サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマにとってヒーローランキングなどどうでもいい。今日はスーパーの特売を狙う、ただそれだけの日だった。しかし、静かな休日は玄関のチャイムによって打ち砕かれる。そこに立っていたのは、ほかならぬ戦慄のタツマキだった。普段は「ハゲ」と得意げに呼んでくる、あの小さなエスパーが、今は顔を真っ赤にして、もじもじとしている。
「あんたのせいで、あたしの頭がおかしくなったんだから!」
またもや彼女の超能力が暴走したおかげで、サイタマは突然、彼女の心を読めるようになってしまう。そして、その頭の中を覗いてみれば、自分に向けられた、病的で、支離滅裂で、そしてひどく淫らな感情の奔流があった。彼の平和で退屈な日常は、瞬く間に過去のものとなる。
しかし、面倒事はそれだけでは終わらなかった。妹である地獄のフブキが、姉の奇妙な行動に気づいたのだ。そして、タツマキの恋の相手が、自分が吹雪組に勧誘しようとしていたまさにその男だと知るや、フブキの長年の姉妹対抗心が激しく燃え上がる。彼女はサイタマの心、そしてそれ以上を狙い、自ら動き出すことを決意する。
一方、狡猾なシ
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜 - 高級レストランの修羅場——姉妹の恋心がぶつかる夜
違う、と思った。
あの日、タツマキが帰った後の部屋に残った空気は、妙に生ぬるくて、どこか甘ったるい匂いが染み付いた気がした。特売のチラシを眺めても、ちっとも頭に入ってこない。
(なんだったんだ、あれは)
サイタマはちゃぶ台に突っ伏した。無敵の拳は、このもやもやしたものに対してはまったく役に立たない。心を読むなんて面倒な現象に巻き込まれて、ただでさえ少ないやる気がゼロになった。
結局、あの後すぐに寝た。
そして翌日。金曜日。
夕方、またチャイムが鳴った。
「……今度はなんだ」
面倒くさいと思いながらドアを開ける。
そこに立っていたのは、タツマキではなかった。
黒く艶やかな髪に、ほんのり青い光が混ざったようなセミロング。透き通った水色の瞳が、じっとサイタマを見つめている。身長は百六十センチほどで、その体には、場違いなほど派手な黒のイブニングドレスがぴったりと張り付いていた。ドレスのスリットから、白い太ももがチラリとのぞく。
地獄のフブキ。B級一位。フブキグループを束ねる、カリスマめいたクールな女だ。
(なんでまた)
「[gentle]こんばんは、サイタマさん。今、少しお時間いただけますかしら」
声は落ち着いていて、それでいて耳の奥に残るような響きがあった。口元には完璧なほほえみが浮かんでいる。だが、その水色の瞳の奥は、まるで獲物を品定めするかのように冷たく光っていた。
彼女はサイタマの底知れない強さを狙って、スカウトしようとしていたはずだ。だけど、昨日のあの光景——姉のタツマキが見せた尋常じゃない動揺——を目撃してから、彼女の中で何かが変わった。
姉への対抗心。そして、誰にも媚びないこの男への、湧き上がる執着。
その二つが、フブキの心の中でぐるぐると渦を巻いていた。
「時間はあるけど……なんの用だ?」
サイタマはいつもの無気力な声で聞いた。今日着ているのは、洗い立ての白いTシャツにカーゴパンツ。フブキのドレスとはあまりにも釣り合わない。
「[gentle]少しお話が。それと、夕食でもいかがでしょう。もちろん、わたくしの奢りで」
「……奢り?」
「[gentle]ええ。A市に『天空の祭壇』というお店があるのですけど、そこのA5ランクの和牛が絶品でしてよ」
A5。和牛。奢り。
その単語が、サイタマの平坦な脳内でビリビリと火花を散らした。冷蔵庫には昨日の特売で買った豚こまがまだある。でも、タダで食える最高級の肉。これに勝るものはない。
「……行く」
即答だった。
フブキはほほえみを深くした。計算通り。まずは胃袋から。そういう戦略だ。
——でも、心のどこかで、計算だけじゃない熱が、ほんの少しだけ混ざり始めていることに、彼女自身まだ気づいていなかった。
◇
A市の中心部。ヒーロー協会本部ビルからほど近い、超高層ホテルの最上階。
レストラン『天空の祭壇』。
一面のガラス窓からは、A市の夜景が宝石箱をひっくり返したように輝いて見える。白いテーブルクロス、かすかに揺れるキャンドルの火、遠くで流れる生演奏のピアノ。
