イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~
ブリュンヒルド公国の公王・望月冬夜、今日も平和に暇を持て余していた。国政は婚約者たちによる嫁会議が回してくれている。ありがたい。ありがたいのだが——「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」九人の嫁たちとの賑やかな日々に、実姉で恋愛神の花恋が持ち込んだのは、とんでもない置き土産だった。白くて可愛い子犬。ただし、鳴けば城の窓ガラスが全滅する従属神。しかも噛まれると神力が減るらしい。「捕まえてね、冬夜」——笑顔で神域に帰っていった姉を恨みながら、公王の子犬捕獲作戦が幕を開ける。逃げ込んだ先は、よりによって嫁会議の真っ最中。九人の婚約者たちを巻き込んで、今日も城は賑やかです。窓ガラスと一緒に平和が割れる、ドタバタ嫁会議コメディ開幕!
イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~ - 婚約者が来た!デートより子犬だろ!
窓ガラスが割れた城の廊下は、午後の光が差し込んで妙に明るかった。
望月冬夜は、オリーブの間へと続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。白いシャツの襟元が汗で湿っている。胸元の銀のブローチが、走るたびにカチャカチャと鳴った。
「くそっ、あの子犬、どこ行った!」
息を切らしながら、三階の廊下へ飛び出す。
そこに、いた。
金髪のロングヘアが、割れた窓から入る風にふわりと揺れている。左が翠色、右が碧色のオッドアイ。背筋をぴんと伸ばした、気品のある立ち姿。
ユミナ・エルネア・ベルファスト。ベルファスト王国の第一王女であり、嫁会議の議長。そして、冬夜の婚約者の一人だ。
「冬夜さま。ご無事でしたのね」
ユミナは、ほっとしたように微笑んだ。
「ああ、ユミナ。無事だ。それより、子犬は?」
「それが……わたくしが窓から顔を出した途端、壁を駆け上がってきて。部屋の中をぐるぐると走り回った後、あちらの廊下へ消えていきましたわ」
ユミナが指さす先は、城の東側へと続く廊下だった。
「そうか。ありがとう。追いかける」
冬夜が走り出そうとすると、ユミナがすっと前に回り込んだ。
「お待ちくださいな」
「え?」
ユミナは、オッドアイの瞳を真っ直ぐに冬夜へ向けた。
「逃げ出した従属神を捕まえるのが先決ですわ。ですが、行き当たりばったりで追いかけても、また逃げられます。まずは状況を整理いたしましょう」
その声には、議長としての凛とした響きがあった。
冬夜は、思わず足を止めた。
(相変わらず、ユミナはこういう時、頼りになるな)
心の中で、素直にそう思った。
「……わかった。で、何から話せばいい?」
「まずは、子犬の現在の居場所と、これまでの被害状況ですわ。冬夜さま、何があったのか、順を追って教えてくださいな」
冬夜は、少し乱れた呼吸を整えながら、朝からの出来事を思い返した。
「えっと、今朝、花恋が空から降りてきてな。あの子犬を連れてきたんだ。で、子犬が吠えた瞬間、城の窓ガラスが全部割れた」
「全部、ですの?」
ユミナの眉が、わずかに上がる。
「ああ。城の窓という窓が、粉々にな。それで、花恋は『あとはよろしく』って言って、どっか行っちまった」
「……花恋さまらしいですわね」
ユミナは、苦笑いを浮かべた。
「それから、子犬は城内を走り回ってる。俺も一回捕まえようとしたんだけど、ひらりとかわされて。そんで、今に至る」
「なるほど。状況は理解いたしましたわ」
ユミナは、こくりと頷いた。
「では、さっそく作戦会議を始めましょう。場所はオリーブの間がよろしいですわね。あそこなら防音魔法が施されておりますから、子犬の鳴き声に邪魔されることもありませんし」
「お、おう」
冬夜は、ユミナのテキパキとした指示に、ただ頷くしかなかった。
