サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマにとってヒーローランキングなどどうでもいい。今日はスーパーの特売を狙う、ただそれだけの日だった。しかし、静かな休日は玄関のチャイムによって打ち砕かれる。そこに立っていたのは、ほかならぬ戦慄のタツマキだった。普段は「ハゲ」と得意げに呼んでくる、あの小さなエスパーが、今は顔を真っ赤にして、もじもじとしている。
「あんたのせいで、あたしの頭がおかしくなったんだから!」
またもや彼女の超能力が暴走したおかげで、サイタマは突然、彼女の心を読めるようになってしまう。そして、その頭の中を覗いてみれば、自分に向けられた、病的で、支離滅裂で、そしてひどく淫らな感情の奔流があった。彼の平和で退屈な日常は、瞬く間に過去のものとなる。
しかし、面倒事はそれだけでは終わらなかった。妹である地獄のフブキが、姉の奇妙な行動に気づいたのだ。そして、タツマキの恋の相手が、自分が吹雪組に勧誘しようとしていたまさにその男だと知るや、フブキの長年の姉妹対抗心が激しく燃え上がる。彼女はサイタマの心、そしてそれ以上を狙い、自ら動き出すことを決意する。
一方、狡猾なシ
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜 - 拳が届かない場所——壁の前で、初めて泣いた男
違う、と思った。
頭ではわかっている。怪人を倒す拳が、法や権力に通じるわけがない。でも、あの時——フブキが血まみれで倒れた時、タツマキが連れ去られる時——俺は、何もできなかった。
サイタマは日曜の朝、Z市総合病院の廊下に立っていた。
消毒液と薬品の混ざった冷たい空気が、肺の奥にまで染み込んでくる。白い壁と白い床。窓から差し込む薄曇りの光が、すべてを無機質に照らしていた。
目の前には、分厚いガラスの窓。
その向こう側で、フブキは眠っていた。
左肩から脇腹にかけて、分厚い包帯がぐるぐると巻かれている。点滴のチューブが細い腕に刺さり、心電図のモニターが規則正しく彼女の鼓動を示すピッ、ピッ、という電子音だけが、静かな病室に響いている。
サイタマはガラスに手のひらを当てた。
つめたい。
(こいつ、こんなに細かったのか)
いつも自信満々で、サイタマの部屋に押しかけてきてはフブキグループとか言ってわけのわからない勧誘をしてきた女だ。でも今は、白いシーツの上で、壊れた人形のように横たわっている。
「今夜が峠です」
背後で、担当医が静かに言った。
サイタマは振り返らなかった。ガラス越しにフブキを見つめたまま、その声を聞いていた。
「左肩から脇腹にかけての裂傷が深く、大量の出血がありました。輸血で何とか持ちこたえていますが——今夜、熱が上がったら危険です」
何も返せない。
何も言えねえ。
昨夜、フブキが倒れる直前に姉に囁いた言葉が、頭の中で繰り返される。
——ちゃんと伝えなきゃダメだよ。
自分の体が切り裂かれながら、最後に残した言葉が、それだった。
サイタマは拳を握った。
力では、守れないものがある。
この冷たいガラスをぶっ壊して中に入ることなんて簡単にできる。でも、壊しても意味がない。壊したところで、彼女の傷は治らない。
それどころか、騒ぎになればフブキの治療の邪魔になる。
(俺にできることは、何もねえのか)
初めての感覚だった。
無敵の強さを持つこの拳が、何の役にも立たないという現実。
サイタマは、しばらく動けなかった。
◇
A市。
ヒーロー協会本部ビルは、曇り空の下でもなお銀色の光を反射してそびえ立っていた。50階建ての超高層。ここには、この国のヒーロー制度の全てが詰まっている。
サイタマは自動ドアをくぐった。
1階の受付フロア。休日というのに、職員たちが慌ただしく行き交っている。壁一面に設置された巨大モニターには、全国の怪人出没情報がリアルタイムで表示されていた。
「受付に用はねえ」
サイタマは正面のカウンターを無視して、そのままエレベーターホールへ向かった。
受付嬢が何か叫んでいるが、無視する。
目的は一つだ。タツマキを返してもらう。
エレベーターに乗り込み、閉ボタンを押す。
扉が閉まる寸前、一人の黒服の男が滑り込んできた。
細身で、銀縁の眼鏡をかけた、40代くらいの男だ。顔には薄い笑みを浮かべている。
「B級ヒーロー、サイタマさんですね」
「ああ」
「お待ちしておりました」
男は、サイタマの横に立ったまま、手に持った厚い書類の束をポンポンと叩いた。
エレベーターが上昇する。
数字が刻々と変わるごとに、サイタマの胸に重苦しいものが積み上がっていく。
18階で扉が開いた。
