イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~
ブリュンヒルド公国の公王・望月冬夜、今日も平和に暇を持て余していた。国政は婚約者たちによる嫁会議が回してくれている。ありがたい。ありがたいのだが——「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」九人の嫁たちとの賑やかな日々に、実姉で恋愛神の花恋が持ち込んだのは、とんでもない置き土産だった。白くて可愛い子犬。ただし、鳴けば城の窓ガラスが全滅する従属神。しかも噛まれると神力が減るらしい。「捕まえてね、冬夜」——笑顔で神域に帰っていった姉を恨みながら、公王の子犬捕獲作戦が幕を開ける。逃げ込んだ先は、よりによって嫁会議の真っ最中。九人の婚約者たちを巻き込んで、今日も城は賑やかです。窓ガラスと一緒に平和が割れる、ドタバタ嫁会議コメディ開幕!
イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~ - 厨房大パニック!消えた特製弁当と捕まえられない子犬
城の廊下に、夕暮れの光が長く伸びていた。
割れた窓から入り込む風が、廊下に散らばったガラスの破片をキラキラと光らせる。望月冬夜は、ユミナに肩を支えられながら、ゆっくりと歩いていた。
「情けないな、俺。子犬一匹に振り回されて」
「仕方ありませんわ。相手は神力を使う従属神。普通の子犬とは違いますもの」
ユミナの金髪が、夕日に透けて金色に輝いている。左が翠色、右が碧色のオッドアイが、冬夜の足元を心配そうに見つめていた。
「それに、冬夜さまの脚は一時的な麻痺。もうすぐ治りますわ」
「そうだな。まあ、なんとかなるか」
冬夜が苦笑いを浮かべた、その時だった。
「冬夜さまーっ!」
甲高い声が、廊下の向こうから響いてきた。
見ると、銀色のショートヘアを振り乱した少女が、全速力で走ってくる。ルーシア・レア・レグルス。レグルス帝国の第三皇女で、冬夜の婚約者の一人だ。歳は十二。ユミナと同い年で、特に仲が良い。
「ルーシア? どうしたんだ、そんなに慌てて」
冬夜が声をかけると、ルーシアは目の前で急停止した。肩で息をしている。大きな紫色の瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「わ、私の……私の特製弁当が……!」
「は? 特製弁当?」
「厨房に置いておいたんです! 明日の昼食にしようと思って、せっかく朝から仕込んで……それが、それが……!」
ルーシアの声が震えている。エプロンの裾をぎゅっと握りしめ、唇を噛みしめていた。
「落ち着いてくださいな、ルーシア。順を追って話してくださる?」
ユミナが、優しくルーシアの肩に手を置いた。
「厨房に行ったら……お弁当箱が床に落ちてて……中身が全部、ぐちゃぐちゃに……!」
ルーシアの瞳から、ついに涙がこぼれた。
冬夜の頭の中に、嫌な予感が走る。
(まさか、あの子犬か?)
「ルーシア、厨房に子犬はいなかったか? ふさふさの毛の、ちっこいやつ」
ルーシアは、涙で濡れた顔を上げた。
「え……? そういえば、床に白い毛がたくさん落ちてました。それに、お腹をぷっくりさせた子犬が、隅っこで寝てました」
「寝てたのかよ!」
冬夜は思わず叫んだ。
「あいつ、俺たちが必死に探してるってのに、弁当食って昼寝か!?」
「冬夜さま、足はもう大丈夫ですの?」
「あ、動く。よし、行くぞ!」
冬夜は、ルーシアの手を引いて走り出した。ユミナもその後を追う。
――ホワイトロック城の厨房は、一階の北側にある。
普段は料理人たちが忙しく働いている場所だが、夕食の支度にはまだ早い時間帯だった。
冬夜たちが厨房に飛び込むと、そこには、悲惨な光景が広がっていた。
「ああ……ひどい……」
床には、割れた弁当箱の破片と、食べ散らかされた料理の残骸が散乱している。卵焼きは半分だけかじられ、俵型のおにぎりはあちこちに転がっていた。煮物の汁が、石畳の床に染みを作っている。
「これは……見事にやられたな」
冬夜がつぶやく。
「ルーシア、この弁当は、明日の昼食に作っていたものですわね」
「はい……冬夜さまに食べてもらおうと思って、朝からがんばって作ったのに……」
ルーシアが、しゃがみ込んで、床に散らばった卵焼きの残骸を拾い上げた。
「私の卵焼き……甘めに味付けたのに……冬夜さま、甘い卵焼きが好きだから……」
