忘却の花が囁く
自然魔法が社会全体を支える大陸ヴェルダンシアで、十七歳の少女ミラは常に人間よりも植物に囲まれていることが心地よかった。志望植物学者として、失われた珍しい草花を記録し、時間の彼方に消えた種を発見することを夢見ていた。しかし、その静かな日々は一つの森との出会いで一変する。ソーンウッド——周辺の村人たちから呪いがあると囁かれている禁忌の森だ。
科学的好奇心と、説明のつかない不思議な引力に駆られ、ミラは警告石を越えて森の奥へ進む。そこで彼女が発見したのは、時間に取り残された隠された空き地。その中心に咲いていたのは、ソウルハート・ブロッサム——成仏できない魂の断片を宿す伝説の花だった。ミラが震える手で花弁に触れた瞬間、魔力が爆発し、一人の青年が現れた。キーラン、十八歳。妖しく美しく、心に深い傷を抱える彼は、その森の守護者として縛り付けられていたのだ——理由さえも本人が覚えていない。
ミラとキーランの出会いは、ぎこちなく、そして電撃的だった。キーランは優しく魅力的だが、断片的な記憶と呪いは彼を危険な存在にしていた。しかしミラの目には、脅威ではなく一人の人間が映り、自分と同じくらい孤独な者が見え
忘却の花が囁く - 逆流、あるいは選ばれた血
包囲が続いていた。
Rileyが検知器を腰のベルトに引っかけながら、手のひらに収まるサイズの黒い筒を掲げた。昨夜——正確には今夜の夜中のほとんど——をかけて組み上げた、魔力撹乱装置の最新版だ。
「見てください。今回は完璧です」
「前回も完璧とおっしゃっていた記憶があります」
「今回は光が出ません」
「前回の失敗の原因は光だけではなかったはずです」
「……振動は少し出るかもしれないですけど」
Miraは額に手を当てた。
ソウルハート・グレイドの夜明け前は、静かに青い。Soulheart Blossom——Thornwoodの最深部に咲く唯一無二の花——が放つ光が、朝靄の中でほんのりと揺れている。Miraはその光を横目で確かめながら、傍らに膝をついたKieranを見た。
彼は地面に手をついたまま、目を閉じて根の振動に耳を傾けていた。藍色の長髪が朝の湿気を吸って重く垂れ、胸元の蔦紋様が昨夜より明確に薄くなっている。前回よりも、前々回よりも。数える必要もなく、悪化していることが分かる。
Miraはコートのポケットから小さな瓶を取り出した。Alanaが昨夜急いで調合してくれた、発光苔の抽出液だ。ボタニカ——植物魔法——による樹脈の消耗を補う、薬草茶の代替品として使える。
「これ。飲んでください」
Kieranが目を開けた。瓶を見て、次にMiraを見た。右の琥珀色と左の銀色が、少し意外そうに揺れる。
「君が食べ物を持ってくる日が来るとは思わなかった」
「Alanaに頼みました。私は植物学士見習いで、調理師ではありません」
少し離れたところで胞子植物に薬草樹液を垂らしていたAlanaが、かすかに笑った気配がした。
RileyがAlanaの隣に寄って小声で言う。
「完全にそういう関係じゃないですか」
Alanaは土壌採取用の小瓶を音を立てずに閉めた。
「準備が終わったら呼んで」
Kieranが瓶を受け取って、蓋を開けながら静かに言った。
「……ありがとう」
Miraは返事をしなかった。その代わり、彼の隣に腰を下ろして、Thornwoodの暗がりを見た。南西の方向。刈り手——Verdant Syndicateの武装採取部隊——の本体はそちらにいる。
七十二時間は、もう過ぎていた。
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爆音が連続した。
Kieranが地面から立ち上がる前に、Miraはすでに地図を広げていた。
「南西、約一点五キロ。第二陣です。Kieran、北側の迂回路を封鎖できますか」
「やる」
「撹乱装置、廃棄機関の残骸三箇所に設置します!」
Thornwoodの内部に放置されていた旧式の樹液機関——魔力樹液を燃料とする動力装置——の残骸は、Rileyが昨日の偵察で場所を把握していた。装置を設置すれば刈り手の高精度探知器が局所的に死角を作られ、南側からの接近が一時的に盲目になる。
Alanaがすでに動いていた。
