スーパーSの裏で恋を吸うふたり
45歳・独身・疲れ切ったサラリーマンの佐々木。唯一の癒しは、スーパーSのレジで見せる新人パート・山田さんの完璧な笑顔。空いてるレジを無視して毎日二番レジに並ぶ、ちょっと不器用な日々。
だがある夜、閉店後の従業員喫煙所で出会ったのは——髪を下ろし、ピアスを揺らし、メンソール煙草を器用に咥える、素の彼女「田山」だった。
「おじさん、なんで空いてるのに二番レジに並ぶの?」
見透かすような笑顔。からかうような口調。でも、耳が少し赤くて。
「山田」と「田山」。二つの顔を持つ彼女に、佐々木は気づかないふりを決める。それが一番いいと思ったから。
でも、心臓は正直で——。
閉店後の喫煙所から始まる、じれったくてほろ苦い、大人のラブコメ。四十五歳、恋の吸い方はまだ分からない。
スーパーSの裏で恋を吸うふたり - 決意の喫煙所と、言えない二人
「おい佐々木! 聞いたぞ、お前、昨日スーパーで大活躍したんだってな!」
元気商事郊外支店の朝。佐々木がデスクに着くなり、鈴木が満面の笑みで近づいてきた。黒髪を七三分けにした、営業マンらしい髪型。人懐っこい茶色の瞳が、面白がるように細められている。左手の結婚指輪が、窓から差し込む朝日にちらりと光った。
「な、なんで、お前が知ってるんだ」
佐々木の声が、裏返りそうになる。
「なんでって、お前、あのスーパーの店員さんをかばって、本社の視察員に嘘ついたんだろ? もう支店中で噂になってるぜ。『佐々木主任、あの歳でヒーロー気取り』ってな」
鈴木が、佐々木の肩を軽く叩いた。その拍子に、佐々木の老眼鏡がずり落ちそうになる。佐々木は慌てて押し上げた。
「ち、違う! そういうんじゃなくて、その、成り行きで……」
「成り行きで、嘘までつくかよ。お前、あの店員さんに惚れてるだろ」
「だから違うって言ってるだろ!」
佐々木の声が、フロアに響いた。近くのデスクに座る同僚たちが、ちらちらとこちらを見ている。そのうちの一人が、小さく吹き出した。
(やめてくれ……)
佐々木は、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
鈴木は、佐々木の耳元に顔を寄せた。
「なあ、本当のところ、どうなんだよ。お前、あの店員さんと、ただの客と店員じゃないんだろ?」
佐々木の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「……鈴木。それ以上は、やめてくれ」
佐々木の声が、低くなった。自分でも驚くほど、真剣な声だった。
鈴木は、少しだけ目を見開いた。
「……悪い。調子に乗りすぎた」
鈴木は、佐々木の肩から手を離した。
「でもよ、お前が本気なら、俺は応援するぜ。お前が幸せになるなら、それでいい」
鈴木は、そう言って、自分のデスクへ戻っていった。
佐々木は、一人、デスクに座り込んだ。
(俺は、田山さんを、幸せにできるんだろうか)
(いや、そもそも、俺なんかが……)
パソコンの画面が、ぼんやりと光っている。佐々木は、キーボードに手を置いた。でも、指が動かない。
頭の中は、昨日のことでいっぱいだった。
視察員に嘘をついた。田山をかばった。そして、あの言葉を言った。
『君の笑顔を、なくしたくないんだ』
田山は、どんな顔で、あの言葉を聞いたんだろう。
佐々木は、スマホを取り出した。田山とのLINEのトーク画面を開く。最後のやり取りは、視察の前日のものだった。
(田山さん、今日、店に出てるかな)
(それとも、休んでるかな)
佐々木は、スマホを机に置いた。
(仕事しなきゃ)
(でも、集中できない)
佐々木は、深く息を吐いた。
___
定時になった瞬間、佐々木は足早に会社を出た。
(田山さんに、会いたい)
(謝りたい)
(俺のせいで、田山さんが、つらい思いをしていないか)
葛西野駅前の雑居ビルを出て、駅の南口へ向かう。秋の空気が、ひんやりと頬を撫でた。空は、どんよりと曇っている。今にも雨が降り出しそうな、重い空だった。
加野駅から、フレッシュマート加野店へ。徒歩十二分の道のり。