その声は、今にも消え入りそうだった。
(ルーシア、俺のために作ってくれたのか)
冬夜は、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
「ルーシア、ありがとうな。気持ちだけで十分うれしいよ」
「冬夜さま……」
ルーシアの瞳が、再び潤む。だが、今度の涙は、悲しみだけではなかった。
「……って、それより子犬は!?」
冬夜は、慌てて厨房の中を見回した。
いた。
厨房の隅、かまどの横に積まれた薪の上で、白い毛玉が丸くなっている。ふさふさの毛を膨らませ、小さな体を上下させて、気持ちよさそうに眠っていた。
「あいつ、本当に寝てやがる」
冬夜は、呆れを通り越して、逆に冷静になった。
「ふふ、満足げな寝顔ですわね。お腹がいっぱいで、動く気がないのでしょう」
「のんきに寝てる場合か! ルーシアの弁当を返せ!」
冬夜が一歩踏み出すと、子犬の耳がぴくりと動いた。
――グルルル。
低い唸り声。子犬が、ゆっくりと顔を上げる。つぶらな瞳が、冬夜たちをじっと見つめた。
「ひっ……!」
ルーシアが、冬夜の背中に隠れる。
「ルーシア、下がっていて。ユミナ、何か策は?」
「ええ。先ほど、わたくしの魔眼で分析しましたが、あの子犬の神力吸収は接触時のみ。ならば、接触せずに捕まえればよいのですわ」
「接触せずに、か。網でもあればいいんだが」
冬夜が言いかけた、その時。
「――網なら、私が作ります」
静かな、しかし凛とした声が、厨房の入り口から聞こえた。
振り返ると、銀色のショートヘアを揺らした少女が立っている。リンゼ・シルエスカ。エルゼの双子の妹で、冬夜の婚約者の一人だ。歳は十四。人見知りで大人しい性格だが、ここぞという時には大胆な行動に出る。
「リンゼ! 来てくれたのか」
「はい。騒ぎを聞いて。それで、これを持ってきました」
リンゼは、抱えていた布袋を床に置いた。中から出てきたのは、色とりどりの布と、大量の糸玉。
「いつも持ち歩いている裁縫道具です。これで、捕獲用の網を作ります」
リンゼは、そう言うと、両手を胸の前で組んだ。
「――裁縫魔法【クイック・ウィーブ】」
彼女の指先から、淡い光が溢れ出す。
床に広げられた布と糸が、まるで生きているかのように動き始めた。布が裂け、糸が絡み合い、見る見るうちに一枚の網へと編み上がっていく。
「すげえ……!」
冬夜は、思わず声を漏らした。
リンゼの裁縫魔法は、生活魔法の一種だ。布や糸を自在に操り、衣服や小物を作り上げる。戦闘には向かないが、こうした応用が利く。
「できました。目が細かくて、神力の接触を防ぐ特殊な編み方です。これなら、子犬に噛まれても大丈夫……なはずです」
リンゼが差し出した網は、銀色の糸が光を反射して、きらきらと輝いていた。
「すごいわ、リンゼ! さすがだわ!」
ルーシアが、ぱっと顔を輝かせる。
「ありがとう、リンゼ。これで捕まえられる」
冬夜は、網を両手で受け取った。
「ですが、問題は子犬の素早さですわ。いくら良い網があっても、当たらなければ意味がありません」
ユミナが、オッドアイの瞳を子犬に向けた。
「わたくしの魔眼で動きを予測します。冬夜さまは、わたくしの指示通りに網を振ってくださいな」
「おう、任せた!」
冬夜は、網を構えた。
子犬は、薪の上からゆっくりと起き上がる。
――ワンッ!
小さな吠え声と同時に、子犬が跳んだ。
「右ですわ!」
「そこだっ!」
冬夜が網を振る。だが、子犬は空中でくるりと身をひるがえし、網をひらりとかわした。
「くそっ、速い!」
子犬は、厨房の調理台の上に着地した。
「次は左、いえ、上ですわ!」
「ええい、ちょこまかと!」
冬夜は、網を振り回す。だが、子犬はまるで冬夜の動きを読んでいるかのように、ひらりひらりとかわし続ける。
「この子犬、わたくしの魔眼の予測を上回る動きをしていますわ!」
「マジかよ! じゃあ、どうすりゃいいんだ!」
冬夜は、息を切らしながら叫んだ。
(このままじゃ、らちが明かない。なら――)
「【ブースト】!」
冬夜の体が、淡い光に包まれる。
無属性魔法【ブースト】。身体能力を一時的に強化する魔法だ。
「これでどうだ!」
冬夜は、強化された脚力で床を蹴った。
一瞬で子犬との距離を詰める。網を大きく振りかぶり、子犬の頭上から覆いかぶせるように振り下ろした。
「捕まえた――!」
そう思った、次の瞬間。
子犬が、振り返りざまに吠えた。
――ワオォォンッ!!
