ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜
桜ヶ丘の商店街に、今日もひびきの幸せな咀嚼音が響く。肉まんにコロッケ、プロテインにプリン——食欲と筋トレの狭間で揺れる女子高生・紗倉ひびきの日常は、しかしある日を境に大きく動き出す。ジムのトレーナー・街雄の破れたポロシャツから覗く規格外の筋肉にときめきを隠せない日々。そして、プロテインショップでひびきの試飲カップを奪い去った、銀髪の少女。鋭い瞳でひびきを射抜いた彼女の正体は——。「明日から家にお客さんが来る」。母からの突然の電話が、運命の歯車を静かに回し始める。これは、筋肉と食欲と、ほんの少しの恋が織りなす、ひと夏の物語。ジーナ・ボイド、帰還。
ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜 - 銀髪の泪、オーバーワークの果てに~私がモスクワの恥さらしだから~
ジーナの笑顔が、どこか薄っぺらく見えた。
紗倉ひびきは、朝のリビングでトーストをかじりながら、向かいに座る銀色のボブヘアーの少女をじっと見つめた。ジーナ・ボイド。ロシアから来た、負けず嫌いで、でも本当は寂しがり屋の同居人。
二日前、シルバーマンジム桜ヶ丘店で、あの女が現れた。
ヴィクトリア。
モスクワ支部からやってきた、冷たい目をしたエリートトレーナー。ジーナを「モスクワの恥さらし」と嘲笑い、みんなの前で彼女の過去を暴露した。機材もない田舎者、友達もできない孤独な子。そして、シルバーマン杯予選で負けたらモスクワへ強制送還だと、そう宣告した。
あれから、ジーナの様子がおかしい。
「ジーナ、卵焼き食べないの?」
ひびきが声をかけると、ジーナははっとしたように顔を上げた。青い瞳の下に、うっすらとクマが浮かんでいる。肌の色も、心なしか青白い。
「ええ、食べるわ。ありがとう、ひびき」
ジーナはそう言って、箸で卵焼きを小さく切った。でも、口に運ぶのはほんの少しだけ。あとは、箸でつつくばかり。箸の先が、卵焼きの表面を、三回、四回、同じところで往復していた。
(おかしい。いつものジーナなら、朝から勝負を挑んでくるのに)
ひびきは、トーストを置いた。
「ねえ、ジーナ。昨日、ちゃんと寝た?」
「……ええ、もちろんよ」
ジーナは笑った。口元だけを、にこりと。でも、目は笑っていない。
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だから、心配しないで」
「……本当に?」
「本当よ。あなたは心配性ね」
ジーナは、そう言って立ち上がった。食器を流しに運ぶ。その背中が、なんだか小さく見える。茶碗を水に浸ける音が、いつもより長く続いた。
「今日は、一人でジムに行くわ」
「え? あたしも行くよ。一緒に行こうよ」
ひびきは、思わず立ち上がった。
でも、ジーナは振り返らなかった。
「一人でやりたいの。ごめんなさい」
その声は、静かだった。蛇口の水が、止まる音がした。
ひびきは、何も言えなくなった。
(一人でやりたい? 今まで、一緒にトレーニングしてきたのに)
胸の奥が、ちくりと痛む。
ジーナは、そのまま玄関へ向かった。靴を履く音が、やけに遠く聞こえる。かかとをトン、トン、と二回鳴らして、ドアノブが回った。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
玄関のドアが、パタンと閉まった。
リビングに、静けさが落ちる。冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく聞こえた。
ひびきは、一人でテーブルの前に立っていた。ジーナの茶碗が、流しの中で、まだ湯気を立てていた。
(なんで、もっと強く言えなかったんだろ)
「一緒に行こう」って、あたしがもっと強く言えばよかった。
(ジーナ、絶対に無理してる)
あの目の下のクマ。食事を取らない様子。一人でジムに行くなんて。
全部、ヴィクトリアのせいだ。
あの女が、ジーナを追い詰めた。
ひびきは、拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。
(あたし、何もできてない)
ジーナが苦しんでるのに、ただ見てるだけ。
それが、悔しかった。
◆
その夜。
シルバーマンジム桜ヶ丘店の閉館時間は、夜の十時。
