ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜
桜ヶ丘の商店街に、今日もひびきの幸せな咀嚼音が響く。肉まんにコロッケ、プロテインにプリン——食欲と筋トレの狭間で揺れる女子高生・紗倉ひびきの日常は、しかしある日を境に大きく動き出す。ジムのトレーナー・街雄の破れたポロシャツから覗く規格外の筋肉にときめきを隠せない日々。そして、プロテインショップでひびきの試飲カップを奪い去った、銀髪の少女。鋭い瞳でひびきを射抜いた彼女の正体は——。「明日から家にお客さんが来る」。母からの突然の電話が、運命の歯車を静かに回し始める。これは、筋肉と食欲と、ほんの少しの恋が織りなす、ひと夏の物語。ジーナ・ボイド、帰還。
ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜 - タッグポージングに涙の花束を~負けても輝いた銀髪と金髪の約束~
朝の光が、リビングのテーブルに置かれたプロテインシェイカーの表面で、きらりと跳ねた。
紗倉ひびきは、トーストをくわえたまま、向かいに座る銀髪の少女をちらりと見た。ジーナ・ボイド。ロシアから来た、負けず嫌いで、でも本当は寂しがり屋の同居人。今日は、シルバーマン杯支部対抗予選の当日だ。
ジーナは、シェイカーを両手で握りしめていた。指先が、ほんの少し、震えている。青い瞳は、テーブルの一点を見つめたまま、動かない。
「ジーナ、それ飲まないの?」
ひびきが声をかけると、ジーナははっと顔を上げた。
「え? あ、飲むわ。今飲むわよ」
ジーナはそう言って、シェイカーを口元に運んだ。だが、手が震えていたせいで、蓋がうまく開かない。何度か力を入れた後、ようやく蓋が外れた瞬間——
どろり。
バニラ味のプロテインが、ジーナの白いシャツの胸元に、派手に飛び散った。
「……あ」
ジーナが、固まった。青い瞳が、ゆっくりと、自分のシャツに落ちたシミを見つめる。白い生地に、黄色がかった染みが、じわじわと広がっていく。
「あはは! ジーナ、何やってんの!」
ひびきが、腹を抱えて笑った。八重歯が見える。その笑い声が、静かだったリビングに、ぱっと明かりを灯した。
「わ、笑わないでよ! これは、その……緊張で手が滑っただけで……」
ジーナが、耳まで真っ赤にして反論する。その様子がおかしくて、ひびきはますます笑った。
「だって、プロテインが胸にどばーって! やばたん、写真撮っとこうかな」
「撮らないで! 消しなさい! 今すぐ消しなさい!」
ジーナが、タオルを掴んで、シャツをごしごし拭き始める。でも、染みは広がるばかり。その必死な様子に、ひびきは笑いすぎて、涙まで出てきた。
「あー、お腹痛い。ジーナ、着替えよう。あたしの貸すから」
ひびきが、ようやく笑いを収めて言った。
「……悪いわね」
ジーナが、まだ耳を赤くしたまま、小さくうつむいた。
「いいっていいって。ほら、これとかどう? ちょっと派手だけど」
ひびきが、自分の部屋から持ってきたのは、ピンク色のTシャツだった。胸元に大きなリボンのプリント。ジーナは、そのシャツをじっと見て、それから、ひびきの顔を見た。
「……これ、あなたの?」
「そうだよ。あたしのお気に入り」
「これを、私に?」
「いいよ。今日は特別な日だし」
ジーナは、少し迷ってから、そのシャツを受け取った。ぎゅっと、胸に抱きしめる。
「……ありがとう」
その声は、さっきまでと違って、とても小さくて、柔らかかった。
ひびきは、ジーナの銀色の髪を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「いいって。さ、着替えて。会場、結構早く行きたいし」
ジーナが、こくりと頷いた。
◆
