ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜
桜ヶ丘の商店街に、今日もひびきの幸せな咀嚼音が響く。肉まんにコロッケ、プロテインにプリン——食欲と筋トレの狭間で揺れる女子高生・紗倉ひびきの日常は、しかしある日を境に大きく動き出す。ジムのトレーナー・街雄の破れたポロシャツから覗く規格外の筋肉にときめきを隠せない日々。そして、プロテインショップでひびきの試飲カップを奪い去った、銀髪の少女。鋭い瞳でひびきを射抜いた彼女の正体は——。「明日から家にお客さんが来る」。母からの突然の電話が、運命の歯車を静かに回し始める。これは、筋肉と食欲と、ほんの少しの恋が織りなす、ひと夏の物語。ジーナ・ボイド、帰還。
ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜 - 銀髪の刺客、わが家にやってきた!~筋肉は恋人ってどういうこと?~
朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、リビングの床に細長い影を落としていた。
紗倉ひびきは、パジャマのままテーブルに突っ伏していた。昨夜、母からの電話の後、なんだかんだで眠れなかったのだ。あの銀髪の少女の鋭い視線が、まぶたの裏に張り付いて離れなかった。
「はあ……なんだったんだろ、あの子」
ぼんやりとつぶやきながら、ひびきは冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。コップに注いで、一気に飲み干す。冷たい液体が喉を通っていく感覚が、まだ寝ぼけた頭を少しだけ覚ましてくれた。
昨日のことを思い返す。マッスル・マートでの試飲会。最後の一杯、桜もち風味プロテイン。それを、あの銀髪の少女がさらっていった。まるで宣戦布告のような、あの目。
「やばたん、思い出したらなんかムカついてきたわ」
ひびきは、ぐしゃぐしゃと自分の金髪をかきむしった。
その時、玄関の方からガチャリと鍵が開く音がした。
「あら、ひびき。起きてたのね」
母の声だった。ひびきは時計を見た。朝の九時半。海外出張中の母が、こんな時間に帰ってくるなんて珍しい。
「母さん!? どうしたの、急に」
リビングに入ってきた母は、軽いスーツケースを引いていた。疲れた顔をしているが、目はなんだか楽しそうに輝いている。
「昨日電話で言ったでしょ? お客さんを連れてくるって」
「お客さんって……本当に今日だったの?」
ひびきが聞き返すと、母はにっこりと笑って、玄関の方を振り返った。
「ジーナちゃん、入っていらっしゃい」
ひびきの心臓が、ドクンと跳ねた。
ジーナ。
その名前には、覚えがあった。いや、名前だけじゃない。あの銀色の髪。
玄関から、一人の少女がゆっくりと姿を現した。
朝の光を浴びて、銀色のボブヘアーがキラキラと輝いている。白い肌に、澄んだ青い瞳。昨日、マッスル・マートでひびきのプロテインを奪った、あの少女だった。
「……あなた」
ジーナもまた、ひびきの顔を見て、目を見開いた。その青い瞳が、みるみるうちに吊り上がっていく。
「なんであなたがここにいるのよ!」
ロシア訛りの強い日本語が、リビングに響き渡った。
「こっちのセリフだよ!? なんであんたがうちに来るの!?」
二人は、テーブルを挟んでにらみ合った。
母は、そんな二人の様子を、まるで可愛い子猫たちのじゃれ合いでも見るように、にこにこと眺めていた。
「あらあら、もう仲良くなってたのね。話が早いわ」
「仲良くなんてなってないわよ!」
「なってないよ!」
二人の声が、ぴったりと重なった。
母は、スーツケースを壁際に置くと、ひびきに向き直った。
「ひびき、この子はジーナ・ボイドちゃん。パパのお仕事の関係で、しばらくうちで預かることになったの。よろしくね」
「はあ!? 預かる!? この子を!?」
ひびきは、自分の耳を疑った。
昨日、初めて会って、プロテインを奪われて、睨まれた相手。その相手と、同じ家で暮らす?
