スーパーSの裏で恋を吸うふたり
45歳・独身・疲れ切ったサラリーマンの佐々木。唯一の癒しは、スーパーSのレジで見せる新人パート・山田さんの完璧な笑顔。空いてるレジを無視して毎日二番レジに並ぶ、ちょっと不器用な日々。
だがある夜、閉店後の従業員喫煙所で出会ったのは——髪を下ろし、ピアスを揺らし、メンソール煙草を器用に咥える、素の彼女「田山」だった。
「おじさん、なんで空いてるのに二番レジに並ぶの?」
見透かすような笑顔。からかうような口調。でも、耳が少し赤くて。
「山田」と「田山」。二つの顔を持つ彼女に、佐々木は気づかないふりを決める。それが一番いいと思ったから。
でも、心臓は正直で——。
閉店後の喫煙所から始まる、じれったくてほろ苦い、大人のラブコメ。四十五歳、恋の吸い方はまだ分からない。
スーパーSの裏で恋を吸うふたり - 2番レジの笑顔と、裏口の素顔
「……あと三分、か」
佐々木は腕時計を見て、小さくため息をついた。九月の残暑がまだ肌にまとわりつく。葛西野市の駅前を、くたびれた革靴でとぼとぼ歩く。背広の肩には一日分の疲れがのしかかっていた。
元気商事。都心に本社を置く中堅商社で、佐々木は郊外支店の主任をしている。四十五歳。主任手当込みの月収は三十八万円。独身。趣味は煙草と、スーパーのおかきを食べることくらいだ。
「はあ……」
今日も残業だった。後輩のミスをかばって、上司に頭を下げて、取引先に謝りの電話を入れて。気がつけば夜の九時を回っている。駅前の「ルミエール葛西野」はもう閉店間際で、明かりがぽつぽつ消え始めていた。
(腹、減ったな)
佐々木は背広の内ポケットを探る。煙草の箱。メビウス・プレミアム。残り三本。これで家まで持つかどうか。
(まあ、帰りに買えばいいか)
足は自然と、駅から住宅街へと向かっていた。加野駅から徒歩十二分。フレッシュマート加野店。地元では「スーパーS」と呼ばれている、ごく普通の食品スーパーだ。営業時間は夜の十時まで。今から行けば、閉店前に間に合う。
佐々木がこの店に通い始めたのは、八年前にこの街へ越してきてからだ。当時はまだ「超新鮮市場」という名前だった。いつの間にか店名が変わっていて、看板を見上げたときに、あれ、と首をかしげた記憶がある。
(まあ、店名なんてどうでもいいか)
大事なのは、中身だ。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい空気が流れてきた。店内には閉店前の放送が流れている。
「まもなく閉店のお時間です。お買い物はお早めにどうぞ」
佐々木はカゴを手に取った。まずは惣菜コーナー。半額シールの貼られた唐揚げ弁当。今日はラッキーだった。それからおかきの棚へ。いつもの「かきもち醤油味」。それと、缶ビールを二本。
(これで今日も生き延びられる)
レジへ向かう。この時間帯、レジは三台開いている。一番奥の二番レジ。そこだけ少し列ができていた。他のレジは空いている。
佐々木は迷わず、二番レジの列の最後尾に並んだ。
(今日も、いるかな)
心臓が、少しだけ速くなる。
列が一人分進む。佐々木の前には、買い物袋を提げた年配の女性が一人。その向こうで、レジを打つ店員の姿が見えた。
山田さん。
フレッシュマート加野店の新人パート店員。入店して三ヶ月。二十四歳。黒い髪を後ろで一つにまとめて、清潔感のある緑色のエプロンを着ている。身長は百六十センチくらいだろうか。華奢な体つきで、胸元の名札がわずかに傾いていた。
「お待たせいたしました。ポイントカードはお持ちですか?」
山田の声は、よく通る。それでいて、耳に心地よい。年配の女性客に笑顔で対応している。その笑顔が、佐々木にはたまらなく眩しかった。
(今日も、いい笑顔だな)
佐々木は胸の中でつぶやいた。
山田の笑顔は、作り物なのに作り物に見えない。接客マニュアル通りの「いらっしゃいませ」も、彼女が言うと本物の歓迎に聞こえる。目が合うと、ふわっと心が軽くなる。
