ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜
桜ヶ丘の商店街に、今日もひびきの幸せな咀嚼音が響く。肉まんにコロッケ、プロテインにプリン——食欲と筋トレの狭間で揺れる女子高生・紗倉ひびきの日常は、しかしある日を境に大きく動き出す。ジムのトレーナー・街雄の破れたポロシャツから覗く規格外の筋肉にときめきを隠せない日々。そして、プロテインショップでひびきの試飲カップを奪い去った、銀髪の少女。鋭い瞳でひびきを射抜いた彼女の正体は——。「明日から家にお客さんが来る」。母からの突然の電話が、運命の歯車を静かに回し始める。これは、筋肉と食欲と、ほんの少しの恋が織りなす、ひと夏の物語。ジーナ・ボイド、帰還。
ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜 - ベンチプレスに涙して~ふたりで挙げる初めてのバーベル~
朝のリビングに、トーストの焼ける匂いが漂っていた。
紗倉ひびきは、キッチンに立って目玉焼きをフライパンで転がしながら、あくびをひとつ。昨夜はなかなか寝つけなかった。隣の部屋から聞こえてきたジーナの寝言——「まけない……わよ……」という、やけに気合の入った声が、耳に残っている。
「ジーナ、朝ごはんできたよ〜」
ひびきが呼びかけると、二階からドタドタと階段を駆け下りてくる音。銀色のボブヘアーを揺らしながら、ジーナ・ボイドがリビングに飛び込んできた。白いパジャマ姿。青い瞳はもう完全に覚めている。
「おはよう、ひびき。今日こそ、勝負よ」
「おはよう、ジーナ。朝から元気だね〜」
ジーナはテーブルに着くなり、フォークを握りしめて目玉焼きを睨みつけた。まるでそれが敵であるかのように。ひびきは苦笑しながら、トーストをかじる。
居候生活も三日目。ジーナのこの勢いには、もう慣れた。いや、慣れたというより、むしろ朝から賑やかで楽しいとさえ思うようになっていた。一人暮らしが長かったひびきにとって、誰かと朝食を食べる時間は、それだけで特別だった。
「ねえ、ジーナ。今日、ジム行かない?」
ひびきがトーストを飲み込みながら言うと、ジーナの手が止まった。
「……ジム?」
「そう。シルバーマンジム。あたしがいつも通ってるとこ。今日は本格トレーニングの日なんだよね」
ジーナは少しだけ目を伏せた。フォークを置いて、指先でテーブルの端をなぞる。
「私、モスクワでは……一人でトレーニングしてたから。ジムに行くのは、久しぶりだわ」
その声は、いつもの勝気な調子とは少し違っていた。ひびきは、ジーナのそんな様子をじっと見つめる。強がりなこの子が、ほんの少しだけ不安そうに見えた。
「大丈夫だよ! あたしがついてるし。街雄さんってトレーナーもいるし。すっごい楽しいから!」
ひびきが八重歯を見せて笑うと、ジーナは顔を上げた。その青い瞳に、少しだけ光が戻る。
「……分かったわ。行くわよ」
「よっしゃ! じゃあ急いで準備しよ!」
ひびきは立ち上がって、自分の部屋へ向かった。その後ろ姿を見ながら、ジーナは小さく息を吐く。
(大丈夫。私、一人でやってきたんだもの)
ジーナは心の中でそう呟いて、パジャマの裾をぎゅっと握った。
◆
午前九時。桜ヶ丘駅前は、朝の通勤ラッシュが過ぎて少し落ち着いた空気に包まれていた。
駅から徒歩五分。ガラス張りの三階建ての建物が、朝日を反射して銀色に輝いている。入り口の上には、銀色のロゴ——「シルバーマンジム」の文字。全国に47店舗、海外に12店舗を展開する高級フィットネスクラブチェーン。桜ヶ丘店は会員数約八百人を誇る、ひびきにとってのホームジムだ。
「ここが、シルバーマンジム桜ヶ丘店だよ」
ひびきが振り返って言うと、ジーナは建物を見上げたまま、ぴくりとも動かなかった。
「……大きいわね。モスクワの支部より、ずっと」
「そう? まあ、設備はすごいらしいよ。あたしはよく分かんないけど」
ひびきは自動ドアをくぐった。ジーナも、少し遅れて後を追う。
中に入ると、ひんやりとした空気と、ほのかな消毒液の匂い。受付の女性が笑顔で頭を下げる。壁には「筋肉は裏切らない」という創業者の言葉が、額縁に入って飾られていた。