「ジーナちゃんのパパは、ロシアでシルバーマンジムのモスクワ支部に関わっている方でね。日本にしばらく滞在する間、ジーナちゃんは一人になっちゃうから、うちで面倒を見てほしいって頼まれたのよ」
母は、こともなげに説明する。
シルバーマンジム。モスクワ支部。
その言葉に、ひびきの頭の中で、何かが引っかかった。
「……モスクワ支部って、あの、超エリートが集まるっていう」
ひびきがつぶやくと、ジーナが、ふん、と鼻を鳴らした。
「そうよ。私も、モスクワ支部にいたの。あなたなんかより、ずっとずっと本格的にトレーニングしてきたんだから」
ジーナは、そう言って、胸を張った。身長はひびきより少し低い158センチ。でも、その体つきは、しなやかで、鍛え上げられているのが分かる。細いのに、力強さがあった。
「……で、なんであんたがうちに?」
ひびきが、改めて尋ねる。
すると、ジーナの青い瞳が、真っ直ぐにひびきを射抜いた。
「決まってるでしょ。あなたを倒すためよ」
その言葉に、ひびきは、ぽかんと口を開けた。
「……は? 倒す?」
「とぼけないで。一年前のアームレスリング大会のことを、忘れたとは言わせないわ」
一年前の、アームレスリング大会。
ひびきは、その言葉で、ようやく、あの時のことを思い出した。
シルバーマンジム主催の、アームレスリング大会「マッスル・デュエル」。ひびきは、その大会で、優勝した。確か、決勝で戦った相手は……。
「……あんた、あの時の!」
ひびきは、思わずジーナを指差した。
そうだ。決勝の相手。銀色の髪の、小柄な女の子。ひびきは、あの時、ほとんど力任せに、相手の腕をテーブルに叩きつけた。
「思い出したようね。あの屈辱、私は一秒たりとも忘れたことなんてないわ」
ジーナは、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
「あの日から、私はあなたに勝つためだけに、トレーニングを積んできた。そして、日本に来た。あなたの家にまで、乗り込んで来たのよ」
ジーナの声は、静かだが、強い意志に満ちていた。
ひびきは、頭をかいた。
「いや、あんた、すごい執念だね……。っていうか、なんでそんなに根に持ってるの? 大会なんて、勝ったり負けたりするもんじゃん?」
「あなたに負けたからよ!」
ジーナが、声を張り上げた。
「私は、モスクワ支部で、誰にも負けたことがなかった。サンボクラスでも、アームレスリングでも、私が一番だった。なのに……なのに、あなたは、あんな、力任せの、野蛮な腕力だけで、私を負かした!」
ジーナの頬が、怒りでほんのり赤く染まっている。
ひびきは、その言葉に、ちょっとだけムッとした。
「野蛮ってなによ。力が強いのは、悪いことじゃないでしょ」
「悪いわよ! 私の積み重ねた努力を、全部無駄にしたようなものじゃない!」
「いや、あんたの努力はあんたの努力でしょ。あたしには関係ないし」
「関係あるわよ! あなたが私の努力を踏みにじったのよ!」
話が、平行線をたどる。
母は、そんな二人の言い合いを、相変わらずにこにこと眺めていた。
「あらあら、若いっていいわねえ。ひびき、ジーナちゃんと、仲良くするのよ。お母さん、これからまた出張に出るから、あとはよろしくね」
母は、そう言うと、スーツケースを手に、玄関へと向かった。
「え、ちょっと、母さん!? あたし、まだ心の準備が!」
「大丈夫よ、ひびきなら、きっとすぐに仲良くなれるわ。ジーナちゃん、ひびきをよろしくね」
「……ええ、まあ、倒すまでは、ここにいるつもりですから」
ジーナは、不敵に笑った。