佐々木は毎日、この笑顔を見るために、空いているレジを無視して二番レジに並んでいる。
(……我ながら、気持ち悪いな)
そう思うのに、足は毎日ここへ向かう。
「次の方、どうぞ」
山田が顔を上げた。佐々木と目が合う。
「あ、どうも」
佐々木はカゴをレジ台に置いた。山田が素早くバーコードを読み取っていく。
「お疲れ様です。いつもありがとうございます」
山田がにこりと笑った。
「お、お疲れ様です……」
佐々木は声が裏返りそうになるのを必死でこらえた。お疲れ様です。たった五文字。それだけで、今日一日の疲れが溶けていく気がする。
(やばい。今日は特に、やばい)
山田の指先が、おかきの袋をスキャンする。小さな手。爪は短く切ってあって、清潔だ。
「お弁当、温めますか?」
「あ、いや、大丈夫です」
「かしこまりました」
山田は手際よく商品を袋に詰めていく。おかき、缶ビール、弁当。その動きには無駄がない。
「千二百四十六円です」
佐々木は財布から千円札と小銭を取り出した。五百円玉が一枚、百円玉が二枚、十円玉が四枚、一円玉が六枚。指先が震える。
(落ち着け、俺)
小銭をトレーに置く。カチャカチャと音がした。
「ちょうど、お預かりします」
山田が小銭を受け取る。そのとき、佐々木の指と山田の指が、ほんの一瞬だけ触れた。
「……っ」
佐々木は手を引っ込めた。心臓が、バクバクと音を立てる。
(今、触れた。指が。山田さんの指と、俺の指が)
四十五歳のいい大人が、何を考えているんだ。佐々木は自分を殴りたくなった。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
山田は笑顔で頭を下げた。佐々木はぎこちなく会釈を返す。
「あ、ありがとう……」
袋を受け取って、レジを離れる。後ろから次の客が進み出る気配がした。
佐々木は足早に出口へ向かった。自動ドアの前で、ふと振り返る。山田はもう次の客の対応をしている。あの笑顔を、今度は別の誰かに向けている。
(当たり前だ。店員なんだから)
胸の奥が、ちくりと痛む。
佐々木は首を振って、店を出た。
外はすっかり暗くなっていた。九月の夜風が、火照った頬に心地よい。
(……俺は、何をやってるんだ)
四十五歳。独身。疲れたサラリーマン。毎日、若いパート店員の笑顔を見るためにスーパーに通っている。
(気持ち悪い。本当に、気持ち悪い)
佐々木は袋を提げ直して、店の裏手へと歩いた。
フレッシュマート加野店の裏口。駐車場の北西の角に、従業員用の喫煙所がある。灰皿スタンドが二台と、古びたベンチが一台。フェンスの向こうには住宅街が広がっていて、夜になると街灯の明かりがぼんやりと差し込む。
佐々木はベンチに腰を下ろした。背広の内ポケットから煙草を取り出す。メビウス・プレミアム。箱を開けて、一本を唇に咥える。百円ライターで火をつけた。
——スーッ。
煙が肺に染みわたる。頭の奥が、じんわりとほどけていく。
「はあ……」
佐々木は深く息を吐いた。白い煙が、夜の空気に溶けていく。
喫煙所には、暗黙のルールがある。「ここで見たことは、ここに置いていく」。従業員が仕事の愚痴をこぼしても、常連客が誰かの噂をしても、このベンチから先には持ち出さない。佐々木も、この場所の空気に何度も救われてきた。
(煙草が、うまい)
一日の終わりに吸う一本は、格別だ。
そのときだった。
「おじさん、ここ使っていい?」
若い女の声。佐々木は顔を上げた。
そこに立っていたのは——。
髪を下ろした女性だった。
勤務中は後ろで一つにまとめていた黒髪が、今は肩の下までゆるく広がっている。耳には小さなシルバーピアスが光っていた。首もとには黒いチョーカー。服装も、さっきの緑のエプロン姿とは全然違う。白いTシャツに、黒のタイトスカート。足元はスニーカー。
(え?)
