ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜
桜ヶ丘の商店街に、今日もひびきの幸せな咀嚼音が響く。肉まんにコロッケ、プロテインにプリン——食欲と筋トレの狭間で揺れる女子高生・紗倉ひびきの日常は、しかしある日を境に大きく動き出す。ジムのトレーナー・街雄の破れたポロシャツから覗く規格外の筋肉にときめきを隠せない日々。そして、プロテインショップでひびきの試飲カップを奪い去った、銀髪の少女。鋭い瞳でひびきを射抜いた彼女の正体は——。「明日から家にお客さんが来る」。母からの突然の電話が、運命の歯車を静かに回し始める。これは、筋肉と食欲と、ほんの少しの恋が織りなす、ひと夏の物語。ジーナ・ボイド、帰還。
ダンベル何キロ持てる? IF 〜ジーナ・ボイドの帰還〜 - モスクワの女王、襲来!~銀髪の恥さらしと最悪の再会~
一週間前、ジムの掲示板で『シルバーマン杯支部対抗予選』のポスターを見た時の、ジーナのあの強張った表情。
紗倉ひびきは、その時のことを思い出しながら、トレーニングフロアの床に座ってストレッチをしていた。
午後のシルバーマンジム桜ヶ丘店は、比較的空いている。窓から差し込む日差しが、フローリングの床を温めていた。
「ひびき、次のセット、付き合ってくれる?」
銀色のボブヘアーを揺らしながら、ジーナ・ボイドがひびきの前に立った。白いトレーニングウェアに身を包み、首には小さなタオルをかけている。澄んだ青い瞳が、真っ直ぐにひびきを見下ろしていた。
「おう、いいよ! 今日は何やるの?」
ひびきは立ち上がりながら、腰に手を当てて伸びをした。金髪のゆるふわギャルヘアが、肩の上で跳ねる。
「ベンチプレス。この前、あなたと一緒に挙げたら、自己ベストが出たのよ。だから、今日はもう少し重いのに挑戦したいの」
ジーナは、そう言って、フリーウェイトエリアへ歩き出した。その背中は、一週間前よりも、どこか自信に満ちているように見える。
(ジーナ、いい顔するようになったなあ)
ひびきは、口元をほころばせながら、ジーナの後を追った。
一週間前、初めてこのジムに来た時、ジーナは一人でバーベルに潰されそうになっていた。ラックの高さも、フォームも、何も分からなかったのだ。
モスクワ支部には、機材が少なかった。ジーナは、反動を使ったトレーニングばかりしていたから、固定式のマシンやバーベルの扱いに慣れていなかった。
でも、今は違う。
ジーナは、ひびきの補助を受けながら、少しずつ、確実に、ジムでのトレーニングに慣れてきた。
「じゃあ、セットするわね」
ジーナは、ベンチに仰向けになり、バーベルを握った。細い指が、金属のバーをしっかりと掴む。
「いくわよ」
ジーナは、息を吸い込み、バーベルをラックから外した。腕が、ゆっくりと下がっていく。
「……ふっ」
バーベルが、胸の上で一瞬止まる。
「上げて!」
ひびきは、ジーナの頭の上に立ち、両手をバーベルの下に添えた。まだ触れてはいない。でも、いつでも補助できる位置に構えている。
「んんっ……!」
ジーナの腕が、震えながらバーベルを押し上げていく。銀色の髪が、汗で額に張り付いていた。
「いいよ、そのまま! あと一回!」
ひびきの声に、ジーナは歯を食いしばった。
「……はああっ!」
バーベルが、完全に上がり切った。ジーナは、ラックにバーベルを戻し、大きく息を吐いた。
「……できたわ」
ジーナは、ベンチに寝転がったまま、天井を見上げた。その顔には、達成感が満ち溢れている。
「すごいじゃん! ジーナ、また強くなったね!」
ひびきは、ジーナにタオルを差し出した。
「……あなたのおかげよ。一人だったら、絶対に挙げられなかった」
ジーナは、タオルで額の汗を拭きながら、小さく微笑んだ。
その笑顔は、一週間前には見られなかったものだ。
ひびきは、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
「そうだ、ジーナ。シルバーマン杯のことなんだけどさ」
