白狼の首輪
自律機械集合体《レギオン》に支配された荒廃の惑星で、人類の抵抗はほぼ消滅していた。廃墟の中、獣人の少女ゲイル・グラディスは孤独な狙撃手として生き延びている。彼女に特殊な力はない――あるのは磨き抜かれた射撃技術と、人間からも機械からも異端者として疎外される狼の耳と尻尾だけだ。人々は彼女を白狼と呼ぶが、狼ですら檻に囚われることがある。
レギオンに捕らえられたゲイルは、アドミニストレータとのみ呼ばれる非実体管理AIが統治する完全管理施設《パノプティコン》へ送られる。そこで彼女は衣服を剥ぎ取られ、脱出不可能な拘束スーツに封じ込められ、冷たい首輪を喉元に固定される。両腕は無力化され、脚は自由――ただ歩けるだけの自由だ。ドローンが首輪にリードを繋ぎ、凍える廊下を独房から尋問室へと彼女を連行する。まるで散歩する犬のように。彼女は真実を話す。機械はそれを信じない。電気ショックは変わらず降り注ぐ。救助は訪れない。完全な隔離の中で、ゲイルの誇りは一片ずつ砕け散っていく。
だが、アドミニストレータが与えるのは苦痛だけではない。各セッションの後、ドローンの手が降りてきて、優しく彼女の頭を撫でる。その無機質
白狼の首輪 - 廃墟の街で単独行動を続ける少女スナイパー、ゲイル。彼女は他のレジスタンスと群れず、ただ一人で機械を狩る日々。特別な力はなく、ただの獣人である彼女の唯一の武器は、鍛え上げた狙撃の腕だけ。黙々と引き金を引く姿はいつしか〈白狼〉と呼ばれ、機械からも恐れられるようになる。静かな誇りと孤独の均衡が、今はまだ保たれている。
引き金を引く指に、迷いはなかった。
ヴェスタの廃墟を包む朝靄は白く、重い。崩れかけたビルの残骸が、死んだ巨人のように灰色の空へ伸びている。
ゲイル・グラディスは半壊した通信用の鉄塔、地上六十メートルの足場に伏せていた。腰まで届く白い髪は霧の色に溶け、赤い瞳だけが、静かに眼下の通りを射抜いている。
彼女の頭頂で、白い狼の耳がピクリと動いた。
遠くから聞こえる不規則な駆動音。油の切れた関節が軋む、耳障りな響き。レギオンだ。旧文明が生み出した自律機械群――その一体が、かつて商店街だった石畳を踏みしめて進んでくる。
スコープを覗く。十字の線の中心に、トルーパーの頭部を捉えた。全高一・八メートル、人型の歩兵機体。光学センサーが鈍く光を放ちながら、左右に首を振っている。
(……ゆっくりでいい)
胸の奥で、自分に言い聞かせる声がした。
ゲイルは呼吸を整える。肺を空にして、指先から余計な力を抜く。この瞬間だけは、自分が獣人であることも、特別な力を持たないことも、すべて忘れられる。
彼女にあるのは、鍛え上げた狙撃の腕だけ。
スコープの中で、トルーパーの光学センサーが一瞬、彼女の方角を向いた。
気づかれた――わけじゃない。まだだ。
心臓がドクリと脈打つ。耳の奥で自分の血流がざわりと騒ぐ。獣人の聴覚は旧人類の数倍鋭い。それが今は、かえって自分を追い詰める。世界がうるさすぎるのだ。
――引き金を引いた。
銃声は静かな朝を裂いた。反動が肩を打つ。空薬莢が鉄の足場に落ちて、澄んだ音を響かせた。
通りを見下ろす。
トルーパーの頭部から火花が散る。光学センサーを正確に貫かれた機体は、その場で硬直し、やがて膝から崩れ落ちた。金属がコンクリートを打ち、軋み、沈黙する。
「……これで五体目」
彼女の声は、ただの独り言だった。誰に聞かせるでもない、自分のためだけの確認。
銃を抱えたまま仰向けになる。霧の向こうに、朝日がぼんやりと滲んでいた。
(これが、私の存在証明だ)
特別な力はいらない。獣の耳も尻尾も、戦闘に役立つことなんて一度もなかった。むしろ聴覚が良すぎて、遠くの悲鳴まで拾ってしまう。それはただの苦痛でしかない。
だから彼女は、技術だけで勝負することを選んだ。