受付の明かりが消え、トレーニングフロアの照明も落とされる。会員たちが帰り、スタッフも事務所へ引き上げた後、フロアはしんと静まり返っていた。空調の低い唸りだけが、天井で鳴っている。
だが、フリーウェイトエリアの片隅に、一つだけ、人影があった。
銀色の髪。
ジーナ・ボイドは、閉館後のジムに一人でいた。
彼女は、バーベルを握っていた。ラックの金属が、汗ばんだ手のひらで、きしんだ。
「……はあっ」
スクワット。
膝を曲げ、腰を落とし、立ち上がる。
一回。二回。三回。
背中に担いだバーベルの重さが、肩に食い込む。息が乱れる。汗が、銀色の髪から滴り落ちる。床に、染みが一つ、また一つ、増えていく。
(まだ。まだよ。もっと、強くならなきゃ)
ジーナの頭の中で、あの女の声が響いていた。
『あら、まだこんなところで遊んでいたの? モスクワの恥さらしね』
『機材もない田舎者、友達もできない孤独な子ってね』
『負けたらモスクワに強制送還。それだけで済むと思うなよ』
そして、父の声。
『お前、恥をさらすのは、そこまでにしろ』
(お父さん……)
ジーナは、歯を食いしばった。奥歯が、きりきりと鳴る。
(私は、弱いから。弱い私が、悪いのよ)
スクワット、五十回。
足が、震えている。膝が、内側に笑う。
(もっと。もっと強くならなきゃ。負けたら、私の居場所が、なくなる)
百回。
呼吸が、ひゅうひゅうと音を立てる。喉の奥が、鉄の味がした。
(ひびきと一緒にいたい。日本にいたい。でも、負けたら……)
百五十回。
視界が、揺れる。照明の光が、にじんで、二重に見える。
(私が、弱いから。全部、私が弱いから)
二百回。
ジーナは、バーベルをラックに戻した。バーが、ラックに当たって、ガコン、と鳴った。肩で息をしながら、次の器具へ向かう。足の裏が、床に張り付いて、離れない。
デッドリフト。
床に置かれたバーベル。五十キロ。普段の二倍の重さ。プレートの数字が、ぼやけて見えた。
ジーナは、そのバーを握った。
「……ふっ」
持ち上げる。
腰が、悲鳴を上げる。脊椎の一つ一つが、軋む音がした。
でも、やめない。
(もっと。もっと。もっと強く)
一回。
フォームが、崩れている。背中が丸まり、腰に負担がかかる。膝が、がくがくと震えた。
(ああ、ダメ。でも、やめられない)
二回。
手が、滑る。汗で、バーの溝がぬるぬるしていた。
三回。
視界が、白く、にじむ。天井の照明が、にじんで、滲んで、落ちてくる。
(あれ……?)
四回目。
バーベルが、手から、落ちた。
ガシャン。
大きな音が、静かなフロアに響いた。プレートが、床に噛み合わずに滑り、甲高い金属音を残した。
ジーナの体は、その場に、崩れ落ちた。
膝が、床につく。硬いゴムマットが、膝小僧に食い込んだ。
(立てない……)
手を、床につく。指先が、汗で滑った。
(ああ、私、また……)
意識が、遠のいていく。耳鳴りが、遠くで、波のように引いていく。
暗い、深い、底へ。
◆
「ジーナさん!?」
街雄鳴造は、閉館後の見回りに来て、倒れているジーナを発見した。
爽やかなイケメンの顔が、一瞬で青ざめる。持っていたタオルが、床に落ちた。
「ジーナさん! しっかりしてください!」
街雄は、ジーナの肩を揺すった。だが、反応がない。首筋に指を当てて、自分の指が震えていることに気づいた。
「くそっ……救急車を!」
街雄は、ポケットからスマホを取り出した。震える指で、119を押す。二回、押し間違えた。
「もしもし! シルバーマンジム桜ヶ丘店です! 会員の女の子が倒れています! 呼吸はありますが、意識がありません!」
電話を切ると、街雄は、ジーナの体をそっと抱え上げた。腕の中で、ジーナの頭が、がくん、と後ろに反った。
「大丈夫です。すぐに助けが来ますから」
街雄の声は、優しかった。
でも、ジーナには、聞こえていなかった。
◆
ひびきのスマホが鳴ったのは、それから三十分後のことだった。
画面には、『街雄鳴造』の文字。振動が、テーブルの上で、ぶるぶると鳴っていた。
「もしもし、街雄さん?」
『ひびきさん。落ち着いて聞いてください』
街雄の声は、いつもの明るさが消えていた。息を飲む音が、スピーカー越しに聞こえた。
『ジーナさんが、ジムで倒れました。今、救急車で病院へ向かっています』
「……え?」
頭が、真っ白になった。テレビの音が、遠くで鳴っているのに、言葉が入ってこない。
『桜ヶ丘中央病院です。すぐに来てください』
「……はい」
ひびきは、電話を切ると、玄関へ走った。途中で、テーブルの角に膝をぶつけた。痛みは、感じなかった。
(ジーナが、倒れた? なんで? どうして?)
