ぼくたちは運命を変えられない
「できない」気持ちが、いちばん痛い。
高校三年生の春、唯我成幸は夢から覚めた。冷たい水の中で、誰も救えなかった夢。手元に残っていたのは、ボロボロのノートに綴られた「未来の記録」だった。理珠は心を閉ざし、文乃は失踪し、うるかは水泳をやめ、真冬先生は教壇を去る。そして、自分は死んだ——五年後の未来が、そこに書かれていた。
目が覚めたら、四月。すべてが始まる前の教室に、彼女たちはいた。笑って、悩んで、まだ何も失っていない。だから成幸は決意する。誰にも言えない未来を一人抱えて、今度こそ全員を救うと。
教育係に任命された三人の天才少女たち。突出した得意科目の裏で、壊滅的な苦手科目を抱える彼女たち。努力型の秀才である成幸にしかできない指導が、止まりかけた運命を動かし始める。だが、未来は彼の知らない速さで歪み始めていた。うるかの交換留学推薦、祖母の遺した未完成のボードゲーム、教師を辞めようとする真冬先生。ノートに書かれた未来と、現実が少しずつずれていく。
これは、天才ではない少年が、知っている未来と戦いながら、大切な人たちの運命を変えようとする物語。彼が握りしめたのは、妹が作った色褪せたミサ
ぼくたちは運命を変えられない - 機械仕掛けの親指姫 ―― 祖母の盤と離婚の影
放課後の空き教室。
窓から差し込む春の日差しが、机の上のプリントを白く照らしている。
唯我成幸は、目の前に座る少女を盗み見た。
杏色のショートヘア。眼鏡の奥の群青色の瞳。身長は百四十三センチと低いが、胸は大きく、制服のブレザーを不自然なほど押し上げている。
緒方理珠。
一ノ瀬学園三年F組。数学と物理では全国模試上位一パーセントに入る天才。
「機械仕掛けの親指姫」と呼ばれる、この学園で最も有名な頭脳の持ち主だ。
だが、文系科目は学年最下位レベル。
それが、俺が教育係として彼女を担当する理由だった。
「……では、始めようか」
成幸は努めて穏やかに声をかけた。
理珠は無表情のまま、こくりと頷く。
「まずは数学から。この応用問題、解いてみてくれ」
プリントを差し出す。
理珠はそれを受け取ると、一瞬だけ問題に目を落とした。
そして、シャーペンを走らせる。
迷いがない。
途中式を書くことすらせず、答えだけを次々に書き込んでいく。
成幸は内心で舌を巻いた。
(やっぱり、とんでもないな)
三分とかからず、理珠はプリントを裏返した。
「できました」
声は小さく、感情が読み取れない。
成幸はプリントを受け取り、目を通す。
全問正解。
それも、大学入試レベルの応用問題を、だ。
「……相変わらずすごいな。文句のつけようがない」
「当然です。数学は得意ですから」
理珠は淡々と答えた。
だが、その口元がほんの少しだけ、誇らしげに緩んだように見えた。
成幸は、その変化を見逃さなかった。
(感情表現は苦手だけど、嬉しい気持ちはあるんだな)
「じゃあ、次は現代文だ」
成幸が新しいプリントを差し出す。
理珠の手が、ぴたりと止まった。
「……」
問題用紙を見つめたまま、動かない。
いや、正確には、見つめているというより、睨みつけている。
「次の文章を読んで、筆者の主張を百字以内でまとめなさい」
そんな問題を、理珠はまるで殺意でも込めるかのように見下ろしていた。
「……緒方?」
「解けません」
即答だった。
「まだ問題を読んですらいないだろ」
「読む必要がありません。私には文系科目は必要ないのですから」
理珠はきっぱりと言い放った。
その顔には、頑固なまでの拒絶があった。
成幸は小さく息を吐く。
(未来の記憶でも、ここが最初の壁だった)
理珠は理系科目では天才だが、文系科目を完全に拒否していた。
「必要ない」と。
でも、それは間違いだ。
「お前の志望は心理学だろ」
成幸は静かに言った。
理珠の肩が、ぴくりと震えた。
「心理学は文系だ。大学入試では、現代文も古文も必要になる。それに、心理学を学ぶなら、人の心を言葉で理解する力が絶対にいる」
「……それは」
理珠は口ごもる。
眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺れた。
「私が心理学を志望していることを、なぜ知っているのですか」
成幸は、どきりとした。
(しまった。未来の記憶で知っていることを、口にしすぎた)
「あ、いや……学園長から、担当する生徒の進路希望は聞かされてるんだ。教育係として、当然だろ」
苦しい言い訳だった。
理珠はじっと成幸を見つめた。
その視線に、成幸の背中に冷たい汗が滲む。
「……そうですか」
理珠はようやく視線を外し、小さく呟いた。
「確かに、心理学は文系に分類されます。でも、私が学びたいのは統計心理学です。数学的な分析が中心の分野です。文系科目は不要です」
「入試科目に文系科目が出る以上、必要だ。それに、統計心理学だって、論文を読むには読解力が要る。人の心を数値化するにしても、その数値が何を意味するのか、言葉で考える力がなければ研究はできない」
理珠は黙った。
唇を噛みしめ、プリントを睨む。
(理屈では分かっているんだ。でも、認めたくないんだろうな)
成幸は、理珠の負けず嫌いな性格を知っていた。
未来の記憶でも、理珠は「できない」ことを認めるのを極端に嫌がった。
だから、こう言うしかない。
「まあ、無理にとは言わない。文系科目ができないなら、できないで仕方ない。俺が何とかする」
成幸は、わざと軽い調子で言った。
理珠の眉が、ぴくりと動く。
「……今、私が文系科目をできないと決めつけましたか」
「え? いや、だって、解けないって言っただろ」
「解けないとは言いましたが、できないとは言っていません。私はただ、解く必要がないと言っただけです」
理珠の声が、少しだけ大きくなる。
「やる気になれば、この程度の問題、すぐに解けます。文系科目は、ただの暗記とパターン認識です。数学に比べれば、はるかに単純です」
「へえ。じゃあ、この問題、解けるもんなら解いてみろよ」
成幸は、プリントを指先でトンと叩いた。
理珠の群青色の瞳が、きらりと光る。
「……いいでしょう。お見せします」
理珠は勢いよくシャーペンを握った。
そして、現代文の問題に取りかかる。
(よし、食いついた)
成幸は、心の中で小さくガッツポーズをした。
未来の記憶にある理珠の性格。
「できない」と言われると、絶対に「できる」と証明したくなる。
その負けず嫌いを利用した、俺なりの指導法だ。
理珠は真剣な表情で文章を読み始めた。
その横顔を、成幸は静かに見守る。
窓の外では、部活動に向かう生徒たちの声が聞こえていた。
春の風が、カーテンをふわりと揺らす。
(大丈夫だ。未来とは違う。俺が、ちゃんと教える)
成幸は、自分に言い聞かせるように、拳を握った。
理珠が現代文の問題を解き終えたのは、それから二十分後のことだった。
「……できました」
理珠はプリントを差し出した。
その表情は、少しだけ得意げだった。
成幸が答案に目を通す。
「……五割ってところか。初めてにしては上出来だ。いや、十分すごいよ」
「当然です。やればできるのです」
理珠は胸を張った。
その仕草が、やけに幼く見えて、成幸は思わず笑いそうになる。
(この調子なら、文系科目も伸びる。未来の理珠とは、違う道を歩ける)
「今日はここまでにしよう。お疲れ様」
成幸がそう言うと、理珠は小さく首を傾げた。
「もう終わりですか。まだ時間はありますが」
「初日から飛ばしすぎると、続かないだろ。勉強は毎日少しずつが大事だ」
「……そういうものですか」
理珠は納得したのかしないのか、曖昧に頷いた。
そして、鞄を手に取る。
「では、帰ります」
「ああ。送っていくよ。家、どのあたりだ?」
成幸の言葉に、理珠は一瞬だけ動きを止めた。
「……送っていただく必要はありません」
「そう言わずに。教育係として、担当生徒の安全も俺の責任だ」
「安全なら大丈夫です。この時間帯に危険はありません」
「でもな……」
成幸は、未来の記憶を思い出していた。