ひびきが切り出すと、ジーナの手が止まった。
「……なに?」
ジーナの声が、少しだけ硬くなる。
「あのさ、予選、出てみない? あたしと一緒に」
ひびきの言葉に、ジーナは目を見開いた。
「……あなたと、一緒に?」
「うん。ほら、あのポスター、タッグ部門もあるじゃん? あたしとジーナで出たら、けっこういい線いくと思うんだよね」
ひびきは、にっと八重歯を見せて笑った。
ジーナは、しばらく黙っていた。
その青い瞳が、揺れている。
「……私、あなたと一緒なら、出てみたい」
ジーナは、小さな声で、そう言った。
その言葉は、一週間前のジーナからは、絶対に出てこなかった言葉だ。
「マジで!? やったあ!」
ひびきは、ジーナの手を取って、ぶんぶんと振った。
「ちょ、ちょっと、ひびき! やめなさいよ!」
ジーナは、耳まで赤くして、ひびきの手を振り払おうとした。
でも、その口元は、笑っていた。
「お二人さん、いいチームワークですね!」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、シルバーマンジム桜ヶ丘店のトレーナー、街雄鳴造が立っていた。爽やかなイケメンの顔。しかし、その首から下は、異常なまでに発達した筋肉に覆われている。まるで、コラ画像のような体だった。
「街雄さん!」
「いやあ、見させてもらいましたよ。ジーナさん、フォームが格段に良くなってますね。ひびきさんの補助も、完璧です」
街雄は、そう言って、ニコリと笑った。
「ありがとうございます!」
ジーナは、ペコリと頭を下げた。
「それにしても、お二人がタッグを組むとなると、予選も面白くなりそうだ。私も、応援していますよ」
街雄は、そう言って、腕を組んだ。すると、上腕二頭筋が、服の上からでも分かるほどに盛り上がる。
「あ、あの、街雄さん。その、腕……」
ジーナは、街雄の腕を、じっと見つめた。
「おっと、すみません。つい、嬉しくて」
街雄は、照れくさそうに笑いながら、腕を解いた。
「……相変わらず、すごい筋肉だわ」
ジーナは、ぼそりと呟いた。
「でしょでしょ! 街雄さんの筋肉、やばたんなんだよね〜」
ひびきは、自慢げに言った。
「いやあ、それほどでも」
街雄は、頭をかいた。
その時だった。
ジムの入口のドアが、ゆっくりと開いた。
誰かが入ってくる。
ひびきは、何気なく、そちらに視線を向けた。
そして、息を止めた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
長い銀色の髪が、まるで絹のように、背中へ流れている。
身長は、ひびきよりもずっと高い。175センチはあるだろうか。
鍛え上げられた肩。
引き締まった腰。
筋肉質でありながら、しなやかで、美しい体。
何よりも、その顔。
冷徹な美貌。
切れ長の青い瞳が、まるで氷のように冷たく、ジムの中を見渡していた。
「……ヴィクトリア」
ジーナの声が、震えた。
ひびきは、ジーナの顔を見た。
ジーナの顔から、血の気が引いていた。
さっきまで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。
「ジーナ、知ってる人?」
ひびきが尋ねると、ジーナは、小さく頷いた。
「……モスクワ支部の、エリートトレーナーよ。ヴィクトリア・イワノヴァ」
ジーナの声は、かすれていた。
「モスクワからお見えの、ヴィクトリアさんですね! ようこそ、シルバーマンジム桜ヶ丘店へ!」
街雄は、笑顔で、ヴィクトリアに近づいていった。
「ご丁寧にどうも。視察に来たわ。ここが、あの子が逃げ込んだ場所ね」
ヴィクトリアの声は、低く、冷たかった。
彼女の視線は、まっすぐに、ジーナに向けられていた。
「……あら、まだこんなところで遊んでいたのね。モスクワの恥さらし」
ヴィクトリアは、口元を歪ませて、笑った。
それは、嘲笑だった。
ジーナの肩が、びくりと震えた。
「な、なにを言ってるのよ、ヴィクトリア。私は、遊んでなんか……」
ジーナは、震える声で、反論しようとした。
でも、ヴィクトリアは、ジーナの言葉を遮った。