佐々木の足は、自然と早足になる。
(田山さん、無事でいてくれ)
(俺のせいで、店を辞めたりしていないでくれ)
佐々木は、胸の奥で、そう祈った。
___
フレッシュマート加野店。
自動ドアを抜けると、いつもの店内の空気。でも、佐々木の心は、ざわざわと落ち着かなかった。
(二番レジに、田山さんはいるか)
佐々木は、カゴも持たずに、レジの方へ歩いた。
二番レジ。
そこに立っていたのは、田山ではなかった。
小柄な女性。エプロンを着て、手際よくレジを打っている。胸元の名札には「前澤」とある。
(前澤さん……レジ部門のチーフだった人だ)
佐々木は、立ち尽くした。
「あら、佐々木さん。いらっしゃいませ」
前澤が、佐々木に気づいて、明るい声をかけた。
「あ、どうも……あの、山田さんは?」
佐々木は、恐る恐る尋ねた。
「ヤマさん? 今日は休みだよ。昨日から、なんか元気なかったけどね。店長が気を利かせて、休ませたんじゃない?」
前澤は、そう言って、レジを打ち続けた。
「……そう、ですか」
佐々木の胸が、ずきりと痛んだ。
(田山さん、やっぱり、俺のせいで……)
「佐々木さん、お買い物は?」
「あ、いえ、今日は、その……」
佐々木は、言葉を濁した。おかきも、缶ビールも、買う気になれなかった。
「そう。じゃあ、また今度」
前澤は、にこりと笑った。
佐々木は、小さく会釈して、店を出た。
___
店の裏口。
佐々木は、喫煙所のベンチに、一人で座っていた。
駐車場の北西の角。灰皿スタンドが二つ、ベンチが一台。フェンス越しに住宅街の明かりが、ぽつぽつと見える。街灯は弱く、あたりは薄暗い。
(田山さん、休んでる)
(俺のせいで)
佐々木は、ポケットから、メビウス・プレミアムの箱を取り出した。一本抜いて、百円ライターで火をつける。
煙を、肺に、深く吸い込む。
(俺は、田山さんに、何をしてしまったんだ)
(あの嘘は、田山さんを守るためだった)
(でも、田山さんは、責任を感じてる)
(俺の嘘が、田山さんを、もっと苦しめた)
佐々木は、煙を吐き出した。煙は、夜風に流されて、消えていった。
(どうすれば、良かったんだ)
(俺は、どうすれば、田山さんを守れたんだ)
佐々木は、うつむいた。
そのとき。
「やっぱり、ここにいたか」
低い、無表情な声。
顔を上げると、後藤が立っていた。黒髪のショートボブ。切れ長の黒い瞳。口元にほくろ。手には、加熱式タバコのデバイス。
「店長……」
佐々木は、慌てて立ち上がろうとした。
「座ってろ」
後藤は、佐々木の隣に、静かに腰を下ろした。
後藤は、加熱式タバコのスイッチを入れ、深く吸い込んだ。吐き出された煙は、紙巻きのそれよりずっと薄い。
沈黙。
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
「ザワから聞いたよ。山田、今日は休みだ」
後藤が、静かに言った。
「……はい。俺のせいです」
佐々木は、うつむいたまま、煙草を灰皿に押し付けた。
「あんたが嘘をついたことで、山田が責任を感じてる」
後藤の声は、相変わらず感情の読めない、平坦なものだった。
「……すみません」
「謝る相手が違うだろ」
佐々木は、何も言えなかった。
後藤は、加熱式タバコを、もう一度吸い込んだ。
「でもね、あんたの嘘は、優しさだ」
佐々木は、顔を上げた。
後藤は、前を向いたままだった。
「あんたは、山田を守りたかった。それだけだ。誰かを守るための嘘を、悪いとは言わない」
後藤の言葉は、静かだった。でも、その声には、確かな重みがあった。
「今度は、本当のことを言ってやれ」
後藤は、そう言った。
「本当のこと、ですか」
「あんたが、山田に、何を伝えたいか。それを、あんたの言葉で、言ってやれ。嘘でも、かばうでもなく、あんたの本音を」
佐々木の胸の奥が、じわりと熱くなった。
(本当のことを、言う)
(俺の、本音を)
佐々木は、自分の手を見た。
(でも、俺は、本社時代に、失敗した)
(部下をかばって、上司に盾突いて、左遷された)
(俺の言葉は、誰かを守れるのか?)