客はみな、金持ちそうな連中ばかりだ。スーツにドレス。そんな中、白Tシャツにカーゴパンツのサイタマは、場違いもいいところだった。
だが、サイタマはまったく気にしない。
「すげえ景色だな」
窓の外を見て、素直にそう言った。
「[gentle]ふふ、喜んでいただけて何よりですわ」
フブキはサイタマの正面ではなく、同じソファ席の隣に座る。距離が近い。香水の、甘くて少しだけスパイシーな香りがサイタマの鼻をくすぐった。
前菜、スープ、魚料理。
次々に運ばれてくる料理を、サイタマは無言で胃に収めていく。味はたぶん、すごくいいんだろう。柔らかいし、見た目も綺麗だ。
でも、少しだけ落ち着かない。
隣に座るフブキの存在感が、やけに肌にまとわりつくからだ。
「[gentle]サイタマさんは、どうしてヒーローを続けていらっしゃるの? 趣味、というわけでもなさそうですけど」
「趣味だ」
「[surprised]……まあ」
フブキは少し驚いたように目を丸くした。
「他にやることないしな」
「[gentle]ふふ、面白い方。では——」
その時、メインディッシュの和牛ステーキが運ばれてきた。
ジュウジュウと音を立てる鉄板の上で、分厚い肉が湯気を上げている。ナイフを入れると、信じられないくらい柔らかくて、肉汁がじわりと溢れ出した。
「うまそうだ」
サイタマがフォークを手に取った、まさにその瞬間。
テーブルの下で、何かが動いた。
つるりとした、温かい感触。
フブキの素足が、サイタマのふくらはぎをするりと撫で上げた。イブニングドレスのスリットから覗く白い脚が、ゆっくりとサイタマの脚に絡みつく。
(ん?)
サイタマの咀嚼が一瞬止まる。
「[whispers]姉より……大人でしょ?」
フブキの吐息が、耳元にかかった。くすぐったくて、少しだけむずむずする。サイタマは口の中の肉をゴクリと飲み込んだ。
「足、ぶつかってるぞ」
素直な指摘だった。
フブキは一瞬、きょとんとした顔をした。それから口元を引き締め、今度はもっと大胆に、太もも全体を押し付けるようにしてくる。
「[gentle]ぶつかってるのではなくて、わざと、ですわ」
「なんで?」
「[sad]……もう。本当に鈍いのですね、あなたって」
フブキはそう言うと、そっとサイタマの左手に自分の指を絡めた。ひんやりとしているのに、汗で少し湿っている。
「[whispers]わたくしが、あなたをお守りしてあげますわ。姉なんかより、ずっと」
彼女の心臓は、自分でも驚くほどドキドキと跳ねていた。これは作戦だ。ただの計算だ。姉から奪うことができれば、それでいい。そう、思っていたのに。
(この手、もう少し、握っていたい)
そんな気持ちが、胸の奥でふつふつと湧いている。
その時。
ザッ、と。
頭の中に、ノイズが走った。
『……………ぶっ……………殺す……………』
(うわ、またかよ)
サイタマの額に、冷や汗が浮かぶ。
窓の外。
地上二百メートルの空中に、小柄な影が浮かんでいた。エメラルドグリーンの髪が風で狂ったように逆立ち、金色の瞳が怒りでギラギラと光っている。戦慄のタツマキ。彼女の全身から放出される超能力の光が、まるでオーロラのように夜空を歪めていた。
『この泥棒猫……ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺すぶっ殺すぶっ殺す!!!!!』
思念波が、サイタマの脳を直接ガンガンと揺さぶる。まるで頭蓋骨の中でサイレンが鳴っているみたいだった。
『なんで、なんでよ……! 私だって、まだ手も握ってないのに! なんで先に、あんたなんかが、あいつの手を握ってるのよ!! あんなに柔らかそうに握って! いいなに……ずるい、ずるい、ずるい……』
怒りに震えていた声が、途中から泣き声に変わる。
『私だって、あんな風に隣に座りたい。大人っぽいドレスなんか着られないけど、それでも、私だって……あんたの隣は……』
「……おい、サイタマさん? 顔色が悪いですわよ」
フブキが怪訝そうな顔でサイタマをのぞき込む。
「いや、ちょっと……頭が……」
サイタマはこめかみを押さえながら、震える手でステーキを口に運んだ。肉の味はもうよくわからない。
『フブキ! 今すぐ離れなさい! その手を離せ! 今すぐよ!』
ガシャァァァン!!!
