ぼくたちは運命を変えられない
「できない」気持ちが、いちばん痛い。
高校三年生の春、唯我成幸は夢から覚めた。冷たい水の中で、誰も救えなかった夢。手元に残っていたのは、ボロボロのノートに綴られた「未来の記録」だった。理珠は心を閉ざし、文乃は失踪し、うるかは水泳をやめ、真冬先生は教壇を去る。そして、自分は死んだ——五年後の未来が、そこに書かれていた。
目が覚めたら、四月。すべてが始まる前の教室に、彼女たちはいた。笑って、悩んで、まだ何も失っていない。だから成幸は決意する。誰にも言えない未来を一人抱えて、今度こそ全員を救うと。
教育係に任命された三人の天才少女たち。突出した得意科目の裏で、壊滅的な苦手科目を抱える彼女たち。努力型の秀才である成幸にしかできない指導が、止まりかけた運命を動かし始める。だが、未来は彼の知らない速さで歪み始めていた。うるかの交換留学推薦、祖母の遺した未完成のボードゲーム、教師を辞めようとする真冬先生。ノートに書かれた未来と、現実が少しずつずれていく。
これは、天才ではない少年が、知っている未来と戦いながら、大切な人たちの運命を変えようとする物語。彼が握りしめたのは、妹が作った色褪せたミサ
ぼくたちは運命を変えられない - 文学の森の眠り姫 ―― 零侍の脅迫と家出の夜
ゴールデンウィークが明けた。
空気が少しだけ重い。五月の陽射しは明るいのに、教室の窓から見える空は、どこか遠かった。
放課後。
唯我成幸は、図書室の一番奥の席にいた。
いつもの勉強会の場所だ。
目の前には、緒方理珠。
杏色のショートヘア。眼鏡の奥の群青色の瞳。身長は百四十三センチ。小さな体に、不釣り合いなほど大きな胸。
「機械仕掛けの親指姫」。
数学と物理では全国模試上位一パーセント。
でも、文系科目は学年最下位レベル。
それが、俺が教育係として担当する理由だった。
「……今日は、現代文の読解から始めるぞ」
成幸は、プリントを差し出した。
理珠は、無表情のまま、それを受け取った。
そして、問題用紙を、まるで殺意でも込めるかのように睨みつけた。
「解けません」
即答だった。
「まだ問題を読んですらいないだろ」
「読む必要がありません。私には文系科目は必要ないのですから」
理珠は、きっぱりと言い放った。
成幸は、小さく息を吐いた。
(相変わらずだな)
でも、以前よりは、少しだけマシになっている。
未来の記憶では、理珠は、文系科目を完全に拒否していた。
今は、まだ「解けません」と言うだけ。
拒絶の度合いが、少しだけ、柔らかくなっている。
(焦るな。一歩ずつだ)
成幸は、自分に言い聞かせた。
「いいか、緒方。現代文の読解は、数学と同じだ」
「……数学と、同じ?」
理珠の眉が、ぴくりと動いた。
「ああ。文章は、数式だ。筆者の主張が、答えだ。その答えを導き出すための、条件が、文中に散りばめられている。お前は、その条件を、見つけ出せばいい」
「……条件」
理珠は、問題用紙を、もう一度見た。
今度は、睨みつけるのではなく、観察するように。
「この文章の場合、『しかし』という接続詞が、重要な条件になる。『しかし』の後には、筆者の本当の主張が書かれていることが多い。つまり、『しかし』を探せば、答えに近づける」
「……なるほど」
理珠は、シャーペンを手に取った。
そして、文章の中の「しかし」という文字を、次々に丸で囲んでいく。
「ありました。三つです」
「そうだ。その三つの『しかし』の後を、順番に読んでみろ」
理珠は、黙って、文章を読み始めた。
一分。
二分。
三分。
「……筆者の主張は、『一見無駄に見えることにも、意味がある』ということでしょうか」
成幸は、思わず、笑みをこぼした。
「正解だ」
理珠は、無表情のままだった。
でも、その口元が、ほんの少しだけ、誇らしげに緩んだ。
