スーパーSの裏で恋を吸うふたり
45歳・独身・疲れ切ったサラリーマンの佐々木。唯一の癒しは、スーパーSのレジで見せる新人パート・山田さんの完璧な笑顔。空いてるレジを無視して毎日二番レジに並ぶ、ちょっと不器用な日々。
だがある夜、閉店後の従業員喫煙所で出会ったのは——髪を下ろし、ピアスを揺らし、メンソール煙草を器用に咥える、素の彼女「田山」だった。
「おじさん、なんで空いてるのに二番レジに並ぶの?」
見透かすような笑顔。からかうような口調。でも、耳が少し赤くて。
「山田」と「田山」。二つの顔を持つ彼女に、佐々木は気づかないふりを決める。それが一番いいと思ったから。
でも、心臓は正直で——。
閉店後の喫煙所から始まる、じれったくてほろ苦い、大人のラブコメ。四十五歳、恋の吸い方はまだ分からない。
スーパーSの裏で恋を吸うふたり - 雨の日の記憶と、煙草の煙の向こう
雨だった。
十月に入って最初の雨は、アスファルトを黒く濡らし、街の音を遠くにした。佐々木は元気商事郊外支店の玄関を出て、傘を広げた。ビニール傘の安っぽい音が、頭の上でぱらぱらと鳴る。
(今日は、早く帰ろう)
そう思っていたのに、足は自然と、加野駅とは反対の方向へ向かっていた。
(また、あの店か)
自分でも分かっている。フレッシュマート加野店。通称スーパーS。あの店の二番レジに並ぶことが、いつの間にか、疲れた一日の終わりの、ささやかな楽しみになっていた。
(いや、楽しみというか、その、なんというか)
佐々木は、頭の中で言い訳をした。
(おかきが、切れてたんだ。それに、缶ビールも)
歩きながら、ポケットの中の煙草の箱を探る。メビウス・プレミアム。残りは、あと三本。
(これも、買わないと)
傘の縁から、雨の粒が、ぽたり、ぽたりと落ちる。
その時だった。
不意に、記憶が、蘇った。
___
八年前。
佐々木は、まだ本社勤務だった。
毎日、終電近くまで働いて、ヘトヘトになって、駅まで歩いていた。
あの日も、雨だった。
梅雨の終わり頃の、しとしとと降る雨。
駅の改札を出て、傘を差して歩き出す。
その時、駅前のロータリーの隅で、小さな影が、うずくまっていた。
(……女の子?)
雨に濡れながら、膝を抱えて、肩を震わせている。
泣いていた。
佐々木は、足を止めた。
(どうしたんだろう)
声をかけるべきか、迷った。
変な大人に思われないだろうか。
でも、放っておけなかった。
佐々木は、少女に近づいて、そっと、傘を差し出した。
「……大丈夫?」
少女が、顔を上げた。
濡れた髪が、頬に張り付いている。
大きな目が、佐々木を見上げた。
その目は、真っ赤だった。
でも、佐々木を見た瞬間、少女は、ふわっと、笑った。
泣きながら、笑った。
「……ありがとう、ございます」
その笑顔は、今でも、佐々木の心の奥に、焼き付いていた。
___
(あの子は、今、どうしてるんだろう)
佐々木は、雨の道を歩きながら、ぼんやりと考えた。
(元気で、やってるだろうか)
(あの笑顔を、なくしていなければいいけど)
そして、ふと、思った。
(あの笑顔……)
(山田さんの笑顔に、似てる)
佐々木は、立ち止まった。
傘の下で、自分の心臓が、どくん、と音を立てた。
(まさか)
(いや、でも)
佐々木は、首を振った。
(考えすぎだ)
(あれから八年も経ってるんだ。それに、あの子は、もっと小さかった)
佐々木は、再び、歩き出した。
でも、一度浮かんだ考えは、なかなか消えなかった。
雨の音が、佐々木の心を、ざわざわとさせた。
___
フレッシュマート加野店に着いた時には、雨は、少し小降りになっていた。
自動ドアを抜けると、店内の明るい光と、食料品の匂いが、佐々木を包んだ。
(さて、今日は何を買おう)
佐々木は、カゴを手に取った。
でも、足は、また、二番レジの方へ向かっていた。
(いや、まだ、買い物は始まったばかりだ)
佐々木は、自分に言い聞かせた。
(とりあえず、おかきと、ビールと、それから)
佐々木は、店内を、ゆっくりと歩いた。
___
「いらっしゃいませ!」
二番レジから、明るい声が聞こえた。
佐々木の胸が、きゅっと、小さく鳴った。
(山田さんだ)
黒い髪を後ろで一つにまとめて、緑色のエプロンを着ている。
