FAIRY TAIL もしもナツが幽鬼の支配者に奪われたルーシィを救わなかったら
星霊魔導士ルーシィ・ハートフィリアは、ある夜、謎の魔法陣によってギルドの裏手から姿を消した。同じ頃、修行の旅に出ていたナツとハッピーは、遠く離れた地でその報せを受ける。しかしナツは、ルーシィを救うために戻ることを選ばなかった——。「俺は強くなってから帰る」。その決断が、妖精の尻尾の運命を、そしてルーシィの運命を大きく変えていく。幽鬼の支配者に囚われた少女は、やがてこの世界の真実に触れることになる。異世界転生/転移が絡み合う、もうひとつのFAIRY TAIL。これは、救われなかった少女の物語。
FAIRY TAIL もしもナツが幽鬼の支配者に奪われたルーシィを救わなかったら - どん底の星霊姫——涙が枯れる夜、それでも消えない光
湿った石の冷たさが、背中から骨の奥まで沁み込んでくる。
ルーシィ・ハートフィリアは、地下牢の隅で膝を抱えたまま目を覚ました。まぶたを持ち上げる。見えるのは、昨日と同じ鉄格子。同じ石壁。同じ、紫に光る床の紋章。
グラン・ノワール。闇ギルド「幽鬼の支配者」の本拠地。廃鉱山の坑道を改造した要塞の、地下三階層目にある牢。
拉致されてから、三日目の朝だった。
(朝……なのかな)
高い位置の明かり窓から、かすかに白い光が差している。夜が明けたらしい。
ルーシィは、ゆっくりと手首を見下ろした。
両手首に嵌められた、分厚い鉄の枷。魔力を吸い上げる、忌まわしい拘束具。首輪のように肌に食い込む冷たい重み。体内のマナが、絶え間なく枷の中へ吸い込まれていく感覚。じわじわと、体力ごと削られていくような、あの不快な感覚。
そして、床。
石の床に刻まれた、紫色の古い紋章。星霊封じの紋章。これが、彼女の星霊の鍵の力を封じている。枷が吸い上げた魔力が、この紋章に流れ込み、封印を維持している。
二重の封印。
(……また、失敗した)
ルーシィは、腰のポーチから一本の鍵を取り出した。
金色に輝く、水瓶座の紋様が刻まれた鍵。星霊アクエリアスの鍵。
昨夜も、その前の夜も、彼女はこの鍵を握りしめ、何度も何度も召喚を試みた。
でも、何も起きなかった。
魔力を流し込もうとすると、手首の枷が熱を帯びて、全部吸い取ってしまう。鍵が一瞬かすかに光るだけで、星霊の声は聞こえない。星霊界への扉は、固く閉ざされたまま。
(アクエリアス……)
声にならない声で、心の中で呼びかける。
(お願い。返事をして)
返事は、ない。
ルーシィは唇を噛んだ。下唇の内側に、昨日噛んだ傷がある。鉄の味が、じんわりと舌に広がる。
(泣かない。泣いても、何も変わらない)
彼女は、枷の構造を、もう一度じっと観察し始めた。
黒い金属。継ぎ目はない。完全に一体化した輪。だが、内側に触れている部分に、ごく細い溝がある。ここが、魔力を吸い上げる回路。吸い上げた魔力は、溝を通って、枷の外側へと流れ出ていく。
(外に逃がしてる……)
ルーシィは、枷の外側に視線を移した。溝は、枷の表面で終わっている。でも、その終点のあたりに、ほんのわずかな膨らみがある。
(ここ……魔力が溜まる場所?)