「あんたがモスクワでどれだけ笑い者だったか、みんな知ってるのよ。機材もない田舎者、友達もできない孤独な子ってね」
ヴィクトリアの言葉は、ジムの中に響き渡った。
その場に居合わせた会員たちが、一斉に、ジーナに視線を向ける。
好奇の目。
嘲笑の目。
ジーナは、その視線に、射抜かれたように、立ちすくんだ。
「ヴィクトリア、やめて……」
ジーナの声は、涙で濡れていた。
「あんた、モスクワ支部で何をしてたの? 一人で、反動ばかり使った、みっともないトレーニングをして。誰にも相手にされなくて。支部長の娘だっていうから、みんな腫れ物に触るように接してただけよ。あんた自身に、何か価値があったわけじゃない」
ヴィクトリアは、一歩、ジーナに近づいた。
「シルバーマン杯予選、あんたが出るなら、私も出るわ。負けたら、モスクワに強制送還——それだけで済むと思うなよ」
ヴィクトリアの声は、冷たく、鋭く、ジーナの心をえぐった。
「私は……私は、遊んでなんかない……!」
ジーナは、叫んだ。
でも、その声は、震えていて、力がなかった。
「じゃあ、証明してみせなさい。予選で、私に勝ってみせなさい。できもしないくせに」
ヴィクトリアは、ジーナの顔を、じっと見下ろした。
その青い瞳は、まるで、獲物をいたぶる蛇のようだった。
「……あんた、何なんだよ!」
ひびきは、気づいたら、ジーナの前に立っていた。
拳を握りしめ、ヴィクトリアを睨みつける。
「ジーナが、あんたに何をしたって言うんだよ! なんで、そんなひどいこと言うんだよ!」
ひびきの声は、怒りで震えていた。
「……あら、あなたは?」
ヴィクトリアは、ひびきを、上から下まで、じろりと見た。
「あたしは、紗倉ひびき! ジーナの、友達だよ!」
ひびきは、真っ直ぐに、ヴィクトリアを見上げた。
「友達? あの子に、友達が? 笑わせるわ。あの子は、モスクワで、誰にも相手にされなかったのよ。あんたも、同情で友達になってるだけなんじゃないの?」
ヴィクトリアは、くすくすと笑った。
「同情なんかじゃない! ジーナは、あたしの大事な友達だ!」
ひびきは、声を張り上げた。
「もういい、ひびき」
ジーナが、ひびきの腕を掴んだ。
その手は、氷のように冷たかった。
「ジーナ……」
「もう、いいの。行こう」
ジーナは、青ざめた顔で、そう言った。
そして、ひびきの腕を引っ張って、ジムの出口へと向かった。
「あら、逃げるの? やっぱり、あんたは、そういう子ね」
ヴィクトリアの声が、背中に突き刺さる。
ひびきは、振り返って、ヴィクトリアを睨みつけた。
「……覚えておきなさい。予選まで、あと2週間よ。逃げても無駄よ。あんたの居場所なんて、どこにもないんだから」
ヴィクトリアの言葉が、ジムの中に、冷たく響き渡った。
◆
ジーナは、ジムを飛び出すと、駅前の公園まで走った。
ひびきは、その後を、必死に追いかけた。
「ジーナ! 待ってよ!」
ジーナは、公園のベンチに、崩れるように座り込んだ。
肩が、小刻みに震えている。
「……ジーナ」
ひびきは、ジーナの隣に、そっと腰を下ろした。
ジーナは、顔を上げなかった。
銀色の髪が、顔を覆い隠している。
「……私が、弱いから」
ジーナは、小さな声で、呟いた。
「モスクワで、笑われてたから。ヴィクトリアの言う通りなの。私は、何もできない、恥さらしなのよ」
ジーナの声は、涙で濡れていた。
「そんなことない!」
ひびきは、言いかけた。
でも、言葉が続かなかった。
ジーナの震える肩を見ていると、何を言えばいいのか、分からなくなった。
(あたしは、ジーナを守りたいのに)
(何も、言えない)
ひびきは、自分の無力さを、痛感した。
拳を握りしめる。
でも、その拳を、どこにぶつければいいのか、分からない。
夕日が、公園を、赤く染めていた。
二人の影が、長く、地面に伸びている。
◆
その夜。
ひびきの家のリビング。
食卓には、ひびきが作った夕食が並んでいた。
でも、二人とも、ほとんど手をつけていない。
「……ひびき」
ジーナが、箸を置いた。
