サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜
サイタマにとってヒーローランキングなどどうでもいい。今日はスーパーの特売を狙う、ただそれだけの日だった。しかし、静かな休日は玄関のチャイムによって打ち砕かれる。そこに立っていたのは、ほかならぬ戦慄のタツマキだった。普段は「ハゲ」と得意げに呼んでくる、あの小さなエスパーが、今は顔を真っ赤にして、もじもじとしている。
「あんたのせいで、あたしの頭がおかしくなったんだから!」
またもや彼女の超能力が暴走したおかげで、サイタマは突然、彼女の心を読めるようになってしまう。そして、その頭の中を覗いてみれば、自分に向けられた、病的で、支離滅裂で、そしてひどく淫らな感情の奔流があった。彼の平和で退屈な日常は、瞬く間に過去のものとなる。
しかし、面倒事はそれだけでは終わらなかった。妹である地獄のフブキが、姉の奇妙な行動に気づいたのだ。そして、タツマキの恋の相手が、自分が吹雪組に勧誘しようとしていたまさにその男だと知るや、フブキの長年の姉妹対抗心が激しく燃え上がる。彼女はサイタマの心、そしてそれ以上を狙い、自ら動き出すことを決意する。
一方、狡猾なシ
サイタマの休日〜戦慄のタツマキ、恋に落ちる〜 - 罠の夜、廃墟に落ちる——失った手と、奪われた声
違う、と思った。
胸のざわめきが、まだ収まらない。昨日のあの廃墟での任務。タツマキの泣き声が頭に直接響き、フブキの体温が背中にへばりついた。あの変な感じ。自分でもわからないまま、家に帰ってからもずっと、何かが引っかかっていた。
結局、土曜の夜だというのに、豚こまの脂で汚れたフライパンを洗いながら、サイタマはずっと考え事をしていた。
(あれは、なんだったんだ)
いつもなら、めんどくせえ、で終わる。でも、あの二人が傷つくかもしれない、と思った瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。それは、初めて感じる類のものだった。
ブブブ、と。
ちゃぶ台の上で、ヒーロー手帳が震えた。
またかよ。
サイタマは泡まみれの手をタオルで拭き、手帳を手に取る。
『緊急出動。Z市旧都心廃墟にて鬼級怪人複数体が同時発生。S級2位・戦慄のタツマキ、B級1位・地獄のフブキ、B級・サイタマの三名は直ちに掃討に向かわれたし』
「……はあ」
ため息しか出ねえ。
こんな時間に呼び出しかよ。しかも、あの二人とまた一緒か。昨日の今日だってのに、つくづく面倒くせえ。だが、命令書には「緊急」とデカデカと書いてある。拒否権はない。
サイタマは黄色いジャージを羽織り、外へ出た。廃墟の空には、重たく垂れ込めた雲の隙間から、不気味な満月がのぞいている。湿った風が、錆びた鉄と腐った木のにおいを運んできた。
◇
Z市旧都心廃墟。
崩れたビルが月明かりに照らされ、無数の影を作っている。瓦礫の山をいくつも越えた先の、だだっ広い空き地。
先に着いていたのは二人の女だった。
一人は空中に浮かび、もう一人は地面に立っている。
「[angry]なんでまたアンタがいるのよ!」
サイタマの姿を見つけるなり、タツマキの金の瞳が怒りに燃えた。エメラルドグリーンの髪が風でふわりと浮き上がり、全身からは苛立ちの超能力が火花のように散っている。でも、その声の裏には、ほんの少し安堵が混ざっているのを、サイタマは思念波で感じ取っていた。
『よかった……来てくれた……』
心の声はいつも正直だ。
「[cold]仕方ありませんわね、協会の命令ですもの」
フブキはいつも通りの冷静な声で言った。黒い戦闘服に身を包み、水色の瞳を月明かりに冷たく光らせている。その美しい顔に浮かぶのは、サイタマとタツマキの両方を観察する、計算高い視線だ。
「[gentle]ですが、今回はわたくしがサポートしますわ。サイタマさん、昨日のお礼もまだですし」
「[angry]昨日のことならもう終わったでしょ! それより、さっさと怪人を片付けるわよ!」
タツマキが叫んだ、その時だった。
地響きとともに、瓦礫の山がいくつも吹き飛んだ。
三体。いや、四体か。人の背丈の三倍はある異形の巨体が、四方からゆっくりと近づいてくる。皮膚は溶岩のように赤く煮えたぎり、無数の触手が鎌首をもたげるように蠢いている。全部、鬼級だ。
