ぼくたちは運命を変えられない
「できない」気持ちが、いちばん痛い。
高校三年生の春、唯我成幸は夢から覚めた。冷たい水の中で、誰も救えなかった夢。手元に残っていたのは、ボロボロのノートに綴られた「未来の記録」だった。理珠は心を閉ざし、文乃は失踪し、うるかは水泳をやめ、真冬先生は教壇を去る。そして、自分は死んだ——五年後の未来が、そこに書かれていた。
目が覚めたら、四月。すべてが始まる前の教室に、彼女たちはいた。笑って、悩んで、まだ何も失っていない。だから成幸は決意する。誰にも言えない未来を一人抱えて、今度こそ全員を救うと。
教育係に任命された三人の天才少女たち。突出した得意科目の裏で、壊滅的な苦手科目を抱える彼女たち。努力型の秀才である成幸にしかできない指導が、止まりかけた運命を動かし始める。だが、未来は彼の知らない速さで歪み始めていた。うるかの交換留学推薦、祖母の遺した未完成のボードゲーム、教師を辞めようとする真冬先生。ノートに書かれた未来と、現実が少しずつずれていく。
これは、天才ではない少年が、知っている未来と戦いながら、大切な人たちの運命を変えようとする物語。彼が握りしめたのは、妹が作った色褪せたミサ
ぼくたちは運命を変えられない - 薄氷の女王 ―― 一人で背負うなという言葉
空気が、重い。
教室の窓から差し込む光は、もう夏の色をしていた。六月の陽射しが、机の上に白く落ちている。
唯我成幸は、その光を見ていた。
動けない。
動きたくない。
体が鉛のように重い。
(理珠は、心を閉ざした)
(文乃は、消息不明)
(うるかは、留学で笑顔を失った)
(教育係は、一時停止)
(推薦状は、保留)
指先が冷たい。
朝の教室。周りの生徒たちは、いつも通りに笑っている。誰かが誰かを呼ぶ声。机を並べる音。窓を開ける音。
全部、遠い。
自分の周りだけ、薄い膜が張ったみたいに、音がぼやける。
成幸は、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥に、重い空気が残る。
(何も、できなかった)
(未来を知っていたのに)
(全部、悪い方に進んだ)
(俺のせいだ)
胃のあたりが、冷たく縮む。
朝のホームルームが終わった。
教室を出る。廊下の空気も、重い。
人混みを避けて、壁際を歩く。誰とも目を合わせない。
「唯我くん」
声がした。
足が止まる。
振り向く。
そこに立っていたのは、桐須真冬だった。
菖蒲色の長い髪。水色の瞳。黒いスーツを隙なく着こなした、二十八歳の数学教師。一ノ瀬学園の三年A組担任。水泳部顧問。
「氷の女王」と呼ばれる女。
その瞳が、真っ直ぐに成幸を見ていた。
「放課後、職員室に来なさい」
声は、冷たい。
でも、その奥に、何かが潜んでいる。
成幸には、分かった。
(来たか)
心のどこかで、ずっと待っていた。
この瞬間を。
「……はい」
短く答える。
真冬は、何も言わずに、背を向けて歩き去った。
廊下に、足音が響く。
成幸は、その背中を、しばらく見ていた。
放課後。
職員室の扉の前に立つ。
深呼吸。
胸の奥が、重い。
ノックをする。
「入れ」
低い声。
扉を開ける。
職員室は、静かだった。
他の教師は、もう帰ったのか。窓際の席に、真冬が一人で座っている。
夕日が、窓から斜めに差し込んでいた。
真冬の菖蒲色の髪が、夕日に照らされて、薄く光る。
「座りなさい」
真冬は、手元の書類から顔を上げずに言った。
成幸は、真冬の向かいの椅子に座る。
沈黙。
一分。
二分。
真冬は、書類を閉じた。
そして、水色の瞳を、成幸に向ける。
「単刀直入に聞くわ」
声は、氷のように冷たい。
「あなた、何か隠してるでしょ」
成幸の胸の奥で、何かが跳ねた。
「……何の話ですか」
声が、かすれる。
真冬は、目を細めた。
「とぼけないで」
真冬は、机の上の書類を、指先でとんとんと叩いた。
「三者面談の前、あなたは言ったわ。『古橋さんが、家を出るかもしれない』って。あの時点で、古橋さんが家出するなんて、誰も予想していなかった。あなた以外は」
成幸は、黙った。
「それだけじゃない。武元さんの留学の話。あなた、正式決定する前から、知っていたわね。あの子の様子を見るあなたの目は、『知っていた』目だった」
真冬の言葉が、鋭く突き刺さる。
「緒方さんの家庭問題。あなた、必要以上に踏み込んでいた。まるで、何が起きるか、前もって知っていたみたいに」
真冬は、腕を組んだ。
「あなたの言動は、不自然よ。未来の出来事を、先読みしているみたいに」
心臓が、早くなる。
指先が、冷たい。
(話せない)
(話したら、運命が歪む)
(もっと、悪くなる)
成幸は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
「……先生には、関係ありません」
声が、震える。
真冬は、表情を変えなかった。
「関係あるわ。私は、あなたの担任よ」
「それでも、話せません」
成幸は、顔を上げた。
真冬の水色の瞳を、真っ直ぐに見る。
「話したら、もっと悪くなる。だから、話せない」
声は、震えていた。
でも、目は、逸らさなかった。
真冬は、しばらく成幸を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そう」