枷が吸い上げた魔力を、一度ここに溜めてから、大気中に放出しているのだとしたら。
(もし、この溜まり場を壊せたら……)
枷の機能を、止められるかもしれない。
でも、どうやって? 手は縛られたまま。道具もない。魔力は吸われる。
(まだ、分からない)
ルーシィは、小さく息を吐いた。
その時だった。
ガチャリ、と鉄格子の向こうで音がした。
廊下の扉が開く音。続いて、複数の足音。荒っぽい、男たちの足音。
ルーシィは、とっさに鍵をポーチに隠し、膝を抱え直した。
鉄格子の前に、三人の男が立った。
幽鬼の支配者の構成員たち。見張りとは別の、もっと下品な笑みを浮かべた連中だ。
「よう、お嬢様。朝食の時間だぜ」
先頭の男が、鉄格子の隙間から、黒いパンと水の入った椀を、乱暴に床へ滑らせた。パンが石の床を転がり、ルーシィの足元で止まる。
「今日は特別に、水もつけてやったぜ。ありがたく思えよ」
ルーシィは、黙ってパンを見つめた。
昨日と同じ、固くて黒いパン。水は、少し濁っている。
「おい、食わねえのか? せっかく持ってきてやったのによ」
男が、鉄格子をガン、と蹴った。
ルーシィの肩が、小さく跳ねる。
「……いらないわ」
声は、思ったより小さく出た。
「あ? 聞こえねえなあ」
男が、耳に手を当てる仕草をした。
「いらない、って言ったの」
ルーシィは、顔を上げた。男たちの目を、まっすぐ見る。
男たちが、一瞬ひるんだ。
だが、すぐに下卑た笑みを浮かべ直す。
「へえ、まだそんな元気があんのか。感心だなあ」
三人目の男が、しゃがみ込んで、鉄格子の隙間からルーシィを覗き込んだ。
「なあ、お嬢様よ。お前、自分の立場分かってんのか?」
「……」
「お前は、ここに閉じ込められてるんだぜ。助けは来ねえ。誰も、お前を助けになんて来ねえんだ」
男の声が、牢の中に響く。
「ギルドの連中は、お前を見捨てた。あの妖精の尻尾ってギルド、評議会にビビって動けねえんだとよ。ざまあねえな」
ルーシィの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(違う。みんなは、そんなんじゃない)
心の中で、反論する。
でも、声が出ない。
「それによ、お前の親父さん。ハートフィリアの旦那はよ、お前のことなんかこれっぽっちも心配してねえんだぜ」
「……え?」
「だってそうだろ。娘を攫わせたのは、その親父なんだからな。金払って、闇ギルドに依頼した。自分の娘を、なあ」
男たちが、ゲラゲラと笑った。
「お前は、親父にとっちゃ、ただの金蔓だよ。政略結婚させて、家の商売を広げるための道具。逃げたから、連れ戻すために金を払った。それだけの話だ」
「誰もお前を愛してねえんだよ。親父も、ギルドの連中も、みんなお前のことなんか見てねえ。お前がここでどうなろうが、誰も泣かねえんだ」
「……違う」
ルーシィの口から、かすれた声が漏れた。
「違う。みんなは、そんなんじゃない。ナツも、ハッピーも、グレイも、エルザも、みんな……」
「ああ? そのナツって奴はどこにいるんだよ? 今ここにいねえだろ。お前が攫われた時、ギルドにいなかったんだろ? お前のピンチに、のこのこ修行に出かけてたんだろ?」
男の言葉が、鋭い刃のように、ルーシィの胸に突き刺さる。
「お前は、誰にも必要とされてねえんだよ」
「……やめて」
「やめて? 何をやめるんだ? 本当のことを言ってやってるだけだぜ。感謝してほしいくらいだな」
「やめて……お願い……」
ルーシィは、両手で耳を塞いだ。
手首の枷が、冷たく肌に食い込む。
(違う。違う。みんなは、私のことを……)
でも、心の奥で、小さな声が囁く。
(本当に? 本当に、そう言い切れる?)
ギルドに入って、まだ日が浅い。依頼も失敗ばかり。みんなに迷惑をかけてきた。
(私、みんなの役に立ててた?)
(私、本当に、必要とされてた?)
(お父様は……私のことを、どう思ってたの?)