「来たな」
サイタマはいつもの無気力な声でつぶやき、一歩前に出た。
「[angry]アンタは下がってなさい! 私がまとめて吹き飛ばして——」
タツマキが両手を前に突き出した、瞬間。
——ブゥン、という、低く耳障りな駆動音が、足元から響き渡った。
「……え?」
タツマキの動きが止まる。
彼女の手のひらに集まりかけていた緑色の光が、まるでろうそくの火を吹き消すように、ふっと消えた。
なんだ。
サイタマは眉をひそめた。何かがおかしい。廃墟のあちこちから、カチカチと機械が作動する音が聞こえる。地下に埋められた装置が、一斉に起動したかのようだ。
「[scared]な、なに……これ……?」
タツマキの声が震えた。彼女はもう一度、両手を突き出そうとした。でも、何も起こらない。体中を巡っていたはずの力が、すっぽりと抜け落ちたように、感じられないのだ。
(消えた……力が……)
怖い。
怖いよ。
頼りにしていたものが、急に無くなった。立っていることさえ、急に心もとなくなる。そんな生まれて初めての感覚に、タツマキの心はパニックに染まっていく。
『……やだ……助けて……』
思念波が、悲鳴のようにサイタマの頭に流れ込んできた。
ちっ、とサイタマは舌打ちをした。これは、罠だ。誰かが、最初からこれを狙ってやがった。
「[angry]お姉ちゃん、ボーッとしてないで!」
フブキの怒鳴り声。
ハッとしてサイタマが見た先。タツマキは瓦礫の上で立ち尽くし、小刻みに震えていた。その彼女に向かって、一体の鬼級怪人が、巨大な爪を振り上げている。
タツマキは動けない。
動こうとしても、足がすくんで、体が言うことを聞かない。
その時。
「——っ!」
影が飛び込んだ。
フブキだ。
彼女は一瞬でタツマキの前に滑り込むと、両手を広げ、超能力のバリアを展開しようとした。でも、フィールドの影響か、そのバリアはいつものような完全な形にならない。薄く、ひび割れたガラスのような防御壁が、一瞬だけ光った。
そして。
ザンッ!
肉が裂ける、鈍い音がして。
フブキの左肩から、血が噴き出した。
怪人の巨大な爪が、彼女の細い体をななめに薙いだのだ。左肩口から右の脇腹にかけて、白いコートがみるみるうちに真っ赤に染まっていく。黒い戦闘服の下の肉がえぐれ、骨の白いのが一瞬のぞいた。
「——あ、」
フブキは短く息を吐き、その場に膝をついた。崩れ落ちる寸前、震える手が、姉の手首をつかむ。血まみれの指が、タツマキの白い肌に赤い線を描いた。
「[whispers]お姉ちゃんは……サイタマさんに……ちゃんと伝えなきゃダメだよ……」
それだけ言うと、水色の瞳から光が消え、フブキはそのままゆっくりと地面に倒れた。血が、広がっていく。コンクリートの上で、黒く、熱を持って。
「あ……ああ、あああああっ!!」
タツマキの口から、声にならない叫びが漏れた。絶望と恐怖が混ざった、獣のような叫び。
その瞬間、言葉にならない感情の奔流が、サイタマの脳を直撃した。
『やだやだやだ! フブキ! フブキ! ごめんなさいごめんなさい! 誰か! 誰か助けて! あんた! あんた!!』
サイタマは、一歩、踏み出していた。
その顔には、いつもの無気力は微塵もない。
胸の奥が、燃えるように熱い。力では救えなかった。この拳で怪人を倒しても、もう起こったことは消せない。その事実が、初めて彼の心に「怒り」という感情を刻んだ。
「——消えろ」
短く、それだけ言った。
一歩で間合いを詰め、一体目の頭をかち割る。返す拳で二体目の胴体に風穴を空ける。跳躍からの踵落としが三体目を地面にめり込ませ、四体目が放った触手を、掴んで引きちぎり、そのまま本体をぶん投げて廃ビルに叩きつけた。グシャリ、という肉の潰れる音が四度、連続して聞こえた。ものの数秒で、全てが終わった。
しかし。
サイタマが振り返った時、そこに立っていたのは、黒い影の集団だった。
◇
「——ご苦労だった、B級サイタマ」
無機質な声がした。
黒い装甲服を着た、十数名の男たち。顔はバイザーで覆われ、手には特殊な形状の銃器。ヒーロー協会特殊部隊の腕章が、月明かりにギラリと光る。
隊長らしき男が、一歩前に出た。
「S級2位、戦慄のタツマキ。君の能力暴走を確認した。ヒーロー法第17条に基づき、一時保護拘束する」
「[angry]なに……離して!」
