ぼくたちは運命を変えられない
「できない」気持ちが、いちばん痛い。
高校三年生の春、唯我成幸は夢から覚めた。冷たい水の中で、誰も救えなかった夢。手元に残っていたのは、ボロボロのノートに綴られた「未来の記録」だった。理珠は心を閉ざし、文乃は失踪し、うるかは水泳をやめ、真冬先生は教壇を去る。そして、自分は死んだ——五年後の未来が、そこに書かれていた。
目が覚めたら、四月。すべてが始まる前の教室に、彼女たちはいた。笑って、悩んで、まだ何も失っていない。だから成幸は決意する。誰にも言えない未来を一人抱えて、今度こそ全員を救うと。
教育係に任命された三人の天才少女たち。突出した得意科目の裏で、壊滅的な苦手科目を抱える彼女たち。努力型の秀才である成幸にしかできない指導が、止まりかけた運命を動かし始める。だが、未来は彼の知らない速さで歪み始めていた。うるかの交換留学推薦、祖母の遺した未完成のボードゲーム、教師を辞めようとする真冬先生。ノートに書かれた未来と、現実が少しずつずれていく。
これは、天才ではない少年が、知っている未来と戦いながら、大切な人たちの運命を変えようとする物語。彼が握りしめたのは、妹が作った色褪せたミサ
ぼくたちは運命を変えられない - 絶望の三者面談 ―― 追い詰められた凡人
三者面談期間が始まった。
教室の窓から差し込む五月の陽射しが、机の上の紙を白く照らしている。
唯我成幸は、その紙をじっと見つめていた。
進路希望調査票。
三枚。
理珠、文乃、うるか。
三人の未来が、そこに書かれている。
「……これ、本当か」
声が震えた。
目の前で、菖蒲色の長い髪を揺らして、桐須真冬が冷たい水色の瞳を向ける。
一ノ瀬学園の数学教師。
三年A組の担任。
水泳部の顧問。
「氷の女王」と呼ばれる女。
二十八歳。
スーツを隙なく着こなし、背筋を伸ばして立っている。
「本人が書いたものよ。間違いないわ」
真冬の声は、いつも通り、温度がない。
成幸は、もう一度、三枚の紙を見た。
緒方理珠。
志望学部、心理学部。
文系。
数学と物理で全国模試上位一パーセントの天才が、文系を志望している。
古橋文乃。
志望学部、天文学科。
理系。
古典文学で全国模試上位〇・五パーセントの才女が、理系を志望している。
武元うるか。
志望進路、海外スポーツ推薦。
水泳の天才が、日本を離れる。
三人とも。
全員。
自分の得意分野と、真逆の道を選んでいる。
「なんで……こんなことに」
成幸は、頭を抱えた。
未来の記憶では、こうだったか。
いや。
違う。
未来では、三人の進路希望を知ったのは、もっと後だった。
(運命が、変わってる)
(俺が未来を知っているから)
(俺が三人に関わったから)
(歯車が、早く回り始めてる)
指先が冷たくなる。
「唯我くん」
真冬が、一歩近づいた。
「あなたの顔、真っ青よ。どうしたの」
「……いえ、なんでもありません」
成幸は、無理に笑みを作った。
真冬の水色の瞳が、成幸を射抜く。
「嘘ね」
即答。
「あなた、この数週間、ずっとおかしいわ。何か隠してるでしょ」
成幸の心臓が、ドクリと跳ねた。
「……別に、隠してることなんて」
「私の目を見て言いなさい」
真冬は、腕を組んだ。
その目は、氷のように冷たい。
でも、その奥に、ほんの少しだけ、心配そうな色がある。
成幸は、目を逸らした。
「……すみません。今は、言えません」
真冬は、しばらく成幸を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そう。なら、聞かないわ」
真冬は、机の上の三枚の調査票を、指先でとんとんと叩いた。
「でも、これだけは言っておく。進路は、本人が決めるものよ。あなたが口を出すことじゃない」
「……わかってます」
「本当にわかってる? あなた、何とかして三人の進路を変えようとしてるんじゃないの」
図星だった。
成幸は、黙った。
真冬は、冷たい声で続ける。
「怠慢よ。本人の意思を無視して、自分の考えを押し付けるなんて。あなたらしくないわ」
「……俺は」
「三人の未来を、守りたいだけです」
真冬の眉が、ぴくりと動いた。
「未来を守る? 大げさね」
「……そうですね。大げさです」
成幸は、苦笑いした。