真冬は、窓の外に目を向けた。
夕日が、沈みかけている。
空が、赤く染まっていた。
「……あなたは、いつもそうね」
真冬の声が、少しだけ柔らかくなった。
「一人で、全部抱え込もうとする」
成幸は、何も言えなかった。
図星だった。
「誰にも頼らない。誰にも話さない。自分一人で、どうにかしようとする。……違う?」
真冬は、成幸の方を向いた。
その水色の瞳に、夕日が映っている。
「……違わないです」
成幸は、うつむいた。
「でも、そうするしかないんです。これは、俺の問題だから」
「あなたの問題じゃないわ」
真冬の声が、強くなった。
「あなたが関わった生徒たちの問題でしょう。なら、私にも関係がある。私は、教師よ」
真冬は、立ち上がった。
窓際に歩く。
夕日を背にして、成幸を見下ろす。
「私は、あなたのお父さんを知っている」
成幸の体が、硬直した。
「……父を?」
声が、震える。
真冬は、静かに頷いた。
「唯我輝明先生。私の恩師よ。一ノ瀬学園で、世界史を教えていた」
成幸は、息を呑んだ。
父の名前。
懐かしい響き。
「……知らなかった」
「知らなくていいの。私が、勝手に教わっていただけだから」
真冬は、窓の外を見た。
夕日が、もう半分沈んでいる。
「私は、あなたのお父さんに、人に寄り添う教師の姿を教わった。生徒の気持ちを、一番に考えること。できない子の気持ちを、分かってやること。……全部、あなたのお父さんから学んだの」
真冬の声は、静かだった。
でも、その声には、確かな熱があった。
「だから、私は教師になった。あなたのお父さんみたいな教師になりたかったから」
成幸は、真冬の横顔を見た。
夕日に照らされた横顔。
いつもは氷のように冷たい表情が、今は、少しだけ柔らかい。
「……父は、どんな教師だったんですか」
声が、自然に出た。
真冬は、少しだけ微笑んだ。
「情熱的で、不器用で、でも、誰よりも生徒のことを考えていた。……あなたに、そっくりよ」
真冬は、成幸を振り返った。
「あなたは、お父さんに似すぎている。一人で全部背負おうとするところが」
その言葉が、胸に突き刺さる。
痛い。
でも、温かい。
父の影。
真冬の中に、父がいる。
(俺は、父に似てる)
(一人で、背負い込む)
(父も、そうだったのか)
成幸は、初めて、自分の抱え込み癖を、自覚した。
誰かに指摘されたのは、初めてだった。
「……それでも、話せません」
成幸は、声を絞り出した。
「未来のことは、話したら、もっと悪くなる。俺は、それを知ってる。だから、話せない」
真冬は、成幸をじっと見た。
「……未来」
真冬が、小さく呟く。
「ええ。未来です。信じてもらえなくても、構いません。でも、これだけは、本当なんです」
成幸は、拳を握りしめた。
「俺は、みんなを救わなきゃいけない。理珠も、文乃も、うるかも、先生も。全員を、救わなきゃいけない」
声が、熱くなる。
「そのために、俺は、一人で戦う。誰にも、頼らない。……いや、頼れない。頼ったら、その人が、危険に巻き込まれるかもしれないから」
真冬は、黙って聞いていた。
「だから、先生。俺のことは、放っておいてください」
成幸は、頭を下げた。
「お願いします」
沈黙。
職員室に、夕日だけが差し込んでいる。
「……顔を上げなさい」
真冬の声は、冷たかった。
でも、どこか、悲しげだった。
成幸は、ゆっくりと顔を上げた。
真冬の水色の瞳が、成幸を射抜く。
「私は、あなたを見捨てない。あなたが何を隠していても、私は、あなたの担任よ。……それだけは、覚えておきなさい」
真冬の言葉が、胸に響く。
温かい。
でも、苦しい。
「……ありがとうございます」
成幸は、もう一度、頭を下げた。
職員室を出る。
廊下は、暗くなっていた。
夕日が、もう沈んでいた。
成幸は、壁にもたれかかった。
(真冬先生)
(あの人の中に、父がいる)
(父は、あの人に、何を教えたんだ)
(あの人は、父みたいな教師になろうとした)
胸の奥が、じわりと温かくなる。
でも、同時に、冷たい不安が、首筋を這う。
(俺は、父みたいになれるのか)
(一人で背負って、父は、どうなった)
(父は、死んだ)
(俺も、未来で、死んだ)
(一人で背負って、死んだ)
成幸は、拳を握った。
(でも、それでも、やるしかない)
(みんなを、救うために)
(俺が、やる)
夜。
自室。
成幸は、机の前に座っていた。
手元に、一冊のノートがある。
「未来ノート」。
五年後の未来の出来事を、断片的に書き留めた、自分だけの秘密のノート。
表紙は、ボロボロだ。
何度も、何度も、読み返したから。
成幸は、ノートを開いた。
ページを、一枚ずつ、めくる。
未来の記憶。
理珠が、心を閉ざした。
文乃が、失踪した。
うるかが、水泳をやめて、消えた。
真冬先生が、教師を辞めた。
そして、自分が、死んだ。
全部、書いてある。
日付。
場所。
誰が、どうなったか。
克明に。
でも。
成幸は、手を止めた。
(……おかしい)
ノートの、あるページ。
「なぜ、戻ってきたのか」
その部分だけが、空白だった。
いや、空白じゃない。
最初から、書かれていない。
(なぜ、俺は、未来から戻ってきた?)