理珠の家は、星見坂商店街から徒歩十分の住宅街にある。
両親との関係は冷え切っていて、家に帰ることを理珠は内心で嫌がっていた。
(一人で帰らせたくない。せめて、家の近くまでは)
「俺が送りたいんだ。だめか?」
成幸が真っ直ぐに見つめると、理珠は戸惑ったように視線を泳がせた。
「……唯我さんがそこまで言うなら、かまいません」
「よし。じゃあ、行こう」
二人は並んで教室を出た。
廊下は夕日に染まっていた。
部活動の掛け声が、遠くから聞こえる。
「そういえば、緒方の家って、商店街の近くなんだよな」
成幸は、さりげなく切り出した。
「ええ。星見坂商店街から歩いて十分ほどです」
「商店街にはよく行くのか?」
「……たまに。ボードゲームカフェに」
成幸の心臓が、どくんと跳ねた。
(来た。この話題だ)
未来の記憶では、理珠の祖母・瑞穂が遺したボードゲーム「星渡りの盤」。
それが、理珠の運命を大きく左右する。
「ボードゲームカフェか。もしかして、緒方の家って、ボードゲームが趣味なのか?」
成幸は、できるだけ自然に、何気なく聞いた。
理珠の足が、ぴたりと止まる。
「……なぜ、それを?」
声が、少しだけ硬くなった。
警戒している。
「ああ、いや。妹がゲーム好きでさ。ボードゲームカフェの話をすると、すごく食いつくんだよ。今度連れて行ってやろうと思ってるんだ」
成幸は、未来の記憶にある妹の葉月を思い浮かべながら、嘘を重ねた。
(葉月はゲーム好きなんて、そこまでじゃないけど……)
心の中で謝る。
理珠は、じっと成幸を見つめた。
その視線は、成幸の言葉の真偽を探るように、真剣だった。
「……そうですか」
ようやく、理珠は歩き出した。
「私の家は、ボードゲームが趣味というわけではありません。ただ、祖母がボードゲームを作っていたので、その影響で好きになっただけです」
「へえ、祖母さんがボードゲームを? すごいな。プロのデザイナーだったのか?」
「プロではありません。趣味で作っていました。でも、とてもすごい人でした。私の知る限り、誰よりもゲームを愛していた」
理珠の声が、少しだけ柔らかくなった。
「その祖母が、亡くなる前に作っていたゲームがあるんです。『星渡りの盤』という、星のかけらを集めるゲームです。ルールブックが不完全なまま残されていて、盤面と駒だけが完成しています」
「星渡りの盤……」
成幸は、その名前を口の中で転がした。
(未来ノートに書いてあった。理珠の祖母・緒方瑞穂の遺品。両親の離婚のきっかけになった秘密が隠されている)
「私は、そのゲームを完成させたいんです。祖母がどんなゲームを作ろうとしていたのか、その答えを知りたい。だから、ルールブックの欠けた部分を、自分で考えて補完しようとしています」
理珠は、夕日に照らされた道を歩きながら、静かに語った。
「でも、難しいんです。祖母が何を考えていたのか、盤面の配置や駒の動かし方から推測するしかない。数学的な解析も試しましたが、決定打にはなりません」
「……そうか」
成幸は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
(このゲームが、未来では理珠の心を閉ざす鍵になる)
理珠の夢。
祖母の遺したゲームを完成させること。
でも、その夢が、両親の離婚問題の火種になっている。
「唯我さん?」
理珠が、不思議そうに成幸の顔を覗き込んだ。
「あ、いや。すごいなと思って。自分の夢を、ちゃんと持ってるんだな」
「夢というほどのものではありません。ただの、わがままです」
理珠は、少し寂しそうに微笑んだ。
「祖母と過ごした時間を、忘れたくないだけなんです。ゲームを完成させれば、祖母がまだ私のそばにいるような気がして」
その言葉に、成幸は何も言えなくなった。
理珠の、祖母への想い。
未来の記憶では、この想いが踏みにじられ、理珠は心を閉ざした。
「……きっと、完成させられるよ」
成幸は、ようやくそれだけを言った。
「そうだといいのですが」
理珠は、夕日に向かって歩き出した。