ルーシィの視界が、じわっと滲んだ。
「お、泣くか? 泣け泣け。お嬢様の泣き顔は、なかなかそそるもんだぜ」
男たちの下品な笑い声が、牢の中にこだまする。
ルーシィは、唇を噛みしめた。
泣かない。泣いたら、こいつらの思う壺だ。
でも、涙は止まらなかった。
「……出て行って」
声が震える。
「おう、泣きながらのご命令とは、恐れ入ったな。だが、残念ながら、ここはお前の家じゃねえんだ。出て行くも何も、俺たちがここを仕切ってんだよ」
男が、鉄格子を、もう一度蹴った。
ガン、と大きな音。
ルーシィの体が、びくっと震える。
「まあ、ゆっくり考えな。お前の親父が、お前をどれだけ愛してるか、じっくり思い知るこったな」
男たちは、笑いながら廊下を去っていった。
足音が、遠ざかっていく。
ルーシィは、しばらくの間、動けなかった。
耳を塞いでいた手を、ゆっくりと下ろす。
手のひらに、涙が落ちた。
(……違う)
(違う。私は、信じてる)
(みんなのことを、信じてる)
ルーシィは、顔を上げた。
涙で滲んだ視界の先に、鉄格子が見える。その向こうに、紫の光。
(でも……)
心の奥で、男たちの言葉が、何度も何度も繰り返される。
『誰もお前を愛してねえんだよ』
『お前は、誰にも必要とされてねえんだよ』
『お前がここでどうなろうが、誰も泣かねえんだ』
(違う。違う。違う)
ルーシィは、首を振った。
でも、そのたびに、涙がこぼれた。
——
昼を過ぎた頃。
ルーシィは、壁にもたれて座っていた。
黒いパンには、まだ手をつけていない。水も、一口も飲んでいない。
(お腹は空いてる。でも、食べる気になれない)
涙は、いつの間にか乾いていた。
でも、心の中は、まだざわざわしている。
(みんなは、今頃どうしてるのかな)
ギルドの酒場で、いつも通り騒いでいるのだろうか。それとも、私のことを心配してくれているのだろうか。
(ナツは……)
桜色の髪。白い鱗のマフラー。いつも笑ってる、熱血漢の相棒。
(ナツは、今どこにいるの?)
修行に出たまま、戻ってきていない。私が攫われたこと、知ってるのかな。知ったら、きっと、すごい勢いで助けに来てくれる。
(でも、ナツは来ない)
来られない。遠すぎる。山道は、嵐で崩れてる。
(ハッピーも、一緒にいるんだよね)
青い毛並みの、小さな猫。のんびり屋で、マイペースで、でも、とっても優しい。
(ハッピーの「アイアイ」って声、聞きたいな)
ルーシィは、目を閉じた。
ギルドの、にぎやかな声。オルガさんのカウンター。依頼掲示板。みんなの笑顔。
(……帰りたい)
心の底から、そう思った。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
廊下の向こうから、靴音が聞こえてきた。
今度の足音は、さっきの男たちとは違う。もっと静かで、一定のリズムを刻んでいる。
ルーシィの背筋が、すっと伸びた。
(この足音……)
知っている。
鉄格子の前に、一人の男が立った。
白いスーツ。赤紫色の長髪を後ろで束ねている。冷たい灰色の瞳。口元には、薄い笑み。
ジョゼ・ポーラ。幽鬼の支配者のマスター。聖十大魔道の一人。
「やあ、お嬢さん。少しは休めたかな?」
ジョゼの声は、ひどく穏やかだった。紳士的で、丁寧で、まるで旧友に語りかけるような。
でも、その笑顔の奥に、底知れない冷たさがあることを、ルーシィはもう知っていた。
「……何の用?」
ルーシィは、壁にもたれたまま、ジョゼを睨みつけた。
「ククク……元気そうで何よりだ。昨日より、少し顔色が悪いようだがね」
ジョゼは、鉄格子の前に立ったまま、じっとルーシィを見下ろしている。
「用件を言って。あなたの顔を見るだけで、気分が悪くなるの」
「おや、手厳しい。だが、その気の強さは嫌いではないよ。人形のように従順な娘より、ずっと面白い」
ジョゼは、スーツのポケットから、一通の封筒を取り出した。
「お父上の主治医から、報告が届いた。読んでみるかね?」
「……」
ルーシィは、黙ってジョゼを見つめた。
「読まないか。では、私が要約して差し上げよう。お父上の病状は、ここ数日で急激に悪化した。医師の見立てでは、余命はあと数日——長くて一週間、といったところだ」
ルーシィの心臓が、どくん、と跳ねた。
「……嘘よ」
「嘘ではない。ここに、医師の署名入りの診断書がある。ハートフィリア家の主治医、ガルド・シュナイダー。君も知っているだろう?」
ガルド・シュナイダー。ハートフィリア家の主治医。ルーシィが幼い頃から、家族の健康を診てきた老医師。
(あの先生が……)
「お父上は、君の行方を知らぬまま、病床に伏している。娘に一目会いたいと、うわごとで何度も呼んでいるそうだ。哀れなものだよ」