佐々木の頭の中に、あの日のことが、蘇ってきた。
___
八年前。
佐々木は、まだ本社勤務だった。
大きなプロジェクトのリーダーを任されていた。部下が五人。みんな、若くて、優秀だった。
でも、プロジェクトは、失敗した。
原因は、佐々木の判断ミス。部下の一人が、無理な納期を守るために、データを改ざんした。佐々木は、そのことを知りながら、上司に報告しなかった。
「部下を守りたかったんです」
佐々木は、そう言った。
でも、上司は、信じなかった。
「お前は、責任を逃れたかっただけだろ」
佐々木は、左遷された。
(俺は、あの時、何を守れたんだ?)
(部下を?)
(それとも、自分を?)
佐々木は、煙草を一本、取り出した。
火をつける。
(分からない)
(でも、田山さんには、あの時のような思いを、させたくない)
(俺の言葉で、田山さんを、傷つけたくない)
佐々木は、煙を、深く吸い込んだ。
「あんたの不器用さは、嫌いじゃないよ」
後藤が、ぽつりと言った。
佐々木は、驚いて、後藤を見た。
後藤は、加熱式タバコを灰皿に捨て、立ち上がった。
「じゃあな。山田には、明日、会えるといいな」
後藤は、店の裏口へ、消えていった。
佐々木は、一人、喫煙所に残された。
夜風が、冷たかった。
(明日、田山さんに、会おう)
(そして、俺の言葉で、伝えよう)
(俺は、君の笑顔を、なくしたくない)
(それだけを、伝えよう)
佐々木は、煙草を吸い終えて、立ち上がった。
___
翌朝。
佐々木は、いつもより三十分早く家を出た。
空は、昨日と同じように、どんよりと曇っていた。
(田山さんは、今日、出勤してくるだろうか)
(もし、来なかったら、どうしよう)
佐々木は、歩きながら、何度もスマホを確認した。田山からの連絡は、来ていなかった。
(大丈夫。きっと、会える)
佐々木は、自分に言い聞かせた。
フレッシュマート加野店の裏口。
佐々木は、喫煙所のベンチに座って、田山を待った。
朝の空気は、ひんやりとしていた。駐車場には、まだ車がまばらにしか停まっていない。
(田山さん、来てくれ)
佐々木は、ポケットの中の携帯灰皿を、指先でそっと撫でた。
田山に渡したものと同じ型の、佐々木自身の携帯灰皿。
その硬い感触が、佐々木の決意を、静かに支えていた。
___
十分ほど待っただろうか。
店の裏口のドアが、開いた。
田山だった。
髪は下ろされ、耳には小さなシルバーピアス。黒いパーカーに、ジーンズ。勤務前の、素の姿。
田山は、佐々木に気づくと、足を止めた。
「……おじさん」
田山の声が、少し震えていた。
佐々木は、立ち上がった。
「昨日は、すまなかった。俺のせいで、休ませてしまって」
佐々木は、深く頭を下げた。
田山は、しばらく黙っていた。
「おじさんのせいで、私、泣いちゃったじゃない」
田山の声が、怒りを含んでいた。でも、その目は、潤んでいた。
佐々木は、顔を上げた。
田山は、ポケットから、何かを取り出した。
それは、佐々木が渡した、携帯灰皿だった。
田山は、その携帯灰皿を、両手で、大事そうに握りしめていた。
「これ、ずっと、持ってるんだからね」
田山の声が、小さくなった。
佐々木の胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
(田山さん、俺のくれたものを、大事にしてくれてる)
(俺の言葉を、宝物みたいに、握りしめてくれてる)
佐々木は、喉の奥が、熱くなった。
「田山さん、俺は——」
佐々木は、言葉を続けようとした。
「俺は、君のことが——」
でも、言葉が、喉に詰まった。
(好きだ、と、言いたい)
(でも、言っていいのか?)