母は、ひらひらと手を振って、出て行ってしまった。
残されたのは、パジャマ姿のひびきと、スーツケースを抱えたジーナの二人だけ。
リビングに、気まずい沈黙が落ちる。
ひびきは、深いため息をついた。
「……とりあえず、朝ごはん食べる? パンくらいならあるけど」
「……もらうわ」
ジーナは、ぷいっと横を向いたまま、小さく答えた。
二人は、テーブルを挟んで、無言でトーストをかじった。
ひびきは、チラリとジーナの横顔を見た。銀色の髪が、さらさらと揺れている。長いまつげ。白い肌。
……よく見れば、すごく可愛い顔をしている。
いや、そういう問題じゃない。
ひびきは、頭を振って、トーストに齧り付いた。
朝食を終えると、ジーナが、ガタン、と音を立てて立ち上がった。
「さあ、ひびき。勝負よ」
「……は? 勝負って、なにを?」
「決まってるでしょ。アームレスリングよ。一年前の雪辱を、今ここで果たすわ」
ジーナは、テーブルの上に、右腕を突き出した。
その細い腕は、しかし、しなやかな筋肉で覆われている。
ひびきは、げんなりとした顔で、ジーナを見た。
「いや、朝からそれは、ちょっと……」
「逃げるの? あなた、私から逃げるの?」
ジーナが、挑発するように、にやりと笑った。
その笑みに、ひびきの心の奥底で、何かがチリッと音を立てた。
「……分かった。受けて立つよ。ただし、負けても泣かないでよ」
「泣くのはあなたの方よ」
二人は、テーブルを挟んで、がっしりと手を握り合った。
ジーナの手は、小さくて、でも、ごつごつとしていて、硬かった。長年のトレーニングで、手のひらにマメができている。
ひびきは、その手の感触に、少しだけ、ジーナのことを見直した。
「……行くわよ」
「いつでもどうぞ」
ジーナが、気合の雄叫びを上げた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
その瞬間、ジーナの腕に、ありったけの力が込められるのが分かった。
ひびきの腕が、わずかに、外側に押される。
「……あら、結構強いじゃん」
ひびきは、素直に感心した。
一年前より、確実に力がついている。
でも。
「よいしょ」
ひびきは、軽い掛け声とともに、腕に力を込めた。
ガタンッ!
ジーナの腕が、あっけなくテーブルに叩きつけられた。
一瞬の出来事だった。
ジーナは、自分の腕がテーブルに倒れたのを、信じられない、という顔で見つめていた。
「……うそ」
その声は、かすかに震えていた。
「あ、ごめん。ちょっと力入れすぎたかも」
ひびきは、悪びれもなく、手を離した。
ジーナは、しばらく、テーブルに倒れた自分の腕を、じっと見つめていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳には、悔しさと、怒りと、そして、ほんの少しの涙が浮かんでいた。
「……なんで、なんでなのよ。私は、あれから、毎日、毎日、トレーニングしてきたのに。あなたに勝つためだけに、全部、捧げてきたのに」
ジーナの声が、震える。
「なんで、あなたは、そんな、涼しい顔で、私を負かすのよ……!」
ジーナは、拳を握りしめて、テーブルを叩いた。
ダンッ、と、食器が音を立てて跳ねる。
ひびきは、少しだけ、困った顔をした。
「……あんた、毎日トレーニングしてるんだ。すごいね。あたしなんか、週に三回行けばいい方だよ」
「慰めないで! そんなの、余計に惨めになるだけよ!」
ジーナが、声を張り上げた。
ひびきは、ため息をついた。
「慰めてないよ。事実を言っただけ。あんた、あたしよりずっと努力してる。それは、すごいことだよ。でも、あたしは、あたしのやり方で、あんたに勝った。それだけの話じゃん?」