シルバーマンジム桜ヶ丘店の特設ステージは、三階のフリーウェイトエリアに設けられていた。普段はダンベルやバーベルが並ぶ場所に、今日は赤いカーペットが敷かれ、スポットライトが何本も設置されている。
会場には、予想以上の観客が集まっていた。会員たち、その家族、近所の住民。中には、皇桜女学院の生徒たちの姿もある。みんな、手作りの応援ボードを持っていた。
「ひびきー! ジーナちゃーん!」
人混みの中から、茶髪のお団子が跳ねた。彩也香だ。隣には、黒い長いストレートの髪をなびかせた奏流院朱美もいる。
「彩也香! 朱美さん! 来てくれたんだ!」
ひびきが、二人の元へ駆け寄った。
「当たり前でしょ。親友の晴れ舞台だもん」
彩也香が、にこっと笑った。その手には、小さな花束が握られている。
「わたくしも、楽しみにしておりますわ。お二人の筋肉が、どのように輝くのかを」
朱美が、切れ長の黒い瞳をきらきらさせながら言った。左手首の高級腕時計が、スポットライトの光を反射する。
「朱美さん、今日はいつにも増して気合入ってるね……」
彩也香が、少し引き気味に呟いた。
「当たり前ですわ。今日は、筋肉の祭典。わたくしの心は、すでに踊り狂っておりますのよ」
朱美が、両手を胸の前で組んで、うっとりとした表情を浮かべる。その姿に、ひびきは思わず笑ってしまった。
「あはは、朱美さんらしいや」
その時、会場の空気が、ふっと冷たくなった。
ひびきは、振り返った。
観客席の最前列に、銀色の髪をなびかせた女が立っていた。ヴィクトリア。モスクワ支部から来た、エリートトレーナー。身長175センチの、鍛え上げられた体。冷たい美貌。その隣には、同じく筋肉質な女性が一人。ヴィクトリアのタッグパートナーだ。
ヴィクトリアは、ひびきとジーナの方を、じっと見ていた。その口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「……ジーナ」
ひびきが、隣に立つジーナの手を、ぎゅっと握った。ジーナの手は、氷のように冷たかった。
「大丈夫。あたしたちのペースでいこう」
ひびきが、ジーナの耳元で、小さく、でもはっきりと言った。
ジーナは、ひびきの顔を見上げた。青い瞳が、揺れている。
「……ええ」
ジーナが、小さく頷いた。その手に、ほんの少しだけ、力が戻る。
◆
第一種目は、タッグデッドリフト。二人で一本のバーベルを握り、同時に持ち上げる競技だ。
ステージの中央に、バーベルが置かれた。プレートが何枚も重なっている。あの重さは、おそらく、二人合わせての自己ベストを超える重量。
ジーナが、バーベルの前に立った。銀色の髪が、スポットライトの下で、さらさらと光る。
「……ひびき」
ジーナが、小さく呟いた。
「なに?」
「私、震えてる。手が、震えてるの」
ジーナが、自分の右手を見つめた。指先が、小刻みに震えている。
「うん、知ってる」
ひびきが、静かに言った。
「知ってるの?」
「知ってるよ。だって、あたしも震えてるもん」
ひびきが、自分の手を、ジーナの目の前に差し出した。その指先も、ほんの少し、震えていた。
ジーナが、目を丸くした。
「あなたも?」
「当たり前じゃん。こんな大舞台、緊張しないわけないっしょ。でもさ」
ひびきが、ジーナの手を、両手で包み込んだ。
「二人で震えてれば、ちょうどいいじゃん。お互いの震え、打ち消し合えるよ」
ひびきが、にっと笑った。八重歯が、きらりと光る。
ジーナは、ひびきの笑顔を、じっと見つめた。それから、ふっと、小さく笑った。
「……あなたって、本当に、変な人ね」
「よく言われる」
二人は、バーベルの前に立った。ひびきが右、ジーナが左。二人の手が、同時に、バーベルに触れた。
「せーの」
ひびきの声。
二人の呼吸が、ぴたりと重なった。
ぐっ、と、バーベルが持ち上がる。足が、床を踏みしめる。背中が、まっすぐに伸びる。汗が、二人の額から、同時に飛び散った。
「——上がった!」
彩也香の声が、会場に響いた。
どおおおっ!