「いらっしゃいませ、ひびきさん。今日はお連れ様がいらっしゃるんですね」
「あ、はい。この子、ジーナって言います。今日、体験で」
ひびきが言うと、受付の女性はにこやかにジーナへ視線を向けた。ジーナは、むすっとした顔のまま、小さく会釈をする。
「ジーナ・ボイドです。よろしくお願いします」
「まあ、お綺麗な方。ロシアの方ですか?」
「ええ、まあ」
ジーナはそっけなく答えて、ひびきの背中に隠れるように立った。ひびきは、そんなジーナの様子に気づいて、受付に手を振る。
「じゃあ、着替えてきますね〜」
二人はロッカールームへ向かった。ジーナは、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いている。その瞳には、好奇心と緊張が混ざっていた。
◆
トレーニングフロアに上がると、すでに数人の会員が汗を流していた。金属のぶつかる音、荒い呼吸、トレッドミルのモーター音。ジーナは、その空気に包まれた瞬間、足を止めた。
「……懐かしい匂いだわ」
ジーナがぽつりと呟く。ひびきは、その横顔をちらりと見た。
「ジーナ、こっちこっち。街雄さん、今日いるかな〜」
ひびきが声を弾ませて歩き出す。その時だった。
「お、ひびきちゃん。今日も元気そうだね」
爽やかな声が、フロアの奥から聞こえてきた。
振り返ると、白いポロシャツを着た細身の男性が立っている。柔らかい笑顔に、優しい目元。まるでモデルのような爽やかイケメン。シルバーマンジムのトレーナー、街雄鳴造だ。
「街雄さん! おはようございます!」
ひびきは、ぱっと顔を輝かせて駆け寄った。無意識に髪をいじる。街雄の前だと、いつもこうだ。
「おはよう。今日はお友達と一緒?」
街雄が、ひびきの後ろに立つジーナに目を向けた。
「あ、はい。この子、ジーナ・ボイド。ロシアから来たんです。モスクワ支部にいたんですよ」
ひびきが紹介すると、街雄は目を丸くした。
「へえ、モスクワ支部! あそこはすごいところだよ。世界大会の優勝者も何人も出てる名門だ」
街雄は、ジーナに向かって微笑んだ。
「初めまして、ジーナさん。俺は街雄鳴造。ここのトレーナーをしてるよ。よろしくね」
ジーナは、街雄の顔をじっと見上げていた。
「……初めまして」
その声は、いつもより小さかった。
(なに、この人。顔はすごく優しそうなのに)
ジーナは、街雄の首から下に視線を落とした。白いポロシャツの下に、何かが、ある。
(……首から下が、おかしいわ)
「それじゃあ、初めての方もいるし、まずはフォームから見ていこうか」
街雄は、そう言って、にこりと笑った。
そして、何の前触れもなく、ポージングを始めた。
「まずは、胸の筋肉を意識して——」
ビリッ。
ポロシャツの胸元が、音を立てて裂けた。
「えっ」
ジーナの口から、素っ頓狂な声が漏れた。
裂けた布の下から現れたのは、常識を超えた筋肉の塊。胸筋は鎧のように盛り上がり、肩は丸太のように太い。さっきまでの細身の爽やかイケメンは、首から下だけ別の生き物になっていた。
「な、なんで服が破れるの!?」
ジーナが叫ぶように言うと、ひびきは隣で苦笑いを浮かべた。
「それが街雄さんなんだよ〜。いつものことだから、気にしない気にしない」
「いつものこと!? この筋肉、いつものことなの!?」
ジーナは目を白黒させながら、街雄の腕を凝視した。その太さは、ジーナの太ももより太い。
「あはは、よく言われるよ。でも、筋肉は正直だから、服が追いつかないんだ」
街雄は爽やかに笑いながら、さらにポージングを続けた。背中を広げ、腕を曲げ、腹筋を割る。そのたびに、残った布がビリビリと音を立てて裂けていく。
「……日本のジムは、すごいわね」
ジーナは、呆然と呟いた。
(モスクワには、こんな人はいなかったわ)
その時、ジーナは気づいた。自分の体から、緊張が少しだけ抜けていることに。
(……なんだか、力が抜けるわ)
ジーナは、破れたシャツを気にせずポージングを続ける街雄と、それを慣れた様子で見ているひびきの姿を見て、小さく笑った。
◆
「それじゃあ、今日はベンチプレスをやってみようか」
街雄は、フリーウェイトエリアにあるベンチプレスの台を指さした。ジーナは、その台をじっと見つめる。
