サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマにとってヒーローランキングなどどうでもいい。今日はスーパーの特売を狙う、ただそれだけの日だった。しかし、静かな休日は玄関のチャイムによって打ち砕かれる。そこに立っていたのは、ほかならぬ戦慄のタツマキだった。普段は「ハゲ」と得意げに呼んでくる、あの小さなエスパーが、今は顔を真っ赤にして、もじもじとしている。
「あんたのせいで、あたしの頭がおかしくなったんだから!」
またもや彼女の超能力が暴走したおかげで、サイタマは突然、彼女の心を読めるようになってしまう。そして、その頭の中を覗いてみれば、自分に向けられた、病的で、支離滅裂で、そしてひどく淫らな感情の奔流があった。彼の平和で退屈な日常は、瞬く間に過去のものとなる。
しかし、面倒事はそれだけでは終わらなかった。妹である地獄のフブキが、姉の奇妙な行動に気づいたのだ。そして、タツマキの恋の相手が、自分が吹雪組に勧誘しようとしていたまさにその男だと知るや、フブキの長年の姉妹対抗心が激しく燃え上がる。彼女はサイタマの心、そしてそれ以上を狙い、自ら動き出すことを決意する。
一方、狡猾なシ
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜 - 夜明け前の拳——俺はヒーローだから、それだけでいい
違う、と思った。
頭ではわかっている。怪人を倒す拳が、法や権力に通じるわけがないってことは。タツマキを連れ戻しに行くって、一体どうやって——方法なんて、何も思いつかない。
ただ、わかった。あいつが助けを呼んでる。それだけで、十分だった。
深夜二時。グリーンハイツZの203号室。
サイタマは暗い部屋の床で、壁に背中を預けて座っていた。電気はついていない。カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが、ちゃぶ台の上の特売チラシを青白く照らしている。さっきまで握りしめていた涙はもう乾いていた。
——ザッ……ザザッ……。
頭の奥で、砂嵐のようなノイズが走る。
(……来たか)
タツマキの思念波だ。あの地下ラボから、必死に送ってきている。前よりずっと弱い。途切れ途切れで、半分以上はノイズに埋もれている。
でも、感情だけははっきりと届いた。
『……さ……い……たま……』
声は震えている。泣き疲れた子供みたいに、かすれて、細い。
そして、声と一緒に——映像の断片が、脳裏にチカチカと点滅した。
薄暗い金属の天井。冷たいコンクリートの壁。地面から伝わってくる、遠くの電車の微振動。換気口から漂う、油と機械の匂い。
(地下だ)
サイタマはゆっくりと目を開けた。
前に、シルバーファングの道場で聞いたことがある。A市の地下には、昔の地下鉄の路線がそのまま残っていて、そのいくつかがヒーロー協会の施設に転用されてるって話だ。タツマキがいるのは、そこだ。
『……助け……て……』
最後の言葉が、ノイズに消える。
サイタマは立ち上がった。ちゃぶ台の上に放り出してあったヒーロー手帳を一瞥し——手に取って、ポケットに突っ込む。GPSだけは使える。
協会の手続き? 命令書? 法の壁?
「……知るか」
黄色いジャージを羽織り、玄関のドアを開ける。深夜のゴーストタウンに、冷たい風が吹き込んだ。
もう、迷いはなかった。
◇
夜明け前のA市。
街灯だけが煌々と輝く大通りを、サイタマは一人で歩いていた。深夜バスを降りてから、ここまで走ってきた。息は切れていない。ただ、胸の奥だけが、妙に熱い。
地下鉄廃線の入り口は、A市の中心部から少し外れた場所にあった。使われなくなった駅の跡地で、周囲は高層ビルに囲まれている。かつての入口は、ヒーロー協会によって厚い鉄扉で封鎖されていた。
「封鎖」と書かれた黄色い標識。その下に、重々しい南京錠が三つ。
サイタマは扉の前に立った。
腕を引く。
——ドゴォッ!!