柔らかな紫の髪が朝風に揺れる中、彼女は北西の植物帯に向かって膝をついた。右手首の薬草刺繍のリストバンドが土に触れる。毒性胞子植物、棘性蔦、そして癒着型の薬草蔦——三種類を連動させた多層障壁を、彼女は静かに展開し始めた。
Miraは全体を見た。
「Alana、障壁の東端がRileyの撹乱範囲と重複しています。三メートル北にずらせますか」
「できます」
「撹乱装置の第二基、起動確認!」
作戦は動いた。
十五分後、刈り手の前衛四名が胞子の霧に突っ込んだ。視界を失って立ち止まる。Rileyが親指を立てた。
「成功!」
「本体はまだです」
Miraは持ち場から動かず、全員の位置を確認し続けた。指示を出すたびに、自分が前の戦いより躊躇なくなっていることに気づく。でも視線はどうしてもKieranの方へ流れる。根を操るたびに彼の体が揺れる。遠い持ち場から目の端でそれを追い続けている。
冷静でいようとする意識と、目を離せない感情が、同時に走っていた。
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本体が来たのは、予想より早かった。
南西の木立が大きく揺れて、黒い外套が現れた。刈り手の本隊——二十名以上。後方に、大型の機材を担いだ四名がいる。
指揮官らしき男が腕を上げた。
機材が展開された。
Miraが目を細めた瞬間、Alanaの声が短く響いた。
「……あれ、Rileyさん、周波数帯域を確認して」
「え——待ってください、この波形、撹乱装置の周波数と全然違う……別系統です!」
吸魂機、とMiraが後から知ることになる装置の正式名は、アニマ・ドレインという。Verdant Syndicateが開発した特殊機材で、Soulheart Blossomの魔力を強制的に吸収する。Rileyの撹乱装置が対応していた周波数帯域を、完全に迂回した別チャンネルで動作する。
想定外だった。
Blossomの光が、急速に薄れ始めた。
Miraは振り返った。
Kieranの輪郭が溶けている。
今まで断片的に見てきた現象が、今回は違う。連続だ。加速している。右腕の端が光を透かすガラスのようになって、次の瞬間には胸まで及ぶ。胸元の蔦紋様の光が急速に消えていく。声が、エコーになっていく。
「魔力が逆流してる——あの機械、中心部の水晶素子を壊せれば止まるはずですが、距離が……」
「毒性射出型を準備します。でも射程が届かない」
Kieranが口を開いた。声がほとんど届かない。でもMiraには分かった。
口の動きで言っている。
——逃げろ。
Miraの足が、動いた。
Kieranの方向ではなく。
Soulheart Blossomの方向に。
理由を考える前に体が動いていた。三年間の植物学の知識も、計算も、一切関係なかった。Kieranが消えていく。それだけだった。
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Miraは花に両手で触れた。
次の瞬間、何かが全身を貫いた。
熱くも冷たくもない。でも確実に「在る」感覚。体内の樹脈——ボタニカを発動する魔力の通り道——が、花の残余魔力と共鳴して、逆流した。
BlossomがMiraを認識した。そういう感触だった。
「逆流してる——吸い込んだ魔力が吸魂機に逆流してる、あの機械が持たない!」
アニマ・ドレインの起動部から、白い光が吹き上がった。
ズドン、と鈍い爆発音。
装置の水晶素子が過負荷で暴走して、停止した。
Miraの手からBlossomへ。Blossomから地面の根脈全体へ。魔力の波が拡散していく。Thornwood全体が、一瞬だけ強く発光した。発光苔が輝き、巨木の幹が青く光り、空に向かって光の柱が短く伸びる。
刈り手の部隊が動きを止めた。
指揮官が何か叫ぶ。
撤退の声だ。
MiraはBlossomから手を離した。
膝が震えていた。でも足は動いた。Kieranのところへ走る。彼は地面に倒れ込んでいた。輪郭が急速に実体を取り戻している。でも立てない。
Miraは膝をついて、Kieranの肩を掴んだ。
「……君が来ると思った」
焦点の合った目だった。消滅寸前から帰ってきた目だった。
「当然です。消えるなと言いました」
Kieranが少し笑った気配がした。実体はまだ完全ではないけれど、声は届く。
少し離れたところでRileyがAlanaの袖を引いた。
「もう少し離れましょうか」
「そうね」
二人は静かに二歩下がった。
