イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~
ブリュンヒルド公国の公王・望月冬夜、今日も平和に暇を持て余していた。国政は婚約者たちによる嫁会議が回してくれている。ありがたい。ありがたいのだが——「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」九人の嫁たちとの賑やかな日々に、実姉で恋愛神の花恋が持ち込んだのは、とんでもない置き土産だった。白くて可愛い子犬。ただし、鳴けば城の窓ガラスが全滅する従属神。しかも噛まれると神力が減るらしい。「捕まえてね、冬夜」——笑顔で神域に帰っていった姉を恨みながら、公王の子犬捕獲作戦が幕を開ける。逃げ込んだ先は、よりによって嫁会議の真っ最中。九人の婚約者たちを巻き込んで、今日も城は賑やかです。窓ガラスと一緒に平和が割れる、ドタバタ嫁会議コメディ開幕!
イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~ - 市場の大騒動!エルゼ参上、拳が届かない相手
夕暮れの石畳を、二人は走っていた。
セレーネ川のせせらぎが遠くに聞こえる。城下町ミッドヴァルの家々の窓から、夕餉の支度の煙が細く立ち上っていた。空は茜色から紫色へと変わり始めている。
「見えたわ、フロンティア広場よ」
ユミナの金髪が、走るたびに夕日にきらめく。左が翠色、右が碧色のオッドアイが、広場の入口を鋭く見据えていた。
「あいつ、もう暴れてるかもな」
冬夜は息を弾ませながら、胸元の銀のブローチを押さえた。ブリュンヒルド公国公王としての正装は、追跡には向いていない。白いシャツの襟元は汗でぐっしょりだ。
「冬夜さま、足はもう大丈夫ですの?」
「ああ、痺れは取れた。ありがとな」
「いいえ。それより、あの子犬が市場で何をしでかすか……考えるだけで怖いですわ」
二人は、フロンティア広場へと続く最後の角を曲がった。
――中央市場フロンティア広場。
ミッドヴァル最大の市場だ。常設の店が四十八軒、曜日ごとに露天商が最大百二十店も並ぶ。この時間帯は夕飯の買い出し客でごった返しているはずだった。
だが、今、広場は悲鳴に包まれていた。
「うわあああっ! 俺の野菜が!」
「魚が! 魚が空を飛んでる!」
「誰か捕まえてくれ! あの犬だ!」
冬夜の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
ふさふさの白い毛を逆立てた子犬が、屋台の上を縦横無尽に駆け回っている。口には大きな魚をくわえていた。セレーネ川で獲れたばかりの、銀色に光る川魚だ。
子犬が跳ぶ。屋台から屋台へ。そのたびに、積み上げられた野菜が崩れ、果物が地面に転がり、卵の籠がひっくり返る。
「あいつ、やりたい放題だな!」
「急ぎますわよ。冬夜さま、わたくしが左から回り込みます。冬夜さまは右からお願いしますわ」
「了解!」
二人は左右に分かれて走り出した。
冬夜は、倒れた野菜の山を跳び越え、叫び声を上げる人々の間を縫って走る。
(くそ、人混みが邪魔だ。それに、あの子犬、速すぎる)
子犬は、冬夜が近づくと、まるでそれを楽しむかのように、ひらりと身を翻した。
「待て!」
冬夜は【ブースト】で身体を強化し、一気に距離を詰める。無属性魔法【ブースト】は、自分の身体能力を何倍にも高める力だ。
だが――
「グルルルル……ワンッ!!」
子犬が吠えた。
その瞬間、空気が震えた。見えない力の波が、冬夜の全身を打つ。
「ぐっ……!?」
足が、動かない。まるで泥の中に沈み込んだみたいに、脚が重い。
(またかよ! この神力ってやつ、厄介すぎるだろ!)