他の隊員たちが、倒れ込んだタツマキの両腕を無理やり背後に回し、金属製の重い枷をはめる。手首、そして首にも、冷たい首輪のようなデバイスが装着された。
いやだ。
助けて。
『あんたに……ちゃんと……言いたいことがあったのに……』
思念波が、途切れ途切れになりながら、サイタマの頭に静電気のように流れ込む。
サイタマは無言で、隊長の前に立った。
「退け」
隊長は動じない。代わりに、厚い書類の束を突きつけてきた。
「これは協会上層部の正式命令だ。阻むなら、君もただでは済まん」
隊長は、聞こえるか聞こえないかの声で、付け加えた。
「逆らえば、あの姉妹のヒーロー登録は永久に抹消される。彼女たちはヒーローとしてだけではなく、社会的に存在できなくなるぞ。それがどういうことか、君にもわかるだろう」
サイタマの拳が、ゆっくりと握りしめられた。
怪人には通じるこの拳も、権力と法律という、目に見えない壁の前では、振り上げることさえ許されない。俺がここでこいつらをぶっ飛ばしても、それで終わりじゃない。残るのは、あいつらの破滅だけだ。
(……動けねえ)
力では、守れないものがある。
その現実が、ずっしりとのしかかる。
タツマキは隊員たちに抱えられ、強制的に装甲車へと連行されていく。振り返った彼女の大きな金色の瞳が、サイタマだけをじっと見つめていた。声は出せない。唇が、動くだけだ。
——助けて。
サイタマは、命令書を手に、ただ立ち尽くしていた。何もできない自分が、無性に腹立たしかった。
やがて、装甲車のドアが閉まり、サイレンが遠ざかっていく。別の救急班がフブキをストレッチャーに乗せ、運び去る。誰もいなくなった廃墟に、血の匂いだけが残る。
◇
どれくらい、そうしていたか。
突然、廃ビルの壁面に取り付けられた巨大なモニターが、ノイズとともに起動した。
画面の中に映ったのは、穏やかな笑みを浮かべた老紳士。後ろで束ねた白銀の長い髪が、蛍光灯の下で冷たく光っている。顔の古い傷跡と、口元の薄い傷が、笑うたびに歪む。
シルバーファング。
「[gentle]やあ、サイタマ君。ご苦労だったな」
サイタマは無言で、画面をにらみつけた。
「[sarcastic]ふむ。その顔を見ると、どうやら事態は把握しているようだ」
「……テメエがやったのか」
低く、抑えきれない怒りを込めた声。
「[gentle]ああ、全て私が仕組んだことだ。護衛任務も、今宵の怪人のおびき寄せも、超能力抑制フィールドの設置もな」
淡々と、事実だけを積み重ねる声。
「タツマキの能力暴走を研究し、軍事利用する。そのために彼女の感情トリガーとなる君が必要だった。どうやら、想像以上にいいデータが取れたよ。人の心というのは、かくも脆く、利用しやすいものだ」
「フブキは……あいつが怪我したのも、計算の内か」
「[cold]ああ。彼女が姉をかばうであろうことは、性格分析から容易に予測できた。むしろ、あの程度の重傷で済んで幸運だったとも言える。これでデータの精度が格段に上がったのだからな」
老人は、少しだけ笑みを深くした。
その笑顔が、今まで見たどんな怪人よりも、理解不能で、不気味だった。
「[serious]君の拳は強い、サイタマ君。だが、世界は拳だけでは動かない」
最後にそう言い残し、映像はプツリと途切れた。
再び、静寂が廃墟を包む。
サイタマは、動かなかった。
ただ、地面を見下ろしていた。フブキが倒れていた場所に、まだ黒く、生ぬるい血の跡が残っている。それをじっと見つめながら、サイタマの胸の奥で、初めて自覚する感情が煮えたぎる。
(俺が……もっと早く気づいてれば)
後悔。
怒り。
そして、二人を守れなかった無力感。
それが、退屈で乾ききっていたはずのサイタマの心を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜた。もう、豚こまの特売や、明日のタイムセールなんて、どうでもよかった。
タツマキ。フブキ。
二人がいて初めて、この世界は少しだけ退屈じゃなくなりかけていた。なのに。
サイタマは拳を握りしめる。
この拳が通じない壁があるのなら、ぶっ壊す方法を探すだけだ。
拳が届かない場所に、どちらもいる。連れ戻さなければならない。そのために何をすればいいのか、今はまだわからない。けれど、立ち止まっているつもりはなかった。