔦・粘着性あり・要注意」と書いた。次来るときは対策表の一番上に加えよう。
それから、もう少し先へ進んだ。
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発光キノコの群落が密になってきた頃、急に視界が広がった。
ソウルハート・グレイドだ。
Thornwoodの最深部に近いこの空間は、四方を巨木に囲まれた円形の空き地で、地表は柔らかな苔に覆われていた。中央に一本の花が咲いている。Soulheart Blossom——成仏できなかった魂の欠片を宿すとされる、唯一無二の花。白い花弁に淡い青の模様が入っていて、光を受けてかすかに輝いている。
Miraは近づいた。前回、この花に触れて、名前を呼ぶ声を聞いた。あれが何だったのかを確かめるために、ここまで来た。
かがんで、指を伸ばした。
触れた、と思った瞬間——
ドン、と何かがMiraの胸を押した。
実際には何も触れていない。でも体が後ろに飛んで、苔の上に仰向けに倒れた。空が見えた。木漏れ日が発光苔の光と混ざって、変な色になっている。
(痛い……)
仰向けのまま、Miraはひと呼吸置いた。背中は無事。ノートも無事。前髪は、もう諦めた。
「……帰れ」
声が降ってきた。
低くて、少し嗄れていて、でも澄んでいる。
ゆっくり視線を上げると、Miraを見下ろす人物がいた。
腕を組んで、こちらを見ている。年齢は十代後半くらいに見えた。黒に近い暗い茶色の髪が少し乱れていて、瞳は深い緑だ。服装は古い時代のものに見える——詰め衿の上着、細身の長ズボン、革のブーツ。でも最も変なのは、その輪郭だった。光の当たり方によって、体の端が微妙にぼやけている。発光苔の光を通して見ると、肩のあたりが薄く、透けて見えた。
Miraは仰向けのまま、じっとその人物を見た。
「あなたは……光の屈折特性に影響されているんですか。それとも物質密度が低いんですか」
沈黙があった。
「……今、地面に倒れている状態で、それが最初に出てくる言葉か」
「状況を観察する方が先です」
Miraは体を起こして座った。標本ノートを取り出した。ペンを構えた。
相手は、もう一度「帰れ」と言った。でも今度は最初より少し声のトーンが違った。確信があって怒っている感じではなく、どこか戸惑っているような——
「お前、この森に来た侵入者で一番おかしいな」
「おかしくないです。でも、あなたの存在は既存の分類に当てはまらない。残響者——霊的存在でも生者でも死者でもない存在——の学術的な確認例は大陸全土で十二件のみで、今あなたを間近で観察できているのは相当に希少な機会です」
「っ……俺の話を聞いていたか? 帰れ、と言った」
「聞こえていました。でも帰りません。あなたは光合成的な共鳴を感じますか——つまり、外部の植物から何らかの影響を受けていますか」
「……何だその質問」
「植物学的に重要な情報です」
相手——Kieran、という名前だろうか、とMiraは考えた。森の守護者、グローヴ・ウォーデン。特定の森林と魂を結び、その生態系を守護する存在。緑翼学府で読んだ文献には、彼らは自ら志願するのではなく森そのものに「選ばれる」と書いてあった。Verdancia全土でも三名しか確認されていない。
Kieranは腕を組んだまま、Miraのことをじっと見ていた。眉間にわずかに皺が寄っている。迷惑そうな顔だが、行ってしまう気配はなかった。
「……光合成の共鳴なんて感じたことはない。俺は植物じゃない」
「でも森の守護者なら、周囲の植物の状態と連動する可能性があります。Thornwoodの植生が傷ついたら、あなたにも影響が出ますか」
Kieranはしばらく黙った。
「……わからない」
「自分の特性を把握していないんですか」
「そういうことを面と向かって言うな」
「観察事項として重要なので聞いています。あなた自身の記憶は——過去について、どこまで覚えていますか」
Kieranの表情が少し変わった。一瞬だけ、眉が動いた。
「俺に関係ない話だ」
「あなた自身の記憶なのに、あなたに関係ない?」
「……帰れ、と言っている」
でも今度は口調に勢いがなかった。言いながら自分でも確信を持ちきれていないような、妙な感じがした。Miraはそれを正確に観察した。
そのとき。
足元が動いた。
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Miraは最初、地面が揺れたのかと思った。
でも違う。苔の下から、何かが溢れてくる。
ぶわ、と音がして、Miraの右肘のすぐ下——さっきノートをついていた場所——の苔が爆発するように盛り上がった。茶色い穴が開いて、そこから次々と何かが飛び出してくる。
トゲネズミだ。
体長六十センチ。背中に毒棘。毛は灰褐色で、目は赤い。一匹が飛び出して、また一匹、また一匹——数える間もなく地面が揺れて、気づいたときには十匹、二十匹、三十匹。苔の上を縦横無尽に走り回っている。
(キノコの塊の下に巣があった……対策表に書いてあった!)