長い廊下。両側には弁護士事務所のような重厚な扉が並んでいる。男はサイタマをそのうちの一室へと案内した。
中は、会議室だった。
無機質なテーブルと椅子。壁には協会の規則が額縁に入れて掛けられている。
「どうぞお座りください」
「いらねえ。用件だけ言え」
「では」
男は笑みを消さないまま、書類の束をテーブルに置いた。
そして、一枚一枚、整然と並べていく。
「第一に、シルバーファング様からの正式な命令書。S級エスパー・タツマキの能力暴走に関する調査および保護拘束は、協会上層部の全会一致で承認されております」
次の書類。
「第二に、ヒーロー法第17条。能力暴走により市民および同僚ヒーローに危害を及ぼしたヒーローは、協会の判断により一時的に拘束、能力の抑制処置を施すことができる——」
次の書類。
「第三に、妨害罪適用条項。現在進行中の公式調査に対して、第三者が妨害行為を行った場合、その者はヒーロー登録を抹消され、社会的信用も完全に剥奪されます」
男は、最後の書類をそっと差し出した。
「これは、あなたに向けたものではありません。戦慄のタツマキと地獄のフブキ——この二人のヒーロー登録抹消に関する同意書です。あなたがここで——仮に暴力沙汰を起こした場合、この書類は即時に執行されます」
サイタマは無言だった。
右手が、小さく震える。
(殴れる)
この男も、廊下にいる警備員も、このビルの連中全部をまとめてワンパンで吹き飛ばせる。誰も俺を止められない。
でも。
殴った瞬間、あの二人のヒーロー人生は終わる。
登録を抹消されるだけじゃない。社会的信用がゼロになる。ヒーロー協会が本気で動けば、彼女たちは二度とこの国でまともに生きられなくなる。
「わかっておられるようですね」
男の笑みが、少しだけ深くなった。
「拳だけではどうにもならないことがある——誰よりも、あなたが一番よくご存知なはずだ」
サイタマは、拳を握ったまま、動けなかった。
生まれて初めて、この拳が重かった。
殴れない拳が、重力を持って腕にぶら下がっている。
それだけで、肩が潰れそうだった。
「……わかった」
その一言を絞り出すのに、どれほどの力が必要だったか。
サイタマは書類を受け取った。
そして、何も言わずに会議室を出た。
◇
夕方。
Z市のゴーストタウンに戻った頃には、空はどんよりと曇り、冷たい風が吹き始めていた。
グリーンハイツZの203号室。
サイタマは、何も買わずに帰宅した。
今日は日曜日だ。いつもなら特売の戦利品を袋に詰めて、今夜の献立を考えながら帰ってくる時間だった。でも、手にはスーパーの袋はない。代わりに、協会から受け取った書類の束だけを握りしめている。
サイタマはちゃぶ台の前に座り込んだ。
壁にもたれて、膝を抱える。
部屋は暗い。電気をつける気にもならなかった。
ちゃぶ台の上には、先週の特売チラシがまだ置いてある。豚こま100グラム68ゼニー。木曜日はポイント2倍。いつもなら、それを見るだけで明日の楽しみができた。
今は、ただの紙切れだ。
(俺が、もっと早く気づいていれば)
頭の中で、同じ言葉が繰り返される。
タツマキの思念波。あの時、俺の頭に直接響いてきた声。助けて、と。言えなかった告白。彼女はずっと、叫んでいたんだ。自分の気持ちを、どう表現していいかわからないまま、それでも必死に、俺にだけは伝えようとしていた。
でも、俺は。
「ただのうるせえエスパーだと思ってた」
乾いた声が、部屋にこぼれた。
無関心だった。面倒くせえ、知るか、と。それで終わらせていた。
あの時、もっと真面目に彼女の声を聞いていれば。
あの時、もっと早く何かできていれば。
フブキは血まみれにならずに済んだかもしれない。タツマキは連れ去られずに済んだかもしれない。
サイタマは右の拳を壁に叩きつけた。
ドッ。
コンクリートにヒビが入る。震える手をもう一度握りしめて、また叩きつける。
ドッ。ドッ。ドッ。
何度も、何度も。
でも、殴ったところで何も変わらない。
この拳は怪人を粉々にできるのに、目の前の壁すら、本当には壊せない。
サイタマは壁に額をつけた。
冷たいコンクリートの感触。そのひんやりとした固さだけが、今はただ、現実だった。
ぽた、と。
床に何かが落ちる。
それが自分の涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
C級ヒーローが最強であることは、関係ない。
好きな人一人を守れない。助けられない。
拳を振り上げることさえ許されないまま、ただ指をくわえて見ていることしかできない——そんな自分が、初めて、本当に情けなかった。
◇
深夜。
A市、ヒーロー協会本部ビルの地下深く。