冬夜は歯を食いしばった。あと一歩。あと一歩で届くのに、その一歩が踏み出せない。
「冬夜さま、無理はなさらないで! あの子犬、人混みを利用して逃げていますわ。わたくしの魔眼でも、この雑踏では動きを読み切れませんの」
ユミナが、反対側から駆け寄ってくる。彼女の手には、いつの間にか捕獲用の網が握られていた。
「でも、放っておくわけにはいかないだろ。このままじゃ市場が滅茶苦茶だ」
冬夜が言い終わらないうちに、子犬はまた跳んだ。
今度は、干物を並べた屋台の上に着地し、そのまま勢いよく駆け抜ける。干物が宙を舞い、通行人の頭の上に降り注いだ。
「きゃあっ! なにこれ!」
「俺の干物が! 今日一日の稼ぎが!」
広場は、もう収拾がつかない状態だった。
その時だった。
「おい、何やってんだお前ら!」
聞き覚えのある声。冬夜が振り返ると、そこにいたのは――
銀色の長い髪を一つに結んだ、十四歳の少女。青い瞳が、夕日に燃えるように輝いている。両手には、戦闘用のガントレット。そして、片方の手には、リンゴの入った籠。
エルゼ・シルエスカ。冒険者であり、冬夜の婚約者の一人だ。
「エルゼ! お前、なんでここに?」
「買い出しに来てたんだよ。そしたら、市場が大騒ぎで……って、あの子犬、なんだ!?」
エルゼが、子犬を指さした。子犬は、ちょうど果物屋の屋台の上で、リンゴを前足で転がして遊んでいるところだった。
「説明は後だ! エルゼ、あの子犬を捕まえるのを手伝ってくれ!」
「おう、任せろ! あんなちっこいの、アタシの拳で一発だ!」
エルゼは、リンゴの入った籠を地面に置くと、ガントレットをガチンと打ち鳴らした。
「待って、エルゼさん。あの子犬は普通の犬ではありませんわ。神力を使う従属神ですの。噛まれると神力が減ってしまいますわ」
ユミナが警告する。だが、エルゼはもう走り出していた。
「神力だかなんだか知らないけど、アタシの拳の前には関係ないね!」
エルゼは、屋台の間を縫って、子犬に一直線に突っ込んでいく。その速さは、冬夜の【ブースト】にも劣らない。
「グルル……?」
子犬が、エルゼの接近に気づいた。
エルゼは、ガントレットを振りかぶった。
「もらった!」
だが――
子犬は、エルゼの拳が届く寸前で、ふわりと宙に舞った。まるで羽根のように軽やかに、エルゼの頭上を跳び越える。
「なっ……!?」
そして、子犬は、空中でくるりと体を反転させた。
その小さな口が、エルゼの右腕に――ガブリ。
「いっ……!?」
噛みついた。
「エルゼ!」
冬夜が叫ぶ。
子犬は、すぐにエルゼの腕から離れ、屋台の上に着地した。口元を舐めている。
「な、なんだ……これ……力が……抜ける……」
エルゼの顔から、血の気が引いていく。彼女は、その場にがくりと膝をついた。ガントレットをはめた手が、地面に触れる。
「体が……重い……なんで……」
「神力吸収ですわ。噛まれたことで、エルゼさんの神力が減らされたのです」
ユミナが、エルゼに駆け寄る。
「くそ……あんなちっこいのに……」
エルゼは、悔しそうに唇を噛んだ。青い瞳が、涙でわずかに潤んでいる。
「エルゼ、大丈夫か!?」
冬夜が、エルゼを支えようと駆け寄った。
その瞬間――
「ワンッ!!!」
子犬が、再び吠えた。
今度は、明らかに狙いを定めた吠え声だった。空気が弾ける。見えない衝撃波が、冬夜に向かって一直線に飛んでくる。
「しまっ……!」
冬夜は、とっさにエルゼを庇うように覆いかぶさった。
衝撃が、背中を打つ。
「ぐあっ!」
足の感覚が、消えた。
いや、足だけじゃない。全身の力が、一瞬で抜け落ちる。
「冬夜!」
エルゼの声が、遠くに聞こえた。
冬夜は、エルゼを庇ったまま、地面に倒れ込んだ。
その隙に、子犬は動いた。
「ワン! ワン! ワン!」
子犬は、吠えながら、市場の屋台を次々と蹴散らしていく。
陶器の皿が割れる音。果物が踏み潰される音。布が引き裂かれる音。
「ああっ! 俺の皿が!」
「リンゴが! リンゴが全部ダメに!」
「もう勘弁してくれ!」
悲鳴と怒号が、広場に渦巻いた。
子犬は、破壊の嵐を置き去りにして、市場の奥へと消えていく。
「くそ……待て……!」
冬夜は、立ち上がろうとした。だが、足が動かない。神力吸収の影響が、まだ残っている。
「冬夜さま、無理をなさらないで。今は、回復を優先してくださいな」
ユミナが、冬夜の肩を支えた。
「でも……あいつ、また逃げた……」
冬夜は、地面を拳で叩いた。
「アタシのせいだ……アタシが無茶したから……」
エルゼが、うつむいたまま、小さくつぶやいた。
「エルゼのせいじゃない。あの子犬の神力は、俺たちが思ってたよりずっと厄介だってことが分かっただけだ」
冬夜は、なんとか笑顔を作って、エルゼに言った。
だが、その時だった。
「おい、あんたら!」
怒り狂った声が、冬夜たちに降りかかった。
振り返ると、そこには、顔を真っ赤にした商人たちの群れ。
「あの犬を追いかけてきたのは、あんたらだろ!」
「うちの皿が全部割れた! どうしてくれるんだ!」
「こっちは野菜が滅茶苦茶だ! 売り物にならねえ!」
「魚もだ! あの犬が咥えて行きやがった!」
商人たちが、口々に叫ぶ。
「皆さま、お静かに。お話は伺いますわ」
ユミナが、一歩前に出た。
「あの子犬は、わたくしたちが責任を持って捕まえます。ですから、どうか今は――」
「捕まえるだぁ? それより先に、壊された商品の弁償だ!」
陶器屋の親父が、ユミナの言葉を遮った。
「そうだそうだ! 弁償しろ!」
「あんたら、公王様とこのお嬢さんだろ? 責任取ってくれるんだろうな!」
冬夜は、ハッとした。
(そうか、俺は公王なんだ。ここで逃げるわけにはいかない)
冬夜は、よろよろと立ち上がった。まだ足に力が入らない。
「分かった。全部、うちで払うよ」
冬夜は、そう言って、懐に手を入れた。
そして、気づいた。
(あれ……?)
