スーパーSの裏で恋を吸うふたり
45歳・独身・疲れ切ったサラリーマンの佐々木。唯一の癒しは、スーパーSのレジで見せる新人パート・山田さんの完璧な笑顔。空いてるレジを無視して毎日二番レジに並ぶ、ちょっと不器用な日々。
だがある夜、閉店後の従業員喫煙所で出会ったのは——髪を下ろし、ピアスを揺らし、メンソール煙草を器用に咥える、素の彼女「田山」だった。
「おじさん、なんで空いてるのに二番レジに並ぶの?」
見透かすような笑顔。からかうような口調。でも、耳が少し赤くて。
「山田」と「田山」。二つの顔を持つ彼女に、佐々木は気づかないふりを決める。それが一番いいと思ったから。
でも、心臓は正直で——。
閉店後の喫煙所から始まる、じれったくてほろ苦い、大人のラブコメ。四十五歳、恋の吸い方はまだ分からない。
スーパーSの裏で恋を吸うふたり - 視察の足音と、震える携帯灰皿
閉店後の喫煙所は、秋の気配を含んだ夜風が吹き抜けていた。
駐車場の北西の角。灰皿スタンドが二つ、ベンチが一台。フェンス越しに住宅街の明かりがぽつぽつと見える。街灯は弱く、あたりは薄暗い。
田山はベンチに座り、ピアニッシモ・メンソールの箱を手の中で弄んでいた。髪は下ろされ、耳には小さなシルバーピアス。勤務中の姿とはまるで別人だ。
「あんた、今日は来ないと思ってた」
後藤が、喫煙所の入り口に立っていた。無表情で、手には加熱式タバコのデバイス。黒い髪のショートボブが、夜風にそっと揺れる。
「店長」
田山の声が、少しだけ硬くなった。
後藤は黙ってベンチに腰を下ろした。加熱式タバコのスイッチを入れ、深く吸い込む。吐き出された煙は、紙巻きのそれよりずっと薄い。
「本社から連絡が来た」
「……本社?」
「抜き打ち視察だ。明後日」
田山の指が、ピアニッシモの箱を握りしめた。
「視察って……あの、接客の?」
「そうだ。本社の視察員が来て、接客マニュアルの遵守度を採点する。休憩中の私語、身だしなみ、喫煙マナー。全部チェック対象だ」
後藤は淡々と言った。感情の読めない、いつもの声。
田山は唇を噛んだ。
(喫煙マナー……)
心臓のあたりが、ぎゅっと冷たくなった。
「……視察員は、閉店後も店に残るんですか」
「場合による。今回は本社から二名。うち一名は、店の外の従業員の行動も見るらしい。裏口の喫煙所も、チェックポイントに入っている」
田山は黙った。
指先が、かすかに震えている。
「あんたの接客は完璧だ」
後藤が、静かに言った。
「でも、昼休みの顔までは採点できないからね」
田山は、顔を曇らせた。
「……それ、どういう意味ですか」
「そのままだ。あんたは店の中では、よくやってる。誰も文句は言わない。だが、店の外のあんたは、私の知らないあんたなんだろう」
後藤は、加熱式タバコを吸い込んだ。
田山は、何も言えなかった。
(知られてる)
(どこまで知られてる?)
(それとも、ただの勘?)
後藤は、ゆっくりと煙を吐き出した。
「まあ、私が言いたいのは、気をつけろということだ」
「……はい」
田山は、うつむいた。
後藤は立ち上がった。
「視察が終わるまで、ここでの喫煙は控えた方がいいかもしれんな」
そう言い残して、後藤は店の裏口へ消えていった。
田山は、一人、ベンチに残された。
ピアニッシモ・メンソールの箱を開け、一本取り出す。百円ライターで火をつけようとしたが、指が震えて、うまく火がつかない。
「……っ」
三度目で、ようやく火がついた。
煙を、深く吸い込む。
(やめた方がいいのかな)
田山は、空を見上げた。
薄い雲が、月を隠していた。
___
その夜、佐々木はいつものようにスーパーSを訪れた。
仕事帰り。元気商事郊外支店での一日は、相変わらずの雑務と会議の連続だった。肩は凝り、目は疲れ、心はどこか重い。
それでも、足は自然とスーパーSへ向かう。
閉店十分前。佐々木はカゴを手に、惣菜コーナーへ。今日は生姜焼き弁当。それから、かきもち醤油味。缶ビールを一本。
レジは三台。二番レジの列に並ぶ。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか?」
山田の声。
黒い髪を後ろで一つにまとめ、緑色のエプロンをきちんと着ている。胸元の名札は「山田」。接客用の笑顔が、蛍光灯の下で輝いている。
(今日も、完璧な笑顔だ)
佐々木は、心の中でつぶやいた。
でも、今日は、何かが違う。
山田の笑顔が、ほんの少しだけ、固い。
(気のせいか?)
