イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~
ブリュンヒルド公国の公王・望月冬夜、今日も平和に暇を持て余していた。国政は婚約者たちによる嫁会議が回してくれている。ありがたい。ありがたいのだが——「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」九人の嫁たちとの賑やかな日々に、実姉で恋愛神の花恋が持ち込んだのは、とんでもない置き土産だった。白くて可愛い子犬。ただし、鳴けば城の窓ガラスが全滅する従属神。しかも噛まれると神力が減るらしい。「捕まえてね、冬夜」——笑顔で神域に帰っていった姉を恨みながら、公王の子犬捕獲作戦が幕を開ける。逃げ込んだ先は、よりによって嫁会議の真っ最中。九人の婚約者たちを巻き込んで、今日も城は賑やかです。窓ガラスと一緒に平和が割れる、ドタバタ嫁会議コメディ開幕!
イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~ - のんびり公王に厄介な来客
ホワイトロック城の三階にある自室で、望月冬夜はベッドに寝転んでいた。白いシャツに紺のズボンというラフな格好のまま、天井を見つめる。右手にはいつものようにスマホが握られている。黒髪のショートヘアは枕に押しつぶされて、あちこち跳ねていた。
「……暇だな」
茶色の瞳が、窓の外へと向く。
ブリュンヒルド公国。ヴァルナ連峰という山々に囲まれた盆地に位置する、建国十二年目の小さな国。その公王が、よりによって平日の昼間から暇を持て余している。国政は嫁会議──婚約者たちによる合議制の組織が事実上まわしている。彼に残された仕事は、最終的な書類への署名と、時々顔を出して国民に安心感を与えることくらいだった。
(平和だ。実に平和だ)
冬夜は心の中でつぶやいた。
セレーネ川が城のすぐ北を流れている。その水音が、開け放した窓から微かに届いていた。盆地の中央に広がる首都ミッドヴァルは、今日も穏やかな空気に包まれている。遠くで市場の喧騒が聞こえるような気がした。
その時、スマホが震えた。
「ん?」
画面を確認する。嫁会議の定例会が、この城の三階にあるオリーブの間で開かれているはずだ。議長はユミナ。議題は、またデートの計画だろう。
(デート、か)
冬夜はため息をついた。
婚約者は九人いる。ユミナ、リンゼ、エルゼ、八重、ルーシア、スゥシィ、ヒルデガルド、リーン、桜。みんな仲が良くて、誰かが誰かを蹴落とすようなこともない。それはありがたい。ありがたいのだが。
「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」
彼は本気でそう思っていた。
だって、そうだろう。デートというのは、お互いのことをよく知るためにするものだ。相手の好きなものを知って、嫌いなものを知って、一緒にいて楽しいかどうかを確かめる。そういう時間のはずだ。
でも、冬夜と婚約者たちはもう十分すぎるほど一緒にいる。同じ城に住んで、同じ釜の飯を食って、時には命がけの戦いも乗り越えてきた。今さらデートで何を知れというのか。
(まあ、行きたいって言うなら行くけどさ)
彼は押しに弱い。結局、ユミナたちに「明日、城下に買い物に行きましょう」とでも言われれば、嫌とは言えない自分を知っていた。
「公王って、意外と不自由だよな」
誰に言うでもなくつぶやいた。
――ピロン。
スマホが軽い音を立てた。
「メッセージ?」
画面をタップする。
差出人は望月花恋。冬夜の実の姉だ。
『今、そっちに向かってるから。ついでに厄介なものも連れて行くね』
「……」
冬夜は三秒ほど固まった。
それから、ゆっくりとスマホを枕の横に置いた。目を閉じる。深呼吸を一つ。
「嫌な予感しかしない」
彼は起き上がると、ベッドの上で胡座をかいた。
望月花恋。冬夜の姉であり、恋愛神という面倒くさい肩書きを持つ女性。おっとりしていてマイペースで、常に笑顔。そして、厄介なことを弟に押し付ける才能にかけては右に出る者がいない。
「前は確か……『ちょっと手伝って』って言われて、半日かけて神域の書類整理をさせられたっけ」
思い出すだけで肩が重い。
「あの時も笑顔で『ありがとう』って言ってたな。俺、書類の山に埋もれながら」
彼はもう一度ため息をついた。
「まあ、来るって言うなら来るんだろう」
窓の外を見る。空は青い。雲一つない。
「天気がいいことだけが救いだな」
彼はそう言って、もう一度ベッドに倒れ込んだ。
――翌日。
冬夜は城の前に立っていた。
白い花崗岩で築かれたホワイトロック城。その正門の前には、公王親衛隊の兵士が数名、警備に立っている。普段と変わらない朝のはずだった。
空から、巨大な影が降りてくるまでは。