成幸は、その変化を見逃さなかった。
(よし。手応えありだ)
その時。
「あの、すみません」
突然、声がした。
成幸と理珠は、同時に、声のした方を見た。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
紺色のロングヘアー。
カチューシャで、前髪を留めている。
左目の下に、小さなホクロ。
モデルのように整った顔立ち。
でも、胸は、控えめだった。
古橋文乃。
一ノ瀬学園三年A組。
文系科目では、全国模試上位〇・五パーセント。
「文学の森の眠り姫」。
この学園で、最も有名な文系の天才だった。
「あの、ここって、唯我くんの勉強会の場所だよね?」
文乃は、少しだけ、首を傾げた。
「古橋……どうして、ここに?」
成幸は、驚いた。
未来の記憶では、文乃が勉強会に参加するのは、もっと後のことだった。
「学園長先生に、言われたの。唯我くんの教育係の補習に、わたしも参加するようにって」
文乃は、にこりと笑った。
「わたし、理系科目が、からっきしダメで……唯我くんに、教えてもらおうかなって」
「……そうか」
成幸は、頷いた。
未来の記憶では、文乃も、教育係の対象だった。
でも、文乃が勉強会に来るのは、もっと後のことのはずだった。
(運命が、変わっている)
(俺が、未来を知っているから)
(俺が、理珠に、関わっているから)
成幸の胸に、小さな不安が、芽生えた。
でも、それを、表情には出さなかった。
「わかった。じゃあ、古橋も、一緒にやろう」
「うん! よろしくね、唯我くん」
文乃は、嬉しそうに、成幸の隣の席に座った。
「……よろしくお願いします」
理珠は、文乃を、じっと見つめた。
「緒方さん、だよね? 数学の天才の。わたし、緒方さんに、憧れてたの」
「……私に、ですか?」
理珠は、驚いたように、目を丸くした。
「うん! だって、あんなに難しい数式を、さらさらって解いちゃうんでしょ? すごいなあって、いつも思ってたの」
文乃の言葉に、理珠は、ほんの少しだけ、頬を赤らめた。
「……ありがとうございます。古橋さんこそ、文系科目では、誰にも負けないと聞いています」
「えへへ、まあね」
文乃は、照れくさそうに笑った。
成幸は、二人の様子を、微笑ましく見ていた。
(理珠が、人と、普通に会話している)
(文乃のおかげだ)
文乃には、人の心の壁を、溶かす力がある。
未来の記憶でも、文乃は、理珠の、数少ない理解者だった。
「じゃあ、始めようか。今日は、数学と現代文を、交互にやる。古橋は、数学が苦手なんだろ? 緒方は、現代文が苦手だ。二人で、教え合うのが、一番効率がいい」
成幸は、そう言って、数学のプリントを、文乃に差し出した。
「えっ、わ、わたし、数学、本当にダメなんだよ? 足し算と引き算しか、できないかも……」
文乃は、おそるおそる、プリントを受け取った。
「大丈夫だ。基礎の基礎からやる。緒方、悪いが、古橋に、数学を教えてやってくれないか?」
「……私が、ですか?」
理珠は、戸惑ったように、成幸を見た。
「ああ。お前は、数学の天才だ。人に教えることで、自分の理解も、もっと深まる。それに、古橋は、お前に憧れてるんだ。お前が教えれば、古橋も、やる気になる」
「……わかりました」
理珠は、こくりと頷いた。
「古橋さん。まずは、この問題からです」
理珠は、文乃に、プリントを見せた。
「う、うん……えっと、これは……?」
文乃は、問題を、じっと見つめた。
「これは、一次方程式です。xの値を、求めます」
「い、いちじ……ほうていしき……」
文乃の顔が、だんだん、青ざめていく。
「大丈夫です。私が、丁寧に説明しますから」
理珠は、シャーペンを持って、プリントの余白に、式を書き始めた。
「まず、左辺の数字を、右辺に移項します。移項すると、符号が、反転します」