財布が、ない。
いや、財布はある。だが、中身が――
「金貨が……足りない……」
冬夜の手のひらには、銀貨が数枚と、銅貨が少し。金貨は、一枚も入っていなかった。
「え?」
「やばい……城に置いてきた……いや、そもそも持ち歩いてなかった……」
冬夜は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
(公王が、弁償しますと言って、金がない。これは、かなりまずい)
「どうした? 早く払えよ!」
商人たちの視線が、冬夜に突き刺さる。
「……アタシが払う」
エルゼが、ふらふらと立ち上がった。
「アタシが無茶したせいだ。弁償は、アタシが……」
「おい、そこの姉ちゃん! あんた、あの犬に飛びかかって、余計に暴れさせたよな!」
「ああ、見てたぜ! あんたが突っ込んだから、あの犬が逆上したんだ!」
「……う……」
エルゼが、言葉に詰まる。
「ケガの手当てより先に、弁償の話をしな!」
「……ごめんなさい……」
エルゼが、小さく頭を下げた。
その姿を見て、冬夜の胸が、ずきりと痛んだ。
(エルゼは悪くない。あの子犬に噛まれて、神力まで吸われて、それで今度は商人たちに責められてる)
「やめてくれ。エルゼは、俺を助けようとしてくれたんだ。責めるなら、俺を責めてくれ」
冬夜は、エルゼの前に立った。
「弁償は、必ずする。明日までには、全額用意する。だから、今日のところは……」
「皆さま、わたくしがお約束いたしますわ。この者たちは、ブリュンヒルド公国公王と、その婚約者。逃げも隠れもいたしません。後日、必ずお支払いいたします」
ユミナが、凛とした声で言った。
「わたくしは、ベルファスト王国第一王女、ユミナ・エルネア・ベルファスト。この名に懸けて、お約束いたしますわ」
ユミナの言葉に、商人たちがざわめいた。
「ベルファスト王国の王女様……?」
「本物か……?」
「ええ、本物ですわ。ですから、どうか今は、お引き取りくださいな。明日、改めて、被害の確認に参ります」
ユミナの堂々とした態度に、商人たちは、しぶしぶながらも引き下がっていった。
「……明日、必ず払えよ!」
「逃げたら、承知しないからな!」
商人たちが、散っていく。
広場には、割れた皿や踏み潰された果物の残骸が、無残に散らばっていた。
「……ごめん、冬夜」
エルゼが、また頭を下げた。
「謝らなくていいよ。お前は、俺を助けようとしてくれたんだろ」
「でも……アタシが突っ込んだから、あの犬、余計に暴れて……」
「それは、俺だって同じだ。俺も、何度も追いかけて、何度も逃げられてる。あの子犬は、俺たちの想像以上に厄介な相手なんだよ」
冬夜は、エルゼの銀色の髪を、そっと撫でた。
「……っ」
エルゼが、びくっと肩を震わせた。
「ほら、立てるか? 城に戻ろう」
「……うん」
エルゼは、冬夜の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
「冬夜さま、わたくしがエルゼさんを支えますわ。冬夜さまも、まだ足がお辛いでしょう?」
「ああ、頼む」
ユミナが、エルゼの肩を支えた。
三人は、夕闇に包まれ始めた市場を後にした。
――ホワイトロック城への帰り道。
「……アタシ、明日、冒険者ギルドで金を借りてくる」
エルゼが、ぽつりと言った。
「は? なんで?」
「弁償代。アタシの分は、アタシが払う」
「だから、お前のせいじゃないって」
「うるさい! アタシが払うって言ったら払うんだ!」
エルゼが、急に声を張り上げた。
「……アタシ、いつもそうだ。考えなしに突っ込んで、周りに迷惑かけて……」
エルゼの声が、震えている。
「冬夜に助けてもらってばっかりで……今回も、結局、冬夜に庇われて……」
冬夜は、エルゼの言葉を聞きながら、彼女の横顔を見た。
銀色の髪が、夜風に揺れている。青い瞳は、まっすぐ前を見ていた。
(エルゼは、こういう風に、一人で抱え込むところがあるんだよな)