「ベンチプレス……やったことある?」
「……あります。モスクワで、少しだけ」
ジーナは、そう答えたが、その声には自信がなかった。
(本当は、ほとんどやったことないのよ)
モスクワ支部には、機材が少なかった。ジーナが主にやっていたのは、自重トレーニングと、反動を使ったサンボの練習。バーベルを使った本格的なトレーニングは、数えるほどしか経験がなかった。
「じゃあ、まずはフォームから覚えようか。ラックの高さ、合ってる?」
街雄が尋ねると、ジーナは困ったように首をかしげた。
「ラックの……高さ?」
「バーベルを置く台の高さだよ。腕を伸ばした状態で、ちょうどバーに手が届くくらいが理想なんだ」
街雄は、ラックの高さを調整しながら説明する。ジーナは、その手元をじっと見つめていた。
「……私、一人でやったことしかなくて。ラックの高さなんて、考えたこともなかったわ」
ジーナの声が、少しだけ震える。
「大丈夫。最初はみんな、そんなものだよ。一緒に覚えていこう」
街雄は、優しく微笑んだ。ジーナは、その笑顔に、ほんの少しだけ救われた気がした。
「じゃあ、まずはバーに寝転がってみよう。肩甲骨を寄せて、胸を張る。足はしっかり床につけて」
ジーナは、言われた通りにベンチに横たわった。天井の照明が、まぶしく見える。
「バーを握る位置は、肩幅より少し広め。手首をまっすぐに」
ジーナは、バーを握った。冷たい金属の感触が、手のひらに伝わる。
「……これで、合ってる?」
「うん、いいね。じゃあ、ラックから外して、ゆっくり下ろしてみよう」
ジーナは、腕に力を込めてバーを持ち上げた。ラックから外す。
ずしり、と重い。
(重い……これ、何キロ?)
「今は20キロ。バーだけの重さだよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫……です」
ジーナは、必死にバーを支えながら、ゆっくりと下ろしていく。しかし、フォームが崩れていた。肩が前に出て、手首が曲がっている。
「あ、ちょっと待って。手首が曲がってる。まっすぐに——」
街雄が声をかけた瞬間、ジーナの右腕が、がくんと沈んだ。
「——っ!」
バーが、ジーナの胸に迫る。
(重い! 持ち上がらない!)
ジーナの顔から、血の気が引いた。
「ジーナさん!」
街雄が駆け寄ろうとした。しかし、その前に——
「大丈夫! あたしが支える!」
ひびきが、ベンチの後ろに回り込んでいた。
ひびきは、ジーナの頭の上からバーを両手で掴むと、ぐっと持ち上げた。
「えっ……ひびき?」
「あたしが補助に入るよ。ジーナ、息を合わせて! せーの!」
ひびきの声が、ジーナの耳に飛び込んでくる。
「せーの!」
ジーナは、反射的に腕に力を込めた。
二人の息が、重なる。
「——んっ!」
「——よいしょっ!」
バーが、ゆっくりと上がっていく。
ジーナの腕と、ひびきの腕。二人の力が、一本のバーに集まっていく。
「もう少し! ラックまで!」
「……っ!」
ガシャン、と音がして、バーがラックに収まった。
ジーナは、ベンチに横たわったまま、天井を見上げていた。胸が激しく上下している。呼吸が荒い。
「……はあ、はあ」
「大丈夫? ジーナ」
ひびきが、心配そうに顔を覗き込む。
ジーナの視界に、ひびきの金髪が映った。その向こうに、ジムの天井の照明。
(……ああ、そうか)
ジーナは、ぼんやりと思った。
(誰かと一緒に、バーベルを持ち上げたの、初めてだ)
その瞬間、ジーナの目から、涙がこぼれた。
「えっ!? ジーナ、どうしたの!? どこか痛い!?」
ひびきが、慌ててジーナの肩に触れる。
ジーナは、首を横に振った。
「ち、違うの……痛くないの……」
声が震える。涙が、止まらない。
「モスクワでは……機材が少なくて。誰かと一緒にトレーニングしたこと、なかったの」
ジーナは、涙を拭おうともせずに、言葉を続けた。
「一人で、黙々とやってた。誰かに補助してもらうの、初めてで……なんだか、嬉しくて」
ジーナの声は、最後の方は消え入りそうだった。
ひびきは、ジーナの言葉を、黙って聞いていた。
(この子、ずっと一人だったんだ)
ひびきの胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