「……い、いこう?」
文乃は、首を傾げた。
「移項です。項を、移動することです」
「……こうを、いどう……」
文乃は、呪文のように、繰り返した。
成幸は、二人の様子を見ながら、小さく笑った。
(理珠の教え方は、まあ、理系すぎるな)
(でも、文乃は、真剣に聞いてる)
(この組み合わせは、意外と、悪くない)
「……成幸」
突然、理珠が、成幸を呼んだ。
「ん? どうした?」
「古橋さんが、白目を剥いています」
「えっ!?」
成幸が、文乃を見ると、文乃は、机に突っ伏していた。
「うう……数式を見ると、頭が真っ白になるの……」
文乃は、弱々しく呟いた。
「……古橋、大丈夫か?」
成幸は、文乃の肩を、軽く揺すった。
「だ、大丈夫……じゃない……もう、だめ……」
「ほら、水飲め」
成幸は、ペットボトルの水を、文乃に差し出した。
「あ、ありがと……」
文乃は、水を、一口飲んだ。
「ふう……生き返った……」
文乃は、ほっと息をついた。
「古橋さん、すみません。私の教え方が、悪かったです」
理珠は、しゅんと、うつむいた。
「ううん、違うの。わたしが、数学を、受け付けない体質なだけだから」
「……体質」
「そう。数式を見ると、眠くなっちゃうの。もう、赤ちゃんの頃から、ずっとそうなの」
文乃は、真剣な顔で言った。
「……それは、治らないのですか?」
「治らないの。もう、手遅れなの」
文乃は、悲しそうに、首を振った。
「……そうですか」
理珠は、何かを考えるように、黙り込んだ。
そして、突然、顔を上げた。
「では、私が、古橋さんに合った教え方を、開発します」
「えっ?」
「古橋さんは、文系の天才です。言葉で説明すれば、理解できるはずです。数式ではなく、言葉で、数学を教えます」
理珠は、決意に満ちた目で、文乃を見た。
「……言葉で、数学を?」
「はい。例えば、一次方程式は、天秤のようなものです。左の皿と、右の皿に、同じ重さのものを、乗せたり、降ろしたりする。xは、正体不明の、謎の重りです」
「てんびん……なぞのおもり……」
文乃は、理珠の言葉を、反芻した。
「なるほど……! なんとなく、わかったかも!」
文乃の顔が、ぱあっと明るくなった。
「では、この問題を、解いてみてください」
理珠は、新しいプリントを、文乃に差し出した。
「うん! やってみる!」
文乃は、シャーペンを握った。
成幸は、その様子を、驚きながら見ていた。
(理珠が、人に教えることを、楽しんでいる)
(文乃も、理珠に教わることで、数学への苦手意識が、薄れている)
(これは、すごいことだ)
成幸は、教育係として、初めて、確かな手応えを感じた。
(理珠と文乃。二人の天才が、互いの苦手分野を、補い合っている)
(この関係を、もっと深めれば、未来は変えられる)
成幸の胸に、小さな希望が、芽生えた。
「……唯我くん」
突然、文乃が、成幸を呼んだ。
「ん? どうした?」
「唯我くんって、緒方さんに、すごく優しいんだね」
文乃は、にこにこしながら、成幸を見た。
「え? そうか?」
「うん。教え方も、すごく丁寧だし、緒方さんのこと、すごく気にかけてるのが、伝わってくるよ」
文乃の言葉に、成幸は、どきりとした。
「……それは、教育係だからだ。担当する生徒には、みんな、同じように接してるつもりだ」
成幸は、慌てて言い訳をした。
「そうなんだ。でも、なんだか、唯我くんと緒方さんって、息がぴったりだなあって」
文乃は、笑顔のまま、言った。
でも、その笑顔の奥に、ほんの一瞬、影が差したように、成幸には見えた。
「……気のせいだろ」
成幸は、目を逸らした。
「そうかなあ」
文乃は、小さく呟いた。
そして、プリントに、視線を落とした。
成幸は、文乃の様子を、盗み見た。
(文乃……?)
(何か、気になることでも、あるのか?)