佐々木は目を疑った。
(山田、さん……?)
いや、待て。顔は確かに山田さんだ。あの大きな目も、通った鼻筋も、形のいい唇も。でも、雰囲気が全然違う。
勤務中の山田は、完璧な笑顔の店員だった。清潔で、丁寧で、誰からも好かれる「いい子」。
でも、今ここにいる彼女は——。
「あれ、聞こえてなかった? おじさん」
彼女は首をかしげた。ピアスが街灯の明かりを反射して、きらりと光る。
「あ、ああ。えっと、どうぞ。常連だから」
佐々木は慌ててベンチの端に寄った。心臓が、さっきのレジとは比べものにならないくらい激しく脈打っている。
(山田さんだ。間違いない。山田さんなのに、山田さんじゃない)
彼女は佐々木の隣に、ドサッと座った。距離が近い。肩と肩が触れそうだ。
「あー、疲れた。今日、客多くてさ」
彼女は足を投げ出して、空を見上げた。声のトーンも違う。勤務中はあんなに丁寧だったのに、今はまるで友達と話すみたいに気安い。
(これが、素の山田さん……?)
佐々木は煙草を咥えたまま、動けなかった。
「おじさん、煙草は? あ、メビウスか」
彼女は佐々木の手元をのぞき込んだ。
「そ、そうだけど」
「渋いね。おじさんっぽい」
彼女はくすっと笑った。その笑い方が、また、店で見せる笑顔と全然違う。もっと、ずるい。
「あたしはこれ」
彼女は小さなバッグから煙草の箱を取り出した。ピアニッシモ・メンソール。細身の箱を軽く振って、一本を取り出す。慣れた手つきで火をつけた。
「——スーッ」
メンソールの煙が、夜風に流れる。彼女は目を細めて、煙を吐き出した。
(きれいだ)
佐々木は思わず見とれてしまった。
「……何見てんの」
「えっ、いや、別に」
佐々木は慌てて視線を逸らした。
「おじさんってさ、毎日二番レジに並んでるでしょ。空いてるのに。なんで?」
彼女は煙草をくわえたまま、佐々木の顔をじっと見た。
「な、なんでって……」
「あたし、気になってたんだよね。いつも同じ時間に来て、同じもの買って、同じレジに並ぶ。変なの」
彼女は笑った。からかうような、でもどこか楽しそうな笑い方。
(バレてる。バレてるどころか、本人に言われてる)
佐々木は頭を抱えたくなった。
「あの、その……笑顔が、いいなと思って」
「は?」
「あ、いや、だから、二番レジの店員さんの、笑顔が、いいなって……」
佐々木はしどろもどろに言った。自分でも何を言っているのか分からない。
彼女は一瞬、きょとんとした。それから、ふいっと視線を逸らした。
「……へえ」
小さな声だった。
(あれ?)
佐々木は彼女の耳が、ほんの少し赤くなっていることに気づいた。
「それ、店員としては嬉しいけど、おじさんとしてはどうなの?」
彼女はすぐにニヤッと笑った。
「お、おじさんとしては……?」
「その店員さんのこと、かわいいと思う? おじさん的に」
「かっ……」
佐々木は言葉に詰まった。
(かわいいと思うかって、それは、その、つまり——)
「かわいいです」
言ってしまった。
「……ぶっ」
彼女は吹き出した。
「な、なんで笑うんだ」
「だって、かわいいですって。おじさん、真っ赤になってるし」
「赤くなってない」
「なってるよ。暗くても分かるくらい」
彼女は笑いながら、煙草を灰皿に押し付けた。
「あー、おかしい。おじさん、面白いね」
「面白くない」
佐々木はむっつりと煙草を吸った。
(くそ。からかわれてる。完全に、からかわれてる)
でも、嫌じゃなかった。
「ねえ、おじさん、名前は?」
「佐々木」
「佐々木さん。あたしは田山」
田山。
(山田、じゃなくて、田山)
佐々木は彼女の顔を見た。黒い髪、ピアス、チョーカー。勤務中の山田とは、髪型も服装も雰囲気も違う。
でも、同一人物だ。
佐々木には、一目で分かった。左の耳たぶの、ピアスの穴の位置。首をかしげる癖。笑ったときに、わずかに八の字になる眉。