「……ジーナ」
ひびきは、ジーナの頭に、そっと手を置いた。
銀色の髪が、指の間からこぼれる。
「じゃあ、これからは、あたしが補助するよ。明日も、一緒にやろ!」
ひびきは、八重歯を見せて、にっこりと笑った。
ジーナは、涙で濡れた顔のまま、ひびきを見上げた。
(……この笑顔、ずるいわ)
ジーナは、そう思った。
(こんな笑顔を見せられたら、断れないじゃない)
ジーナは、小さく、こくりと頷いた。
「……ええ。明日も、一緒に」
その声は、涙で震えていたけれど、確かに、笑っていた。
◆
トレーニングを終えた二人は、ジムのロッカールームで着替えていた。
ひびきは、汗で濡れたタンクトップを脱いで、スポーツタオルで体を拭く。隣では、ジーナが銀色の髪をまとめ直している。
「いや〜、今日はいい汗かいたね〜」
「ええ。……あなたの補助、意外と頼りになったわ」
ジーナが、横目でひびきを見ながら言う。
「でしょ〜? あたし、腕力だけは自信あるんだよね」
ひびきが笑うと、ジーナは、ふん、と鼻を鳴らした。
「調子に乗らないで。私が本気を出したら、あなたなんて——」
ジーナが言いかけた時、ロッカールームの外から、誰かの話し声が聞こえてきた。
「おい、見たか? 掲示板」
「ああ、シルバーマン杯の予選だろ。今年も熱いな」
ひびきとジーナは、顔を見合わせた。
「シルバーマン杯……?」
ジーナの表情が、少しだけ曇った。
「なにそれ? あたし、知らないんだけど」
ひびきが首をかしげると、ジーナは、言いにくそうに口を開いた。
「シルバーマンジムの、支部対抗の大会よ。年に二回、各支部の代表が集まって、筋力を競うの。優勝者には『シルバーマスター』の称号が与えられる……そういう大会だわ」
「へえ、すごいじゃん。ジーナ、詳しいんだね」
「……モスクワ支部では、みんな、この大会を目指してたから」
ジーナの声が、急に小さくなった。
着替えを終えた二人は、ロッカールームを出た。受付の横にある掲示板の前を、通りかかる。
ジーナの足が、止まった。
掲示板には、大きなポスターが貼られていた。
『シルバーマン杯 支部対抗予選 参加者募集!』
その下に、太い文字で書かれている。
『優勝者には、モスクワ支部への遠征権を授与』
ジーナの顔から、表情が消えた。
「……モスクワ」
ジーナは、ポスターをじっと見つめたまま、動かない。青い瞳が、文字をなぞる。
「ジーナ? どうしたの?」
ひびきが声をかけると、ジーナは、はっとしたように振り返った。
「な、なんでもないわ」
ジーナは、無理やり笑顔を作った。でも、その笑顔は、明らかに引きつっていた。
「……本当に? 顔色、悪いよ?」
「大丈夫よ。さあ、帰りましょう」
ジーナは、ひびきの手を引っ張るようにして、ジムの出口へ向かった。
ひびきは、振り返って、もう一度掲示板を見た。
(シルバーマン杯……モスクワ支部への遠征権)
ひびきの胸に、小さな引っかかりが残った。
◆
帰り道。夕方の商店街は、買い物客で賑わっていた。
ひびきとジーナは、並んで歩いている。ジーナは、さっきからずっと黙っていた。
「……ジーナ、本当に大丈夫? さっきから元気ないよ」
ひびきが、ジーナの顔を覗き込む。
ジーナは、少し迷ってから、口を開いた。
「ひびき」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
ジーナは、前を向いたまま、小さく言った。
「私、初めて誰かと一緒にトレーニングして、楽しいって思った。……あなたが補助してくれたから」
ジーナの声は、夕暮れの空気に溶けていく。
ひびきは、ジーナの横顔を見つめた。
銀色の髪が、夕日に照らされて、オレンジ色に輝いている。
(ジーナ、今、素直にありがとうって言った)
ひびきの胸が、じんわりと温かくなった。
「……どういたしまして」
ひびきは、照れくさそうに笑った。
「あたしも、ジーナと一緒にトレーニングできて、楽しかったよ。また明日も、やろ?」
「……ええ」
ジーナは、小さく頷いた。
その横顔には、さっきまでの強張りはなく、少しだけ柔らかな表情が戻っていた。
◆
夜。ひびきの家。
