サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマにとってヒーローランキングなどどうでもいい。今日はスーパーの特売を狙う、ただそれだけの日だった。しかし、静かな休日は玄関のチャイムによって打ち砕かれる。そこに立っていたのは、ほかならぬ戦慄のタツマキだった。普段は「ハゲ」と得意げに呼んでくる、あの小さなエスパーが、今は顔を真っ赤にして、もじもじとしている。
「あんたのせいで、あたしの頭がおかしくなったんだから!」
またもや彼女の超能力が暴走したおかげで、サイタマは突然、彼女の心を読めるようになってしまう。そして、その頭の中を覗いてみれば、自分に向けられた、病的で、支離滅裂で、そしてひどく淫らな感情の奔流があった。彼の平和で退屈な日常は、瞬く間に過去のものとなる。
しかし、面倒事はそれだけでは終わらなかった。妹である地獄のフブキが、姉の奇妙な行動に気づいたのだ。そして、タツマキの恋の相手が、自分が吹雪組に勧誘しようとしていたまさにその男だと知るや、フブキの長年の姉妹対抗心が激しく燃え上がる。彼女はサイタマの心、そしてそれ以上を狙い、自ら動き出すことを決意する。
一方、狡猾なシ
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜 - 護衛任務という名の罠——武道場の老人と、心に降る嵐
違う、と思った。
昨夜の騒動が、まだ頭の奥で小さく火花を散らしている。
高級レストランでタダ飯にありつけたのはいい。だが、頭に直接響く思念波の絶叫と、フブキの脚の感触は、いつもの「面倒くせえ」だけで片付けられない何かを、胸の隅っこにへばりつかせていた。
土曜の早朝。
窓の外はまだ薄暗い。廃墟の向こうから聞こえるカラスの鳴き声で、サイタマは目を覚ました。
枕元に置いた特売チラシに手を伸ばす。
「……肉の日、か」
今日は月に一度のスペシャルセール。豚こまだけじゃない。鶏ももも、合い挽きミンチも、いつもより三割は安い。
その時だった。
ブブブ、と。
ちゃぶ台の上のヒーロー手帳が、無機質に震えた。
「ん?」
手に取る。画面にはヒーロー協会のロゴと、短い指令文。
『緊急出動要請。S級2位・戦慄のタツマキ、B級1位・地獄のフブキ、両名のZ市旧都心廃墟における合同任務。B級・サイタマは両名の護衛および戦闘補佐に当たれ。現地集合、遅延は認めず。』
サイタマは無言で画面を見つめた。
(護衛? あの二人を?)
昨日の今日だ。偶然とは思えない。
でも、面倒くさい。
「……まあいいか。特売は午後だし」
深く考えず、黄色いジャージを着込んだ。
◇
A市。
空へと伸びるヒーロー協会本部ビル。その上層階の一室は、重苦しい静けさに満ちていた。
モニターの青白い光だけが、室内を照らしている。
椅子に深く腰掛け、その光を見つめる影が一つ。
後ろで束ねた白銀の長い髪。顔にはいくつもの古い傷跡。厳つい顔立ちに、ぎらりと光る銀の瞳。口元に走る薄い傷が、動くたびに歪んだ笑みを作る。
S級3位、シルバーファング。
彼の前には、つい先ほど協会上層部へと提出したばかりの、極秘レポートのコピーが広がっている。
タイトルは『S級エスパー・タツマキの能力暴走と、特定個人への感情的依存に関する分析』。
「……ふむ」
彼はモニターを操作した。
画面に映し出されるのは、Z市の地図と三つの輝点。サイタマ、タツマキ、フブキの現在地を示すシグナルだ。
「感情の揺れが大きいほど、データは豊富になる。これはいい機会だ」
彼は落ち着き払った声で呟くと、別のウィンドウを開いた。
そこには、今朝方Z市旧都心廃墟で複数の鬼級怪人反応を観測したという情報が映し出される。
「彼が同行すればまず問題はない。問題は、姉妹の感情がどこまで乱れるかだな」
指がキーボードを叩く。
三人の派遣ルート、予想される怪人との接触地点、そして感情暴走が最も起こりやすい閉鎖空間。