拳の一振りで、鉄扉ごと南京錠が吹き飛ぶ。蝶番が引きちぎられ、重い鉄の板が奥の壁に叩きつけられて、地響きのような音を立てた。
「誰だ!?」
通路の奥から、怒鳴り声とともに武装した警備員たちが走ってくる。ヘルメットに防弾チョッキ、特殊警棒。全部で六人だ。
その中の一人が、サイタマの顔を見て、はっとしたように立ち止まった。
「B級……サイタマ……!」
「知ってんなら話が早え」
サイタマは淡々と、歩きながら言った。
「タツマキはどこだ」
「[angry]貴様、ここがどこだかわかっているのか! これは協会上層部の正式な——」
「聞いてるのはこっちだ」
一歩、踏み込んだ。
——ドッ、ドドドドドッ!!!
六人まとめて、ワンパン。
警備員たちの体がまとめて吹き飛び、通路の両側の壁にめり込む。防弾チョッキがひしゃげ、警棒が床に落ちてカランカランと転がった。気絶している。誰も死んではいない。でも、数時間は起き上がれない。
サイタマは先を進んだ。
通路は地下へ地下へと続いている。蛍光灯の白い光が、無機質なコンクリートの壁を照らしていた。天井には監視カメラ。あちこちに「立入禁止」「関係者以外立入禁止」のプレート。
しばらく進むと、通路の先が青白く光っているのが見えた。
——電磁バリアだ。
空気がビリビリと震えている。触れれば人間など一瞬で弾き飛ばされる、高出力の防御壁。通常兵器はおろか、超能力ですら突破するのに苦労する代物だ。
サイタマは足を止めなかった。
バリアの発生装置は、すぐ脇の壁に埋め込まれている。青白い光を放つ、四角い機械の箱。
拳を握り、振り抜いた。
——ガキャァン!!!
火花が散り、装置が粉々に砕ける。同時に、通路を塞いでいた電磁バリアが、ぶつり、と音を立てて消滅した。
さらに奥へ。
今度は、分厚いコンクリートの防壁が行く手を阻む。厚さは優に一メートルはある。超能力でも火力兵器でも、簡単には抜けない設計だ。
でも——拳で殴るって発想は、設計者になかったらしい。
「……どけ」
拳を叩き込む。
——ドゴォォォン!!!
コンクリートの壁に、丸い風穴が空いた。直径一メートルほどの、綺麗な穴だ。ひび割れがそこからクモの巣状に広がり、天井から埃が降ってくる。
サイタマは瓦礫を踏み越えて、先へ進んだ。
◇
地下ラボの中心部。
広い空間だった。天井は高さ三メートル。壁一面に、無数のモニターと計器類が並んでいる。そして、部屋の中央の壁に——埋め込まれていた。
巨大な超能力抑制装置のコア。
鈍く銀色に光る、超硬合金製のカバー。その表面には、無数の回路パターンが走り、制御用の赤いランプが点滅している。天井から床までを覆うほど巨大で、それが発する低周波の駆動音が、部屋全体を震わせていた。
「これか」
サイタマはコアの前に立った。
拳を握る。
一回じゃ足りないかもしれない——そう思った。今まで、一発で壊せなかったものなんてなかったのに。
「……まあ、いい」
拳を放つ。
——ガァン!!
一発目。超硬合金のカバーに、亀裂が走った。鋭い金属音が、地下空間に響き渡る。
二発目。
——ガギィン!!
亀裂が、さらに深く、広がる。天井から、細かい埃がパラパラと落ちてきた。
三発目、四発目、五発目——。
拳を振るうたびに、地下空間全体が揺れた。壁のモニターが点滅し、計器類がけたたましい警告音を発する。天井の照明がチカチカと明滅し、ついにはいくつかが破裂した。
——ドゴン!! ドゴン!! ドゴゴゴン!!!
地上では、何が起きているかわからない。深夜のA市のビル群が、原因不明の振動に揺れる。窓ガラスがビリビリと震え、眠っていた市民たちが飛び起きる。どこかで地震警報が鳴り響き、パジャマ姿のまま外に飛び出す人々。
——十発目。
「——そろそろだ」
サイタマは最後の一発を、渾身の力でコアの中心に叩き込んだ。
——ズドォォォォン!!!!
