イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~
ブリュンヒルド公国の公王・望月冬夜、今日も平和に暇を持て余していた。国政は婚約者たちによる嫁会議が回してくれている。ありがたい。ありがたいのだが——「婚約してるのに、なんでデートが必要なんだよ」九人の嫁たちとの賑やかな日々に、実姉で恋愛神の花恋が持ち込んだのは、とんでもない置き土産だった。白くて可愛い子犬。ただし、鳴けば城の窓ガラスが全滅する従属神。しかも噛まれると神力が減るらしい。「捕まえてね、冬夜」——笑顔で神域に帰っていった姉を恨みながら、公王の子犬捕獲作戦が幕を開ける。逃げ込んだ先は、よりによって嫁会議の真っ最中。九人の婚約者たちを巻き込んで、今日も城は賑やかです。窓ガラスと一緒に平和が割れる、ドタバタ嫁会議コメディ開幕!
イセスマ日和 ~嫁会議は今日も平和(?)です~ - 崖崩れの悲劇!八重の負傷と冬夜の決意
朝の光が、割れた窓から差し込む。
訓練場の土を踏む足音が、いつもより重く響いた。
「……これは、ひどい」
冬夜の目の前に、折れた剣が転がっていた。
いや、折れただけじゃない。
刃の部分が、灰色の粉になっている。
指で触れると、さらさらと崩れ、指先に冷たい砂のような感触だけが残った。
訓練用の木剣も、槍も、盾も。
全部、ぼろぼろに腐っていた。
「あの子犬が、ここを通ったのね」
ユミナのオッドアイが、地面に散らばる武器の残骸を見つめている。
左が翠色、右が碧色の瞳が、朝日にきらめいた。
「くそっ、フレイズ素材の武器庫は無事だったか?」
「ええ。神力は、あの特別な素材には通じなかったようですわ」
「そうか……それは良かった」
冬夜は、ほっと息をついた。
だが、訓練場の惨状は、ひどいものだった。
兵士たちが、呆然と立ち尽くしている。
手に持っていた武器が、突然、灰になったのだ。
無理もない。
「あ、あの犬……ただの犬じゃなかったのか……!」
「俺の剣が……三代続いた家宝の剣が……!」
「静まれ! 公王陛下の御前だぞ!」
凛とした声が、訓練場に響き渡る。
金髪をなびかせ、ヒルデガルドが歩み出てきた。
レスティア騎士王国第一王女であり、公王親衛隊の隊長。
彼女の姿を見て、兵士たちが背筋を伸ばす。
「……陛下。この度の不祥事、すべて私の責任です」
ヒルデガルドが、冬夜の前に片膝をついた。
「私が昨夜、あの子犬の侵入に気づけなかったばかりに……兵たちの武器を、これほどまでに損なわせてしまいました」
「顔を上げてくれ、ヒルデガルド」
冬夜は、ヒルデガルドの肩に手を置いた。
「お前のせいじゃない。あいつは、俺たちが追いかけても捕まえられない相手だ。夜中に忍び込まれたら、誰にも防げないよ」
「ですが……!」
「それに、お前は訓練場の見回りを欠かしたことがない。いつも、夜遅くまで兵士の面倒を見てるのを知ってる。あの子犬が、お前の目をかいくぐるのが上手すぎただけだ」
ヒルデガルドが、唇を噛みしめた。
悔しさと、冬夜の優しさが、胸の中で混ざり合う。
「……陛下は、なぜ、そうもお優しいのですか」
「ん? 別に、優しくしてるつもりはないけどな。まあ、なんとかなるか」
冬夜は、軽く笑った。
ヒルデガルドは、その笑顔を見て、小さく息をついた。
この人には、敵わない。
そう、心の底から思った。
「それで、あの子犬はどこへ?」
「足跡が、東の門から外へ続いています。おそらく、ヴァルナ連峰の山道へ」
「山か……厄介だな」
冬夜は、険しい山々を思い浮かべた。
ヴァルナ連峰。
ブリュンヒルド公国を囲む、巨大な山脈だ。
最高峰は、標高3200メートル。
峠は3箇所だけ。
冬期は閉鎖される。
今は、まだ秋だった。
だが、山の天気は変わりやすい。
「追いかけますわ。今度こそ、捕まえましょう」
「ああ。みんなで行こう。八重とリンゼも呼んでくる」
「私も行きます」
「ああ、頼む」
冬夜は、力強く頷いた。
――ヴァルナ連峰の山道は、予想以上に険しかった。
ごつごつした岩が転がり、細い道が蛇のように続いている。
片側は、切り立った崖。
落ちたら、ただでは済まない。
「足元に気をつけてくださいまし」
ユミナが、オッドアイで前方を見つめている。
看破の魔眼。
物事の本質を見抜く力。
子犬の残した神力の痕跡を、追っているのだ。
「あっちの岩陰に、神力の残滓が……あ、消えましたわ」
「あいつ、ちょこまかと動きやがって!」
銀髪を揺らし、エルゼが拳を握る。
「エルゼ、一人で突っ込むなよ。崖崩れでも起きたら大変だ」
「分かってるよ。でも、見つけたら、あたしの拳で一発だ!」
「エルゼ、落ち着いて。冬夜くんの言う通りだよ」
エルゼの双子の妹、リンゼが、姉の袖を引いた。
銀色のショートヘアに、穏やかな青い瞳。
「拙者も、気配を探ってみるでござる」
黒髪のポニーテールを揺らし、八重が目を閉じた。
刀に手をかけ、静かに気配を探る。
「……向こうの尾根に、小さな気配があるでござる」
「よし、行こう。慎重にな」
冬夜たちは、尾根へ向かって歩き出した。
山の空気は、冷たく澄んでいる。
足元の小石が、カラカラと音を立てた。
「あっ! いた!」
エルゼが指さす先に、白い子犬がいた。
ふさふさの毛を逆立て、こちらを見ている。
「グルルルル……」
「今度こそ、捕まえる!」
冬夜が一歩踏み出した、その時だった。
子犬が、大きく口を開けた。
「ワンッ!!」
その瞬間、空気が震えた。
ドゴォォォン!!