Miraはとっさに立ち上がった。足元をトゲネズミが走り抜けて、ブーツの横すれすれを毒棘が掠めた。
「っ——」
「前だ!」
Kieranが動いた。両手を下に向けて、何かに集中するように——その瞬間、グレイドの外縁近くで地面が持ち上がった。木の根が地表を割って出てきて、柵のように連なった。トゲネズミたちがその根の柵にぶつかり、戸惑って一瞬動きを止める。
でもKieranの体が、急にぼやけた。
一秒、二秒、三秒——輪郭が薄くなって、ほとんど透明になる。声まで遠くなった。まるで蝋燭の炎が風に揺れて消えかけるように、彼の存在感がゆらゆらと揺れた。
Miraの足が止まった。
(今のが——能力のコスト……?)
「走れ!」
声が少し遠い。でも聞こえた。
Miraは走った。記憶している帰還経路——来るときに確認した発光苔の分布——を頭の中で展開しながら、グレイドの出口に向かう。Kieranがほぼ半透明のまま横に並んだ。走りながら、まだ形を保っている。
「だから帰れと言っただろう!」
「あなたが先に帰れって言ったんだから、あなたのせいでもあります!」
「どういう論理だそれは!」
「巣を踏んだのは私ですが、Soulheart Blossomが私を吹き飛ばさなければ倒れた場所が違いました!」
Kieranが何か言いかけて——トゲネズミが一匹、Miraのすぐ後ろに追いついてきた。毒棘が跳ねる。Miraは横に跳んで、右の発光キノコ群落の縁を走り抜けた。Kieranが根の一本を地面から出して、ネズミの足を一瞬だけ引っかける。
三秒。また透明になる。
(三秒ごとに消える——)
Miraは走りながら計った。
中層域との境界に差し掛かったとき、トゲネズミたちの動きが止まった。菌糸の境界線だ——キノコの群落とトゲネズミの縄張りが重なっていて、この線を越えると追ってこない。Miraは記憶にあったそのラインを越えた瞬間、走るのをやめて振り返った。
三十匹のトゲネズミがずらりと並んで、こちらをじっと見ている。しかし越えてこない。
Miraは大きく息を吐いた。
Kieranが横に来た。さっきより少し実体感が戻っている。でも肩の端はまだ薄い。
「……怪我はないか」
「毒棘には当たっていません。あなたは」
「俺は物理的に刺さらない」
「でも能力を使うたびに、可視性が下がりますね」
Kieranは黙った。
「見ていました。三秒ほど、ほぼ透明になります。コストとして体温を消費するボタニカとは違う仕組みです。守護者の能力が可視性を代償にするというのは、文献に記録されていない」
「……すごい観察力だな」
「植物学的な手法を応用しているだけです」
「俺は植物じゃない、とさっき言ったが」
「でも観察できる存在です。だから同じ方法が使えます」
KieranはMiraを見た。皮肉めいた表情のまま、何かを計っているような沈黙があった。
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むき出しの巨木の根が地面から盛り上がった場所があって、二人はそこに並んで座った。根の高さは大人の肩くらいあって、地面から少し浮いた状態になる。Miraの靴先がちょうど地面に触れるかどうかという高さだ。
Kieranはもう少し背が高いので、足が地面につく。
「記憶の話を聞いてもいいですか」
少し間を置いてから、Miraは切り出した。
「聞いてどうする」
「知りたいから聞きます」
「……調査か」
「それもあります。でも純粋に気になっています」
正直に言った。Kieranは少し黙って、それから「純粋に気になる、ね」と呟いた。
「何かを覚えていますか」
「……欠けている」
声が変わった。さっきまでの皮肉っぽい感じが薄れて、代わりに何か重いものが入ってきた。
「かつて人間だったのは分かる。誰かを守れなかった——それも分かる。でも誰を、どこで、何があったのか——そこに触れようとすると、何かが遮断する」
「……痛みますか」
「扉が閉まる感じだ。痛いとは違う」
「では扉の手前にあるものを教えてください。事実ではなく、感覚で——色とか、温度とか、音とか」