――オリーブの間。
楕円形のテーブルを囲む八脚の椅子。壁には、冬夜が昔描いたという「風景画」が飾られている。本人はそう言い張っているが、見るたびに「これは何かの暗号か?」と婚約者たちをざわつかせる代物だ。
ユミナは、議長席に腰を下ろした。
冬夜も、向かい側の椅子に座る。
「それでは、作戦会議を始めますわよ」
「はいはい」
「まず、あの子犬の正体について、わたくしの見解を述べさせていただきますわ。あれは、花恋さまが仰っていた通り、従属神。神に仕える下位存在です。外見は子犬ですが、神力と呼ばれる特殊なエネルギーを扱います」
「神力って、噛まれると減るんだよな?」
「ええ。花恋さまも仰っていましたわ。噛まれると神力が少し減る、と」
「でも、それって具体的にどうなるんだ? 俺、まだ噛まれてないから分かんないんだけど」
冬夜が首をかしげると、ユミナは人差し指を立てた。
「神力とは、生命力の一部に近い力です。それが減ると、一時的な疲労や気力の低下を引き起こします。回復には休息か、神官による浄化が必要ですわ」
「ふーん。つまり、噛まれたら一気にだるくなるってことか」
「その通りですわ」
冬夜は、腕を組んで天井を見上げた。
「面倒くさいな、それ」
「ふふ、面倒くさいからこそ、捕まえる価値があるのではなくて?」
「そういう問題か?」
冬夜が呆れていると、ユミナはすっと立ち上がった。
「では、わたくしの看破の魔眼で、子犬の特性を詳しく分析いたしますわ」
「看破の魔眼って、そういうのも見えるのか?」
「ええ。人の本質を見抜く力ですが、神力の流れを視ることもできますの。あの子犬がどこにいるかも、神力の残滓を追えば分かりますわ」
ユミナは、両手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。
そして、開く。
左の翠色の瞳と、右の碧色の瞳が、同時に淡く光を帯びた。
冬夜は、思わず息を止めた。
何度見ても、この瞬間は不思議な気持ちになる。ユミナの瞳が、まるで別の世界を見ているかのように、深く澄んでいく。
「……見えましたわ」
ユミナが、静かに呟いた。
「子犬は、城の西側、厨房の近くにいます。まだ動いていますわ。それと……」
「それと?」
「神力吸収の特性について、はっきりと視えました。あの子犬は、触れた相手から神力を吸収します。ですが、それは接触した時だけ。離れていれば、何の影響もありませんわ」
「接触した時だけ……ってことは、直接触らなければいいのか?」
「その通りですわ。ならば、網で捕まえれば問題ありません。直接触れずに、あの子犬を捕獲できますもの」
ユミナは、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「……すごいな、お前」
冬夜は、素直に感心した。
「あの子犬の動きが読めなくて、俺はただ追いかけることしかできなかった。なのに、ユミナは一瞬で特性を見抜いて、捕まえる方法まで思いつくんだからな」
「ふふ、冬夜さまに褒めていただけると、嬉しいですわ」
ユミナは、少し照れたように微笑んだ。
その笑顔を見て、冬夜の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
(こういうところ、本当に頼りになるんだよな)
婚約者として、嫁会議の議長として、そして一人の女の子として。ユミナのこういう姿を見るたびに、冬夜は「この子と一緒にいられて良かった」と思う。
「よし、じゃあ網を用意してくる。倉庫に、頑丈な網があったはずだ」
冬夜が立ち上がろうとすると、ユミナが「お待ちくださいな」と再び声をかけた。
「まだ、話が終わっておりませんわ」
「え? まだ何かあるのか?」
冬夜が首をかしげると、ユミナは、にっこりと笑った。
その笑顔が、なぜか少しだけ怖かった。
「それで、デートの件はいかがなさいますの?」
「……へ?」