成幸は、文乃の心の内を、測りかねていた。
その時。
「……唯我さん」
理珠が、成幸を呼んだ。
「ん? どうした、緒方?」
「古橋さんは、なぜ、私に憧れているのですか?」
理珠は、真剣な顔で、成幸に尋ねた。
「え? そりゃあ、お前が、数学の天才だからだろ」
「……私が、数学の天才だから、ですか」
理珠は、少しだけ、考え込んだ。
「でも、古橋さんは、文系の天才です。私に憧れる理由が、わかりません」
「……そういうもんだろ。自分にないものを持ってる人に、憧れるんだよ」
「……自分にないもの」
理珠は、成幸の言葉を、繰り返した。
「……では、私も、古橋さんに、憧れてもいいのでしょうか」
「ああ、もちろん」
「……そうですか」
理珠は、文乃の方を、ちらりと見た。
文乃は、数学の問題に、格闘していた。
「……古橋さんは、すごいです」
理珠は、小さく呟いた。
「私には、できないことを、簡単にやってのけます。人の心を、動かす言葉を、知っています」
「……緒方」
「私も、古橋さんのようになりたいです」
理珠の言葉に、成幸は、胸が熱くなった。
(理珠が、文乃に、憧れている)
(未来の記憶では、理珠は、文乃に、劣等感を抱いていた)
(でも、今は、違う)
(理珠は、文乃を、目標にしている)
(これも、運命の変化か)
成幸は、理珠の成長を、嬉しく思った。
「……よし、じゃあ、続きをやろう。古橋、その問題、解けたか?」
成幸は、文乃に、声をかけた。
「うーん……あと少しなんだけど……」
文乃は、プリントを、じっと見つめていた。
「どこで、つまずいてる?」
「ここ。この、移項ってやつが、よくわからないの」
「移項か。緒方、古橋に、もう一度、説明してやってくれ」
「……はい」
理珠は、文乃の隣に、移動した。
「古橋さん。移項は、天秤の、お皿を、入れ替えるようなものです」
「お皿を、入れ替える……」
「はい。左の皿にあった、数字の重りを、右の皿に、移動させます。その時、重りの、プラスとマイナスが、反転します」
「プラスとマイナスが、反転……」
「そうです。例えば、x + 3 = 5 の場合、左の皿にある、+3の重りを、右の皿に、移動させます。すると、+3は、-3に、変わります」
「+3が、-3に……」
「すると、x = 5 - 3 になります。つまり、x = 2 です」
「……あっ!」
文乃は、突然、大きな声を上げた。
「わかった! わかったよ、緒方さん!」
文乃は、興奮したように、理珠の手を握った。
「天秤のお皿を、入れ替えると、プラスとマイナスが、ひっくり返るんだね! そういうことだったんだ!」
「……はい。そうです」
理珠は、文乃に手を握られて、少しだけ、照れたような表情をした。
「緒方さん、教えるの、すっごく上手! わたし、生まれて初めて、数学が、わかったかも!」
「……それは、よかったです」
理珠の口元が、ほんの少しだけ、ほころんだ。
成幸は、二人の様子を見て、静かに笑った。
(理珠の教え方が、文乃に、はまった)
(文乃の理解力が、理珠の教えを、引き出した)
(二人の相性は、抜群だ)
成幸は、確信した。
この二人なら、互いの苦手を、克服できる。
そして、未来は、変えられる。
「……よし、今日は、この辺で終わりにしよう」
成幸は、時計を見て、言った。
「えー、もう終わり? もっと、数学、やりたいなあ」
文乃は、名残惜しそうに言った。
「また、明日やろう。無理して、詰め込みすぎても、よくない」
「はーい」
文乃は、素直に頷いた。
「……唯我さん」
理珠が、成幸を呼んだ。
「ん?」
「今日は、ありがとうございました。古橋さんと、一緒に勉強できて、楽しかったです」
理珠は、成幸に、小さく頭を下げた。
「ああ、俺もだ。二人とも、よく頑張ったな」
成幸は、理珠の頭を、軽く撫でた。
理珠は、驚いたように、目を丸くした。
「……な、撫でないでください。ちんまく見えるでしょう」
理珠は、顔を赤らめて、成幸の手を払いのけた。
「ちんまくなんて、言ってないだろ」
成幸は、苦笑した。
「……唯我くんって、緒方さんには、ああいう風に、触れるんだね」
文乃は、成幸と理珠を、交互に見た。
「え? あ、いや、これは、その……」
成幸は、言葉に詰まった。
「ううん、いいの。唯我くんが、緒方さんに、優しいのは、いいことだと思うよ」
文乃は、にこりと笑った。
でも、その笑顔は、どこか、無理をしているように、成幸には見えた。
「……じゃあ、わたし、先に帰るね。また明日」
文乃は、そう言って、図書室を出て行った。
成幸は、文乃の後ろ姿を、じっと見ていた。
(文乃……)
(何か、あったのか?)