未来のことを話せば、運命がねじれる。
話せない。
誰にも。
真冬は、成幸の顔を、じっと見ていた。
「……何かあったら、言いなさい。私は、あなたの担任よ」
その声は、さっきより、ほんの少しだけ柔らかかった。
成幸は、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
職員室を出る。
廊下は、静かだった。
面談期間中で、生徒の姿はまばらだ。
成幸は、壁にもたれかかった。
(理珠が、文系)
(文乃が、理系)
(うるかが、海外)
未来で、三人を不幸にした選択。
その選択が、今、目の前にある。
(止めなきゃ)
(でも、どうやって)
(俺に、何ができる)
答えは出ない。
午後の陽射しが、廊下の床に、長い影を落としていた。
その時。
「——だから言っているだろう!」
怒鳴り声。
学園長室の方からだ。
成幸は、はっとして顔を上げた。
廊下の先。
学園長室の扉が、半分開いている。
中から、男の声が漏れていた。
「唯我成幸を、教育係から外せ!」
成幸の足が、止まった。
その声。
知っている。
古橋零侍。
文乃の父。
教育評論家。
大学教授。
「あのような凡人が、娘の人生に関わるなど、言語道断だ!」
零侍の声は、廊下中に響き渡っている。
成幸は、壁の陰に身を隠した。
心臓が、早鐘を打つ。
「古橋氏、どうか落ち着いてください。唯我くんは、優秀な生徒です。教育係としても、よくやっています」
学園長の声は、なだめるように、低く、穏やかだ。
「優秀? あの凡人か? 笑わせるな。私の娘は、文学の天才だ。それを、あのような男が、理系などという無駄な道に導こうとしている!」
「文乃さんの志望は、ご本人の意思で——」
「意思? あの子に、まともな判断などできるものか! 私が、あの子の才能を、正しく伸ばしてやらなければならないんだ!」
零侍の声が、さらに大きくなる。
「学園への寄付のことも、考え直さなければならなくなるな」
学園長室が、静かになった。
重い沈黙。
成幸は、拳を握った。
爪が、手のひらに食い込む。
(寄付を盾に、脅してる)
(文乃の未来を、金で)
(俺の居場所を、権力で)
唇を噛む。
血の味がした。
「……わかりました。唯我くんの教育係は、一時停止とします。推薦状も、保留です」
学園長の声は、重く、苦しげだった。
成幸の目の前が、真っ白になった。
教育係。
一時停止。
推薦状。
保留。
つまり。
理珠と文乃と、うるかを、救う手段を、奪われた。
大学進学の、道も。
(ああ)
(そうか)
(俺は、また)
(何も、できないのか)
足が、震える。
壁に手をついた。
冷たい。
廊下の壁が、氷みたいに冷たい。
しばらくして、学園長室の扉が開いた。
零侍が出てくる。
背の高い男。
黒いスーツ。
銀縁の眼鏡。
冷たい目。
文乃の父。
零侍は、廊下の陰に立つ成幸に気づいた。
足を止める。
「……お前か」
成幸は、顔を上げた。
零侍の目が、成幸を、値踏みするように見下ろす。
「聞いていたか。ちょうどいい。言っておく。お前が文乃に近づく限り、推薦状は永遠にない。それだけだ」
零侍の声は、冷たく、平坦だった。
感情がない。
ただ、事実を告げるだけの声。
成幸は、一歩、前に出た。
「……古橋さんは、あなたの所有物じゃない」
声が、震える。
「彼女には、彼女の人生がある。彼女が天文学を志望するのは、彼女の——」
「黙れ」
零侍の声が、廊下に響いた。
「お前のような凡人に、文乃の才能の何がわかる。あの子の母親が、どれほど優れた文学者だったか、お前にわかるか。あの子の才能は、母親から受け継いだ、唯一のものだ。それを、お前が、潰すのか」
成幸は、言葉を失った。
文乃の母。
故人。
文乃が文学を好きになったきっかけの人。
零侍の目が、一瞬だけ、揺れた。
「……私は、あの子を、守らなければならない。あの子が、母親と同じ道で、傷つかないように」
零侍は、それだけ言うと、背を向けた。
「二度と、私の娘に、関わるな」
足音が、遠ざかっていく。
成幸は、立ち尽くした。
動けない。
(文乃の母)
(零侍は、妻を失って、変わった)
(過干渉になった)
(でも、それでも)
(あの人のやり方は、間違ってる)
拳を、壁に叩きつけた。
鈍い音。