爆音がして、壁一面の分厚いガラスが粉々に砕け散った。
甲高い悲鳴がレストラン中に響き渡る。客たちがテーブルの下に潜り込む中、タツマキがゆっくりと着地した。裸足でガラスの破片を踏みつけながら、肩で息をしている。顔は、怒りと恥ずかしさで茹で上がったように真っ赤だ。
「[angry]なにしてるのよ、フブキ!! その男は……その……そのっ!!」
フブキは動じない。絡めた指を解かずに、冷たい目を姉に向けた。
「[cold]お姉ちゃんこそ、なにをしているの? お付き合いしているわけでもないのに、邪魔をしないでくださる?」
「[angry]なっ……! あ、あんたには関係ないでしょ!!」
「[sarcastic]関係なくはないですわね。お姉ちゃんはいつもそう。素直じゃないから、なんでも拗らせて、周りに迷惑をかける」
「[angry]あんたこそ、計算高すぎるのよ! いつだってそう! 優しいフリして、自分の得になることしか考えてないくせに!!」
サイタマはただ、肉を咀嚼していた。
というか、咀嚼しようと努力していた。まるで砂を噛んでいるみたいな味しかしない。頭の中の姉妹の大げんかと、生の喧嘩がステレオで聞こえてくる地獄絵図。
『あんたなんかにサイタマは渡さない……! 私の方がずっと、ずっと前から……』
思念波が泣いている。
ダメだ。
これは、マジで、面倒くさい。
サイタマはゆっくりと最後の肉を飲み込むと、フォークをカチリと皿に置いた。
「……二人とも、落ち着け」
声はいつも通り、平坦だった。
でも、不思議と二人の動きがピタリと止まる。
「[angry]あ、あんたは黙っててよ! これはあんたのせいでもあるんだからね!」
タツマキがキッとサイタマをにらみつける。
その瞬間、思念波が、小さな、か細い声で流れ込んできた。
『……あんたにだけは、言われたくない。だって、あんたがこんな風にさせるんだもん。私をこんな風にしたのは、全部あんたのせい。なのに、どうしてわかってくれないの……』
声が、涙で濡れている。
サイタマは目を閉じた。
そして、言った。
「……これより、昨日の特売で買った豚こまの方が、美味かったな」
しん、と。
グラスの中の氷がカランと鳴る音さえ聞こえそうな静けさが、壊れたレストランを包んだ。
タツマキとフブキは、ぽかんと口を開けてサイタマを見つめている。
さっきまで殺気立っていたタツマキのオーラが、ふっと力を失った。フブキは何度か瞬きをしてから、小さくため息をつく。そしてクスッと、笑った。
「[laughing]……あらあら。これを言われてしまっては、戦意も喪失してしまいますわ」
「[sad]……バカじゃないの。本当にバカ。最高級の肉を出してもらって、なんてこと言うのよ」
タツマキの声が、情けなさと呆れで震えている。
怒りの頂点は過ぎた。
崩れ落ちた窓から、冷たい夜風が吹き込んでくる。
フブキはようやくサイタマの手を離すと、優雅に立ち上がった。ガラスの破片をハイヒールで踏みつけ、サイタマの耳に顔を寄せる。
「[whispers]……また、お会いしましょう。今度は誰もいないところで、ゆっくりと」
吐息が、耳の産毛をくすぐる。
その声は、紛れもなくタツマキの耳にも届いていた。
「[angry]……フブキィィィ!! 次にやったら、本当にぶっ殺すからね!!!」
タツマキはキンキンに裏返った声で叫ぶと、ふわりと浮かび上がり、フブキに向かって飛んでいく。フブキは涼しい顔でヒールを鳴らしながら、エレベーターの方へ歩き去っていった。
残されたのは、粉々のガラスと高級料理の残骸。
逃げ遅れた金持ち客数人。あと、サイタマ。
「……女って、めんどくせえ」
サイタマは誰に言うでもなく、つぶやいた。
だけど。
胸の奥の、ずっと退屈で乾ききっていた場所が、ほんの少しだけざわついている。自分でも処理しきれない未知の感情が、ほんの一滴だけ、そこに染み込んだような気がした。
(まあ、でも、肉はタダだったしな)
サイタマは壊れた非常口から外の廊下へと歩き出す。
その後ろ姿を、遠くでまだ睨み合っている姉妹には気づかれないように、そっと見つめている二つの視線があった。
別れ別れになりながらも、二人の心には同じ男の顔が焼き付いている。
その男は、何も知らずに、明日の特売のことを考えながら、ゆっくりと夜の街に消えていった。