空気がびりびりと震える。
「なっ――!?」
冬夜の脚から、力が抜けた。
(まただ! 神力の衝撃で、脚が――)
冬夜は、その場にがくんと膝をついた。網は空を切り、床に落ちる。
「冬夜さま!」
「くそっ、またかよ……!」
冬夜は、地面を拳で叩いた。
子犬は、冬夜の頭上をひらりと飛び越え、厨房の窓へと向かう。
「逃がしませんわ!」
ユミナが、素早く弓を構えた。
「――風よ、矢を導きなさい!」
風をまとった矢が、子犬に向かって放たれる。
だが、子犬は空中で体をひねり、矢を紙一重でかわした。
「そんな……!」
子犬は、開いた窓から庭園へと飛び出していく。
「待てーっ!」
冬夜は、痺れる脚を引きずりながら、窓に駆け寄った。
その時。
「――拙者が援護いたす!」
凛とした声が、庭園に響き渡った。
見ると、黒髪をポニーテールに結い上げた少女が、庭園の茂みから飛び出してくる。九重八重。神国イーシェン出身の侍で、冬夜の婚約者の一人だ。歳は十五。和服の裾を翻し、腰に差した刀に手をかけている。
「八重! 気をつけろ、あいつは噛むと神力が――」
「承知しておりまする! 拙者の刀は、噛ませはせぬ!」
八重は、子犬の退路を塞ぐように回り込んだ。
「――九重真鳴流、抜刀――」
キン、と澄んだ音が響く。
八重の刀が、夕日を浴びて一筋の光を放った。
「見事な抜刀……!」
八重は、子犬に向かって刀を振り下ろす。
だが――。
子犬は、八重の刀の軌道をひらりとかわした。それどころか、刀の刃の上を駆け抜け、八重の肩を蹴って、さらに高く跳び上がる。
「なっ――!?」
八重が、目を丸くする。
子犬は、庭園の木々を飛び移り、城壁を駆け上がって、あっという間に城の外へと消えていった。
「なんという素早さ……! 拙者の太刀筋を、完全に見切られました」
八重は、刀を鞘に納めながら、悔しそうにつぶやいた。
「くそっ、また逃げられた……!」
冬夜は、窓枠を握りしめた。
「冬夜さま、追いかけるでござるよ!」
八重が、庭園から冬夜を見上げて叫ぶ。
「ええ。わたくしも行きますわ」
ユミナが、冬夜の隣に立った。
「私も、網を持っていきます」
リンゼが、落ちていた網を拾い上げる。
「私も……私の弁当の仇を取らなきゃ……」
ルーシアが、拳を握って言った。
「ルーシア、仇って……まあ、いいか。みんな、ありがとう。追いかけるぞ!」
冬夜たちは、城の外へと走り出した。
夕日は、もうほとんど沈みかけている。空は茜色から藍色へと変わり始め、街のあちこちに灯りがともり始めていた。
「子犬は、どこへ向かったんですの?」
「わたくしの魔眼で追跡しますわ。――あちらの方角です。中央市場のフロンティア広場とは逆方向……あれは……」
ユミナの顔色が、さっと変わった。
「まずいですわ。あの方向には、公王親衛隊の訓練場があります。そして、その奥には――」
「武器庫があるのか?」
「ええ。親衛隊の武器や防具を保管している建物です。もしあの子犬が、武器庫の中で神力を使ったら――」
「武器が全部、腐食される!?」
冬夜の背中に、冷たいものが走った。
「急ぐぞ、みんな! あいつを武器庫に近づけるな!」
「「「おうっ!」」」
冬夜たちは、暮れなずむ街を、全力で駆け抜けた。
石畳の道を、五人分の足音が響く。
行き交う人々が、驚いたように道を開けた。
「公王様だ!?」
「何が起きてるんだ?」
冬夜は、走りながら、前方に見える白い影を追いかけた。
子犬は、街路樹の上を飛び移り、屋根の上を駆け抜け、まるで自分がどこへ向かっているのかを分かっているかのように、一直線に進んでいく。
「あいつ、やっぱり武器庫を狙ってやがる!」
「ええ。従属神は、神力を帯びた物に引き寄せられる性質があるのかもしれませんわ。武器庫には、フレイズ素材の剣や盾も保管されていますから」
「フレイズ素材!? あれは神力を弾くはずじゃ……」