ジーナが風呂に入っている間、ひびきはリビングのソファでテレビを見ていた。バラエティ番組の笑い声が、部屋に響く。
(今日は、いい一日だったな)
ひびきは、天井を見上げて、ぼんやりと思った。
ジーナが、あんなに嬉しそうに笑うなんて。ベンチプレスで涙を見せた時は、本当に驚いた。
(ジーナ、寂しかったんだな)
ひびきは、昨日の夜、ジーナの部屋から聞こえてきた独り言を思い出した。
『……一人は、やっぱり、さびしい』
あの言葉が、今日のジーナの涙と重なる。
(あたしにできること、もっとあるかな)
ひびきが考えていると、テーブルの上で、スマホが震えた。
ぶぶぶ、ぶぶぶ。
ひびきのスマホではない。ジーナのスマホだ。
画面を見ると、『お父さん』と表示されている。
「ジーナ、電話だよ〜」
ひびきは、風呂場に向かって声をかけた。でも、シャワーの音で聞こえないらしい。
ぶぶぶ、ぶぶぶ。
スマホは、震え続けている。
「……出たほうがいいのかな。でも、勝手に出るのもなあ」
ひびきは、スマホを手に取って、画面を見つめた。
『お父さん』
(ジーナのお父さんか。モスクワにいるんだよね)
ひびきは、スマホをテーブルに戻した。
震えが、止まった。
着信が切れたのだ。
◆
しばらくして、風呂から上がったジーナが、バスタオルで銀色の髪を拭きながらリビングにやってきた。
「ひびき、お風呂、ありがとう」
「おう。あ、そうだ。ジーナ、さっきお父さんから電話来てたよ」
ひびきが言った瞬間、ジーナの手が止まった。
「……お父さん?」
ジーナの顔色が、さっと変わる。
「うん。『お父さん』って表示だった。出なかったみたいだけど」
ジーナは、バスタオルを握りしめたまま、黙り込んだ。
「……あとで、かけ直すわ」
ジーナは、小さく呟いて、自分のスマホを手に取った。
「ありがとう、教えてくれて」
そう言って、ジーナは二階の自室へ上がっていった。
ひびきは、ジーナの後ろ姿を見送りながら、首をかしげた。
(お父さんからの電話、嬉しくないのかな)
ジーナのあの表情。
今日、ジムの掲示板でポスターを見た時と同じ。
何かを、隠している。
何かを、恐れている。
ひびきは、テレビを消して、ソファに深く座り直した。
(……まあ、あたしにできるのは、見守ることくらいか)
ひびきは、そう自分に言い聞かせた。
でも、胸の奥に、小さなもやもやが残った。
◆
深夜。
家の中が、静寂に包まれる。
ジーナは、自室のベッドに腰掛けて、スマホを握りしめていた。
画面には、『お父さん』の文字。
ジーナは、指で画面をなぞる。
(お父さん……)
ジーナの父は、シルバーマンジム・モスクワ支部の重鎮だ。ジーナが日本に来ることを、最後まで反対していた。
『お前は、モスクワに残るべきだ』
父の言葉が、耳に残っている。
『あの日本人の少女に負けたからといって、逃げるような真似をするな』
ジーナは、ぎゅっとスマホを握った。
「……お父さん、私、まだ帰らないから」
ジーナは、誰にともなく、小さく呟いた。
窓の外では、月が、静かに輝いていた。
◆
同じ頃。
シルバーマンジム桜ヶ丘店の閉店後の事務所で、街雄鳴造はパソコンの画面を見つめていた。
「……モスクワ支部から、エリートトレーナーが視察に?」
街雄は、届いたばかりのメールを読み返す。
『近いうちに、モスクワ支部よりエリートトレーナーが貴店へ視察に参ります。日程は追って連絡します。』
「視察かあ。急だなあ」
街雄は、首をかしげた。
(モスクワ支部が、わざわざ桜ヶ丘に?)
街雄の胸に、小さな引っかかりが残った。
画面の光が、街雄の爽やかな顔を、青白く照らしていた。
◆
翌朝。
ひびきが、リビングで朝食の準備をしていると、スマホが短く震えた。
「ん? メッセージ?」
ひびきは、スマホを手に取った。
差出人不明のメッセージが、一通。
画面に、短い文章が表示される。
『ジーナ・ボイドは、お前のそばにいるべき人間じゃない』
ひびきは、画面を見つめたまま、動けなくなった。
「……なに、これ」
ひびきの手の中で、スマホが、もう一度だけ震えた。Noveliaとは?
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