「うん?」
「私……モスクワに、帰るべきかもしれない」
ジーナは、テーブルを見つめたまま、そう言った。
「私がいたら、ひびきにも、迷惑がかかる。ヴィクトリアは、私を追いかけてきたんだもの。私がいなければ、ひびきは、こんな思いをしなくて済んだのに」
ジーナの声は、消え入りそうだった。
「……あんたが、どこにいたいかは、あんたが決めていいんだよ」
ひびきは、静かに言った。
「でも、あたしは、あんたに、ここにいてほしい」
ひびきの声は、真っ直ぐだった。
ジーナは、顔を上げた。
青い瞳が、涙で潤んでいる。
「ひびき……」
「あたし、あんたと一緒にトレーニングするの、楽しいんだ。あんたがいるだけで、家の中が明るくなる。あんたは、あたしの、大事な友達なんだよ」
ひびきは、ジーナの目を、じっと見つめた。
ジーナは、唇を噛みしめて、俯いた。
涙が、ぽたりと、テーブルに落ちた。
◆
その夜遅く。
ひびきは、自分の部屋で、スマホを見つめていた。
画面に、一通のメッセージが表示される。
差出人は、不明。
『シルバーマン杯予選まで、あと2週間。覚悟しておきなさい。それと、ジーナに伝えておいて。予選で負けたら、彼女のモスクワ支部復帰はないわ。支部長——つまり彼女の父親が、直々に引導を渡すことになるから』
ひびきは、スマホを握りしめた。
指が、白くなる。
(ヴィクトリア……)
ひびきは、初めて、本気で、誰かを守るために戦うという覚悟を、胸に刻んだ。
◆
翌朝。
ひびきは、ジーナの部屋のドアを、ノックした。
「ジーナ、起きてる?」
しばらくして、ドアが開いた。
ジーナが、泣き腫らした目で、立っていた。
「……おはよう、ひびき」
「おはよう。あのさ、ジーナ」
ひびきは、真っ直ぐに、ジーナを見た。
「あたしたち、予選に出よう。あんたのためでも、あたしのためでもなく、あんたとあたしの二人で。ヴィクトリアに、ジーナは恥さらしなんかじゃないって、見せてやるんだよ」
ひびきの言葉に、ジーナは、目を見開いた。
「でも、私……負けたら、お父さんが……」
ジーナは、ためらった。
「だったら、勝てばいいじゃん! あたし、腕力だけは自信あるんだから!」
ひびきは、にっと笑った。
その笑顔は、朝の光のように、明るかった。
ジーナは、涙を拭いた。
そして、小さく、頷いた。
「……うん」
◆
二人は、シルバーマンジム桜ヶ丘店へ向かった。
受付で、街雄に、予選エントリーを申し込む。
「お二人で、タッグ部門にエントリーですね。承知しました」
街雄は、快く受け付けてくれた。
「あの、街雄さん。ヴィクトリアも、同じ予選にエントリーしてるんですか?」
ひびきが尋ねると、街雄は、少しだけ表情を曇らせた。
「……ええ。ヴィクトリアさんも、エントリーされています」
ジムの掲示板には、すでにヴィクトリアの名前が記されていた。
その横に、並ぶように、ひびきとジーナの名前が書き込まれる。
「これで、準備は整いましたね。あとは、トレーニングあるのみです」
街雄は、二人に、励ましの言葉をかけた。
「はい!」
「……ええ」
二人は、顔を見合わせて、頷いた。
◆
ジムからの帰り道。
ジーナのスマホが、震えた。
画面には、『お父さん』の文字。
ジーナは、足を止めた。
指が、震える。
「……ジーナ?」
ひびきが、心配そうに、ジーナの顔を覗き込む。
ジーナは、震える指で、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『ジーナ。お前、恥をさらすのは、そこまでにしろ』
電話の向こうから、低い、冷たい声が、聞こえてきた。
ジーナの父親の声だった。
ジーナの顔から、血の気が、すっと引いていく。
「……お父さん」
ジーナは、それ以上、何も言えなかった。
スマホを握りしめたまま、立ち尽くす。
ひびきは、ジーナの肩に、そっと手を置いた。
その手は、温かかった。
でも、ジーナの体は、氷のように冷たかった。
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