「……来た」
影はどんどん大きくなる。
風が巻き起こり、兵士たちが思わず身構えた。冬夜は黒髪を風に揺らしながら、その影の正体を見上げる。
「久しぶりだね、冬夜」
ふわり、と。
音もなく、一人の女性が地面に降り立った。
望月花恋。黒髪のロングヘアが、まだ風にふわりと舞っている。優しい茶色の瞳は、弟を見つめて細められていた。身長は百六十二センチくらい。冬夜の姉らしく、弟とよく似た穏やかな顔立ちをしている。服装は淡い色合いのワンピースで、どこからどう見ても「普通の姉」にしか見えない。
だが、彼女は普通ではない。
恋愛神。神の一柱。冬夜の姉でありながら、神域で働く存在。
「……姉貴、来るならもっと早く言ってくれよ」
冬夜は苦笑いを浮かべた。
「昨日言ったじゃない」
「一日前だろ。心の準備ができない」
「心の準備って、何の?」
花恋は首をかしげる。その仕草が、なんだか小動物みたいで可愛らしい。二十歳の女性なのに、雰囲気は十代の少女のようだった。
「姉貴が来るときは、大体ろくなことにならないからだよ」
「失礼ね。お姉ちゃんはいつも弟のことを思って行動してるのに」
花恋はぷくっと頬を膨らませた。
「その言葉、どこまで本気だ?」
「全部本気よ」
花恋は笑った。
「それで、厄介なものって何だ?」
冬夜が尋ねると、花恋は「ああ」と手を叩いた。
「そうそう。この子よ」
彼女がスカートのポケットから取り出したのは――。
「……犬?」
一匹の子犬だった。
真っ白な毛並み。丸い黒い瞳。小さな耳。短い尻尾。どこからどう見ても、ただの可愛い子犬。抱き上げれば、両手にすっぽり収まってしまいそうなサイズ感。
「可愛いだろ」
「まあ、可愛いけど」
冬夜は素直にうなずいた。
「でも、こいつが厄介なものって?」
「この子、逃げ出した従属神なのよ」
「……は?」
従属神。眷属神とも呼ばれる、神に仕える下位の存在。外見は動物の姿をとることが多く、神力と呼ばれる特殊なエネルギーを扱う。冬夜も知識としては知っている。
「従属神って、あの? 神様のところで働いてるっていう」
「そうよ。この子、私の管理下から逃げ出しちゃって」
「管理下から逃げ出すって、そんな簡単に?」
「たまにいるのよ、やんちゃな子が」
花恋はケロッとしている。
「それで、追いかけてきたのか?」
「そう。この世界に逃げ込んだのよ。で、見つけたのはいいんだけど――」
花恋が言い終わる前に。
子犬が、口を開けた。
「ワンッ!!」
――バリィィィンッ!!
ホワイトロック城の窓ガラスが、全部割れた。
一階も、二階も、三階も、四階も、五階も。塔の窓も、食堂の窓も、謁見の間の窓も、オリーブの間の窓も。
粉々に砕け散ったガラスが、朝日を反射しながら降り注ぐ。
「うおっ!?」
冬夜はとっさに腕で顔をかばった。
周囲にいた親衛隊の兵士たちも、悲鳴を上げながらその場に伏せる。
「……え?」
冬夜はゆっくりと腕を下ろした。
城を見る。
窓という窓が、すべて消えていた。
「……おい」
「あらあら」
花恋はのんびりとした口調で言った。
「だから言おうとしたのに。この子、鳴くと窓ガラスが割れるのよ」
「遅いわ!」
冬夜は思わず叫んでいた。
子犬はというと、花恋の手の中で、まるで何もなかったかのように尻尾を振っている。
「……これ、ただの犬じゃないよな」
「だから従属神だって言ってるじゃない」
「いや、従属神って言われても、こんなの」
冬夜は頭を抱えた。
城の窓ガラスが全滅。これ、修理にいくらかかる? 公国の財政は決して潤沢ではない。鉄と農産物の輸出でなんとか回している小さな国だ。窓ガラス全部の交換は、下手をすると今月の予算が吹っ飛ぶ。
「……で、どうすんだよ、これ」
冬夜は花恋を見た。
「どうするって?」
「だから、この犬を」
「ああ、この子を捕まえてほしいのよ」
花恋は笑顔で言った。
「……姉貴が捕まえればいいだろ」
「私、こう見えて忙しいのよ。神域の仕事が山積みで」
「俺だって公王として忙しいんだが」
「でも、今暇そうだったじゃない」
「ぐっ」
図星だった。
「それに、この子はあなたの神力に反応してるのよ」
「神力に?」
「そう。あなた、世界神の眷属でしょ? 神格を持つ者の神力は、従属神を引き寄せるの」
花恋は子犬を冬夜の前に差し出した。
子犬が、冬夜の顔をじっと見つめる。
「だから、あなたが捕まえるのが一番いいのよ」
「待て待て待て」
冬夜は一歩後ずさった。
「捕まえるって、どうやって?」
「普通に捕まえれば?」
「普通にって」
「あ、でも、噛まれると神力が減るから気をつけてね」
花恋はあっけらかんと言った。
「神力が減るって、どのくらい?」
「さあ? 噛まれた回数によるんじゃないかしら」
「適当すぎるだろ」
冬夜は天を仰いだ。