観客席から、大きな拍手が沸き起こった。
ひびきとジーナは、バーベルをゆっくりと床に下ろした。金属が、カツン、と音を立てる。
「やった……やったわ!」
ジーナが、自分の手を、何度も見つめた。震えが、もう止まっている。
「やったね、ジーナ!」
ひびきが、ジーナの背中を、ばしんと叩いた。
「痛いわよ!」
ジーナが、怒ったように言った。でも、その口元は、笑っていた。
◆
第二種目は、チームワークチャレンジ。二人で協力して、重いサンドバッグを、ステージの端から端まで運ぶ競技だ。制限時間内に、どれだけ多くのバッグを運べるかがポイントになる。
「ジーナ、あたしが前持つから、あんたは後ろ。リズム合わせよ」
「わかったわ」
二人は、一つのサンドバッグを、前後から抱え上げた。ずしり、と重い。
「いっせーのーで!」
ひびきの掛け声で、二人は走り出す。足並みが、ぴたりと揃う。右、左、右、左。
「ナイス、ジーナ! その調子!」
「ええ、あなたもね!」
バッグを置く。すぐに、次のバッグへ。息が切れる。でも、二人の動きは、どんどん滑らかになっていく。
「すごい……あの二人、完璧に息が合ってる」
彩也香が、感心したように呟いた。
「ええ。あれは、一朝一夕で作れるものではありませんわ。日々の積み重ね。まさに、筋肉と信頼の結晶ですわ」
朱美が、熱っぽく言った。
三つ目のバッグを運び終えた時、ジーナの足が、ふらりと揺れた。
「あっ」
ジーナが、バランスを崩す。サンドバッグが、ぐらりと傾いた。
「ジーナ!」
ひびきが、とっさに手を伸ばした。ジーナの腰を、片手でしっかりと支える。もう片方の手で、傾いたバッグを押さえ込む。
「大丈夫!?」
「……ええ、ごめんなさい」
「謝んないの! ほら、最後まで!」
ひびきが、にっと笑った。
「ナイスジーナ! あとちょっと!」
その声に、ジーナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ええ!」
二人は、最後のバッグを、ステージの端に置いた。
観客席から、温かい声援が飛んだ。
「がんばれー!」「すごいぞー!」「ナイスコンビ!」
ひびきとジーナは、顔を見合わせて、笑った。
◆
そして、最終種目。タッグポージング対決。
二人で、決められた時間内に、息の合ったポージングを披露する競技だ。筋肉の美しさ、表現力、そして、何より二人の一体感が問われる。
ステージの照明が、落とされた。暗闇の中、スポットライトが、ゆっくりと、ステージの中央に立つ二人を照らし出す。
ジーナの顔が、真っ青だった。
「ひ、ひびき……」
ジーナの声が、震えている。
「うん?」
「私、ダメかもしれない。足が、動かない。みんなの目が、こわい……」
ジーナが、うつむいた。銀色の髪が、顔にかかる。
ひびきは、ジーナの肩を、ぎゅっと抱き寄せた。
「大丈夫。あたしがついてる」
ひびきが、ジーナの耳元で、囁いた。
「あたしが、ずっと、隣にいる。だから、一人じゃないよ」
ジーナの体から、ふっと、力が抜けた。
「……あなたが、隣にいるのね」
「うん。ずっと」
「……それなら、大丈夫」
ジーナが、顔を上げた。青い瞳が、スポットライトの光を浴びて、きらきらと輝いている。
「行こう、ひびき。私、あなたと一緒に、最高のポーズを見せるわ」
ジーナが、ひびきの手を、強く握った。
「おっしゃ! 見せたれ!」
音楽が、流れ始めた。
二人は、同時に、一歩前に出た。
右腕を上げる。左腕を曲げる。筋肉が、スポットライトの下で、くっきりと浮かび上がる。
ひびきが、ジーナの背中に手を当てる。ジーナが、ひびきの肩に手を置く。二人の体が、ぴたりと寄り添う。
次のポーズ。二人は、背中合わせになった。互いの背中で、互いを支え合う。
そして、最後のポーズ。
二人は、正面を向き、腕を組んだ。ひびきの右腕と、ジーナの左腕が、がっしりと絡み合う。二人の笑顔が、スポットライトの下で、最高に輝いた。
どおおおおおおっ!
会場が、割れんばかりの大喝采に包まれた。
「ひびきー! ジーナちゃーん! 最高ー!」
彩也香が、飛び跳ねながら叫んでいる。
「なんて……なんて美しい筋肉の調和……! わたくし、もう……!」
朱美が、ハンカチで目頭を押さえていた。
ひびきとジーナは、ポーズを解き、互いの顔を見た。
二人とも、汗だくで、息も絶え絶えだった。
でも、二人とも、笑っていた。
◆
結果発表。
ステージに、全ての出場ペアが集まった。ひびきとジーナ、ヴィクトリアとそのパートナー、そして、他の出場者たち。
司会者が、マイクを握った。
「それでは、結果を発表します。第三位……桜ヶ丘支部、佐藤・鈴木ペア!」
拍手。
「第二位……」
ひびきは、ジーナの手を握った。ジーナも、握り返してきた。
「第二位……桜ヶ丘支部、紗倉・ボイドペア!」
どおっ、と、会場から大きな拍手が起こった。
「二位だって! ジーナ、二位だよ!」
ひびきが、ジーナに抱きついた。
「ええ、二位ね……」
ジーナが、少しだけ、悔しそうに笑った。
「そして、優勝は……モスクワ支部、ヴィクトリア・ペア!」
会場の拍手は、少しだけ、小さくなった。それでも、ヴィクトリアは、冷たい笑みを浮かべたまま、ステージの中央に歩み出た。
しかし、その時だった。
「待って!」
観客席から、一人の男性が立ち上がった。審査員の一人だ。
「私たち審査員は、得点だけでなく、会場の反応も含めて、総合的に判断しました。確かに、ヴィクトリア・ペアの筋肉は、完璧でした。しかし——」
審査員が、ひびきとジーナの方を向いた。
「紗倉・ボイドペアの、あの笑顔。あの一体感。観客の心を、これほどまでに動かしたペアは、今日、他にいませんでした。筋肉の美しさとは、数値だけでは測れないものです」
会場が、しんと静まった。
「今日のベストパフォーマンスは、間違いなく、紗倉・ボイドペアです」
どおおおおおっ!