全てが、計算の上だった。
しばらくして、サイタマのヒーロー手帳に送ったのと同じ内容の通知が、A市の高級マンションにいる姉妹のもとにも届く。
「三人の配置、完了」
シルバーファングは背もたれに体を預け、スクリーンを見据えた。
◇
出発前。
サイタマは、なぜか足がZ市の郊外にあるシルバーファング道場へと向いていた。
特に理由はない。なんとなく、だ。
(あのジジイ、なんか言ってたな。飯でも食いに来いって)
道場の重い木戸をくぐると、白髪の武道家が静かに茶を啜っていた。
「……おお、来たか」
シルバーファングは顔を上げると、含みのある笑みを浮かべた。先ほどまで協会で見せていた、計算高い表情は一切ない。穏やかな老人の顔だ。
「なんか、呼ばれた気がしただけっす」
「それは重畳」
シルバーファングは茶を一口。
「強い者ほど、自分の心の乱れを整えるのは難しいものだ。君はどうだ、サイタマ君」
「心の乱れ?」
サイタマはきょとんとした顔で、しばらく考えた。
「……ああ、そういえば昨日、豚こまの特売でキャベツも一緒に買おうか迷ったんすよね。あれ、まだ冷蔵庫にあるし。でも、今日の肉の日でまた買うかもしれないから、場所を空けとくべきか——」
シルバーファングは、ただ黙ってその話を聞いた。
銀色の瞳が、サイタマの表情、声のトーン、動きの一つ一つを静かに観察している。
(感情の揺らぎが極端に小さい。これが彼の精神耐性か。だが——)
「悩みが豚こまで済むとは、うらやましい限りだな」
シルバーファングは立ち上がると、サイタマの肩をポンと叩いた。
サイタマは少しだけ眉をひそめた。
(このジジイ、ちょっと苦手だ)
敵意はない。だが、何かを探られているような、薄気味の悪さがある。
「ま、頑張ってきなさい」
「……何をっすか」
「すぐにわかる」
◇
Z市旧都心廃墟。
ひび割れた大地に、崩れかけたビルがいくつもそびえ立つ。ここでの怪人災害は、もはや日常だ。
「[angry]なんでアンタがいるのよ!」
エメラルドグリーンの髪を逆立て、金色の瞳を怒りに燃やしながら、タツマキが空中で叫んだ。
「こっちのセリフですわ、お姉ちゃん。今回はB級のわたくしが主担当。S級のお姉ちゃんこそ、なんでこんな場所に?」
フブキは地上で、冷たい水色の瞳を姉に向ける。黒を基調とした戦闘服が、彼女の大人びた体のラインを際立たせていた。
その時、瓦礫の向こうから、異形の影が三つ。
鬼級怪人だ。人間の三倍はある巨体、無数の触手、溶岩のように煮えたぎる皮膚。
「来たか」
サイタマが一歩前に出た、その時。
「[angry]アンタは下がってなさい! こんなの私一人で十分よ!」
タツマキの超能力が、轟音とともに周囲の瓦礫を巻き上げる。彼女はサイタマを守ろうと、無意識に前に出ていた。
「[cold]お姉ちゃんこそ邪魔をしないで。今回は、わたくしが彼を助けますの」
フブキもまた、サイタマを背にかばうような位置に立つ。
二人は互いに張り合い、まるで連携など最初から考えていない。
「……俺、別に守られなくていいんだけど」
サイタマの呟きは、二人の耳には届かない。
戦闘が始まった。
フブキの念動力が怪人の触手を切り裂き、タツマキの超能力が巨大なビルの残骸を投げつける。
サイタマは適当に、その辺にいた怪人を一発で殴り飛ばした。
その時だった。
感情が高ぶるタツマキの能力が、限界を超えた。
ザンッ、という耳鳴り。
サイタマの頭の中に、直接響く声。
『死なないでよ……あんただけは……』
サイタマの動きが止まる。
『見えなくなったら、私が壊れる……』
声は震えている。泣き声で、叫び声で、祈りだった。
(壊れる、って……)
サイタマは、ごく自然に、タツマキの方を振り返っていた。
その時、横合いから新たな怪人が一体。
「危ない!」
フブキがサイタマの背中に飛びつくように密着した。
彼女の体温。甘くて、少しだけスパイシーな香水の香り。