ジョゼの声は、相変わらず穏やかだ。
でも、その言葉は、ルーシィの胸を容赦なく締め上げる。
「……お父様が、私を……」
「ああ。お前の名を呼んでいるそうだ。ルーシィ、ルーシィ、と。娘を愛する父親の、痛ましい最期だな」
ルーシィの視界が、また滲み始めた。
(お父様……)
幼い頃の記憶が、走馬灯のように蘇る。
母レイラがまだ生きていた頃。父は、よく私を抱き上げてくれた。庭で花を摘んで、髪に飾ってくれた。仕事が忙しくなる前の、優しかった父。
(でも、母が死んでから……)
父は変わった。仕事に没頭し、私を見なくなった。そして、私に政略結婚を押し付けた。
(私は、それが嫌で、家を飛び出した)
(父の決めた人生じゃなくて、自分の道を歩きたかった)
(……それなのに)
ルーシィの唇が、震えた。
「……お父様は、私を政略結婚の道具にした。私の気持ちなんか、何も聞かずに」
「そうかもしれんな。だが、それでも君は、父親の死に目に会いたいのだろう?」
「……」
「会いたくない、とは言わせないよ。君の目は、そう言っている」
ジョゼは、封筒をスーツの内ポケットに戻した。
「単刀直入に言おう。ハートフィリア家の財産相続に関する書類に、君の署名が欲しい。署名さえしてくれれば、すぐにでも王都へ送り届けよう。お父上の最期に、間に合うようにな」
「……署名?」
「ああ。ハートフィリア家の全財産——商会の経営権、王都の屋敷、すべての資産——を、私が指定する人物に譲渡するという書類だ。君は、ハートフィリア家の一人娘。君の署名があれば、法的に有効なんだよ」
ルーシィの血の気が、さっと引いた。
「……そんなの、お父様の財産を、あんたが全部奪うってことじゃない」
「奪うとは人聞きが悪い。これは取引だよ。君は署名する。私は君を父の元へ送る。ウィンウィンだろう?」
「ふざけないで! お父様が必死に築いたものを、あんたみたいな奴に渡せるわけがない!」
ルーシィは、鉄格子に掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
手首の枷が、ガチャリと鳴る。
ジョゼは、微動だにしなかった。
「ふむ。では、拒否するかね?」
「当たり前でしょ! 誰が、あんたの言いなりになるもんですか!」
「そうか。残念だ。では、お父上は、君の行方を知らぬまま、孤独に息を引き取ることになる。最後の瞬間まで、娘はどこにいるのか、何をしているのか、それすら知らされずに」
ジョゼの言葉が、ルーシィの心臓に、冷たい針のように刺さる。
「お父上は、君に会いたいと言っている。それでも、君は署名を拒む。つまり、君は自分のプライドのために、父親の最期の願いを踏みにじる選択をした。そういうことだ」
「ちが……!」
「違わないだろう。君が署名を拒めば、父は死ぬ。君の選択が、父を殺すんだよ。ああ、なんと親不孝な娘だ」
ルーシィの全身が、震えた。
怒りと、悲しみと、罪悪感と。いろんな感情が、胸の中で渦巻く。
(違う。私のせいじゃない。悪いのは、この男)
(でも……お父様は……)
(お父様は、本当に、私に会いたがってるの?)
(私を、政略結婚の道具にしたお父様が?)
(……分からない)
ルーシィの頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
ジョゼは、そんなルーシィの様子を、じっと観察していた。
「ククク……迷っているな。迷うということは、君の心の中に、まだ父親への情が残っているということだ。愛しているのだろう? 憎んでいるくせに、愛している。人間の感情とは、実に矛盾に満ちていて、面白い」
「……あなたに、私の気持ちが分かるもんですか」
ルーシィは、震える声で言った。
「分からないからこそ、興味深いんだよ。だが、悠長に観察している時間もない。決めてもらおう。明日の朝までだ」
「……明日の朝?」
「ああ。明日の朝、もう一度ここへ来る。その時に、署名するか、しないか、答えを聞かせてもらおう。署名すれば、君は父の元へ。拒めば、父は死ぬ。どちらを選ぶかは、君次第だ」
ジョゼは、笑顔のまま、ゆっくりと背を向けた。
「待って!」
ルーシィが叫ぶ。
ジョゼは、足を止めずに、廊下を歩き出した。
「よく考えることだ。お父上の命が、君の返事ひとつで決まる。責任は重いぞ、お嬢さん」
ジョゼの声が、廊下に響き、そして、遠ざかっていく。
コツ、コツ、コツ。
靴音が、消えた。
ルーシィは、鉄格子に手をかけたまま、しばらくの間、動けなかった。
(明日の朝……)
(お父様が、死ぬ?)
(私の選択で?)