(どうやって、戻ってきた?)
(誰が、俺を、戻した?)
成幸は、ノートを、じっと見た。
他の記憶は、鮮明だ。
理珠の閉ざした心。
文乃の消えた後。
うるかの失われた笑顔。
真冬先生の辞表。
自分の死。
全部、覚えている。
なのに。
「戻ってきた経緯」だけが、記憶にない。
(なぜだ)
(なぜ、ここだけ、抜けている)
成幸は、頭を抱えた。
(俺は、どうやって、ここにいる?)
(なぜ、俺だけが、戻ってきた?)
(誰が、俺を、ここに送った?)
答えは、出ない。
ノートの空白が、冷たく、成幸を見つめている。
(……分からない)
(でも、分からなくても、やるしかない)
成幸は、顔を上げた。
(俺は、みんなを救う)
(たとえ、自分が犠牲になっても)
(今度こそ、全員を、救ってみせる)
成幸は、ノートを閉じた。
胸の奥に、固い決意が、生まれる。
でも、その決意の裏で、冷たい疑問が、小さく蠢いていた。
(なぜ、俺は、戻ってきたんだ)
(本当に、俺は、戻ってきたのか)
(俺は、何のために、ここにいるんだ)
その疑問は、夜の闇の中で、ゆっくりと、成幸の心を蝕んでいく。
翌朝。
一ノ瀬学園。
屋上。
朝日が、校舎の影を、長く伸ばしている。
桐須真冬は、屋上の扉を開けた。
昨夜の成幸との会話が、頭から離れない。
(未来)
(あの子は、未来のことを、知っている)
(信じられない。でも、あの目の真剣さは、嘘じゃなかった)
真冬は、屋上のコンクリートの床を、ゆっくりと歩く。
風が、吹いている。
菖蒲色の髪が、揺れる。
その時。
足元に、何かが落ちているのに、気づいた。
紙切れ。
真冬は、それを拾い上げた。
ノートの切れ端。
破れた紙。
そこに、走り書きが、あった。
「五年後 理珠 心の閉鎖 文乃 失踪 うるか 消失 真冬 退職」
真冬の手が、止まった。
水色の瞳が、文字を追う。
「五年後の……未来?」
声が、震える。
朝日が、紙切れを照らす。
文字が、くっきりと浮かび上がる。
「真冬 退職」
自分の名前。
退職。
(私が、教師を、辞める?)
(五年後に?)
真冬は、紙切れを、じっと見つめた。
風が、吹く。
紙切れが、はためく。
真冬は、それを、強く握りしめた。
(これは、唯我くんの字)
(間違いない)
(あの子が、書いた)
(五年後の未来)
(そこに、私の退職が、書かれている)
真冬の心臓が、早くなる。
(あの子は、本当に、未来を知っている)
(そして、その未来で、私は、教師を辞める)
(なぜ?)
(何が、あって?)
真冬は、紙切れを、スーツのポケットにしまった。
そして、朝日を見た。
眩しい。
でも、目を逸らさない。
(唯我くん)
(あなたの秘密、私が、必ず暴く)
(そして、あなたを、一人で戦わせない)
真冬の水色の瞳に、強い光が宿る。
風が、屋上を吹き抜けていく。
真冬の長い髪が、朝日に照らされて、金色に輝いた。
その時。
成幸のスマートフォンが、震えた。
メッセージ。
差出人は、宇佐美。
ボードゲームカフェ「ダイスロール」の店主。
理珠の祖母・瑞穂の知人。
成幸は、画面を見た。
「星渡りの盤の欠落ページ。緒方家の金庫に保管されているらしい」
成幸の目が、見開かれた。
(欠落ページ)
(家族へのメッセージ)
(理珠の祖母が、隠した秘密)
(それが、緒方家の金庫に)
成幸は、スマートフォンを握りしめた。
(真冬先生の追及)
(そして、盤の秘密)
二つの問題が、同時に、成幸に迫る。
(やるしかない)
(全部、俺が、やる)
成幸は、顔を上げた。
朝日が、教室の窓から、差し込んでいた。
その光は、眩しいほどに、強く、白く、容赦なかった。Noveliaとは?
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