靴を履く手が、震える。紐が、結べない。二回、ほどけた。
(あたしが、もっと早く気づいていれば)
夜の街を、ひびきは走った。
息が切れる。足がもつれる。それでも、走った。アスファルトの冷たさが、裸足のような足の裏に伝わった。
◆
病院の白い廊下。
消毒液の匂い。蛍光灯の白が、目に染みる。ナースステーションの時計が、午前零時を指していた。
ひびきは、案内された病室の前で、足を止めた。
ドアの向こうから、かすかな声が聞こえる。
「……うう……」
ジーナの声だった。うめき声が、途切れて、また始まる。
ひびきは、ドアを開けた。取っ手が、汗でぬるりと滑った。
病室の中。
ベッドの上に、ジーナが横たわっていた。
銀色の髪が、白い枕の上に広がっている。青白い顔。閉じられた目。まぶたの下で、眼球が、びくびくと動いていた。点滴の管が、細い腕から、上へ伸びている。モニターの電子音が、一定の間隔で、部屋に響いていた。
「ジーナ……」
ひびきは、ベッドの横に立った。足元のリノリウムが、きしんだ。
街雄が、ひびきに気づいて、深く頭を下げた。その背中が、丸まっていた。
「ひびきさん……申し訳ありません。僕の管理不足です。もっと、ジーナさんのことを気にかけるべきでした」
「街雄さんのせいじゃないよ……」
ひびきは、そう言いかけて、言葉を止めた。喉の奥で、言葉が詰まった。
(街雄さんのせいじゃない。あたしが、気づいてたのに。ジーナの異変に、気づいてたのに。何もできなかった)
「医師の話では、精神的ストレスによる過労と脱水症状だそうです。しばらくは、絶対安静が必要だと」
「……そう、ですか」
ひびきは、ジーナの手を握った。
冷たい。
氷のように、冷たい。指の付け根が、かちかちに固まっていた。
「ジーナ……」
ひびきが呼びかけると、ジーナのまぶたが、ゆっくりと開いた。まつげが、一度、二度、瞬いた。
青い瞳が、ぼんやりと、ひびきを見上げる。焦点が、ゆっくりと合った。
「……ひびき?」
「ジーナ! よかった、目が覚めたんだね」
ひびきは、涙をこらえながら、笑った。頬が、引きつった。
でも、ジーナの目から、涙がこぼれた。一粒が、こめかみを伝って、枕に染みた。
「ごめん……なさい……」
「え?」
「私が……弱いから……モスクワの……恥さらしだから……」
ジーナの声は、震えていた。声が、喉の奥で、何度も途切れた。
「だから……ひびきにも……迷惑かけて……ごめん……ごめんなさい……」
涙が、止まらなかった。枕が、黒く染まっていった。
ひびきは、ジーナの手を、ぎゅっと握った。
「ジーナ、あんたは悪くない。悪いのは、あんたを追い詰めたやつらだよ」
ひびきは、強く言った。声が、少し、裏返った。
でも、ジーナは、首を横に振った。枕に、髪がこすれる音がした。
「でも……負けたら……お父さんが……モスクワに……私の居場所が……なくなるの……」
ジーナの声は、消え入りそうだった。モニターの電子音が、その隙間を埋めた。
「私……帰りたくない……ひびきと……一緒に……いたい……」
ひびきは、何も言えなかった。喉が、乾いていた。握った手のひらに、ジーナの冷たさが、染み込んでくる。
(ジーナ、そんなに怖かったんだ)
(あたし、全然、分かってなかった)
ジーナの手を握るひびきの手に、力がこもる。指の関節が、白くなった。
「……大丈夫。あたしが、なんとかするから」
ひびきは、小さく、そう言った。声が、自分でも、頼りなく聞こえた。
でも、ジーナの涙は、止まらなかった。シーツの上で、指が、ひびきの手を、かすかに握り返した。それきり、力が抜けた。
◆
病院からの帰り道。
ひびきは、夜の桜ヶ丘の道を、一人で歩いていた。
空には、月が出ていた。息が、白くならない程度の冷たさが、頬に触れた。
スマホが、震えた。ポケットの中で、ぶるぶると、二回。
メッセージが、一通。
差出人は、ヴィクトリア。