「[whispers]……私がいれば十分でしょ。お姉ちゃんなんかいなくても」
耳元で、熱い吐息混じりに囁かれる。
フブキのバリアが怪人の攻撃を弾き、サイタマは無意識に、そのまま怪人を一発で粉砕した。
グシャリ、という骨の砕ける感触。
だが、それよりも——。
(なんだ、これ)
背中に感じる彼女の柔らかな感触と、頭に直接響くもう一人の泣き声が、サイタマの胸の奥で、これまで感じたことのないざわめきを生み出していた。
ドン、という最後の爆発音。
三体の怪人は、全て消し飛んだ。
しかし、余波で近くの廃ビルが大きく傾ぎ——
崩落した。
瓦礫が、雨のように三人に降り注ぐ。
「——っ!」
タツマキが咄嗟にバリアを張ったが、疲労で範囲が狭い。
気がつくと、三人は崩れたビルの中、天井も壁も崩れた小さな空間に閉じ込められていた。
縦横、わずか二メートル四方。
暗闇の中、互いの呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。
「[sad]……バカね。力を使いすぎた」
タツマキはサイタマの隣に、ぺたりと座り込んだ。疲労で肩が小刻みに震えている。
『怖かった……本当に怖かった……』
思念波が、暗闇の中でひときわはっきりとサイタマの胸に届く。
「[gentle]ちょっとした計算違いですわね。でも、サイタマさんがいれば、こんな瓦礫、すぐに出られますわ」
フブキは、正面で膝を抱えながらサイタマを見つめた。
水色の瞳は、暗がりでもはっきりと潤んでいるのがわかる。
彼女は落ち着いた声で——だが、少しだけ震えを帯びた声で、言った。
「[serious]私はお姉ちゃんと違って、ちゃんと気持ちを伝えられる」
「[surprised]な、何よフブキ……!」
「あなたが必要なの、サイタマさん」
ストレートな言葉だった。
『ずるい……ずるい…私だって……』
タツマキの思念波が、歯ぎしりのような音とともにサイタマだけに流れ込む。
(……俺、どうすりゃいいんだ)
サイタマは、初めて本気で困惑した。
無敵の拳は、瓦礫を粉々にできる。しかし、今、目の前にいる二人の心をどうすればいいのか、まったくわからない。
でも、わからないなりに、はっきりと感じることもあった。
(こいつらを、危ない目に遭わせたくない)
それは、退屈な日々の中で感じたどんなものよりも、確かな「情動」だった。
数分後、サイタマが瓦礫を殴り飛ばし、外の光が差し込んだ。
◇
Z市の路上。
怪我はない。
だが、三人とも無言だった。
「[angry]別に! 心配したわけじゃないから! バカ!」
タツマキは顔を真っ赤にしてそれだけ言うと、ふわりと浮かび上がり、あっという間に飛び去った。
「[gentle]……また、お会いしましょう」
フブキはサイタマの手に一枚の名刺を握らせると、耳元に口を寄せた。
「[whispers]今度は、一人で来て」
そして、背を向けて歩き去っていく。
残されたサイタマは、名刺を見下ろした。
(特売、行きそびれたな)
いつもなら真っ先に浮かぶことが、今はどうでもいい。
空を見上げる。
胸の奥で、まだ何かがざわついている。
この感情の名前を、まだサイタマは知らない。
◇
A市、ヒーロー協会本部。
シルバーファングは、帰還した三人を映すモニターの前で、一人ほくそ笑んだ。
「素晴らしい。波形データは完璧だ。タツマキの暴走パターン、サイタマの行動変化、フブキの行動パターン。これだけあれば、十分だろう」
彼は別のファイルを開く。
そこには、新たな計画書。彼が次に三人を送り込もうとしている、ある閉鎖的空間のデータが、静かに、しかし確かに存在していた。
「さて、では次の段階に移るとしようか」
冷たい声は、誰にも届かない。
Z市の空の下、サイタマはまだ、胸のざわめきの正体を掴めずにいる。その影に、すでに次の罠が迫っていることを、知る由もなかった。