拳が、じんじんと痛む。
でも、心の痛みの方が、ずっと大きい。
夕方。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
武元剛。
うるかの父。
武元スポーツの店主。
成幸は、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「唯我くんか。俺だ、武元だ」
剛の声は、低く、重い。
「うるかの留学、正式に決まった。オーストラリアのシドニーだ。出発は、来月の半ば」
成幸の呼吸が、止まった。
来月。
未来の記憶では、うるかは、留学直前に水泳をやめて、姿を消した。
その時が、近づいている。
「……そうですか」
声が、うまく出ない。
「お前には、世話になった。だが、もう教育係として関わる必要はない。あの子のことは、俺たち親が、責任を持ってやる」
「待ってください。俺は、武元に、水泳を続けてほしい。彼女の才能は——」
「お前、この前の話、忘れたのか」
剛の声が、鋭くなった。
「うるかが水泳を続けるためには、お前が教育係を辞めろと言った。お前の答えは、まだ聞いていない」
成幸は、黙った。
答えられない。
教育係を辞めれば、理珠と文乃を救えない。
辞めなければ、うるかが水泳をやめるかもしれない。
板挟み。
「……返事は、急がない。だが、時間は、もうあまり残っていないぞ」
剛は、それだけ言うと、電話を切った。
ツー。
機械音。
成幸は、スマートフォンを握りしめた。
(うるか)
(留学、決まった)
(未来が、近づいてる)
居ても立ってもいられず、プールへ向かった。
部室棟の二十五メートルプール。
水の匂い。
塩素の香り。
夕暮れの光が、水面をオレンジ色に染めている。
うるかがいた。
一人で。
プールサイドに座って、水面を見つめている。
赤紫色のミディアムヘアー。
褐色の肌。
跳ねたアホ毛。
紫色の瞳。
武元うるか。
水泳部のエース。
成幸に、密かな想いを寄せる少女。
「武元」
声をかけた。
うるかが、振り返る。
「あ、成幸。どうしたの?」
うるかは、笑った。
いつもの、明るい笑顔。
でも。
成幸は、気づいた。
その目が。
笑っていない。
「留学、決まったって、聞いた」
「うん。決まったよ。あたし、向こうでも水泳続けるから」
うるかは、立ち上がった。
「シドニーって、海がきれいなんだって。プールも、いっぱいあるし。あたし、もっと速くなれるかも」
明るい声。
でも。
目が。
笑っていない。
「……本当に、行くのか」
「うん。決まったから。パパも、応援してくれてるし」
「お前は、それでいいのか」
うるかの笑顔が、一瞬、固まった。
「……何が?」
「水泳を、続けたいのか、って聞いてる」
うるかは、目を逸らした。
「続けるよ。あたし、水泳好きだもん」
「嘘だ」
言葉が、勝手に出た。
うるかが、びくりと肩を震わせた。
「お前、今、目が笑ってない。無理して笑ってる。違うか」
うるかは、黙った。
夕暮れの光が、二人の影を、長く伸ばす。
「……成幸は、理珠ちゃんのことで忙しいでしょ」
うるかが、ぽつりと言った。
「あたしのことは、気にしないで。成幸は、理珠ちゃんのこと、守ってあげて」
うるかの声は、震えていた。
笑顔のまま。
でも、声だけが、震えている。
「武元——」
「あたし、大丈夫だから。成幸が、あたしのことで、困ったりしなくていいから」
うるかは、そう言って、プールサイドを走り去った。
成幸は、追いかけようとした。
でも、足が、動かない。
(うるか)
(お前は、それで、本当にいいのか)
(俺は、お前を、救いたいだけなのに)
夕日が、沈んでいく。
プールの水面が、ゆっくりと、闇に飲まれていく。
夜。
成幸は、星見坂商店街を歩いていた。
理珠の家の近く。
住宅街の、静かな道。
街灯が、オレンジ色の光を落としている。
その時。
緒方家の玄関から、女の人が出てくるのが見えた。
理珠の母。
大きなスーツケースを、両手に持っている。
「……もう、出て行くのね」
理珠の声。
成幸は、電柱の陰に隠れた。
玄関先に、理珠が立っている。
杏色のショートヘア。
眼鏡。
群青色の瞳。
身長百四十三センチの、小さな体。
緒方理珠。
数学の天才。