胸元の名札には「山田」。
完璧な笑顔。
(今日も、頑張ってる)
佐々木は、その姿を、遠くから見つめた。
山田は、お客さんに、にこにこと笑いかけている。
「ありがとうございました! またお越しくださいませ」
その声を聞いていると、佐々木の疲れた心が、じんわりと、温かくなった。
(ああ、やっぱり、俺は)
(この笑顔に、救われてる)
佐々木は、おかきの袋を手に取った。
(でも、あの記憶の少女と、山田さんが、同一人物だなんて)
(そんな偶然、あるわけがない)
佐々木は、心の中で、何度も、そう繰り返した。
___
閉店後。
雨は、まだ、やんでいなかった。
佐々木は、フレッシュマート加野店の裏口へと、傘を差して歩いた。
駐車場の北西の角。
フェンス越しに、住宅街の灯りが、雨に滲んで見える。
灰皿スタンドと、ベンチが一つ。
街灯の光は弱く、辺りは薄暗い。
佐々木が着いた時、ベンチには、先客がいた。
髪を下ろした、田山だった。
耳には、小さなシルバーピアス。
黒いパーカーのフードを、深く被っている。
手には、ピアニッシモ・メンソール。
「……あれ、おじさん、今日も来たの」
田山が、佐々木に気づいて、少しだけ目を丸くした。
「ああ、うん。なんとなく、来てしまった」
佐々木は、傘を畳んで、ベンチの端に座った。
田山との距離は、五十センチほど。
(この距離が、最近、心地いい)
佐々木は、ポケットから、メビウス・プレミアムを取り出した。
「おじさん、傘、持ってるじゃん。濡れなかった?」
田山が、佐々木の方を向いた。
「え? ああ、まあ、少しは濡れたけど」
佐々木は、自分の肩口を見た。
スーツの右肩が、じんわりと湿っている。
「なにそれ、傘差してるのに濡れてるとか、おじさん、傘の差し方下手すぎでしょ」
田山が、小さく笑った。
「な、なんでだよ。普通に差してたよ」
佐々木が、むきになって言うと、田山は、また笑った。
「ふふ、冗談だよ。おじさん、今日は、なんか、ぼーっとしてるじゃん」
田山の言葉に、佐々木は、ドキッとした。
(見抜かれてる)
(やっぱり、田山さんは、よく見てる)
「……いや、ちょっと、考え事をしてて」
佐々木は、煙草に火をつけた。
田山も、自分の煙草に火をつける。
二人の煙が、雨の夜の空気に、ゆっくりと溶けていく。
___
しばらく、無言だった。
雨の音だけが、二人の間に、静かに降り積もる。
田山が、煙を、空に向かって、ふうっと吐いた。
その横顔を、佐々木は、ちらりと見た。
(……あれ)
佐々木の胸の奥が、また、どくん、と鳴った。
(八年前の、あの子の笑顔)
(田山さんの、この横顔に、重なる)
佐々木は、慌てて、目を逸らした。
(違う。考えすぎだ)
(俺は、どうして、今日は、こんなに)
佐々木は、煙草を、深く吸い込んだ。
その時だった。
「ねえ、おじさん」
田山が、ぽつりと、言った。
「え? な、なに?」
佐々木の声が、少し、裏返った。
田山は、煙草の灰を、灰皿に落とした。
「八年前、駅前で、女の子に傘、差し出したことある?」
佐々木の指が、止まった。
煙草が、指から、滑り落ちそうになる。
(え)
(なんで)
(なんで、今、その話を)
佐々木の心臓が、ありえない速さで、脈打ち始めた。
「え、あ、その、なんで、急に……」
佐々木は、煙草を落としそうになりながら、慌てて持ち直した。
「なんでって、なんとなく。今日、雨だったから、思い出しただけだよ」
田山は、佐々木の動揺には、気づいていないように見えた。
いや、気づいていないふりを、しているのかもしれない。
「で、どうなの? あるの? ないの?」
田山が、佐々木の目を、じっと見つめた。
佐々木は、その目から、逃れられなかった。
「……あるような、ないような」
佐々木は、絞り出すように、言った。
「なにそれ、どっちなんだよ」
田山が、口をとがらせた。
「いや、その、昔のことで、よく覚えてなくて。傘を貸したような気もするし、気のせいかもしれないし」
佐々木は、しどろもどろに、言った。
(本当は、覚えてる)
(はっきりと、覚えてる)
(あの子の、泣き笑いの顔を)
(でも、言えない)
(言ったら、何かが、変わってしまう気がする)
「ふーん」
田山は、それだけ言うと、煙を、空に吐いた。