ジーナは、ぐっと唇を噛んだ。
悔しそうに、ひびきを睨みつける。
でも、その瞳からは、先ほどまでの勢いが、少しだけ消えていた。
「……次は、スクワットよ。スクワットで、決着をつけるわ」
ジーナは、そう言って、リビングの床に、すっと腰を下ろした。
ひびきは、もう、何も言わずに、ジーナの隣に並んだ。
二人の、朝のスクワット対決が、始まった。
「一回、二回、三回……」
ジーナが、真剣な顔で、回数を数える。
そのフォームは、とても綺麗だった。背筋がピンと伸びていて、太ももが床と平行になるまで、しっかりと腰を落としている。
ひびきは、その様子を、感心しながら見ていた。
「あんた、フォーム、すごく綺麗だね。教わったの?」
「……モスクワ支部のトレーナーに、厳しく叩き込まれたのよ。当たり前でしょ」
ジーナは、息を切らしながら、そう答えた。
五十回を過ぎたあたりで、ジーナの呼吸が、荒くなってきた。
「はぁ、はぁ……まだ、まだよ……」
額に、汗が浮かんでいる。
ひびきは、隣で、涼しい顔で、スクワットを続けていた。
「あと、百回くらい余裕だよ〜」
「な、なんで、あなたは、そんなに、平気な顔を、してるのよ……!」
ジーナは、悔しそうに、ひびきを睨みつけた。
「なんでって言われても……あたし、昔から、足腰だけは丈夫でさ」
ひびきは、けろりとした顔で、スクワットを続ける。
結局、ジーナが百回で限界を迎えた時点で、ひびきはまだ、二百回を超えても、平気な顔をしていた。
「……また、私の負け、ね」
ジーナは、床に大の字になって、天井を見上げた。
銀色の髪が、汗で額に張り付いている。
ひびきは、そんなジーナの隣に、ちょこんと座った。
「あんた、無理しすぎ。倒れちゃうよ」
「……あなたに、心配される筋合いは、ないわ」
ジーナは、そう言って、横を向いた。
でも、その声は、もう、朝の頃のような、刺々しさはなかった。
ひびきは、冷蔵庫から、スポーツドリンクを二本取り出して、一本をジーナに差し出した。
「はい、これ。飲みなよ。汗かいたでしょ」
「……ありがとう」
ジーナは、小さな声で、お礼を言った。
二人は、しばらく、無言で、スポーツドリンクを飲んだ。
冷たい液体が、火照った体に、染み渡っていく。
「……次は、プロテインよ」
ジーナが、突然、そう言った。
「は? プロテイン?」
「ええ。プロテイン早飲み競争よ。あなたの家に、プロテインはあるんでしょ?」
ジーナが、ひびきの家のキッチンを見渡した。
ひびきは、冷蔵庫の上に置いてある、プロテインの缶を指差した。
「あるにはあるけど……あんた、まだやるの?」
「当たり前でしょ。勝負は、これで、ようやく、一勝一敗よ。決着をつけるわ」
「いや、あんた、二連敗してるんだけど……」
「細かいことは、気にしないのよ!」
ジーナは、そう言って、プロテインの缶を、ひびきからひったくった。
二人は、それぞれ、シェイカーに、プロテインと水を入れて、シャカシャカと振った。
「よーい、スタート!」
ジーナの合図で、二人は、同時に、シェイカーを口に運んだ。
ゴクゴクゴク……
ジーナは、必死の形相で、プロテインを流し込んでいく。
ひびきは、隣で、ゆっくりと、味わうように、プロテインを飲んでいた。
「……ん、このチョコ味、美味しいね」
ひびきは、シェイカーを傾けながら、感想を漏らした。
ジーナは、その余裕ぶりに、さらに焦りを募らせた。
「むぐぐ……! 負けない、負けないんだから……!」
ジーナが、シェイカーを、一気に飲み干した。