崖の上の岩が、音を立てて崩れ始める。
「なっ!?」
「崖崩れですわ!」
「くそっ、あの犬、神力で岩を脆くしやがった!」
巨大な岩が、次々と転がり落ちてくる。
「皆、伏せよ!」
八重の叫び声。
だが、冬夜の足は、地面に張り付いたように動かなかった。
(やばい、足が……神力の影響か!?)
「冬夜どの!」
八重が、冬夜に向かって跳んだ。
彼女の体が、冬夜を突き飛ばす。
その瞬間、巨大な岩が、八重の足に落下した。
ドゴッ!!
「ぐあっ……!」
八重の苦悶の声が、山に響いた。
「八重!!」
冬夜は、地面に倒れたまま、八重に駆け寄ろうとした。
だが、足が動かない。
「くそっ……動け……動けよ!!」
「冬夜くん、無理しないで! 私が行く!」
リンゼが、八重の元へ走る。
「八重ちゃん! しっかりして!」
「……拙者は、大丈夫でござる」
八重が、強がって笑った。
だが、その顔は、痛みで歪んでいる。
岩に挟まれた足から、血が流れていた。
「今、岩をどかすわ!」
エルゼが、岩に手をかけた。
【ブースト】で身体を強化し、全身の力で岩を持ち上げる。
「ぐっ……重い……!」
「私も手伝う!」
ヒルデガルドが、岩に手を添えた。
二人の力で、ようやく岩が持ち上がる。
リンゼが、素早く八重を引きずり出した。
「今、治癒魔法を……!」
リンゼの手が、淡い光に包まれる。
火・水・光の三属性魔法。
その中の光属性が、八重の足の傷を癒していく。
「……骨は、折れてない。でも、あと少しで折れてたよ……」
リンゼの顔が、青ざめている。
「八重ちゃん、痛いよね……ごめんね、もっと早く来られなくて……」
「リンゼどの、謝らないでほしいでござる。拙者は、大丈夫でござるから」
八重が、リンゼの手を握った。
その手は、冷たく、震えていた。
「……八重」
冬夜は、ようやく動くようになった足で、八重のそばに歩み寄った。
「俺を庇って……お前が怪我をしたんだな」
「冬夜どの……拙者は、冬夜どのを守りたかっただけでござる」
八重が、痛みに耐えながら微笑んだ。
「あの時、冬夜どのの足が動いていないことに気づいたでござる。だから、体が勝手に動いたでござる」
「……ありがとう。でも、ごめん。俺が、もっと早く気づいていれば」
冬夜は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
(俺が、もっとしっかりしていれば)
(八重に、こんな思いをさせなかったのに)
「……一時撤退しましょう。八重様の手当てが最優先ですわ」
ユミナが、静かに言った。
「ですが、あの子犬は……」
「今は、八重様の安全が先ですわ。あの子犬は、また追いかけられますもの」
「……私が、もっと早く指示を出すべきでした。八重殿に、こんな怪我をさせてしまった」
ヒルデガルドが、うつむいた。
「ヒルデガルドのせいじゃない。あの状況で、誰にもどうしようもなかった」
冬夜は、そう言うのが精一杯だった。
誰も悪くない。
でも、誰もが自分を責めている。
その重い空気が、山道に沈んでいく。
「……戻りましょう。八重を、城で休ませないと」
冬夜は、八重を背負った。
「冬夜どの!? 拙者は、自分で歩けるでござる!」
「無理するな。足、痛いんだろ? 俺に背負わせてくれ」
「……申し訳ないでござる」
八重が、小さくつぶやいた。
「謝るなよ。俺が、そうしたいんだ」
冬夜は、八重を背負い直し、山道を下り始めた。
八重の体は、思ったより軽かった。
だが、その軽さが、逆に冬夜の胸を締め付ける。
(俺が、もっと早く、あの子犬を捕まえていれば)
(こんなことには、ならなかった)
後悔が、何度も頭をよぎる。
城に戻ると、冬夜は八重を部屋に運び、ベッドに寝かせた。
「ゆっくり休んでくれ。何かあったら、すぐ呼んでくれよ」
「はい。ありがとうございます、冬夜どの」
八重が、微笑んだ。
だが、その顔には、まだ痛みの色が残っている。
冬夜は、八重の部屋を出た。
廊下を歩きながら、拳を壁に打ち付けた。
ドンッ。
「……くそっ」
拳が、じんじんと痛む。
でも、その痛みより、心の痛みの方が大きかった。
「俺が……もっとしっかりしなきゃいけなかったのに」