白い煙が、雨の闇に、ゆっくりと、消えていく。
___
田山は、それ以上、何も聞かなかった。
佐々木も、何も言わなかった。
でも、二人の間には、さっきまでとは、違う空気が流れていた。
(田山さんは、どうして、あんなことを聞いたんだろう)
佐々木は、煙草を吸いながら、考えた。
(まさか、田山さんも、あの日のことを)
(いや、でも、田山さんが、あの少女だっていう証拠は)
佐々木は、田山の横顔を、もう一度、見た。
雨に濡れた、黒い髪。
小さな、シルバーピアス。
長い、まつげ。
(……似てる)
(あの子に、似てる)
佐々木の胸が、きゅっと、締め付けられた。
(確かめたい)
(でも、確かめるのが、怖い)
(もし、違っていたら)
(もし、本当に、田山さんが、あの子だったら)
(俺は、どうすればいい)
佐々木は、煙草の煙を、深く、深く、吸い込んだ。
___
田山も、心の中で、同じことを考えていた。
(おじさん、覚えてるんだ)
(あの日のことを)
(あるような、ないような、なんて言いながら)
(本当は、覚えてるんだ)
田山は、煙草を、指先で、くるくると回した。
(あの日、私を助けてくれた、ボサボサ頭のサラリーマン)
(あれが、おじさんだったのかもしれない)
(いや、きっと、おじさんだ)
(あの、疲れた顔も、優しい目も)
(あの時の人に、そっくりだ)
田山の胸の奥が、じわりと、熱くなった。
(聞きたい)
(あの時の人ですかって、聞きたい)
(でも、聞けない)
(聞いたら、おじさんとの関係が、変わってしまう気がする)
(今のままの、喫煙所の仲間でいたい)
田山は、煙草を、灰皿に押し付けた。
「おじさん」
田山が、佐々木の方を向いた。
「な、なに?」
佐々木が、びくっと、肩を震わせた。
「おじさんはさ、なんで、私に優しいの?」
田山の声は、雨の音に、溶けて消えそうなくらい、小さかった。
佐々木は、言葉を、失った。
(なんで、優しいのか)
(それは)
(それは、君の笑顔を)
佐々木の喉が、きゅっと、締まった。
「……君の笑顔が、なくならないでほしいからだ」
佐々木は、やっとの思いで、言った。
その言葉は、佐々木自身の、心の奥底から、絞り出した言葉だった。
田山の目が、大きく、見開かれた。
その瞳が、みるみるうちに、潤んでいく。
(あ)
(まずい)
(泣かせてしまった)
佐々木は、慌てた。
でも、田山は、泣かなかった。
代わりに、ふっと、笑った。
「おじさん、それ、告白的に聞こえるんだけど」
田山の声は、少しだけ、震えていた。
「ち、違う! そういう意味じゃなくて! その、君の、仕事の笑顔というか、なんというか」
佐々木の顔に、一気に、熱が集まった。
「ふふ、知ってる」
田山が、笑った。
今度は、本当に、楽しそうに。
「おじさんの言いたいこと、なんとなく、分かってるよ」
田山は、そう言うと、ポケットから、何かを取り出した。
携帯灰皿だった。
佐々木が、視察の前に、プレゼントしたもの。
田山は、その携帯灰皿を、両手で、大事そうに、握りしめた。
「……ありがと」
田山の小さな声が、雨の音に、優しく、溶けていった。
佐々木は、何も言えなかった。
でも、胸の奥が、じんわりと、温かくなった。
(ああ、俺は)
(田山さんの、この笑顔を、守りたい)
(この笑顔のためなら、何でもできる)
佐々木は、煙草を、灰皿に押し付けた。
___
「そろそろ、帰るね」
田山が、立ち上がった。
「あ、ああ。気をつけて」
佐々木も、立ち上がった。
「おじさんこそ。傘、ちゃんと差しなよ」
田山が、いたずらっぽく、笑った。
「……あの、田山さん」
佐々木は、思い切って、言った。
「ん?」
田山が、振り返った。
「駅まで、送るよ。雨、まだ降ってるし」
佐々木は、傘を、差し出した。
「おじさん、傘、一本しかないでしょ」
田山が、笑った。
「あ、いや、その、だから、一緒に、入れば……」
佐々木は、自分で言っておきながら、恥ずかしくなった。
(何を言ってるんだ、俺は)
(相合傘を、しようって言ってるようなものじゃないか)
佐々木は、慌てて、言い直そうとした。
でも、その前に、田山が、動いた。
「いいの?」
田山が、佐々木の傘の中に、すっと、入ってきた。
(え)
(ええ?)