佐々木は、カゴをレジ台に置いた。
「お弁当、温めますか?」
「いや、大丈夫です」
「かしこまりました」
山田が商品をスキャンする。その指先が、わずかに震えているように見えた。
(やっぱり、何かあったんだ)
佐々木は、胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。
「千二百四十六円です」
佐々木は財布から小銭を取り出した。
「ちょうど、お預かりします」
山田が袋を差し出す。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
「……どうも」
佐々木は袋を受け取り、レジを離れた。
振り返ると、山田は次の客に笑顔を向けていた。
(いつも通りだ)
(でも、何かが、おかしい)
佐々木は、店の裏手へ回った。
喫煙所には、誰もいなかった。
ベンチに座り、メビウス・プレミアムに火をつける。
煙を肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
(田山さん、来るかな)
待つこと数分。
店の裏口から、人影が現れた。
髪を下ろした田山だった。
「……おじさん」
田山は、佐々木の隣に座った。
「お疲れ様です」
「うん」
田山は、煙草を取り出した。ピアニッシモ・メンソール。火をつける。
二人の間に、静かな沈黙が流れた。
いつもなら、田山の方から軽口を叩いてくる。
でも、今日は、黙っていた。
佐々木は、煙草を吸いながら、田山の横顔をちらりと見た。
(やっぱり、元気がない)
(何かあったんだな)
佐々木は、煙草を灰皿に押し付けた。
「……田山さん」
「なに?」
田山が、佐々木を見た。
「いや、その……今日、何かあったんですか?」
田山は、少し驚いた顔をした。
「……なんで?」
「なんでって……えっと、その、顔色が、あんまり良くないような」
佐々木は、しどろもどろに言った。
田山は、ふっと笑った。
でも、その笑顔は、いつものいたずらっぽいものじゃなかった。
「おじさん、意外と見てるんだね」
「え、あ、いや……」
田山は、煙草を灰皿に押し付けた。
「ねえ、おじさん」
「はい」
「私、店員、やめた方がいいのかな」
佐々木は、息を呑んだ。
(やめた方がいい?)
(田山さんが、店員を?)
「……どうして、急に」
「本社の視察が来るんだって。抜き打ちで。接客マニュアルのチェックだけじゃなくて、休憩中の私語とか、喫煙マナーとか、そういうのも見られるらしい」
田山は、うつむいた。
「私、店では、ちゃんとやってる。笑顔も、声掛けも、品出しも。でも、店の外では……こうやって、煙草吸って、髪下ろして、ピアスつけて」
田山は、耳のピアスに触れた。
「それがバレたら、山田としての信用が、なくなる」
「……信用?」
「そう。お客さんは、私の笑顔を見て、安心して買い物してる。でも、裏で煙草吸ってる女だって知ったら、幻滅するでしょ?」
田山の声が、震えていた。
「田山として生きることも、できない。山田でいることも、怖い。もう、どうすればいいのか、分からない」
佐々木は、胸が締め付けられるのを感じた。
(田山さん、こんなに悩んでたんだ)
(俺は、何も知らなかった)
佐々木は、自分の煙草の箱を握りしめた。
「……田山さん」
「なに?」
「俺は、田山さんの笑顔が、好きです」
田山が、顔を上げた。
「え?」
「いや、その、山田さんの笑顔も、好きなんですけど……田山さんの、素の笑顔も、俺は、いいと思います」
佐々木は、必死に言葉を紡いだ。
「だから、やめるなんて、言わないでください」
田山は、佐々木をじっと見つめた。
「……おじさん」
「はい」
「ありがと」
田山は、小さく笑った。
今度は、いつもの、いたずらっぽい笑顔に、少しだけ近かった。
___
視察前日。
佐々木は、仕事帰りに、ある店に寄った。
駅前の雑貨屋。
(これでいいか)
佐々木は、携帯灰皿を手に取った。
シンプルな銀色の携帯灰皿。自分が長年使っているものと、同じ型のもの。
(田山さん、喜んでくれるかな)
佐々木は、少し迷った。