ルーシィの膝から、力が抜けた。
ずるずると、その場に座り込む。
「……ひどいよ」
声が、震える。
「ひどすぎる……こんなの、あんまりだよ……」
涙が、また溢れてきた。
(お父様を盾に取るなんて)
(そんなの、卑怯だ)
(でも、署名なんてできない)
(お父様の財産を、あの男に渡すなんて、絶対にできない)
(じゃあ、お父様を見殺しにするの?)
(私が、お父様を殺すの?)
「……いや」
ルーシィは、首を振った。
「いや……いやだ……」
彼女は、床に突っ伏した。
冷たい石の上で、体を丸める。
涙が、止まらなかった。
——
夜が来た。
明かり窓からの光が消え、牢は闇に包まれた。
ルーシィは、壁にもたれて座っていた。
涙は、もう枯れていた。
(……泣いたら、すごく疲れた)
体が重い。頭がぼんやりする。
(お腹も空いた)
黒いパンが、床に転がったまま。
ルーシィは、パンを拾い上げた。
固い。石みたいに固い。
でも、彼女は、それを小さくちぎって、口に入れた。
(……まずい)
パサパサで、苦くて、ほとんど味がない。
でも、食べないと、体がもたない。
(考えるためにも、体力がいる)
ルーシィは、水を一口飲んだ。
濁った水は、鉄の味がした。
(……まずい)
でも、飲まないと。
彼女は、ゆっくりと、パンを食べ進めた。
(考えるの。今、私にできることを)
(お父様のことは……明日の朝までに、答えを出さないといけない)
(でも、その前に)
ルーシィは、ポーチから星霊の鍵を取り出した。
金色の鍵。水瓶座の紋様。
(この封印を、なんとかしないと)
鍵を握りしめる。
手のひらに、冷たい感触。
(アクエリアス……)
心の中で、呼びかける。
(お願い。力を貸して)
魔力を、意識して流し込む。
手首の枷が、熱を帯びた。
吸われる。
体内のマナが、枷に吸い込まれていく。
(……ダメ)
鍵が、かすかに光った。
でも、それだけ。
星霊の声は、聞こえない。
(また、失敗)
ルーシィは、鍵を握りしめたまま、うつむいた。
(私、何もできない)
(鍵があっても、星霊を呼べない)
(お父様のことも、どうしていいか分からない)
(ギルドのみんなは、来てくれない)
(ナツも、ハッピーも、いない)
(私は、一人だ)
孤独が、闇のように、ルーシィを包み込む。
(……私、どうしてギルドに入ったんだっけ)
ルーシィは、目を閉じた。
家出した日のことを、思い出す。
——
あれは、数ヶ月前。
父に政略結婚を押し付けられて、私は家を飛び出した。
「私の人生は、私が決める!」
そう叫んで、夜の街を走った。
行く当てもなく、ただ、父の決めたレールから逃れたくて。
そんな時、出会ったのが、ナツとハッピーだった。
「おい、お前、星霊魔導士だろ? 俺たちのギルドに来いよ!」
桜色の髪の少年が、無邪気な笑顔で言った。
「妖精の尻尾っていうんだ。最高のギルドだぜ!」
青い猫が、にこにこ笑いながら言った。
「アイアイ! ルーシィ、一緒に行くのだ!」
半ば強引に連れて行かれたギルドで、私は、たくさんの仲間に出会った。
グレイ。エルザ。レビィ。マカロフさん。
みんな、個性が強くて、騒がしくて、でも、温かかった。
「私、ここにいていいのかな」
そう思ったこともあった。
でも、みんなは、私を受け入れてくれた。
「当たり前だろ! お前はもう、俺たちの仲間だ!」
ナツが、笑って言ってくれた。
「ルーシィ、一緒に依頼に行くのだ! 楽しみなのだ!」
ハッピーが、嬉しそうに言ってくれた。
——
(……あの日、私は決めた)
ルーシィは、目を開けた。
(父の決めた人生じゃなくて、自分で選んだ道を歩くって)
(ギルドで、みんなと一緒に、自分の力で生きていくって)
(そう、決めた)
彼女は、星霊の鍵を、胸の前に掲げた。
「……私は、自分で選んだ道を、自分で守る」
声に出して、呟いた。
「誰かの人形になんか、ならない。お父様の決めた人生にも、あの男の言いなりにも、絶対にならない」
「私の道は、私が決める。だから、私が、自分で、切り開く」
ルーシィの声は、牢の闇に溶けていった。
でも、その声には、確かな意志が宿っていた。
その瞬間だった。
ピシッ。
小さな音がした。
ルーシィは、はっとして、手首の枷を見た。
枷の表面、魔力が溜まる膨らみのあたりに、ごく細い亀裂が走っていた。
「……え?」
そして、握りしめていた鍵が、ほんの一瞬だけ、温かく光った。
金色の光。
水瓶座の紋様が、ぼんやりと浮かび上がる。
「……アクエリアス?」
ルーシィは、鍵を見つめた。
でも、光はすぐに消えた。
星霊の声は、まだ聞こえない。
封印は、まだ解けていない。
でも。
(今、確かに……)
ルーシィは、枷の亀裂を、指先でそっと触れた。
(枷が、少しだけ、壊れた)
(私の決意が、魔力を、少しだけ通した?)