佐々木の心臓が、跳ねた。
田山の肩が、佐々木の腕に、軽く、触れる。
「……じゃ、お願いします」
田山が、小さく、言った。
「あ、ああ、うん」
佐々木は、傘を、田山の方に、傾けた。
自分の右肩が、雨に濡れていく。
でも、そんなことは、どうでもよかった。
(近い)
(田山さんが、近い)
(いい匂いがする)
佐々木は、頭の中が、真っ白になりそうだった。
___
二人は、無言で、駐車場を歩いた。
雨の音が、二人の足音を、包み込む。
「雨、やまないね」
田山が、ぽつりと、呟いた。
「ああ」
佐々木は、それだけ、答えた。
(やまないで、ほしい)
(この時間が、続いてほしい)
佐々木は、心の中で、そう思った。
駅までの、短い道のり。
でも、佐々木にとっては、永遠のように感じられた。
___
加野駅の改札前。
「ここで、大丈夫。ありがとね、おじさん」
田山が、傘の中から、一歩、外に出た。
「ああ。じゃあ、また明日」
佐々木は、傘を、畳んだ。
「うん。じゃあね、おじさん。また明日」
田山が、手を振った。
その笑顔は、勤務中の「山田」の笑顔とも、喫煙所の「田山」の笑顔とも、違っていた。
(ああ)
(この笑顔だ)
(八年前、あの子が、俺に見せてくれた笑顔は)
(きっと、こんな顔だった)
佐々木は、確信した。
でも、やっぱり、何も言えなかった。
「ああ、また明日」
佐々木は、小さく、手を振り返した。
田山は、改札の向こうに、消えていった。
佐々木は、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
雨が、佐々木の髪を、濡らした。
___
翌日。
雨は、上がっていた。
佐々木は、定時で仕事を終えると、いつものように、フレッシュマート加野店へ向かった。
(今日も、二番レジに、山田さんはいるだろうか)
佐々木の心は、昨日の夜から、ずっと、落ち着かなかった。
(田山さんは、あの後、ちゃんと家に帰れただろうか)
(俺の、あの言葉を、どう思っただろうか)
佐々木は、自動ドアをくぐった。
店内は、夕方の買い物客で、賑わっていた。
佐々木は、カゴを手に取り、二番レジの方を見た。
山田が、いた。
黒い髪を、後ろで一つにまとめて、完璧な笑顔で、レジを打っている。
「いらっしゃいませ!」
山田の声が、店内に、軽やかに響く。
佐々木は、その姿を見て、ほっとした。
(良かった。今日も、山田さんがいる)
佐々木は、おかきと、缶ビールを、カゴに入れた。
そして、二番レジに、並んだ。
___
「いらっしゃいませ! ポイントカードはお持ちですか?」
山田が、佐々木に、笑いかけた。
「あ、はい。持ってます」
佐々木は、財布から、ポイントカードを取り出した。
(この笑顔)
(この笑顔の奥に)
(田山さんの素顔と、八年前の少女の面影が、重なる)
佐々木は、山田の笑顔を、じっと見つめた。
「……あの、佐々木さん? どうかしましたか?」
山田が、首をかしげた。
「え? あ、いや、何でもないです。すみません」
佐々木は、慌てて、目を逸らした。
(俺は、もう)
(ただの常連客では、いられない)
佐々木は、自分の感情が、もう、止められないところまで来ていることを、自覚した。
___
その頃、田山は、喫煙所で、一人、煙草を吸っていた。
(おじさん、今日も、来るかな)
田山は、スマホの画面を、見つめた。
LINEのトーク画面。
佐々木との、やり取りが、表示されている。
(昨日の、相合傘)
(おじさんの、あの、優しい言葉)
田山は、思い出して、顔が、赤くなった。
(なに、照れてるんだ、私)
田山は、自分の頬を、ぺちぺちと、叩いた。
(でも、おじさん、本当に、私のこと、どう思ってるんだろう)
田山は、スマホの画面を、タップした。
『今日も来る?』
田山は、その文字を、打ち込んだ。
(送っちゃおう)
(だって、来てほしいし)