「……ぷはっ! やった、飲み干したわ! 私の勝ちよ!」
ジーナは、空になったシェイカーを、掲げて、勝ち誇った。
しかし。
ひびきは、すでに、二杯目のプロテインを、飲み干していた。
「……え?」
ジーナの顔から、笑みが消えた。
「あ、ごめん。あんた、遅かったから、おかわりしちゃった」
ひびきは、空になった二つのシェイカーを、軽く振って見せた。
ジーナは、しばらく、口をパクパクとさせていた。
それから、がっくりと、床に膝をついた。
「……なんで、なんでなのよ。アームレスリングも、スクワットも、プロテインも、全部、あなたが勝つのよ」
ジーナの声は、もはや、泣き声に近かった。
「なんで、あなたは、そんなに強いのに、ダイエットは、できてないのよ……!?」
その言葉に、ひびきの動きが、ピタリと止まった。
図星だった。
「……それは、それ、これは、これ! 関係ないじゃん!」
ひびきは、顔を真っ赤にして、反論した。
ジーナは、床に膝をついたまま、ひびきを、じとっと見上げた。
「……関係、あるわよ。あなた、腕力は、世界最強クラスなのに、どうして、その、お腹のお肉は、落ちないのよ」
「うるさいなあ! あたしだって、気にしてるんだからね! でも、美味しいものは、美味しいんだから、仕方ないでしょ!」
ひびきは、ふん、と、そっぽを向いた。
ジーナは、しばらく、ひびきのことを、じっと見つめていた。
それから、ぷっ、と、吹き出した。
「……なに、それ。意味、分からないわ」
「あんたに、あたしの気持ちが、分かってたまるか!」
二人は、しばらく、にらみ合っていた。
でも、いつの間にか、その空気は、朝のような、ピリピリとしたものではなくなっていた。
ひびきは、ふと、ジーナの様子が、少しだけ、柔らかくなったような気がした。
それから、二人は、リビングのソファに並んで座って、テレビを見た。
といっても、会話は、途切れ途切れだった。
ジーナは、日本のテレビ番組に、興味津々のようだった。
「ねえ、この番組、面白いの?」
「あー、これ? まあ、普通に面白いよ」
「ふーん。日本のテレビって、色が、カラフルね」
「そう? ロシアのテレビは、違うの?」
「ロシアのテレビは、もっと、落ち着いてるわ。ニュースとか、バレエとか、そういうの」
「へえ。バレエ、見るんだ。あんた、バレエとか、やってたの?」
ひびきが聞くと、ジーナは、少しだけ、得意げな顔をした。
「子供の頃、少しだけね。でも、私は、サンボの方が、向いてたわ」
「サンボって、ロシアの格闘技でしょ? すごいじゃん」
ひびきが、素直に感心すると、ジーナは、まんざらでもない顔をした。
「まあ、あなたに、私の強さが、分かるとは思わないけどね」
「はいはい。あんたは、強いよ。でも、あたしの方が、もっと強いけどね」
「……むっ。その余裕、いつか、必ず、打ち砕いてみせるわ」
ジーナは、そう言って、ひびきを睨んだ。
でも、その目は、もう、朝のような、鋭い敵意に満ちた目ではなかった。
ひびきは、なんだか、くすぐったい気持ちになった。
夕方になり、二人は、一緒に、夕食の買い出しに出かけた。
桜ヶ丘駅前商店街は、夕方の買い物客で、賑わっていた。
ジーナは、商店街の様子を、物珍しそうに、キョロキョロと見回していた。
「ここが、日本の商店街……。噂には聞いていたけど、本当に、色んなお店があるのね」
「そうだよ。ここ、桜ヶ丘の商店街は、なんでも揃ってるから、便利なんだよ。あ、あそこのコロッケ、美味しいんだよ。買ってく?」
ひびきは、肉屋の前で、足を止めた。
「コロッケ……。あれが、日本の、コロッケ……」