成幸の教育係の担当生徒。
理珠の母が、振り返った。
「理珠……ごめんね」
母の声は、泣いていた。
「あなたは、何も悪くない。でも、お父さんとは、もう、一緒にいられないの」
理珠は、無表情だった。
でも、その唇が、ほんの少しだけ、震えている。
「……お母さん。私のせいですか。私が、ゲームなんて、作ろうとしたから」
「違うわ。あなたのせいじゃない。あのゲームは、おばあちゃんの形見でしょ。あなたが大切にするのは、当然よ」
「でも、お父さんは、ゲームのせいで、家がめちゃくちゃだって」
「……お父さんは、おばあちゃんのことを、よく思ってなかったから。だから、あのゲームのことも、嫌いなのよ」
理珠は、俯いた。
「……もう、ゲームなんて、どうでもいい」
小さな声。
成幸の胸に、突き刺さった。
(理珠)
(お前の、大好きなものを)
(そんな風に、言うな)
理珠の母は、泣きながら、タクシーに乗り込んだ。
赤いテールランプが、夜の道に、消えていく。
理珠は、玄関先に、立ち尽くしていた。
成幸は、電柱の陰から、一歩踏み出した。
「緒方——」
理珠が、振り返った。
その目は、暗かった。
「……唯我さん」
「今の、聞いてたんですか」
「……ああ」
理珠は、成幸を、じっと見た。
「唯我さん。もう、私の補習は、いいです」
成幸は、息を呑んだ。
「どうせ、私が何を望んでも、誰も理解してくれない。お父さんも、お母さんも、先生も。唯我さんも」
「違う。俺は——」
「唯我さんは、私の夢を、応援してくれるって、言いました。でも、結局、私の両親は、離婚する。私が、ゲームを、作りたいって、言ったから」
理珠の声は、淡々としていた。
でも、その目は、涙で、いっぱいだった。
「……私のせいで、家族が、壊れた。私が、ゲームなんて、好きになったから」
「緒方、それは違う。お前のせいじゃない。お前は、何も悪くない」
「じゃあ、誰のせいですか」
理珠が、成幸を、真っ直ぐに見た。
「おばあちゃんのせいですか。お母さんのせいですか。お父さんのせいですか。それとも、私の夢を、応援した、唯我さんのせいですか」
成幸は、答えられなかった。
理珠は、くるりと背を向けた。
「……さようなら、唯我さん」
理珠は、家の中に消えた。
ドアが、閉まる。
カチリ。
鍵の音。
成幸は、その場に、立ち尽くした。
(理珠の心が)
(完全に)
(閉ざされた)
夜風が、冷たい。
街灯の光が、成幸の影を、地面に、長く落とす。
翌朝。
教室。
文乃の席が、空いていた。
成幸は、嫌な予感がした。
ホームルームが終わって、すぐに、家に電話した。
「もしもし、母さん。古橋さん、そっちにいるか?」
「成幸? 古橋さんなら、今朝早くに、出て行ったきりよ。置き手紙があったの」
母の声。
唯我花。
明るくおおらかな、成幸の母。
「置き手紙? なんて書いてあった」
「『ごめんなさい。少し一人になりたい』って。それだけよ」
成幸の血の気が、引いていく。
「……いつ出て行ったんだ」
「朝の五時ごろかしら。私が起きた時には、もういなかったの。布団も、きれいに畳んであって」
「わかった。ありがとう」
電話を切る。
すぐに、文乃のスマートフォンに電話した。
コール音。
一回。
二回。
三回。
「——おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか——」
機械音。
切った。
もう一度。
同じ。
メッセージを送った。
『古橋、今どこにいる。返事してくれ』
既読にならない。
十分待った。
既読にならない。
一時間待った。
既読にならない。
成幸の手が、震える。
(文乃)
(お前、どこにいるんだ)
(頼む)
(返事を、してくれ)
その時、スマートフォンが震えた。
真冬からだった。
「もしもし」
「唯我くん。古橋さん、無断欠席よ。家出の可能性が高いわ。あなた、何か知らない?」
真冬の声は、緊迫していた。
「……知りません。でも、今朝、家を出て行ったそうです。置き手紙だけ残して」
「そう。……わかったわ。学園としても、対応を考える。あなたは、心当たりを探して」
「はい」
電話を切る。
成幸は、教室の窓から、空を見上げた。
五月の空。
青い。
でも、成幸の目には、灰色に見えた。
(文乃が、失踪した)