MiraはKieranの隣に座った。科学的に説明すべきことが山積みなのは分かっている。逆流の仕組み、Blossomとの共鳴、樹脈の出力値。全部、ノートに書き起こすべきことだ。
でも今、ノートを開く気が起きなかった。
その事実をどう記録すればいいか、Miraにはまだ分からなかった。
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Rileyの検知器が、刈り手の完全撤退を確認したのはそれから十分後のことだ。
「撤退確定です! グレイドから半径三キロ、反応ゼロ!」
安堵が、四人に同時に訪れた。
でもKieranは立ち上がれなかった。Miraの手を借りて、背を巨木の幹に預けている。完全に回復してはいない。蔦紋様の光は戻っているが、前の戦いの前と比べると明らかに弱い。
Rileyが吸魂機の破片をかき集めていた。指先で素子の断面を確かめながら、低い声で言う。
「……この設計、明らかに守護者の存在を前提にして作られてます。素子の共鳴周波数、守護者の樹脈に特化して調整されてる。つまりSyndicateは——守護者の存在を、複数確認した上でこれを作った」
四人の間に、短い沈黙が落ちた。
今回限りではない。そういうことだ。
Alanaが土壌に手を当てた。しばらく確かめてから立ち上がる。
「Blossomの光が戻っています」
それだけ言って、彼女はMiraに向き直った。金色の瞳が、静かに、でも真剣に見つめてくる。
「今がその時だと思う」
Miraは返事をしなかった。
Alanaが続けた。
「Blossomがあなたの樹脈を認識した。逆流の規模、魔力の波形のパターン——全部、守護者系統の先祖を持つ人間に固有のものです。あなたの血筋には、おそらく守護者が——グローヴ・ウォーデンが——いる」
Miraは反論しようとした。
言葉が出なかった。
Thornwoodに初めて踏み込んだあの夜から感じていた「呼ばれている」感覚。胸の奥から溢れた樹脈の暴発。そして今の逆流。全部が一本の線でつながる感触が、否定の言葉を塞いだ。
KieranがAlanaを見た。
黙ったまま、視線だけで問うた。
Alanaがわずかに頷いた。
Miraはその無言のやり取りを見ていた。自分のことが、自分の知らないところで共有されていた。その事実が、安堵とも怒りともつかない複雑な感情を呼び起こす。
「詳しい話は、ブラムリッジ村かカレイド・ヴェールに戻ってから」
「今すぐ聞きたい」
Kieranが動いた。
彼の指が、Miraの手首に触れた。
「今夜は森の外で休め」
MiraはKieranの顔を見た。消滅寸前から帰ってきたばかりの顔が、疲れているのに、穏やかだった。
数秒、Miraは黙っていた。
それから頷いた。
---
Thornwoodを出る準備をする間、Rileyが吸魂機の破片を布に包んで鞄に収めた。Alanaが周辺の土壌サンプルを最後の一本だけ採取する。
MiraはBlossomをもう一度だけ見た。
光が戻っている。穏やかに、静かに揺れている。この花が自分を認識した——その事実を、植物学士見習いとしてどう解釈すればいいのか、Miraにはまだ答えが出ない。
でも今この瞬間、答えを出す必要はない気がした。
Kieranが隣に立った。まだ完全ではないけれど、自分で立っている。
「そんな顔でBlossomを見るな。向こうが照れる」
「植物は照れません」
「守護者系統の祖先を持つ植物学士見習いが言うと、説得力がない」
Miraはしばらく黙った。
「……まだ確定していません」
「そうだな」
Kieranは同意した。でも声の色が、少し違った。
四人でグレイドを離れた。発光苔のルートを辿って、Thornwoodの外縁へ向かう。木々の隙間から朝の光が差し込んできた。
ずっと遠い場所で——撤退した刈り手の指揮官が、携行型の共鳴通信機を取り出した。
「Soulheart覚醒者を確認。年齢は十代後半の女性、守護者系統の樹脈。Blossomの選定済み。次の作戦は本部承認の上で規模を拡大する」
その声が、ハイデルグランへと向かう。
Verdant Syndicate第七部門——Soulheart Blossom捜索の専任チーム——へ。
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