田山は、送信ボタンを、押した。
___
その頃、佐々木は、レジを終えて、店の外に出ていた。
スマホが、ポケットの中で、震えた。
「うわっ」
佐々木は、慌てて、スマホを取り出した。
(また、スマホの操作を、間違えたか)
佐々木は、画面を、恐る恐る、見た。
田山からの、LINEだった。
『今日も来る?』
佐々木の心臓が、跳ねた。
(田山さんから、メッセージが来た)
佐々木は、返信を、打とうとした。
でも、指が、震えて、うまく打てない。
『い』
(違う)
『いく』
(いや、漢字の方が)
佐々木は、何度も、文字を打ち直した。
(落ち着け、俺)
(たった二文字だろ)
佐々木は、深呼吸をして、もう一度、文字を打った。
『行く』
(これで、いい)
(シンプルで、分かりやすい)
佐々木は、送信ボタンを、押した。
(送れた)
佐々木は、ほっと、息を吐いた。
すぐに、田山から、返信が来た。
『了解。待ってるね』
その一言が、佐々木の心を、温かくした。
(ああ、俺は)
(田山さんに、会いに行く)
佐々木は、スマホを、ポケットにしまい、喫煙所へと、歩き出した。
雨上がりの空気が、ひんやりと、佐々木の頬を撫でた。
___
喫煙所に着くと、田山が、ベンチに座って、煙草を吸っていた。
「おじさん、来た」
田山が、佐々木を見つけて、嬉しそうに、笑った。
「ああ、お待たせ」
佐々木は、ベンチに、座った。
「別に、待ってないし」
田山が、ふいっと、横を向いた。
でも、口元は、笑っていた。
「そうか。なら、良かった」
佐々木は、煙草に、火をつけた。
(今日も、この場所で、田山さんと、煙草を吸う)
(この繰り返しが、俺の、幸せだ)
佐々木は、煙を、ゆっくりと、吐き出した。
田山も、煙を、吐いた。
二つの煙が、雨上がりの空に、ゆっくりと、昇っていく。
「ねえ、おじさん」
田山が、言った。
「ん?」
佐々木が、田山を見た。
「また、雨、降るかな」
田山が、空を、見上げた。
「……さあ、どうだろうな」
佐々木も、空を、見上げた。
厚い雲が、空を、覆っていた。
「降ったら、また、傘、入れてくれる?」
田山が、佐々木の方を、ちらりと、見た。
佐々木の心臓が、どくん、と、跳ねた。
「え、あ、その、もちろん、いいけど」
佐々木は、しどろもどろに、答えた。
「ふふ、冗談だよ」
田山が、笑った。
「……でも、本当に、降ったら、お願いね」
田山の声は、小さく、優しかった。
佐々木は、何も言えずに、ただ、うなずいた。
(田山さん)
(君は、本当に)
(俺を、どうしたいんだ)
佐々木は、煙草を、深く、吸い込んだ。
煙が、肺を、満たした。
でも、その煙よりも、田山の言葉の方が、ずっと、佐々木の心を、熱くした。
___
その夜。
佐々木は、アパートのベッドに、横たわっていた。
天井を、見つめる。
(八年前の、あの日のこと)
(田山さんの、あの質問)
(相合傘)
(そして、田山さんの、あの笑顔)
佐々木の頭の中は、田山のことで、いっぱいだった。
(俺は、田山さんに、惹かれている)
(それは、もう、間違いない)
(でも、俺は、田山さんに、何も、伝えられない)
(俺は、不器用で、臆病で、何もできない)
佐々木は、自分の手を、見つめた。
(でも、それでも)
(田山さんの隣に、いたい)
(その笑顔を、守りたい)
佐々木は、目を閉じた。
雨の音は、もう、聞こえなかった。
でも、佐々木の心の中には、雨の日の記憶と、田山の笑顔が、静かに、降り積もっていた。
そして、もう一つの、古い記憶が、佐々木の心の奥底で、小さく、うごめいていた。
(本社時代の、失敗)
(あの、暗い記憶)
(俺は、いつか、あれと、向き合わなければならない)
佐々木は、深い、ため息をついた。
夜は、静かに、更けていった。Noveliaとは?
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