(俺は、四十五歳で、田山さんは、二十四歳で)
(俺なんかが、田山さんに、好きだなんて)
佐々木の心の中で、迷いが、渦巻いた。
「言わなくていい」
田山が、静かに言った。
佐々木は、田山を見た。
田山は、少しだけ、笑っていた。
「私も、まだ、上手く言えないから」
田山の笑顔は、泣きそうだった。でも、確かに、笑っていた。
「だから、今は、これで、いいの」
田山は、携帯灰皿を、胸の前で、ぎゅっと握りしめた。
佐々木は、何も言えなかった。
でも、胸の奥が、温かくなった。
(田山さんは、分かってくれてる)
(俺の、言葉にならない想いを)
(田山さんも、同じ気持ちでいてくれる)
佐々木は、うなずいた。
「……ああ」
佐々木の声は、少しだけ、震えていた。
___
二人は、並んで、ベンチに座った。
佐々木は、メビウス・プレミアムに火をつけた。
田山は、ピアニッシモ・メンソールに火をつけた。
煙が、二つ、空に昇っていく。
言葉は、なかった。
でも、二人の間には、確かな何かが、流れていた。
(言葉にならない想いを、煙に乗せて、空に吐き出す)
(それだけで、今は、十分だ)
佐々木は、そう思った。
田山が、ちらりと、佐々木を見た。
「おじさん、今日も、二番レジに並んでくれる?」
田山の声は、少しだけ、甘えを含んでいた。
「ああ、もちろん」
佐々木は、うなずいた。
田山は、嬉しそうに、笑った。
その笑顔は、勤務中の「山田」の笑顔とは、違っていた。
もっと、素直で、柔らかくて、温かい。
(ああ、俺は、この笑顔を、守りたい)
(この笑顔を、なくしたくない)
佐々木は、心の中で、そう強く思った。
(俺の不器用さを、受け入れよう)
(俺は、俺のやり方で、田山さんを守る)
(言葉にできなくても、隣にいる)
(それで、いいんだ)
佐々木は、煙を、深く吸い込んだ。
煙は、肺を満たして、ゆっくりと、吐き出されていった。
___
その日の夕方。
佐々木は、元気商事郊外支店の給湯室で、マグカップを洗っていた。
「おい、佐々木」
後ろから、鈴木の声。
「あ、鈴木か」
佐々木は、振り返った。
鈴木は、腕を組んで、にやにやしていた。
「で、本当のところ、どうなんだ?」
鈴木の声が、少しだけ、真剣になった。
「何がだよ」
「とぼけんな。あのスーパーの店員さんだよ。嘘までついて、かばったんだろ? お前、あの人に、本気なんだろ?」
鈴木の目は、まっすぐに、佐々木を見ていた。
佐々木は、少しだけ、黙った。
(本気、か)
(俺は、田山さんに、本気なのか)
佐々木は、自分の胸に、手を当てた。
(……分からない)
(でも、田山さんの笑顔を、守りたい)
(その気持ちは、嘘じゃない)
佐々木は、鈴木を見た。
「……まだ、分からない。でも、守りたい人がいる。それだけだ」
佐々木の声は、静かだった。でも、確かな決意が、込められていた。
鈴木は、少しだけ、目を見開いた。
「お前、そんな顔、できたんだな」
鈴木は、そう言って、笑った。
「応援するよ。お前が、幸せになれるなら、それでいい」
鈴木は、佐々木の肩を、軽く叩いた。
佐々木は、小さく、うなずいた。
(田山さん、俺は、まだ、上手く言えない)
(でも、俺は、君の隣にいる)
(これからも、ずっと)
佐々木は、窓の外を見た。
曇り空の隙間から、わずかに、夕日が差し込んでいた。Noveliaとは?
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