ジーナは、ショーケースの中の、きつね色に揚がったコロッケを、じっと見つめた。
「食べたことないの?」
「……ないわ。ロシアには、コロッケみたいな料理は、あんまりないのよ」
「じゃあ、食べてみなよ。おごってあげる」
ひびきは、そう言って、コロッケを二つ買った。
「はい、一個あげる」
「……ありがとう」
ジーナは、紙に包まれたコロッケを、恐る恐る、受け取った。
そして、小さく、一口、かじった。
サクッ、と、衣の軽やかな音がした。
ジーナの青い瞳が、大きく見開かれた。
「……おいしい。すごく、おいしいわ」
ジーナは、顔をほころばせて、コロッケを、次々と口に運んだ。
その笑顔は、今日初めて見せる、心からの笑顔だった。
ひびきは、その笑顔を見て、なんだか、嬉しくなった。
「でしょ? ここのコロッケは、桜ヶ丘一なんだよ」
ひびきも、自分のコロッケを、頬張った。
二人は、商店街を歩きながら、コロッケを食べた。
ジーナは、ひびきの家に来てから、初めて、心から、リラックスしているように見えた。
「ねえ、ひびき」
ジーナが、不意に、ひびきの名前を呼んだ。
「なに?」
「ロシアではね、『筋肉は裏切らない』って、よく言うのよ」
ジーナは、真剣な顔で、そう言った。
「あー、それ、シルバーマンジムのモットーでしょ? 創業者の銀山さんが、よく言ってるやつ」
ひびきが言うと、ジーナは、得意げに、胸を張った。
「そう。でも、正確には、『筋肉は、恋人』って、意味なのよ」
ひびきは、耳を疑った。
「……は? 恋人?」
「ええ。だって、筋肉は、あなたを、決して、裏切らない。いつでも、あなたの側にいてくれる。それって、恋人みたいでしょ?」
ジーナは、ドヤ顔で、そう説明した。
ひびきは、しばらく、ジーナの顔を、まじまじと見つめた。
それから、腹を抱えて、笑い出した。
「あはははは! ちょっと、あんた、それ、絶対違うから! 『裏切らない』って、そういう意味じゃないから!」
「な、なにがおかしいのよ! 私の日本語、間違ってないわ!」
ジーナが、顔を真っ赤にして、反論する。
「間違ってるよ! 『裏切らない』ってのは、『期待を裏切らない』とか、『努力は報われる』って意味で、恋人とか、そういうのじゃないから!」
「うそよ! だって、私の日本語の先生が、そう言ってたわ!」
「その先生、絶対、間違ってるよ!」
ひびきは、涙目になりながら、笑い続けた。
ジーナは、むくれた顔で、ひびきを睨んでいたが、やがて、つられて、小さく、笑った。
「……もう、笑わないでよ」
「だって、おかしいんだもん。筋肉は恋人って。あんた、面白すぎるよ」
ひびきは、お腹を押さえながら、笑いをこらえた。
「……面白いって、なによ」
ジーナは、照れ隠しに、そっぽを向いた。
でも、その口元は、ほんの少し、緩んでいた。
「……あんた、面白いね」
ひびきは、素直に、そう言った。
ジーナは、ちらりと、ひびきを見た。
「……あなたも、意外と、悪くないわね」
ジーナは、小さな声で、そう言った。
夕日が、商店街を、オレンジ色に染めていた。
二人の影が、長く、伸びていた。
夜。
ひびきは、リビングで、一人、テレビを見ていた。
ジーナは、二階の客間に、荷物を運び込んでいた。
テレビからは、お笑い番組の賑やかな音が、流れていた。
でも、ひびきの頭の中は、今日一日のことで、いっぱいだった。
朝、突然、現れた銀髪の少女。
アームレスリング。スクワット。プロテイン早飲み。
そして、商店街での、コロッケと、笑い合った時間。
……なんだか、長い一日だった。
ひびきは、ソファに、深く、沈み込んだ。
その時、二階から、かすかに、声が聞こえてきた。