ここは、一般職員すら立ち入ることのできない極秘の研究施設だった。
蛍光灯の冷たい光が、無機質な金属の廊下をぼんやりと照らしている。いくつもの防護壁と監視カメラの先、厚い鋼鉄の扉の向こうに、その部屋はあった。
5メートル四方のコンクリートの小部屋。
窓はない。ベッドもない。
ただ、中央に金属製の椅子だけが置かれている。
その椅子に、戦慄のタツマキは座らされていた。
両手首には、分厚い抑制デバイスがはめ込まれている。銀色の金属の輪が、細い手首をぎりぎりと締め付けていた。首にも同じようなデバイスが巻かれ、小さなランプが赤く点滅している。
「……はあ」
タツマキは小さく息を吐いた。
超能力が、完全に封じられている。体中を巡っていた力が、鉛のように重く淀んで、まったく動かない。
(こんなの、初めてだわ)
物心ついた時から、力は自分の一部だった。息をするのと同じくらい、自然に使えていた。
でも今、自分はただの無力な女の子だ。
監視カメラの赤い光が、暗闇の中でじっと彼女を見つめている。
タツマキはそれに気づいていたけど、どうでもよかった。
彼女は膝の上に手を置き、自分の指を見つめる。
(あんたに、言いたいことがあったのに)
サイタマ——あのバカで、ハゲで、いつも面倒くさそうな顔してるくせに、誰よりも強い男。
いつからだろう。
最初はただ、自分以外にもこんなに強い奴がいることが気に食わなかった。認めたくなかった。でも、気づけばいつも、彼のことばかり考えていた。
一緒にいてほしい。
隣に座って、なんでもない話がしたい。
部屋でゴロゴロしてるあいつの隣にいれば、それだけで、多分私は落ち着ける。
最強のエスパーである自分が、ただの男一人にこんなに縋りつくなんて。
「……笑えるわね」
自嘲の笑みがこぼれた。
でも、これが本心だった。
強いだけじゃ、どうにもならないこともある。
この感情だけは、超能力でもどうにもできなかった。
タツマキは目を閉じた。
(届くかどうか、わかんないけど)
暗闇の中で、残ったわずかな精神力を、すべて絞り出す。
抑制デバイスが邪魔をして、思念は散り散りになりそうだった。それでも彼女は、叫ぶように、祈るように、想いを放った。
◇
同じ深夜。
Z市、グリーンハイツZの203号室。
サイタマはまだ、暗い部屋で床に座ったままだった。
涙はもう、乾いていた。
ただ、何も考えられずに、壁を見つめている。
その時——。
頭の奥に、ノイズのような感覚が走った。
ザッ、ザザッ……。
テレビの砂嵐に似た、不快な音。でも、その向こうから、かすかに聞こえる。
——……サイタマ……
サイタマの目が、かっと見開かれた。
この声は。
——……助けに……来て……
声は震えている。今にも消え入りそうなほど、弱く、細い。
——……お願い……一人は……嫌だ……
声と一緒に、一瞬のイメージが脳裏に流れ込んだ。
薄暗い部屋。冷たい金属の椅子。タツマキが膝を抱えて、震えている。その目からは涙がこぼれていて、唇が何かを必死に紡いでいる。
「……タツマキ」
サイタマはつぶやいた。
声は、届いたのか。
180キロ離れた場所から。
あいつは、今もまだ俺に、助けを求めてるのか。
目の奥が、熱くなった。
でも、さっきまでとは違う。
さっきまでのは、無力感と後悔の涙だった。
今、胸の奥に灯ったのは——違う。
これは、決意だ。
サイタマは涙を手の甲で拭った。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……わかった」
声は、誰にともなく、自分自身に向けてこぼれた。
法の壁を越えて、地下ラボに侵入する。抑制装置のコアを物理的に叩き壊す。
どうやって?
まだわからない。
でも、方法は絶対にある。だって俺の拳は、まだ誰にも止められていない。
それがタツマキを縛る装置だって、ぶっ壊せないはずがない。
サイタマはジャージの袖をまくった。
顔を上げたその目には、もう迷いはなかった。
◇
同じ頃、地下ラボで。
タツマキは、ゆっくりと目を閉じた。
思念波を送り切って、すべての力を使い果たした体は、もう指一本動かせないほどに疲れ果てている。
でも、胸の奥は、さっきより少しだけ軽くなっていた。
(届いて……)
それが確信なのか、祈りなのか、自分でもわからない。
でも、もし届いたのなら。
あいつはきっと、来る。
根拠はない。あれだけ無関心そうな顔してるくせに、本当は誰よりも優しい奴だ。
(私、あんたが思ってるよりずっと、あんたのこと——)
そこまで考えて、タツマキは意識を手放した。
監視カメラの赤いランプだけが、静かな部屋の中で、規則正しく点滅し続けている。