「弾くからこそ、気になるのでしょう。まるで、自分を拒むものに挑むように」
「面倒くさい犬だな、本当に」
冬夜は、舌打ちした。
――やがて、前方に、高い石塀が見えてきた。
公王親衛隊の訓練場。
ブリュンヒルド公国の常備軍の中核を担う、総員八百名の精鋭部隊。その訓練場は、城の東側に広がる広大な敷地に設けられている。
普段なら、この時間帯でも兵士たちの訓練が行われているはずだった。
だが――。
「静かすぎる……?」
冬夜は、違和感を覚えた。
訓練場から、人の気配がしない。
「今日は、親衛隊の月次休暇日ですわ。訓練場には、誰もいないはずです」
「そうだったのか。――って、誰もいないなら、子犬が何をしても誰も止められないってことか!」
「ええ。ですから、わたくしたちで止めるしかありませんわ」
ユミナのオッドアイが、強い決意を宿して輝いた。
子犬は、訓練場の門をくぐり抜け、さらに奥へと走っていく。
「待てーっ!」
冬夜たちは、子犬の後を追って、訓練場の中へと飛び込んだ。
夕闇が、広い訓練場を包み込んでいく。
その奥、武器庫の前で、子犬が立ち止まった。
子犬は、ゆっくりと振り返る。
つぶらな瞳が、夕闇の中で、ぎらりと光った。
「お前、わざとここに誘い込んだな」
冬夜は、網を構え直した。
「リンゼ、網をもう一度。八重、ルーシア、援護を頼む。ユミナ、指示を」
「はい」
「承知いたした」
「任せてください!」
「ええ。参りましょう、冬夜さま」
五人は、武器庫の前に散開した。
子犬は、低く唸りながら、一歩、また一歩と後退する。
その背後には、武器庫の重厚な木扉。
「逃げ場はないぞ。観念しろ」
冬夜が、一歩踏み出した。
――その時。
子犬が、大きく息を吸い込んだ。
「まさか――吠える気!?」
「させるか!」
冬夜は、全速力で子犬に突っ込んだ。
だが――。
――ワオォォォォンッ!!!
子犬の吠え声が、訓練場に轟いた。
空気が震え、地面が揺れる。
武器庫の木扉が、ばりばりと音を立ててひび割れ、粉々に砕け散った。
「なっ――!?」
冬夜は、爆風に吹き飛ばされそうになりながらも、なんとか踏みとどまった。
「武器庫の扉が……!」
「ああ……もう、めちゃくちゃです……」
子犬は、砕け散った扉の向こうへと、悠然と歩いていく。
「くそっ! 追うぞ!」
冬夜たちは、武器庫の中へと踏み込んだ。
中は、薄暗い。
壁に掛けられた剣や槍、盾が、月明かりを受けてぼんやりと浮かび上がっている。
そして、武器庫の中央で、子犬が止まった。
子犬は、床に置かれた一振りの剣を見つめている。
それは、フレイズ素材で作られた、水晶のように透き通った剣だった。
「あれは、親衛隊の隊員に支給されているフレイズの剣ですわ。神力を弾く性質があるため、従属神には触れられないはず――」
ユミナが言い終える前に。
子犬は、その剣に、鼻先を近づけた。
――チン。
小さな音がして、剣の表面に、ひびが入った。
「え……?」
ひびは、みるみる広がっていく。
「フレイズの剣が……神力で腐食されている!?」
「神力って、あんなことまでできるのかよ!」
「通常の従属神なら、フレイズ素材を腐食させることなどできませんわ。あの子犬は、やはり只者ではありません」
子犬は、剣から離れると、今度は壁に掛けられた盾に近づいた。
「やめろ! それ以上、武器を壊すな!」
冬夜は、網を振りかぶって子犬に飛びかかった。
子犬は、ひらりと身をかわす。
だが、今回は違った。
「今ですわ! 八重、左から!」
「はっ!」
八重が、刀を鞘ごと振り抜く。
子犬は、刀の腹で弾き飛ばされ、壁に激突した。
「今だ、リンゼ!」
「はい! 裁縫魔法【バインド・ネット】!」
リンゼが、網を投げた。
銀色の網が、子犬の体に巻き付く。
「捕まえた――!」
――だが。
子犬は、網の中で暴れた。
――ガリッ。