(未来で、文乃は、家を出て、行方不明になった)
(その未来が、今、現実になった)
(俺は、止められなかった)
拳を、窓枠に、押し付けた。
痛い。
でも、心の痛みの方が、ずっと痛い。
夜。
学園の屋上。
成幸は、一人で、フェンスにもたれかかっていた。
星が、見える。
未来ノートを、開く。
街灯の光で、文字を読む。
『理珠・心の閉鎖』
『文乃・失踪』
『うるか・消失』
『真冬・退職』
『自分・死亡』
その文字が、夜の闇の中で、浮かび上がる。
理珠。
心の閉鎖。
今、現実になった。
文乃。
失踪。
今、現実になった。
うるか。
消失。
もうすぐ。
真冬。
退職。
まだ。
自分。
死亡。
まだ。
でも。
全部。
未来と同じ。
未来と同じ運命が、容赦なく、進んでいる。
「……くそっ」
声が、震える。
「くそっ……くそっ……!」
膝から、崩れ落ちた。
コンクリートの冷たさが、膝を突き刺す。
「俺が、全部、悪かったんだ」
涙が、溢れた。
「俺が、余計なことをしたから。俺が、未来を知ってるから。俺が、三人に関わったから。みんな、みんな、悪い方に——」
涙が、止まらない。
「俺は、みんなを救うって、誓ったのに。何も、できなかった。理珠も、文乃も、うるかも、守れなかった。また、何も、できなかった——」
声が、嗚咽に変わる。
「俺は、また、何もできなかったのか」
星が、見える。
遠い。
冷たい。
無数の星が、成幸を、見下ろしている。
その時。
ギィ。
屋上の扉が、開いた。
成幸は、はっとして、顔を上げた。
涙で、視界が、にじんでいる。
扉の向こうに、人影。
菖蒲色の長い髪。
水色の瞳。
桐須真冬。
真冬は、何も言わずに、成幸の隣に、座った。
コンクリートの上に。
スーツのまま。
二人の間に、沈黙が、流れる。
一分。
二分。
三分。
真冬は、空を見上げていた。
やがて、静かに、口を開いた。
「……一人で背負い込むから、こうなるのよ」
その声は、冷たかった。
でも、どこか、悲しげだった。
成幸は、涙でにじんだ視界で、真冬の横顔を見つめた。
真冬は、成幸を見なかった。
ただ、星を見ていた。
「何か隠してるのは、前から気づいてた。でも、あなたが言わないなら、聞かないって、決めてた。……でも、これ以上、あなたが壊れていくのを、黙って見てるわけにはいかない」
真冬の声は、夜の空気に、溶けていく。
「……先生」
声が、かすれる。
「俺は、俺は——」
言葉にならない。
真冬は、成幸の方を向いた。
水色の瞳が、成幸を、真っ直ぐに見る。
「言いたくないなら、言わなくていい。でも、一人で抱え込むのは、もうやめなさい。あなたは、生徒でしょう。生徒は、大人に、頼っていいのよ」
成幸の涙が、また、溢れた。
「……俺は」
「俺は、未来から、戻ってきたんです」
真冬の目が、わずかに、見開かれた。
成幸は、続けた。
「五年後の未来から。その未来で、みんな、不幸になった。理珠も、文乃も、うるかも、先生も。俺は、それを、変えるために、戻ってきた。でも、何をしても、全部、悪い方にしか、進まない——」
涙が、止まらない。
「俺が、未来を知ってるから。俺が、動いたから。運命が、ねじれて、みんなが、もっと、不幸に——」
真冬は、黙って、聞いていた。
成幸の言葉を。
成幸の涙を。
成幸の、全部を。
「……そう」
真冬は、静かに、言った。
「なら、あなたは、一人で戦ってたのね。ずっと。誰にも、言えずに」
真冬の手が、成幸の肩に、そっと、触れた。
「でも、もう一人じゃないわ。私が、いる。……信じられるかどうかは、あなた次第だけど」
成幸は、顔を上げた。
真冬の顔が、すぐそこにある。
水色の瞳。
いつもは氷のように冷たい、その瞳が。
今は、ほんの少しだけ、温かかった。
「……先生」
「泣きたいだけ、泣きなさい。誰も見てないわ。私以外は」
成幸は、声を上げて、泣いた。
子供みたいに。
屋上の上で。
星の下で。
真冬の隣で。
涙が、止まらなかった。
真冬は、何も言わずに、成幸の隣に、座っていた。
ただ、黙って。
夜風が、二人の間を、吹き抜けていく。
星が、静かに、瞬いていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。