A市全体に、衝撃波が走った。
高層ビルのガラスが一斉にビリビリと共鳴し、道路に駐車していた車のアラームが一斉に鳴り響く。街路灯が一瞬、全て消えて——再び点灯した。
地下では、コアが完全に粉砕されていた。
超硬合金のカバーは無数の破片となって床に散らばり、内部の回路がむき出しになってショートする。赤いランプの点滅が、ゆっくりと——消えた。
同時に、通路の照明が全て落ちた。
静寂。
闇の中、カチリ、カチリ、と小さな金属音だけが響く。
◇
「……う、あ……」
暗闇の中で、タツマキの抑制デバイスが一つずつ、自動解除されていった。
手首、そして首。冷たい金属の輪が外れ、コンクリートの床に落ちる。キン、と軽い音を立てて。
金属チェアに座ったまま、タツマキは顔を上げた。
サイタマが、そこに立っていた。
破壊した壁の穴から、通路の非常灯の薄明かりが差し込んでいる。それを背に立つその姿は、逆光でシルエットだけが見えた。でも——わかった。あのジャージ、あの無造作な立ち方、あのだらしなさそうな雰囲気。
「……遅いのよ、馬鹿」
タツマキの声は、罵倒の形を取ったけれど、泣きそうに震えていた。
顔は青白く、目の下に濃いクマが浮いている。エメラルドグリーンの髪も、ボサボサに乱れていた。超能力を封じられた数時間で、消耗しきっていた。
それでも、サイタマの姿を認識した瞬間——金色の大きな瞳が、潤んだ。
「[gentle]立てるか」
サイタマは手を差し出した。
タツマキは迷わなかった。一瞬のためらいもなく、震える手を伸ばして、その手を掴んだ。
——生まれて初めて、自分から誰かの手を取った。
つかんだ手は、思ったよりずっと大きくて、厚くて、そして温かかった。
立ち上がろうとした瞬間、足がふらついた。長く座らされていたせいで、膝に力が入らない。倒れそうになる体を、サイタマが反射的に腕を掴んで支えた。
「……っ」
腕に触れたサイタマの手。その体温が、冷え切ったタツマキの皮膚を通じて、じわりと染み込んでくる。安定した重心。絶対に離さないという、無言の確かさ。
その瞬間——。
制御を失った思念波が、タツマキから溢れ出した。
『怖かった……』
『一人は……嫌だった……』
『あんたに……触れてほしかった……ずっと……』
サイタマは、その声を聞いた。
顔はいつも通りの無表情だった。でも、タツマキを支えている手が——少しだけ、強く握り返された。
「……っ!!」
タツマキは気づいて、慌てて顔を背けた。耳の先まで真っ赤になっているのが、暗闇の中でもわかる。
でも、手は——離さなかった。
◇
その時だった。
——ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!!
複数の足音。地下ラボの非常口から、十数名の黒い影が雪崩れ込んできた。
黒装甲の部隊。顔はバイザーで覆われ、手には特殊形状の銃器。ヒーロー協会の正規部隊ではない——その動き、装備、放つ殺気。全てが、シルバーファング配下の私兵だと告げていた。
「[cold]超能力抑制装置の破壊を確認。対象二名を拘束せよ」
リーダーらしき男の無機質な声。部隊が一斉に銃を構えた。
タツマキは歯を食いしばって、手を前に突き出そうとした。でも、体が言うことを聞かない。超能力は戻ったが、体力が完全に回復していない。大規模な攻撃は無理だ。
「……ちっ」
悔しそうに舌打ちをした、その時。
サイタマが、タツマキの前に立った。
部隊を見る。十数名。そして——何も言わずに、拳を握る。
「[serious]俺がやる」
短く、それだけ言って。
その姿は、協会の命令書を突きつけられた廃墟の夜とは、まるで違っていた。あの時、拳を止めた男は、もういない。
——今の俺を止められるものなんて、ここには何もない。
タツマキを守るためなら、この拳は、もう誰にも止められなかった。
その瞬間、サイタマの頭に——一瞬の映像が流れ込んだ。
Z市総合病院。ICUのガラス越しに見た、フブキの姿。白いシーツの上で、まだ眠ったままの妹。点滴のチューブに繋がれた細い腕。
——俺はこっちを助けた。でも、あっちはまだ、目を覚ましていない。
サイタマは、ぎゅっと拳を握りしめた。
戦いは、まだ終わっていなかった。