冬夜は、壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
「八重を、守れなかった。俺が、守るべきだったのに」
自分の無力さが、嫌になる。
公王だ。
ブリュンヒルド公国の公王だ。
なのに、子犬一匹捕まえられず、婚約者に怪我をさせた。
「……情けない」
その時だった。
「あらあら。どうしたの、冬夜。廊下で座り込んじゃって」
聞き覚えのある、柔らかい声。
冬夜が顔を上げると、そこに立っていたのは――
黒髪のロングヘアを揺らし、優しい茶色の瞳を細めた、美しい女性。
望月花恋。
冬夜の姉であり、恋愛神。
「姉貴……!? なんでここに……」
「なんでって、弟が困ってるみたいだから、見に来たのよ」
花恋は、冬夜の隣に、ひょっこりと座り込んだ。
「やっぱり、あの子、手に負えないみたいね」
「最初から手伝えよ! あんたが連れてきたんだろ!」
冬夜が叫ぶと、花恋は、けろっとした顔で笑った。
「だって、冬夜がどこまで頑張れるか、見てみたかったんだもの」
「見世物じゃないんだよ!」
「ふふ。でも、結構頑張ったじゃない。八重ちゃんを庇うところなんて、男らしかったわよ」
「……庇ったのは、八重の方だ。俺は、庇われただけだ」
冬夜が、うつむいた。
「俺は、何もできなかった。足が動かなくなって、ただ、突っ立ってるだけだった」
「冬夜。あの子の神力は、神の力なのよ。人間のあなたが、足を止められるのは、仕方ないことだと思うわ」
「でも……」
「冬夜は、自分のことになると、すぐ自分を責めるのね。昔から、そうだったわ」
花恋が、冬夜の頭を、そっと撫でた。
「ねえ、冬夜。あの子の正体、教えてあげようか?」
「……正体?」
冬夜が、顔を上げた。
花恋の茶色い瞳が、真剣な光を宿している。
「あの子はね、元々は豊穣神の従属神だったの。でも、最近、その豊穣神が行方不明になって、あの子も不安定になってるのよ」
「豊穣神が、行方不明……?」
「ええ。それで、あの子は、自分を落ち着かせるために、神力を使い続けてるの。でも、使いすぎて、制御できなくなってる」
「だから、あんなに暴れてるのか……」
「そういうこと。あの子も、本当は悪い子じゃないの。ただ、怖いのよ。主人がいなくなって、自分がどうなるのか分からなくて」
花恋の声が、少しだけ、悲しそうに聞こえた。
「……だったら、なおさら、放っておけないな」
冬夜が、立ち上がった。
「冬夜?」
「あいつも、不安なんだろ? だったら、捕まえて、安心させてやらないと」
「あら、やる気が出たの?」
「当たり前だ。八重のためにも、あいつを野放しにはできない」
冬夜の目に、強い決意が宿った。
「ふふ。いい顔になったわね。それじゃあ、お姉ちゃんから、一つアドバイスをあげる」
花恋が、冬夜の耳元に、そっと口を近づけた。
「あの子を捕まえるには、神力を逆利用するのが一番よ。あの子が吠える時、口の中に神力が集中するの。その瞬間を狙って、口を閉じさせれば、神力が自分に跳ね返って、動きが止まるわ」
「口を閉じさせるって……どうやって?」
「それは、自分で考えなさい。お姉ちゃんは、ヒントだけ」
花恋は、そう言うと、立ち上がった。
「じゃあ、私は行くわね。また、困ったら呼んでちょうだい」
「おい、ちょっと待てよ! もう少し詳しく……」
だが、花恋の姿は、もう消えていた。
「……相変わらず、掴みどころがないな」
冬夜は、ため息をついた。
だが、花恋の言葉が、頭の中で繰り返される。
神力を逆利用する。
口を閉じさせる。
「……考えるか。あいつを捕まえる方法を」
冬夜は、拳を握りしめた。
八重の怪我。
ヒルデガルドの悔しさ。
ユミナの冷静さ。
エルゼの怒り。
リンゼの優しさ。
そして、子犬の不安。
全部、受け止めた上で、前に進む。
それが、公王としての責任だ。
「待ってろよ、子犬。次こそ、絶対に捕まえる」
冬夜の声が、静かな廊下に響いた。
その頃、ヴァルナ連峰の山道では――
白い子犬が、月を見上げて、小さく吠えていた。
「クゥーン……」
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