(……まだ、分からない)
(でも、何かが変わった)
ルーシィは、鍵を握りしめ直した。
その手に、さっきより、ほんの少しだけ力が入る。
——
同じ夜。
遠く離れた山間部。
ヴェルミリオン山脈の、深い山道。
嵐が、吹き荒れていた。
「くそっ!」
桜色の髪の少年、ナツ・ドラグニルは、崩落した山道の前で立ち往生していた。
雨が、滝のように降り注ぐ。風が、木々を大きく揺らす。
目の前には、大量の土砂と岩。山道を完全に塞いでいる。
「また崩れてやがる……!」
ナツは、拳を握りしめた。
彼の隣では、青い毛並みの猫、ハッピーが、心配そうに空を見上げている。
「ナツ、この嵐じゃ、僕も飛べないのだ」
ハッピーの背中には、小さな翼が出ている。でも、この暴風では、飛び立つことすら危険だ。
「分かってる……分かってるけどよ!」
ナツは、地面に転がっていた岩を、思い切り握り潰した。
ボロボロと、岩の破片が崩れ落ちる。
「ルーシィが、今も、どこかで……!」
ナツの声が、嵐に消えていく。
「ルーシィは、強いのだ。きっと、大丈夫なのだ」
ハッピーが、ナツの肩に、そっと手を置いた。
「……ああ。でも、俺は、あいつを一人にしたくねえ」
ナツは、空を見上げた。
厚い雲が、空を覆っている。月も星も見えない。
「ルーシィ……待ってろよ」
ナツは、低い声で呟いた。
「俺が、必ず、助けに行く。絶対にだ」
彼の拳は、血が滲むほど強く握られていた。
——
地下牢。
ルーシィは、鍵を握りしめたまま、じっと闇を見つめていた。
(明日の朝)
(ジョゼが来る)
(それまでに、何か……)
その時だった。
廊下の向こうから、声が聞こえてきた。
ジョゼの声。
「……明日の朝、決めさせろ。父君の死を選ぶか、従うか。どちらに転んでも、我々に損はない」
冷酷な声が、牢の壁を伝って、ルーシィの耳に届く。
「もし署名を拒めば、父親は死ぬ。そうなれば、あの娘は完全に壊れる。精神が壊れた娘など、操るのは容易い。なにせ、たった一人の肉親を、自分の選択で殺したんだ。罪悪感に押し潰されて、こちらの言いなりになるだろう」
ルーシィの背筋に、冷たいものが走った。
(……あの男)
(最初から、そのつもりだったの?)
「署名をしても、同じだ。財産は頂く。その後で、あの娘をどうするかは、我々の自由。父親も、あの娘も、どちらも利用価値がなくなるまで、使い潰すだけだ」
ジョゼの声は、まるで天気の話でもするかのように、淡々としていた。
ルーシィは、鍵を握る手に、力を込めた。
指先が白くなる。
(……絶対に)
(絶対に、あんたの思い通りになんか、ならない)
涙の跡が残る顔を、ルーシィは上げた。
暗闇の中、彼女の瞳に、消えかけた光が、再び灯り始める。
(自分で選ぶ。自分で守る)
(私は、私の道を、自分の力で、切り開く)
鍵を握りしめた手が、かすかに震えていた。
でも、その震えは、もう、恐怖だけのものではなかった。
「……待ってて、お父様」
ルーシィは、小さな声で呟いた。
「私、絶対に、諦めないから」
牢の外では、ジョゼの靴音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
闇が、静かに、深まっていく。
だが、ルーシィの心の中には、小さな、しかし確かな火が、燃え始めていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。