成幸の胸に、小さな引っかかりが、残った。
でも、それが何なのか、成幸には、わからなかった。
その夜。
成幸は、自室で、未来ノートを開いていた。
『古橋文乃。文系の天才。理系科目は、壊滅的。父・零侍は、教育評論家。文乃の進路に、反対。医大進学を、強要。未来では、父と、和解できず、家出。行方不明になる』
成幸は、その文字を、指でなぞった。
(文乃は、今日、勉強会に来た)
(未来の記憶では、もっと後だった)
(運命が、変わっている)
(俺が、未来を知っているから)
(俺が、理珠に、関わっているから)
成幸は、拳を握った。
(文乃の未来も、変えなければ)
(文乃が、家出する未来を、阻止しなければ)
(そのためには、文乃の父、零侍と、向き合わなければならない)
成幸は、未来ノートを、閉じた。
その時。
スマートフォンが、震えた。
画面を見る。
非通知着信。
成幸は、少しだけ、迷った。
でも、出ることにした。
「……もしもし」
「唯我成幸くん、だね?」
電話の向こうから、低い、男の声がした。
「……はい。どちら様ですか?」
「古橋零侍だ。文乃の、父親だ」
成幸の心臓が、跳ねた。
(古橋零侍……!)
(文乃の、父……!)
「……古橋さん、でしたか。どういった、ご用件でしょうか?」
成幸は、声を、平静に保とうとした。
「単刀直入に言おう。娘に、近づくな」
零侍の声は、冷たかった。
「……え?」
「文乃に、近づくな。あの子は、医大に行かせる。お前のような、凡人に、娘の人生を、狂わす権利は、ない」
零侍の言葉は、刃物のように、鋭かった。
「……古橋さん。文乃さんは、文学部を、志望しています。彼女の、意思を、尊重すべきです」
成幸は、反論した。
「文乃の、意思だと? あの子は、まだ、自分の進路を、正しく、理解していない。文学など、何の役にも、立たない。医者になれば、人の役に、立てる。それこそが、あの子の、才能を、活かす道だ」
「……それは、古橋さんの、考えでしょう。文乃さんは、文乃さん自身の、人生を、生きる権利が、あります」
「お前のような、若造に、何がわかる。お前は、文乃の、何を知っている。あの子が、どれだけ、特別な才能を、持っているか、知っているのか」
「……知っています。文乃さんは、文系科目では、全国模試上位〇・五パーセント。でも、それ以上に、彼女は、人の心を、理解する才能を、持っています。文学は、その才能を、活かすための、道です」
「黙れ」
零侍の声が、大きくなった。
「お前ごときが、文乃の、才能を、語るな。お前は、ただの、凡人だ。お前が、文乃に、近づくことで、あの子の、未来が、閉ざされる。それが、わからないのか」
「……古橋さん。私は、文乃さんの、教育係です。彼女の、学力を、伸ばすことが、私の、役目です」
「教育係だと? 笑わせるな。お前は、学園長に、推薦状を、ちらつかされて、仕方なく、やっているだけだろう。お前の、目的は、文乃の、ためではない。お前自身の、保身のためだ」
零侍の言葉は、成幸の、心の奥を、えぐった。
(……違う)
(俺は、保身のためじゃない)
(文乃を、救いたいからだ)
でも、その言葉を、口にすることは、できなかった。
「……古橋さん。私は、文乃さんを、救いたいんです」
成幸は、絞り出すように、言った。
「救う? 何から、救うというんだ。お前が、文乃に、近づくことこそが、あの子を、不幸にしているんだ。それが、わからないのか」
「……違います。文乃さんは、今、苦しんでいます。古橋さんに、進路を、否定されて」
「苦しんでいる? あの子が? そんなはずは、ない。あの子は、私の、言う通りに、していれば、幸せになれるんだ」
「……それは、古橋さんの、思い込みです」
「思い込みだと? ふざけるな。お前のような、凡人に、私の、娘の、何がわかる」
「……文乃さんは、古橋さんの、思い通りには、なりません。彼女は、彼女自身の、人生を、歩みます」
「……そうか。ならば、仕方ない」
零侍の声が、急に、冷たくなった。
「お前の、教育係の、推薦状が、どうなっても、いいのか?」
成幸の、呼吸が、止まった。
「……なに?」
「私は、学園に、それなりの、寄付を、している。学園長に、一言、言えば、お前の、推薦状など、簡単に、取り消させることくらい、できる」
「……それは、脅しですか」
「脅しではない。警告だ。お前が、文乃に、近づくのを、やめないなら、お前の、未来を、潰す。それだけだ」
零侍の言葉は、成幸の、全身から、力を、奪っていった。
(推薦状……)
(俺の、大学進学の、生命線……)
(それが、失われる……?)