冬夜は、エルゼの不器用さを、痛いほど理解していた。
「エルゼ」
「……なんだよ」
「俺は、お前に助けられてるよ。いつも」
「……は?」
エルゼが、驚いた顔で冬夜を見た。
「お前が、まっすぐで、何も考えずに突っ込んでくれるから、俺も頑張れる。今日だって、お前が来てくれたから、あの子犬の神力のヤバさが、もっとはっきり分かった。次に活かせる」
「……そ、そうか?」
「そうだよ。だから、一人で抱え込むな。俺たちは、婚約者だろ?」
冬夜が言うと、エルゼの顔が、みるみる赤くなった。
「なっ……! ば、ばか! そういうこと言うな!」
エルゼが、照れ隠しに拳を振り上げる。
「おわっ、危ない!」
冬夜は、笑いながら身をかわした。
「ふふ、お二人とも、仲がよろしいですわね」
ユミナが、くすくすと笑った。
「ユミナまで! からかうな!」
エルゼが、今度はユミナに拳を振り上げる。
「あらあら、照れなくてもよろしいのに」
「照れてない!」
三人の笑い声が、夜の石畳に響いた。
――その夜。
冬夜は、自室で明日の作戦を考えていた。
机の上には、ミッドヴァルの地図が広げられている。子犬の逃げた方向、市場での行動パターン、神力の射程距離。
(あの子犬、市場を荒らした後、どっちに逃げた? 東か……それとも北か……)
冬夜は、地図に印をつけながら、考え込んだ。
その時だった。
ガチャリ。
ノックもなしに、部屋の扉が開いた。
「エルゼ!?」
そこに立っていたのは、寝間着姿のエルゼだった。銀色の髪が、月明かりに照らされて、淡く光っている。
「……冬夜」
エルゼは、部屋に入ると、後ろ手に扉を閉めた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「……昼間は、悪かった」
エルゼが、うつむいたまま、小さく言った。
「アタシが余計なことしたせいで、冬夜にまで神力が当たって……それに、弁償のことも……」
「だから、お前のせいじゃないって。何度も言わせるなよ」
冬夜は、椅子から立ち上がって、エルゼのそばに歩み寄った。
「……でも、アタシ、何もできなかった。拳が、全然届かなかった」
エルゼが、ガントレットをはめた自分の手を見つめる。
「アタシの武器は、この拳だけだ。なのに、あの子犬には、一発も当てられなかった」
「エルゼの拳は、あの子犬に当たらなかったんじゃない。あの子犬が、お前の拳を避けたんだ。それだけ、お前の拳は速いってことだよ」
「……そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
冬夜は、エルゼの頭に、ぽんと手を置いた。
「……っ」
エルゼが、また顔を赤くする。
「……明日こそ、絶対に捕まえるからな! アタシが、あの子犬に、この拳を叩き込んでやる!」
エルゼが、顔を上げて、力強く宣言した。
「お前らしいな。でも、無茶はするなよ。今日みたいに噛まれたら、また神力が減るぞ」
「分かってる。次は、噛まれる前に殴る」
「シンプルだな」
「アタシは、シンプルが一番なんだよ」
エルゼが、笑った。
昼間の、悔しそうな顔とは、全然違う。
(エルゼの、こういうまっすぐなところに、俺はいつも救われてるんだよな)
冬夜は、心の中で、そう思った。
「……明日、一緒に捕まえような」
「おう!」
エルゼは、元気よく返事をして、部屋を出て行った。
冬夜は、再び机に向かった。
(明日こそ、絶対に捕まえる)
地図を見つめる冬夜の目に、強い決意が宿っていた。
だが、その頃――
子犬は、月明かりの下を、ひたすら走っていた。
市場を抜け、石畳の道を東へ。
その小さな足は、迷いなく、ある場所へと向かっていた。
公王親衛隊の訓練場。
夜の闇に沈む訓練場に、子犬の白い影が、音もなく滑り込んでいく。
――新たな騒動の予感が、静かに、しかし確実に、近づいていた。Noveliaとは?
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