その後ろ姿を、成幸は黙って追いかけた。
理珠を家の近くまで送り、成幸は星見坂商店街へと向かった。
商店街は夕方の買い物客で賑わっていた。
肉屋の揚げ物の匂い。八百屋の威勢のいい声。子供たちの笑い声。
成幸は、その雑踏の中を歩きながら、学習塾「みなみ塾」の前に立った。
古びたビルの二階。
階段を上がり、ドアを開ける。
「おう、成幸。お疲れさん」
カウンターの向こうから、白髪交じりの初老の男が声をかけてきた。
南田。
みなみ塾の塾長で、元教師。面倒見が良く、成幸が高校一年の頃からバイトで世話になっている。
「今日は学校の補習があったんだろ。どうだった?」
「まあ、ぼちぼちです」
成幸はバッグを置き、カウンターに近づいた。
「ぼちぼち、ねえ」
南田は、じろりと成幸を見た。
その目は、長年教師をやってきた人間特有の、すべてを見透かすような鋭さがあった。
「お前、最近焦りすぎだぞ」
「……え?」
成幸は、どきりとした。
「何がですか」
「とぼけるな。お前の指導ノート、見せてもらったぞ。生徒の答案を見る目が、今じゃなく先を見てる。目の前の生徒より、ずっと先の結果を気にしてるような、そんな書き方だ」
南田は、カウンターに置かれた成幸の指導ノートを指先でトントンと叩いた。
「前はもっと、一人ひとりのつまずきに寄り添ってた。でも最近のお前は、まるで時間に追われてるみたいだ。何か隠してるだろ」
成幸は、心臓が締めつけられるような感覚に襲われた。
(見抜かれてる)
南田は、長年の経験から、成幸の変化を感じ取っていた。
「……別に、隠してることなんてないですよ」
成幸は、笑顔を作ってごまかした。
「ただ、担当する生徒が増えて、責任を感じてるだけです。ちゃんと合格させないと、推薦状がもらえないんで」
「推薦状か」
南田は、深く息を吐いた。
「成幸、無理すんなよ」
「……大丈夫です。俺、何とかしますから」
「そうじゃない。『何とかする』んじゃなくて、抱え込むとろくなことにならねえって言ってるんだ」
南田は、カウンターから身を乗り出した。
「お前は昔からそうだ。何でも一人で抱え込んで、限界が来るまで誰にも言わない。でもな、成幸。教師ってのは、生徒に教えるだけが仕事じゃない。生徒の話を聞くのも、仕事のうちだ」
「……南田さん」
「お前は今、生徒の立場だ。塾の講師としても、学校の教育係としても、お前はまだ教わる側の人間だ。困ったことがあったら、誰かに相談しろ。俺でも、学校の先生でも、誰でもいい」
南田の言葉が、胸に刺さる。
(相談したい。でも、できない)
未来のことを話したら、運命が歪む。
誰にも言えない。
「……ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
成幸は、それだけ言うと、塾の準備に取りかかった。
南田は、それ以上は追及しなかった。
ただ、心配そうな目で、成幸の背中を見つめていた。
塾のバイトを終え、外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。
商店街の店々はシャッターを下ろし、通りには街灯の光だけが残っている。
成幸は、理珠の家の近くを通る道を歩いていた。
(今日の補習は、うまくいった。理珠も、少しは心を開いてくれた)
(でも、まだ足りない。もっと、もっと早く)
頭の中で、未来の記憶が渦巻く。
心を閉ざした理珠。
行方不明になった文乃。
水泳をやめて消えたうるか。
教師を辞めた真冬先生。
そして、死んだ自分。
「……くそ」
成幸は、小さく呟いた。
その時だった。
「——あのゲームのせいで、家がめちゃくちゃだ!」
男の怒鳴り声が、静かな住宅街に響き渡った。
成幸は、足を止めた。
声のした方を見る。
緒方家。
理珠の自宅だ。
「瑞穂さんの遺品なんて、捨てちまえ! あんなものがあるから、お前はいつまでも現実を見ないんだ!」
窓から漏れる明かり。
閉め切られたカーテンの向こうで、男の怒鳴り声が続く。