「デートですわ。嫁会議で決議された、冬夜さまとわたくしたちのデート計画。子犬の件が片付いたら、順番にデートに行く予定でしたでしょう?」
冬夜は、思わず声を上げた。
「いやいやいや! 今それ言う!? 子犬が城の中走り回ってるんだぞ!?」
「だからこそですわ。子犬の捕獲とデートの計画は、並行して進めるべきですもの」
「並行って、お前なあ……」
冬夜は、頭を抱えた。
「だいたい、なんでデートなんだよ。俺たち、もう婚約してるだろ? 今さらデートして、何を知るって言うんだ?」
「まあ。冬夜さまは、デートは婚約前の男女がするものだとお思いですの?」
「違うのか?」
「違いますわ。デートは、大切な人と一緒に時間を過ごし、思い出を作るためのものです。婚約しているからこそ、二人だけの時間を大切にしたい。そう思うのが、自然ではありませんか?」
ユミナの言葉は、真っ直ぐで、真剣だった。
「……でも、俺たち、いつも一緒にいるだろ。同じ城に住んで、同じ飯食って」
「ふふ、そうですね。ですが、それとデートは別ですわ。デートには、特別な魔法があるのです。普段とは違う時間、違う場所、違う空気。そこで二人で過ごす時間が、かけがえのない宝物になるのです」
ユミナは、そっと胸に手を当てた。
「わたくしは、冬夜さまと、そういう時間を過ごしたいのです」
その瞳は、真剣そのものだった。
冬夜は、その眼差しに、たじたじになった。
「……わかった。わかったよ。デートの話は、子犬を捕まえてから、ちゃんと考える。それでいいだろ?」
「ふふ、逃げましたわね」
「逃げてない! 順序の問題だ!」
「では、子犬を捕まえたら、その足でデートですわよ。約束ですわ」
ユミナは、小指を差し出した。
「……お前、そういうの覚えてたのか」
「もちろんですわ。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、ですわね」
「この世界に針千本飲ます文化はないだろ……」
冬夜は、ため息をつきながらも、ユミナの小指に自分の小指を絡めた。
ユミナの指は、細くて、温かかった。
「約束ですわよ」
ユミナが、悪戯っぽく笑った。
(……まあ、なんとかなるか)
冬夜は、心の中で呟いた。
――城の倉庫。
冬夜は、ユミナと一緒に、地下の倉庫へと降りてきた。
薄暗い石造りの部屋には、木箱や樽が積み上げられ、ほこりっぽい空気が漂っている。
「確か、この辺に頑丈な網があったはず……」
冬夜は、木箱を開けたり、棚を探ったりしながら、倉庫の中を進んだ。
「これか?」
見つけたのは、太い麻紐で編まれた大きな網だった。大人が二人ですっぽり包めるくらいの大きさがある。
「これで十分ですわね。あと、捕獲用の縄も必要ですわ」
ユミナは、壁にかかっていた丈夫そうな縄を手に取った。
「でも、本当にこれで捕まえられるのか? あの子犬、めちゃくちゃ素早いんだぞ」
冬夜が網を広げながら言うと、ユミナは、ふふっと笑った。
「あなたの魔力とわたくしの魔眼、そしてこの網があれば十分ですわ。冬夜さまが子犬を追い込み、わたくしが動きを予測する。そして、網で一網打尽です」
「お前、本当に自信満々だな」
「ええ。わたくし、こう見えて負けず嫌いですの」
ユミナは、いたずらっぽく片目をつぶった。
冬夜は、その表情に、思わず笑ってしまった。
「わかった。お前の作戦に乗るよ。で、子犬は今どこにいるんだ?」
ユミナは、再び看破の魔眼を発動させた。
「……庭園ですわ。城の東側にある、あの薔薇園。そこで、何やら花壇を掘り返しているようですわ」
「花壇を!? あの薔薇、庭師の爺さんが大事に育ててるやつだぞ!」
「急ぎましょう。これ以上、被害を広げるわけにはいきませんわ」
「おう!」
二人は、倉庫を飛び出し、庭園へと走った。
――城の東側、薔薇園。
色とりどりの薔薇が咲き誇る、美しい庭園。
その中央で、小さな子犬が、せっせと花壇の土を掘り返していた。
「見つけたぞ!」
冬夜が叫ぶと、子犬は顔を上げた。