ジーナの声だった。
でも、日本語ではなかった。
ロシア語だった。
ひびきは、テレビの音量を、少しだけ、小さくした。
耳を澄ます。
ジーナの声は、祈るように、静かに、続いていた。
ひびきは、ロシア語は、全く分からなかった。
でも、その声の調子で、なんとなく、分かった。
ジーナは、誰かと、話している。
いや、違う。
独り言だ。
誰かに、語りかけるように、でも、その相手は、ここにはいない。
ひびきは、そっと、ソファから立ち上がった。
階段を、音を立てないように、上っていく。
ジーナの部屋の前で、足を止めた。
ドアの向こうから、ジーナの声が、聞こえてくる。
「……ママ、私は、大丈夫よ。心配しないで」
それは、ロシア語だった。
でも、その中に、日本語の単語が、混ざっていた。
「……一人は、やっぱり、さびしい」
その言葉だけが、はっきりと、ひびきの耳に、届いた。
ひびきは、ドアの前で、立ち尽くした。
胸の奥が、きゅっと、締め付けられるような感覚がした。
ジーナは、寂しかったのだ。
家族から離れて、異国の地で、一人で。
その寂しさを、強がって、隠していたのだ。
ひびきは、今日一日の、ジーナの言動を、思い返した。
勝負を挑んでくる時の、あの鋭い目。
負けて、悔しがる時の、あの泣きそうな顔。
コロッケを食べた時の、あの笑顔。
全部、全部、ジーナの、精一杯の、強がりだったのかもしれない。
ひびきは、ドアをノックしたい衝動に駆られた。
でも、できなかった。
今、ここで、あたしが顔を出したら、ジーナは、きっと、もっと、強がってしまう。
ひびきは、そっと、その場を離れた。
リビングに戻り、ソファに座り直した。
テレビの音が、やけに、遠く聞こえた。
ひびきは、天井を見上げた。
「……ジーナ」
小さく、つぶやいた。
あの子は、あたしに、勝負を挑んでくる。
でも、本当は、寂しくて、寂しくて、仕方ないんだ。
だったら、あたしは、あの子の、何になれるんだろう。
ひびきは、自分の手を、じっと見つめた。
この、異常なまでに強い、腕力。
この力で、あの子の、寂しさを、少しでも、埋めることが、できるだろうか。
答えは、まだ、分からなかった。
でも、一つだけ、分かったことがあった。
あたしは、ジーナと、もっと、仲良くなりたい。
あの、寂しがり屋の、銀髪の少女と。
翌朝。
ひびきが、リビングで、朝食の準備をしていると、二階から、ドタドタと、階段を駆け下りてくる音がした。
「ひびき!」
ジーナが、リビングに、飛び込んできた。
昨日とは、打って変わって、その顔は、生き生きと輝いていた。
「お、おはよう。どうしたの、そんなに、慌てて」
ひびきが、目を丸くして、聞き返す。
ジーナは、ひびきの前に立つと、ぐっと、拳を握りしめた。
「今日こそ、本気で、勝負よ!」
その声は、昨日の、刺々しい声とは、全く違っていた。
まるで、親友に、遊びの約束をするような、そんな、明るい声だった。
ひびきは、昨日の夜、聞いてしまった、ジーナの独り言を、思い出した。
でも、ひびきは、そのことには、触れなかった。
あえて、触れなかった。
ひびきは、にっ、と、八重歯を見せて、笑った。
「おう、受けて立つよ!」
二人の同居生活は、まだ、始まったばかりだった。
ひびきは、ジーナの、意外な一面を、知りつつあった。
そして、ジーナもまた、ひびきの、意外な一面を、知りつつあった。
リビングに、朝の光が、差し込んでいた。
今日も、賑やかな一日が、始まろうとしていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。