成幸は、電話を握る手に、力を込めた。
「……古橋さん。あなたは、文乃さんの、幸せを、考えたことは、ありますか?」
成幸は、震える声で、尋ねた。
「……何?」
「あなたは、文乃さんに、医者になれと、言う。でも、文乃さんは、文学を、愛している。彼女が、本当に、やりたいことは、医者になることじゃ、ない。あなたは、文乃さんの、気持ちを、考えたことが、ありますか?」
「……黙れ。お前に、何が、わかる」
「……わかりません。でも、文乃さんが、今、苦しんでいることくらいは、わかります。あなたの、期待に、応えられない自分を、責めていることくらいは」
「……黙れと言っている!」
零侍の怒鳴り声が、電話越しに、響いた。
「もう、いい。お前とは、話にならない。二度と、文乃に、近づくな。さもないと、お前の、推薦状は、ないものと、思え」
「……待ってください、古橋さん!」
成幸は、叫んだ。
でも、電話は、すでに、切れていた。
ツー、ツー、ツー。
無機質な、電子音だけが、耳に、残った。
成幸は、スマートフォンを、握りしめたまま、動けなかった。
(くそっ……)
(何も、できなかった)
(文乃を、守ることも)
(自分の、未来を、守ることも)
成幸は、拳を、壁に、叩きつけた。
鈍い音が、部屋に、響いた。
拳が、じんじんと、痛んだ。
でも、その痛みが、現実を、突きつけてくる。
(俺は、無力だ)
(未来を知っているのに、何も、変えられない)
成幸は、床に、座り込んだ。
そして、未来ノートを、もう一度、開いた。
『文乃、家出。行方不明』
その文字が、成幸を、嘲笑っているように、見えた。
翌朝。
成幸は、教室で、文乃の姿を、探した。
でも、文乃の姿は、どこにも、なかった。
(……まさか)
成幸の胸に、嫌な予感が、広がった。
一時間目が、始まっても、文乃は、現れなかった。
成幸は、いてもたっても、いられなくなった。
休み時間。
成幸は、職員室に、向かった。
桐須真冬。
一ノ瀬学園の、数学教師。
文乃の、担任だった。
菖蒲色のロングヘアー。水色の瞳。モデルのように、整った顔立ち。
でも、その表情は、いつも、冷たく、無愛想だった。
「氷の女王」。
生徒たちは、彼女を、そう呼んで、恐れていた。
「……桐須先生」
成幸は、真冬に、声をかけた。
「……唯我。どうした?」
真冬は、書類から、顔を上げた。
「古橋さんが、今日、学校に、来ていないようなんですが、何か、ご存じですか?」
「……古橋か」
真冬は、少しだけ、眉を、ひそめた。
「……実は、今朝、古橋の、父親から、連絡があった。古橋が、昨夜から、家に、戻っていないと」
「……え?」
成幸の顔から、血の気が、引いていく。
「家出、したらしい」
真冬の言葉が、成幸の、頭に、突き刺さった。
(家出……)
(未来の記憶と、同じだ)
(文乃が、家出した)
成幸は、足が、震えるのを、感じた。
「……唯我。お前、何か、知っているのか?」
真冬は、成幸の、様子の変化に、気づいた。
「……いえ、何も」
成幸は、首を振った。
「……そうか。まあ、お前が、古橋の、教育係なら、心配なのは、わかる。だが、これは、家の問題だ。お前が、首を突っ込むことでは、ない」
「……でも」
「古橋の、父親は、警察に、捜索願を、出すと言っていた。すぐに、見つかるだろう」
真冬は、冷たく、言い放った。
「……警察」
成幸は、うつむいた。
(警察に、見つかれば、文乃は、家に、連れ戻される)
(そして、零侍の、監視下に、置かれる)
(それは、未来の、破滅への、道だ)
(俺が、見つけなければ)
(警察よりも、先に)
成幸は、決意した。
放課後。
成幸は、学校を、飛び出した。
文乃を、探すために。
星見坂商店街を、走る。
文乃が、行きそうな場所を、片っ端から、当たる。
本屋。
図書館。
公園。
駅前。
どこにも、文乃の姿は、なかった。
(どこだ……)
(どこに、行ったんだ……)
成幸は、息を、切らしながら、走り続けた。
商店街の、奥。
学習塾「みなみ塾」の、隣。
ボードゲームカフェ「ダイスロール」。
理珠が、よく行く、店だった。
成幸は、その店の、前で、足を、止めた。
(……まさか、ここに?)