神力。従属神や神格を持つ者が扱う特殊なエネルギー。噛まれたり触れられたりすると、相手の神力を吸収する。減った神力は休息か、神官による浄化で回復する。
(つまり、こいつに噛まれたら、俺の神力が吸われるってことか)
冬夜は自分の手を見た。
世界神の眷属となって、神力に目覚めてから、それなりに時間が経つ。神力は生命力に近いものだ。減れば疲労や気力の低下を引き起こす。
「……姉貴、本気で言ってるのか?」
「本気よ」
花恋はうなずいた。
「この子を放っておいたら、この国の神力を持つ人たちがみんな噛まれちゃうわ。あなたの婚約者たちも、眷属特性に目覚めてる子がいるでしょ?」
「……それは」
「だから、早く捕まえたほうがいいわよ」
花恋はそう言うと、子犬を地面に下ろした。
「じゃあ、あとはよろしく」
「は? ちょっと待て」
「私、これから神域に戻らなきゃいけないの。会議があって」
「会議? 俺の城の窓ガラスを全部割っておいて、会議?」
「窓ガラスは、ごめんね。後で弁償するから」
花恋は軽く手を振った。
「弁償って、お前の金は俺の金だろ」
「細かいことは気にしないの」
「気にするわ!」
冬夜の叫びも空しく、花恋の体がふわりと浮き上がる。
「それじゃあ、頑張ってね、冬夜」
「おい、待てって!」
花恋は笑顔で手を振りながら、空へと消えていった。
残されたのは、割れた窓ガラスの残骸と、一匹の子犬と、頭を抱える公王一人。
「……マジか」
冬夜はしゃがみ込んだ。
目の前で、子犬がちょこんと座っている。尻尾を振って、首をかしげて、冬夜を見上げている。
「お前、見た目だけは本当に可愛いな」
子犬が、一歩、冬夜に近づいた。
「お、おい、噛むなよ」
冬夜が手を引くと、子犬は首をかしげた。
(放っておくわけにはいかない。だって、こいつが城下に逃げたら、国民に被害が出る。神力を持つ人間は少ないけど、ゼロじゃない。それに、窓ガラスを割られたら、商売をしてる人たちが困る)
冬夜は立ち上がった。
「……やるしかないか」
彼はお人よしだった。
厄介事を押し付けられて、頭を抱えて、それでも結局、放っておけない。
「よし、お前、じっとしてろよ」
冬夜はゆっくりと子犬に近づいた。
子犬は尻尾を振っている。
(今のうちに捕まえる。そっと、素早く)
冬夜は両手を広げた。
あと一歩。
あと少し。
「――よしっ!」
冬夜が飛びかかった。
が。
子犬はひらりと身をかわした。
「あっ」
冬夜は地面に手をついた。
子犬は数メートル先に着地して、振り返る。その顔は、なんだか得意げに見えた。
「お前、逃げたな」
子犬は尻尾を振って、走り出した。
城の外へ向かって。
「待てっ!」
冬夜は全力で追いかけた。
白いシャツに紺のズボン。公王の証である銀のブローチが、胸元で揺れる。
子犬は速かった。
いや、速いというか、動きが読めない。右へ左へ、ジグザグに走り、時々くるっと方向を変える。まるで冬夜をからかっているかのようだ。
「くそっ、ちょこまかと!」
冬夜は無属性魔法【ブースト】を使おうか考えた。身体能力を強化すれば、子犬に追いつけるかもしれない。
でも。
(ダメだ。城下で魔法を使ったら、余計な被害が出る)
子犬は正門を抜けて、城下町へと続く道を走っていく。
「待てって言ってるだろ!」
冬夜は走りながら叫んだ。
その時、城の三階から声がした。
「冬夜さん!? 何をしてるんですか!?」
見上げると、割れた窓の向こうから、金髪の少女が顔を出している。ユミナだ。嫁会議の議長。左が翠色、右が碧色のオッドアイが、驚きに見開かれている。
「ユミナ! 説明は後だ! それより、そっちに子犬が行ったか!?」
「子犬……?」
ユミナが首をかしげた。
その時、子犬が城の壁を駆け上がった。
「えっ」
子犬は壁を垂直に走り、三階の窓――ユミナがいる窓へと飛び込んだ。
「きゃあっ!?」
「ユミナ!」
窓の向こうで、何かが倒れる音がした。
「おい、大丈夫か!?」
冬夜が叫ぶと、ユミナの声が返ってきた。
「だ、大丈夫です……でも、子犬が、部屋の中を走り回ってます!」
「そっちに行ったか! 今行く!」
冬夜は城の入り口へと走った。
オリーブの間。嫁会議の定例会が開かれている部屋。そこに、子犬が逃げ込んだ。
つまり。
(婚約者たちの前に、あの子犬が)
冬夜は全力で階段を駆け上がりながら、想像した。
ユミナ、リンゼ、エルゼ、八重、ルーシア、スゥシィ、ヒルデガルド、リーン、桜。九人の婚約者たちが、あの子犬を見て、どんな反応をするか。
「……嫌な予感しかしない」
彼は二度目のつぶやきを、息を切らしながら口にした。
子犬捕獲作戦は、まだ始まったばかりだ。
――こうして、ブリュンヒルド公国の平和な日常は、音を立てて崩れ去った。
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