「あっ! 網が――!」
子犬の牙が、網を噛み切った。
「嘘だろ!? あの網、神力の接触を防ぐって――」
「ごめんなさい、私の編み方が甘かったみたいで……」
リンゼが、青ざめた顔で言った。
「リンゼのせいじゃない。あの子犬の神力が、想定以上に強いだけだ」
冬夜は、リンゼをかばうように前に出た。
子犬は、噛み切った網から脱出すると、武器庫の奥へと走り去る。
「まだ逃げるか!」
冬夜たちは、武器庫の奥へと追いかけた。
――武器庫の最奥。
そこには、一振りの大剣が、壁に掛けられていた。
「あれは……!」
八重が、息を呑む。
「親衛隊の宝剣【白鱗】ですわ。フレイズ素材の最高級品で、ヒルデガルドさまが親衛隊に預けたもの。あれを腐食されたら、親衛隊の士気に関わります」
「絶対に守るぞ!」
冬夜は、子犬と白鱗の間に割って入った。
「もう、お前の好きにはさせない」
冬夜の瞳が、真剣な光を宿す。
子犬は、低く唸った。
――グルルルル。
「来い。今度こそ、捕まえてやる」
冬夜は、素手で、子犬に向かって構えた。
「冬夜さま、素手は危険ですわ! 噛まれたら神力が――」
「分かってる。でも、網はもうない。武器も使えない。なら、この手で捕まえるしかないだろ」
「冬夜さま……」
ルーシアが、祈るように両手を組んだ。
子犬が、跳んだ。
「――そこだ!」
冬夜は、子犬の動きを読んで、両手を広げた。
子犬の牙が、冬夜の右手に食い込む。
「ぐっ……!」
鋭い痛み。同時に、右手から力が抜けていく。
(これが……神力吸収……!)
視界が、一瞬、揺れた。
「冬夜さま!」
「冬夜さま、手を離して!」
「いや、離さない。絶対に、離すもんか……!」
冬夜は、痺れる右手で、子犬の体を抱きしめた。
「捕まえた……ぞ……!」
子犬は、暴れる。
だが、冬夜は、両腕に力を込めて、離さなかった。
「ユミナ! 今のうちに、何か縛るものを!」
「ええ! リンゼ、裁縫魔法で、もっと丈夫な網を――」
「はい! 今度は、絶対に噛み切られないように、三重に編みます!」
リンゼが、再び裁縫魔法を発動させる。
「八重、ルーシア、冬夜さまを支えて!」
「承知!」
「はい!」
八重とルーシアが、冬夜の両脇から支えた。
「冬夜さま、もう少しの辛抱ですわ」
「ああ……まあ、なんとかなるか……」
冬夜は、力の抜けていく体で、苦笑いを浮かべた。
――数分後。
三重に編まれた捕獲網に包まれた子犬は、ようやく大人しくなった。
「やった……捕まえた……!」
ルーシアが、飛び上がって喜ぶ。
「冬夜さま、お手当てをしますね」
リンゼが、治癒魔法で冬夜の右手の傷を癒やした。
「はい、これで大丈夫です。神力は、休息すれば回復しますから」
「ありがとう、リンゼ。助かったよ」
「冬夜さま、本当に無茶をなさるんですから……」
ルーシアが、涙目で言った。
「でも、おかげで捕まえられただろ?」
「そうですが……でも、もしものことがあったら……」
ルーシアの声が、震える。
「大丈夫だよ。俺は、そう簡単にくたばらない。それに、お前の弁当の仇を取るって約束したからな」
冬夜は、ルーシアの頭をぽんぽんと撫でた。
「冬夜さま……!」
ルーシアの顔が、ぱっと赤くなる。
「ふふ、ルーシア、良かったですわね」
ユミナが、にこにこと笑いながら二人を見ていた。
「な、何がですか! 別に、何も……!」
ルーシアは、慌てて冬夜から離れた。
「それにしても、この子犬、どうやって城まで連れて帰りましょうか」
八重が、網に包まれた子犬を見下ろしながら言った。
子犬は、網の中で、すっかり大人しくなっていた。つぶらな瞳で、冬夜たちを見上げている。
「さっきまでの暴れっぷりが嘘みたいだな」
「神力を使い果たしたのでしょう。しばらくは、おとなしいはずですわ」
「そうか。なら、今のうちに城へ戻ろう。花恋に連絡して、引き取ってもらわないと」