(いや、でも、変に思われるかも)
(四十五歳のおじさんが、二十四歳の女の子に、携帯灰皿をプレゼント)
(……変だよな)
佐々木は、携帯灰皿を棚に戻した。
でも、また手に取った。
(でも、田山さん、煙草吸うとき、いつも灰皿を探してた)
(携帯灰皿があれば、どこでも吸える)
(視察のことも、少しは気が紛れるかも)
佐々木は、深呼吸をして、レジに向かった。
___
閉店後の喫煙所。
田山は、ベンチに座って、煙草を吸っていた。
「おじさん、今日も来たんだ」
「あ、はい。お疲れ様です」
佐々木は、田山の隣に座った。
「ねえ、おじさん、なんか隠してるでしょ」
田山が、にやりと笑った。
「え? な、なんで」
「だって、さっきからポケットばっかり気にしてるじゃん」
佐々木は、心臓が跳ねた。
(バレてる)
「ほら、何? 見せてよ」
田山が、佐々木に身を乗り出した。
「いや、その……大したものじゃないんですけど」
佐々木は、おそるおそるポケットから、小さな包みを取り出した。
「……これ」
田山は、包みを受け取った。
「開けていい?」
「どうぞ」
田山が、包みを開ける。
中から出てきたのは、銀色の携帯灰皿だった。
「……え?」
田山が、目を丸くした。
「携帯灰皿……?」
「あの、その……田山さん、いつも、灰皿を探してるなって思ってて。これがあれば、どこでも、煙草を吸えるかなって」
佐々木は、早口で説明した。
「俺が使ってるのと同じ型で……えっと、気に入らなかったら、別に使わなくてもいいんですけど」
田山は、携帯灰皿をじっと見つめた。
「……なんで、そこまでしてくれるの?」
田山の声が、少しだけ震えていた。
「え?」
「なんで、私のために、こんなことしてくれるの?」
田山が、佐々木の顔をまっすぐ見た。
「私、おじさんに、何もしてないよ。煙草を一緒に吸って、からかってるだけ。なのに、なんで」
佐々木は、言葉に詰まった。
(なんで、って……)
(それは、俺が、田山さんの笑顔を守りたいからで)
(でも、そんなこと、言えるわけない)
「……君が、笑顔でいられるなら」
佐々木は、言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「……俺の、気持ちです。使ってください」
佐々木は、うつむいた。
田山は、携帯灰皿を、両手で包み込むように持った。
「……おじさんって、ほんと、不器用だよね」
田山が、小さく笑った。
「こんなの、女の子へのプレゼントじゃないよ。普通は、もっと、かわいいものとか、おしゃれなものとか、そういうのを渡すんだよ」
「……すみません」
「でも」
田山は、携帯灰皿を、大事そうにポケットにしまった。
「私、これ、すごく嬉しい」
田山が、佐々木を見て、笑った。
「ありがと、おじさん」
その笑顔は、喫煙所の薄暗い灯りの中で、ひときわ輝いて見えた。
佐々木は、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
(ああ、やっぱり、この笑顔が、好きだ)
佐々木は、心の中で、そうつぶやいた。
___
その夜。
佐々木は、一人、喫煙所に座っていた。
田山は、先に帰っていた。
佐々木は、メビウス・プレミアムに火をつけた。
煙を肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
(明日、視察か)
佐々木は、空を見上げた。
月は、雲に隠れて、見えなかった。
(田山さん、大丈夫かな)
(俺に、何かできることはないか)
佐々木は、煙草を吸いながら、考えた。
そして、思い出した。
本社時代の失敗を。
___
八年前。
佐々木は、まだ本社勤務だった。
あるプロジェクトを任されていた。
若手ながら、期待されていた。
でも、部下の一人が、大きなミスをした。
佐々木は、部下をかばった。
「私の責任です」と、上司に報告した。
でも、上司は、佐々木の報告を聞き入れなかった。
「お前は、部下のミスを隠した。それが、一番の罪だ」
佐々木は、左遷された。
郊外支店へ。
(あの時、俺は、嘘をついたのか?)