ひびきは、足を止めて、画面を見た。指紋で、画面がにじんだ。
『予選まであと2週間。ジーナには伝えてあるわ。棄権するなら今のうちよ。あの子が倒れたって聞いたけど、やっぱりモスクワの恥さらしね。まあ、せいぜい足掻きなさい』
ひびきの手が、震えた。画面の文字が、ぶれて読めなくなった。
スマホを握りしめる。ケースの縁が、手のひらに食い込んだ。
指が、白くなる。爪の先が、紫色になった。
「ふざけんな……!」
声が、震えた。喉の奥が、熱かった。
「あんたが……あんたたちが……ジーナを追い詰めたんだろ!」
ひびきは、夜の空に向かって、叫んだ。声が、住宅の壁に反響して、消えた。
でも、誰も、答えない。街灯の下で、蛾が一匹、光の周りを回っていた。
街灯の光が、ひびきの影を、長く伸ばしていた。影の先が、電柱の根元で、途切れていた。
「……くそ」
ひびきは、唇を噛んだ。鉄の味が、口の中に広がった。
涙が、にじむ。頬を伝う前に、手の甲でぬぐった。ぬぐっても、また、にじんだ。
(あたし、何もできない。ジーナを守れない。ヴィクトリアに、何も言い返せない)
(悔しい。悔しいよ)
ひびきは、空を見上げた。息が、白く、夜空に溶けた。
月が、ぼやけて見えた。涙の膜越しに、月の輪郭が、何度もにじんだ。
◆
自宅に帰ると、リビングは真っ暗だった。廊下の電気だけが、つけっぱなしになっていた。
ひびきは、電気をつけずに、ソファに座り込んだ。スプリングが、きしんだ。
ジーナの部屋は、静かだった。ドアの隙間から、暗闇が、じっとこちらを見ていた。
(ジーナ、いないんだ)
当たり前なのに、その静けさが、胸に突き刺さる。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
冷蔵庫を開けた。庫内灯の白が、目に痛かった。
中には、ジーナが買ってきたプロテインの缶と、ひびきのために作った鶏むね肉の作り置きが、きれいに並んでいた。ラップの上に、ジーナの字で、『ひびきの分』と書いてあった。文字が、少し、震えていた。
(ジーナ、あんなに苦しいのに、あたしのご飯まで作ってくれてた)
ひびきは、冷蔵庫の前で、立ち尽くした。冷気が、素足にまとわりついた。
「あたし、何やってんだろ……」
声が、かすれた。冷蔵庫のモーター音に、消されそうだった。
「ジーナが、こんなに追い詰められてるのに……何もできなかった……」
ひびきは、拳を、膝に打ちつけた。鈍い音が、太ももに響いた。
痛い。骨の芯に、じん、と響いた。
でも、その痛みが、現実を引き戻す。
(あたしに、何ができる?)
テレビをつけた。リモコンが、手から滑りそうになった。
スポーツニュースが流れている。画面の光が、暗いリビングを、青白く照らした。
『――タッグ競技において、最も重要なのは、二人の呼吸です。どれだけ個人の力が強くても、息が合わなければ、力を発揮することはできません』
解説者の声が、リビングに響いた。ひびきの頭に、一つの考えが、よぎった。
(あたしが、ジーナと一緒に戦えば……ジーナは、一人じゃない)
(でも……あたしに、何ができるんだ?)
ひびきは、テレビの画面を見つめた。画面の中では、タッグの選手が、息を合わせてバーベルを上げていた。
答えは、まだ出ない。頭の中が、からっぽで、その中を、解説者の声だけが、ぐるぐると回っていた。
でも、何かが、胸の奥で、小さく、動き始めていた。痛みにも似た、熱が、ゆっくりと、広がっていた。
(ジーナを、一人にしちゃダメだ)
それだけは、確かだった。
ひびきは、ソファの上で、膝を抱えた。腕が、自分の体を、きつく包んだ。
朝まで、眠れなかった。天井のシミが、薄明かりの中に、ぼんやりと浮かんでは、消えた。
窓の外では、月が、静かに、夜を照らしていた。Noveliaとは?
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