冬夜は、網に包まれた子犬を抱き上げた。
「あれ? こいつ、意外と軽いな」
「神力が抜けたから、体重まで軽くなったのではなくて?」
「そんなわけあるか」
冬夜は、苦笑いしながら、子犬を抱えて武器庫を出た。
――訓練場には、いつの間にか、月が昇っていた。
「きれいな月……」
リンゼが、空を見上げてつぶやく。
「本当だ。今夜は、満月だな」
冬夜も、空を見上げた。
満月が、訓練場を銀色に照らしている。
「なんだか、月がやけに近く見えるな」
「冬夜さま、疲れていらっしゃるのではなくて?」
「そうかもな。今日は、本当に疲れたよ」
冬夜は、大きく伸びをした。
「でも、みんなのおかげで、なんとかなった。ありがとうな、ユミナ、リンゼ、八重、ルーシア」
「いいえ、当然のことをしたまでですわ」
「私も、少しは役に立てて良かったです」
「拙者も、冬夜どのの力になれて嬉しいでござる」
「わ、私も……私の弁当の仇を取ってもらって、嬉しいです……」
ルーシアが、もじもじしながら言った。
「ルーシア、仇って言い方、やめろって」
冬夜が笑うと、ルーシアは、ますます顔を赤くした。
「ふふ、ルーシアは、本当に可愛いですわね」
「ユミナさままで! からかわないでください!」
五人は、笑いながら、城への道を歩き出した。
――その時。
冬夜の胸元で、スマホが震えた。
「ん? メッセージ?」
冬夜は、片手でスマホを取り出した。
画面には、望月花恋からのメッセージ。
『あら、もう捕まえたの? さすが冬夜。お姉ちゃん、嬉しいわ』
「見てたのかよ!」
冬夜は、思わず空に向かって叫んだ。
「花恋さまは、どこから見ていらっしゃるのかしら」
「あの姉貴、ほんと、人をなんだと思ってるんだか」
冬夜は、ため息をついた。
スマホに、さらにメッセージが届く。
『それと、その子犬、明日、私が引き取りに行くから。今夜は、冬夜が面倒見てあげてね。噛まれないように気をつけてね。おやすみ、冬夜』
「おい、ちょっと待て! 引き取るのは今すぐ来いよ! それに、噛まれないようにって、もう噛まれたわ!」
冬夜は、スマホに向かって怒鳴った。
だが、返事はなかった。
「花恋さま、また押し付けて逃げましたね……」
「まあ、花恋さまらしいと言えば、らしいですわね」
「はあ……まあ、なんとかなるか」
冬夜は、網に包まれた子犬を見下ろした。
子犬は、いつの間にか、冬夜の腕の中で眠っていた。
「寝てるし」
「暴れ疲れたのでしょう。今夜は、静かにしてくれるといいですわね」
「そうだな。とりあえず、城に戻って、こいつの寝床を作らないと」
冬夜は、眠っている子犬を抱え直した。
「あ、でも、ルーシアの弁当の件、明日、改めて作ってくれるか?」
冬夜が言うと、ルーシアは、ぱっと顔を輝かせた。
「はい! もちろんです! 明日は、もっと美味しいお弁当を作りますから、楽しみにしていてくださいね、冬夜さま!」
「ああ、楽しみにしてるよ」
冬夜は、笑って頷いた。
「……良かったですね、ルーシア」
リンゼが、ルーシアにそっと耳打ちした。
「リ、リンゼ!? だから、別にそういうんじゃ……」
ルーシアが、慌てて手を振る。
「ふふ、ルーシアは、本当に分かりやすいですわ」
「ユミナさままで!」
「あはは、みんな仲良しだな」
冬夜は、婚約者たちのやりとりを見て、心から笑った。
――ホワイトロック城の灯りが、近づいてくる。
月明かりに照らされた城は、白く輝いて見えた。
「さあ、帰ろう。今日は、本当に疲れた」
「ええ。ゆっくり休みましょう」
五人は、月明かりの下を、城へと歩いていく。
冬夜の腕の中では、子犬が、幸せそうに眠っていた。
――この子犬が、明日もまた、騒動を起こすのかどうか。
それは、まだ、誰にも分からなかった。
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