(山田さんは、田山として、素の自分を隠してる)
接客用の「山田」と、素の「田山」。彼女は二つの顔を使い分けている。
(きっと、バレたくないんだろうな)
佐々木は煙草を灰皿に押し付けた。
(なら、俺は)
「田山さん、って呼べばいいのか」
佐々木は、できるだけ自然に言った。
「うん。田山でいいよ。佐々木さん、これからもここで煙草吸う?」
「ああ。まあ、常連だから」
「そっか。じゃあ、また会えるね」
田山は立ち上がった。スカートの裾を軽く払って、バッグを肩にかける。
「あたし、明日も夜勤だから。また明日ね、おじさん」
彼女はひらひらと手を振った。
「あ、ああ」
佐々木は、それしか言えなかった。
田山の背中が、駐車場の向こうへ消えていく。街灯の明かりに、彼女の髪がふわりと浮かんで見えた。
(山田さん、じゃなくて、田山さん)
佐々木はベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
(俺は、気づかないふりをしよう)
彼女が必死に隠している。なら、俺はそれに気づかない。山田さんとは呼ばない。田山さんとして、接する。
(それが、一番いい)
佐々木は立ち上がった。煙草の箱をポケットにしまって、袋を提げ直す。
(でも、心臓は、まだバクバクしてる)
店の前を通りかかると、ちょうど閉店の放送が流れていた。
「本日はご来店いただき、誠にありがとうございました」
佐々木は足を速めた。
帰り道、九月の夜風が汗ばんだ首筋を冷やしていく。住宅街の窓から、家族団らんの明かりが漏れていた。どこかの家から、夕食の匂いがする。
(俺の家には、誰もいないけど)
佐々木は空を見上げた。月が、薄い雲に隠れていた。
(それでも、今日は、ちょっとだけ)
胸の奥が、じわりと温かい。
(いい日だった)
アパートに着いたのは、十時を少し回った頃だった。
佐々木の部屋は二階の角部屋。六畳一間の、古いアパートだ。家賃は五万二千円。築三十年で、風呂は狭いし、壁は薄い。でも、一人で暮らすには十分だった。
「ただいま」
誰もいない部屋に、声が吸い込まれていく。
佐々木は電気をつけた。蛍光灯が、しんとした部屋を照らし出す。テーブルの上には、今朝出しっぱなしにしたコーヒーカップ。洗濯物は、カゴに積んだまま。
(明日、やろう)
毎日そう思って、毎日やらない。
佐々木は背広を脱いで、ワイシャツのボタンを外した。買ってきた弁当をテーブルに置く。缶ビールを開けて、一口飲んだ。
「うまい」
唐揚げ弁当とビール。それから、おかき。
(これが、俺の幸せ)
そう思うと、ちょっと悲しくなった。
佐々木はポケットからスマホを取り出した。最近、ガラケーから買い替えたばかりの新品。まだ操作に慣れていない。
「えっと、メールは……」
画面をタップする。違うアプリが開いた。戻る。また違う画面。
「……分からん」
佐々木はスマホをテーブルに置いた。
(今日は、もういい)
ビールを飲み干して、弁当を食べる。唐揚げは少し冷めていたけど、味は悪くなかった。
食べ終わって、歯を磨いて、布団を敷く。
(田山さん、か)
天井を見ながら、佐々木は彼女の笑顔を思い出していた。
店での山田さんの笑顔。丁寧で、優しくて、完璧な笑顔。
喫煙所での田山さんの笑顔。からかうような、でも、すごく自然な笑顔。
(どっちも、いいな)
佐々木は目を閉じた。
(明日も、二番レジに並ぼう)
そして、閉店後の喫煙所で、煙草を吸おう。
(また、会えるかな)
心臓が、また少しだけ速くなる。
佐々木は、そのまま眠りに落ちていった。
夢の中で、誰かが手を振っていた。
「また明日ね、おじさん」
その声は、山田さんの声で、田山さんの声だった。Noveliaとは?
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