「やめて! 理珠の夢を潰すな! あの子はあの盤でしか笑わないんだぞ! あんたには、それが分からないのか!」
女の声。
理珠の母親だ。
「夢だと!? ゲーム作りが夢だって!? そんなもので飯が食えるか! 現実を見ろ! あの子は文系の大学に行って、普通の仕事に就くべきなんだ!」
「普通って何だ! あの子の才能を潰すことが、普通なのか! あんたはいつもそうだ! 自分の考えを押しつけて!」
「押しつけて何が悪い! 親として当然のことだ! それにあのゲームは、お前の母親が作ったものだろ! お前の母親は、ゲームに夢中で家庭を顧みなかった! そのせいで、お前はどれだけ寂しい思いをした! それを忘れたのか!」
「母さんは関係ない! それに、母さんは私にゲームの楽しさを教えてくれた! 理珠にも、その楽しさを伝えた! それが悪いことなのか!」
「楽しさだと!? 現実逃避の何が楽しい! あのゲームのせいで、うちの家計は火の車だ! お前も働きに出ろ! 理珠もゲームなんかやめて、勉強に集中しろ!」
「理珠は勉強してる! 数学では全国模試で上位一パーセントだ! あの子は天才なんだぞ!」
「だから何だ! 数学ができて何になる! 文系科目ができなきゃ、大学にも行けないだろ! それにあのゲームは、お前の母親の遺品だ! 亡くなった人のものに縋って、いつまでも現実から逃げるな!」
怒鳴り合いが、エスカレートしていく。
成幸は、その場に立ち尽くしていた。
体が動かない。
(あのゲームのせいで、家がめちゃくちゃだ)
(理珠の夢を潰すな)
両親の言葉が、頭の中で反響する。
未来の記憶と、今の現実が、重なる。
(これが、理珠の両親の離婚問題の核心なのか)
祖母の盤。
星渡りの盤。
理珠の夢。
それが、両親の対立の火種になっている。
「……理珠は、どうなるんだ」
成幸は、声にならない声で呟いた。
未来では、理珠は心を閉ざした。
ゲームを完成させられず、両親は離婚し、理珠は孤立した。
(俺が盤を完成させれば、理珠の夢は叶う。でも、両親の対立は決定的になる)
(理珠の夢を守ることは、両親の離婚を止められないということか)
板挟み。
成幸は、拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
痛み。
でも、その痛みが、現実を突きつけてくる。
(どうすればいい。俺は、何をすればいい)
未来の記憶では、俺は何もできなかった。
理珠を救えなかった。
文乃も、うるかも、真冬先生も。
誰も救えなかった。
「……今度こそ」
成幸は、震える声で呟いた。
「今度こそ、違う結末にしてみせる」
でも、その決意が、空回りしている。
自分でも、分かっていた。
未来を知っているのに、何も変わっていない。
いや、未来を知っているからこそ、焦って、空回りしている。
成幸は、緒方家から離れるように、ゆっくりと歩き出した。
夜の住宅街。
街灯の光が、影を長く伸ばす。
成幸は、スマートフォンを取り出した。
画面に、一斉メールの通知が表示されている。
『水泳部 武元うるか 交換留学推薦 選考通過のお知らせ』
未来より二ヶ月早い、うるかの留学話。
理珠の家庭問題。
うるかの留学問題。
二つの運命が、同時に動き出している。
成幸は、バッグから未来ノートを取り出した。
街灯の光の下で、ページを開く。
『理珠 両親 離婚 盤』
震える文字で書かれた、未来の記録。
成幸は、その文字を指でなぞった。
「……大丈夫だ。俺が、何とかする」
自分に言い聞かせる。
でも、その声は、夜の闇に吸い込まれていくだけだった。
星見坂の街灯が、静かに成幸の背中を照らしていた。
春の夜風が、生温かく吹き抜ける。
遠くで、電車の走る音が聞こえた。
成幸は、未来ノートを胸に抱きしめた。
心臓が、激しく脈打っている。
恐怖と、焦りと、そして、決意。
「絶対に、みんなを救ってみせる」
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