(部下を守るために、事実を曲げたのか?)
(いや、違う。俺は、事実を報告した。でも、上司は、信じなかった)
佐々木は、煙草を灰皿に押し付けた。
(嘘をつくことと、誰かを守ることの違い)
(明日、俺は、嘘をつくかもしれない)
(田山さんを守るために)
佐々木は、新しい煙草に火をつけた。
(でも、それで、田山さんは、本当に守られるのか?)
(俺の嘘が、逆に、田山さんを傷つけることにならないか?)
佐々木は、煙を吐き出した。
煙は、夜風に流されて、消えていった。
(分からない)
(でも、明日、田山さんが困っていたら、俺は、何かをする)
(それだけは、決めた)
佐々木は、煙草を吸い終えて、立ち上がった。
___
視察当日の朝。
佐々木は、アパートの部屋で、スーツに着替えていた。
いつものように、出勤の準備。
でも、今日は、頭の片隅に、田山のことがあった。
(視察、今日だよな)
(田山さん、ちゃんと、笑顔で接客できてるかな)
佐々木は、ネクタイを締めながら、スマホを確認した。
田山からのLINEは、来ていなかった。
(まあ、忙しいだろうしな)
佐々木は、スマホをポケットにしまった。
そのとき。
スマホが、震えた。
着信。
画面を見ると、知らない番号。
(誰だ?)
佐々木は、少し迷ってから、電話に出た。
「はい、佐々木です」
「私だ。後藤だ」
「……店長?」
佐々木は、驚いた。
「どうして、店長が、俺の番号を」
「田山から聞いた。あんたと連絡先を交換したと」
後藤の声は、相変わらず無表情だった。
「それで、今日は、店に来ない方がいいかもしれない」
「……え?」
「視察員は、抜き打ちで、従業員の素行調査も行う。常連客のあんたが、閉店後に従業員と喫煙所で会っていると知れたら、田山に不利になる」
佐々木は、言葉を失った。
「……あんたも、薄々、気づいているんだろう。田山が、あんたと、特別な関係にあることを」
「いや、その……特別な関係とか、そういうのではなくて」
「どちらでもいい。だが、今日は、来ない方がいい。田山のためだ」
後藤は、そう言って、電話を切った。
佐々木は、スマホを握りしめたまま、立ち尽くした。
(店に来るな、か)
(田山のため、か)
佐々木は、ソファに座り込んだ。
(店長の言う通りだ)
(俺が行ったら、田山さんに迷惑がかかる)
(でも)
佐々木は、ポケットから、煙草の箱を取り出した。
(でも、俺は、田山さんの笑顔を守りたい)
(あの笑顔を、なくしたくない)
佐々木は、煙草を一本取り出した。
火をつけようとして、手が止まった。
(部屋の中じゃ、吸えない)
佐々木は、煙草を箱に戻した。
そして、立ち上がった。
(俺は、店に行く)
(田山さんが困っていたら、俺が、何とかする)
(嘘をついてでも、守る)
佐々木は、玄関に向かった。
靴を履き、ドアを開ける。
外は、曇り空だった。
今にも雨が降り出しそうな、重い空。
佐々木は、空を見上げた。
(田山さん、待っててください)
佐々木は、歩き出した。
ポケットの中の携帯灰皿が、足を踏み出すたびに、小さく揺れた。
それは、田山に渡したものと同じ型の、佐々木自身の携帯灰皿だった。
その感触が、佐々木の決意を、静かに後押ししていた。Noveliaとは?
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