成幸は、店の、扉を、開けた。
カラン、カラン。
ドアベルの音が、店内に、響いた。
店内は、薄暗く、静かだった。
棚には、たくさんの、ボードゲームが、並んでいる。
木の、テーブルと、椅子が、いくつか。
カウンターの、奥に、一人の、男が、座っていた。
四十代くらいだろうか。
無精ひげを、生やした、痩せた男。
宇佐美。
この店の、店主だった。
「……いらっしゃい」
宇佐美は、成幸を、ちらりと、見た。
「あの、ここに、古橋文乃という、女の子が、来ていませんか?」
成幸は、宇佐美に、尋ねた。
「古橋……? ああ、あの、髪の長い、きれいな、お嬢ちゃんか」
宇佐美は、思い出したように、言った。
「はい! どこに、いますか?」
成幸は、身を、乗り出した。
「奥の、個室に、いるよ。昨夜から、ずっと、ここに、いるんだ」
「昨夜から……?」
「ああ。朝、店を、開けたら、店の、前で、うずくまってたんだ。わけを、聞いても、何も、話さないんでね。とりあえず、中に、入れてやって、温かい、飲み物を、出してやったんだ」
「……そうですか。ありがとうございます」
成幸は、宇佐美に、頭を、下げた。
「あんた、あの子の、知り合いかい?」
「はい。学校の、同級生です」
「そうか。なら、話を、聞いてやってくれ。あの子、何か、抱えてるみたいだ」
宇佐美は、奥の、個室を、指さした。
「……わかりました」
成幸は、個室の、扉の、前に、立った。
深呼吸を、一つ。
そして、扉を、ノックした。
「……古橋? 俺だ。唯我だ」
返事は、ない。
「……入るぞ」
成幸は、そっと、扉を、開けた。
個室の中は、狭く、薄暗かった。
テーブルと、椅子が、二つ。
壁際の、ソファに、文乃が、座っていた。
膝を、抱えて、うつむいている。
紺色の、ロングヘアーが、顔を、隠していた。
「……古橋」
成幸は、文乃の、前に、しゃがみ込んだ。
「……唯我、くん」
文乃は、顔を、上げた。
その顔は、青白く、目の下には、くまが、できていた。
一晩中、眠っていないのだろう。
「……どうして、ここが、わかったの?」
文乃は、かすれた声で、尋ねた。
「……勘だ」
成幸は、短く、答えた。
「……そっか」
文乃は、力なく、笑った。
「……何があったんだ?」
成幸は、文乃の、隣に、座った。
「……お父さんと、喧嘩したの」
文乃は、ぽつりと、言った。
「……進路の、ことで?」
「……うん。わたし、文学部に、行きたいって、言ったの。そしたら、お父さん、すごく、怒って……『お前は、医者になるんだ。文学なんて、無駄だ』って」
文乃の、声が、震えた。
「……それで、家を、飛び出したのか?」
「……うん。もう、家に、いるのが、息苦しくて。お父さんの、顔を、見るのが、辛くて」
文乃は、膝を、抱える、腕に、力を、込めた。
「……わたし、お父さんの、言う通りに、生きるしか、ないのかな。わたしの、人生なのに。わたしの、夢なのに」
文乃の、目から、涙が、こぼれた。
「……古橋」
成幸は、文乃の、涙を、見つめた。
(文乃は、泣いている)
(未来の記憶では、文乃は、人前で、涙を、見せなかった)
(でも、今は、違う)
(俺の、前で、泣いている)
成幸は、文乃に、何と、声を、かければいいのか、わからなかった。
「……なあ、古橋」
成幸は、ゆっくりと、口を、開いた。
「……なに?」
「お前の、夢は、なんだ?」
「……え?」
「お前が、本当に、やりたいことは、なんだ? 医者に、なりたいのか? それとも、文学を、やりたいのか?」
「……わたしは」
文乃は、少しだけ、迷った。
「……わたしは、星に、関わる、仕事が、したいの」
「……星?」
「……うん。天文学者に、なりたいの。お母さんが、星が、好きだったの。わたしも、お母さんの、影響で、星が、好きになった。お母さんと、一緒に、夜空を、見Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。