さっきよりも、もっと大きな拍手が、会場を包んだ。
「ひびき……私たち、私たち……」
ジーナの青い瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「うん。あたしたち、最高のチームだよ」
ひびきも、涙をぬぐった。
ヴィクトリアは、優勝トロフィーを受け取ったが、その顔には、勝利の喜びはなかった。彼女は、拍手を送る観客たちと、涙を流すひびきとジーナを、じっと見つめていた。その冷たい美貌の奥で、何かが、複雑に揺れているようだった。
◆
予選終了後、控え室の前で、ひびきとジーナは、彩也香と朱美に迎えられた。
「二人とも、お疲れ様! 最高だったよ!」
彩也香が、花束をジーナに手渡した。
「ジーナちゃん、これ。ひびきと半分こしてね」
「……ありがとう、彩也香」
ジーナが、花束を受け取った。ピンクと白の花が、ジーナの銀色の髪と、ひびきの金髪の間に、きらきらと輝いた。
「お二人の筋肉、わたくし、一生忘れませんわ。特に、最後のポーズ。あの背中合わせの瞬間、わたくしの心臓は、確実に止まりましたもの」
朱美が、うっとりとした表情で言った。
「朱美さん、心臓止まっちゃダメでしょ……」
彩也香が、呆れたように言った。
「あはは、朱美さん、元気そうで何より」
ひびきが、笑った。
その時、ジーナが、ひびきの方を向いた。
「ひびき」
ジーナの声が、真剣だった。
「ん?」
「今日、私、あなたが隣にいてくれて、本当に、本当に嬉しかった。一人じゃないって、初めて、心から思えたの」
ジーナが、花束を胸に抱きしめながら、ひびきの目を、まっすぐに見つめた。
「ありがとう、ひびき。私、あなたと出会えて、よかった」
ジーナが、初めて、素直に、感謝の言葉を口にした。
ひびきは、一瞬、きょとんとした。
それから、照れくさそうに、鼻の下をこすった。
「……なんだよ、急に。照れるじゃん」
「だって、言いたくなったんだもの」
ジーナが、ふふっと笑った。
「……あたしもだよ。ジーナがいてくれて、あたしも、すごく楽しかった。だから、次は、絶対に勝つからね!」
ひびきが、右手を差し出した。
ジーナは、その手を見て、少し迷ってから、自分の右手を、ひびきの手に重ねた。
パチン。
二人は、心からの笑顔で、ハイタッチを交わした。
その音は、控え室の前の廊下に、とても澄んで響いた。
◆
その夜。
ひびきは、自宅のリビングで、一人、スマホを眺めていた。
ジーナは、先に部屋に戻っていた。今日の疲れで、すぐに眠ってしまったらしい。
ひびきのスマホに、一通のメッセージが届いた。
差出人は、ヴィクトリア。
『シルバーマン杯本戦、モスクワ支部からも出場者が来るわ。あんたたちが本当に強いか、そこで証明してみなさい』
ひびきは、そのメッセージを、じっと見つめた。
「本戦……モスクワ支部からも……」
ひびきが、小さく呟いた。
その時、別の通知が、スマホに届いた。
彩也香からのメッセージだった。
『ねえ、ひびき。ジーナちゃんのお父さん、モスクワから来日するって噂、聞いた? ジムの掲示板に、そんな書き込みがあったよ』
ひびきは、スマホを握りしめた。
ジーナの父。モスクワ支部の支部長。ジーナが、ずっと認められたいと願ってきた相手。
「ジーナのお父さんが、日本に……」
ひびきの胸の奥で、何かが、静かに、しかし確実に、動き始めた。
(モスクワから、本戦の出場者。そして、ジーナのお父さん)
(何かが、始まる)
ひびきは、窓の外を見た。
夜の空に、月が、静かに浮かんでいた。
その月明かりが、リビングのテーブルに置かれた、ジーナの花束を、そっと照らしていた。
花びらの間で、ピンクと白が、ひっそりと、しかし確かに、輝いていた。Noveliaとは?
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