Kieranが、Miraを横目で見た。
「……何でそういう聞き方をする」
「植物の記録をするとき、状態を壊さずに観察するためには直接触れるより周囲の環境を先に調べます。同じ方法です」
Kieranは少しの間、何も言わなかった。発光苔の光が二人の足元で静かに揺れていた。木の上のほうで小鳥が鳴いて、また静かになった。
「……冷たい。雨の匂いがする。あと——誰かの叫ぶ声が、遠くで聞こえる」
「それが扉の手前にあるもの」
「ああ。それ以上は、近づけない」
Miraは標本ノートに書き留めた。温度、嗅覚情報、聴覚情報。
書きながら、ふと気づいた。
(これは研究の記録じゃなくて——彼の痛みを、押し潰さないように扱っている)
その気づきは静かに来て、静かに定着した。
「……お前、俺の記憶を植物の標本みたいに扱っているな」
Kieranが言った。皮肉のように聞こえるが、声に棘がない。
「……そうかもしれません」
Miraは答えた。否定しなかった。する理由がなかった。
Kieranが、少し息を吐いた。それから、少し間を置いて——
「この森は、お前を待っていた」
「……え」
「比喩じゃない。Soulheart Blossomが発動するのは、森が特定の人間を認識したときだ。俺がここに呼ばれたときもそうだった。あの花は、お前を待っていた」
Miraは手が止まった。
ペンを持ったまま、次の文字が書けなかった。
待っていた、という言葉が——奇妙なひっかかり方をした。植物が何かを「待つ」のは走性と呼ばれる現象で、それは物理的な反応であって感情ではない。でも今Kieranが言ったのはそういう意味じゃない。
(森が。私を。待っていた)
十七年間。Miraは誰かに待たれたことがなかった。学府の班分けで声がかかるのをタイミングを逃しながら待ったことならある。村の集会所で話の輪に入れなかったことならある。でも「向こうが待っていた」という経験は——どこにもなかった。
ノートに何も書けなかった。
ほぼ一分間、何も書けなかった。
Miraにとって一分間ペンが止まるのは、かなりのことだった。
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それからしばらくして、Miraは立ち上がった。
帰る前に、外縁を一度確認しておこうと思った。科学的な習慣として、来た道を再確認するのは正しい手順だ。Kieranは少し離れたところで発光苔の光を眺めていた。
グレイドの外縁を歩いていると、足が止まった。
苔の中に、沈んでいるものがある。
靴底の跡だ。
大きい。Miraの足と比べると、一回り以上大きい。靴底の模様が深く、格子状に刻んである——これは農民や旅人の靴ではない。軍用の、あるいは重装備用の靴底だ。一対ではなく、周囲を見回すと三対、四対——少なくとも三人の人間が、グレイドの外縁を歩き回った痕跡がある。
苔の上のその跡は、まだ新しかった。菌糸が跡の中に伸び始めていない。一日以内——おそらくここ数時間以内に誰かがいた。
「Kieran」
呼ぶと、彼がすっと近くに来た。
Miraは地面を指した。Kieranが跡を見た瞬間、彼の表情が変わった。
さっきまでの皮肉っぽい顔でも、静かな顔でもない。何かを認識した顔——でも言葉にできない類の認識だ。
「……分かるか。誰が来たか」
「……分からない。でも、良くない」
「感覚で?」
「記憶より古いところが、そう言っている」
Miraは標本ノートを出した。靴底の模様を紙の上から鉛筆でなぞって写し取る。格子の間隔、深さ、歩幅の距離——全部記録した。
手が少し震えていたが、記録は正確にできた。
グレイドに重装備の靴底を持つ人間が少なくとも三人。一日以内。円を描くようにグレイドを取り囲んでいる。それは偶然の通り掛かりではなく、意図を持った行動の痕跡だ。
Miraは跡の写しを挟んだノートを閉じた。
(誰かが——この場所を知っている)
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