ふさふさの毛、つぶらな瞳、ぴんと立った耳。
どう見ても、ただの可愛い子犬だ。
だが、その口元からは、ほろほろと土がこぼれ落ちている。足元には、無残に掘り返された花壇。
「こら! 何してくれてんだ!」
冬夜が網を構えて近づく。
子犬は、首をかしげた。
「冬夜さま、右ですわ! 右に跳びます!」
ユミナが、魔眼で子犬の動きを予測して叫ぶ。
「右だな!」
冬夜は、網を右側へと広げた。
――だが。
子犬は、ユミナの予測を上回る速さで、左へと跳んだ。
「えっ!?」
「うわっ!」
子犬は、冬夜の足元をすり抜けざまに、その脚へと軽く触れた。
触れただけだった。
それなのに。
「――あっ」
冬夜の左脚から、すっと力が抜けた。
感覚がない。動かない。まるで、脚だけが眠ってしまったかのようだ。
「冬夜さま!?」
「くっ……神力吸収か!」
冬夜は、片膝をついた。
その隙に、子犬は、ひらりと薔薇の茂みを越えて、城の外壁の方へと走り去っていく。
「くそっ、あと少しだったのに!」
冬夜は、地面を拳で叩いた。
「……ふふ、なかなかやりますわね」
ユミナは、逃げていく子犬の背中を見つめながら、逆に楽しそうな表情を浮かべた。
「お前、笑ってる場合か!?」
「だって、面白いではありませんか。あの子犬、わたくしの魔眼の予測を上回るなんて。只者ではありませんわ」
「感心してる場合でもないだろ! 俺の脚、まだ動かないんだけど!」
冬夜が叫ぶと、ユミナは、くすっと笑って近づいてきた。
「大丈夫ですわ。神力吸収は一時的なものです。少し休めば、すぐに動くようになります。わたくしが支えて差し上げますわ」
ユミナは、冬夜の腕を取って、自分の肩に回させた。
「……悪いな」
「いいえ。婚約者ですもの。これくらい当然ですわ」
ユミナの体は、華奢なのに、不思議と頼もしかった。
(こういう時、女の子に支えられるって、なんだか情けないな)
冬夜は、心の中で苦笑いした。
でも、同時に、思う。
(でも、まあ、悪くない)
ユミナの髪から、ほのかに花の香りがした。
「……それにしても、あの子犬、どこへ向かったんですの?」
ユミナが、魔眼を再び発動させる。
「……城の外ですわ。城下町へと下りる道を、東へ向かっています。あの方向には、中央市場のフロンティア広場がありますわ」
「市場!? あそこは人でいっぱいだぞ! あの子犬が吠えたら、大変なことになる!」
冬夜の表情が、一気に真剣になった。
「ええ。ですから、急ぎましょう。冬夜さま、もう脚は動きますか?」
「……あ、うん。ちょっと痺れは残ってるけど、動く」
冬夜は、慎重に足を動かした。
まだ少し違和感があるが、走れないほどではない。
「よし、追いかけるぞ!」
「ええ。次は逃がしませんわよ」
ユミナのオッドアイが、強い決意を宿して輝いた。
「……お前、目が怖いよ」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておきますわ」
二人は、城の門を抜け、城下町へと続く石畳の道を駆け下りた。
夕暮れが近づいていた。
空は茜色に染まり始め、街のあちこちから、夕餉の支度をする匂いが漂ってくる。
セレーネ川のせせらぎが、遠くで聞こえた。
ブリュンヒルド公国の首都ミッドヴァルは、今日も活気に満ちている。
だが、その平和な街並みに、今、小さな嵐が近づいていた。
ふさふさの毛を風になびかせ、つぶらな瞳をきらきらと輝かせて、子犬は、夕暮れの街へと消えていく。
その後を、公王と、嫁会議の議長が、全力で追いかける。
「待てーっ!」
「逃がしませんわよーっ!」
子犬は、振り返りもせず、ひたすらに走り続けた。
その口元が、何かを企んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
――子犬捕獲作戦は、まだ始まったばかりだ。Noveliaとは?
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