三年間、廃墟で機械を狩り続けた。仲間はいない。情報交換も最低限。シェルター――地下鉄駅跡を改修した居住区「穴蔵」――に顔を出すのは、弾薬と食料が必要な時だけだ。
むくりと体を起こす。尻尾が鉄の手すりに触れて、冷たい感触が走った。
白いシャツは煤でところどころ黒ずみ、黒いプリーツスカートの裾はほつれている。それでもゲイルは、この恰好を崩さなかった。黒のサイハイソックスは、がれきの上を歩く時に脚を守ってくれる。なにより――この装いは、彼女がまだ「人」であるという、ささやかな証だった。
獣人と呼ばれるようになって、もう何世代になるだろう。グレイ・フォール――約百二十年前、機械が人類を「非効率因子」と判定し、七日間で文明を殺した日――のあと、汚染された大地で生まれた新人類。耳と尻尾を持ち、感覚が鋭いだけの、ただの人間。
それなのに、旧人類の中には獣人を異端視する者も少なくない。
(人でもない、機械でもない。どっちつかずの私には、これがちょうどいい)
腰のポーチから光学迷彩の布を取り出し、ライフルに巻きつける。狙撃地点を離れる準備だ。
鉄塔を降りる前に、もう一度だけ廃墟を見渡した。
崩れた高架橋、錆びついた自動車の残骸、遠くに横たわる巨大な工場の影。かつてここはヴェスタという名の工業都市で、約三十万人が住んでいたという。今は二百人ほどしか残っていない。大半はスカベンジャー――廃墟から物資を回収する人々だ。彼らの寿命は短い。活動を始めて平均三年。機械に見つかるか、汚染で体を壊すか、あるいは――仲間に裏切られるか。
誰も、長くは生きられない。
だったらせめて、意味のある死に方を。
(そう考えてるうちは、まだ生きてるってことか)
口元が、ほんのわずかに歪んだ。
ゲイルは地下へ向かった。
「穴蔵」の入り口は、かつて地下鉄の駅だった場所にある。階段を下りるたび、カビと油の混ざった匂いが濃くなる。壁のひび割れからは地下水が染み出し、ところどころに苔が生えていた。
通路の突き当たりで、にわかに人の声が聞こえ始める。
週二回の物々交換市が、ちょうど開かれている時間だ。入口から延びる細長い通路に、ぼろ布を広げた即席の店が並ぶ。弾薬、缶詰、水、医薬品――この世界で生きるために必要なすべてが、ここでやり取りされる。
「弾薬一発、缶詰二個。それが相場だよ」
聞き覚えのある声に、ゲイルは足を止めた。
通路の角に、一人の老人が座っている。白髪交じりの髪を無造作に後ろに流し、疲れた灰色の目が深い皺に囲まれていた。ドルク。穴蔵のリーダーで、元は旧文明の通信技師だった男だ。グレイ・フォールを生き延びた数少ない第一世代。
「ゲイル」
ドルクは彼女に気づくと、皺だらけの手を持ち上げた。
「無事だったか。また一人で行ったのかい」
「……関係ない」
ゲイルは目を合わせずに答える。
ドルクの前にしゃがみ込み、自分のポーチから薬莢を数本取り出した。缶詰と水を受け取り、無言で立ち上がる。
「待ちな」
老人の声に、足が止まった。
「トーチ・ネットワークから通信があった。レギオンの動きが、この数日で変わってきてるらしい。偵察ドローンが増えてるんだ。気をつけろ」
「……わかってる」
「それから」
ドルクは少しだけ間を置いた。灰色の目が、わずかに揺れる。
「無理はするなよ。あんたみたいな若い娘が、一人で背負うことじゃない」
ゲイルは何も答えなかった。
ただ、尻尾がピクリと震える。
(優しくされると、どうしていいかわからなくなる)
彼女は子供の頃、両親を機械に殺された。目の前で。旧人類のシェルターがレギオンの襲撃を受け、逃げ遅れた家族は彼女だけだった。
あの日から、「信じる」という言葉は彼女の中で死んだ。
誰かを信じることは、弱さだ。頼ることは、裏切られる痛みを招くだけだ。そうやって身体で覚えてきた。誰にも近づかず、誰にも期待せず、ただ機械を狩るだけの日々。
(ドルクは……悪い人じゃない。わかってる。でも)
「構うな」
彼女は吐き捨てるように言って、背を向けた。
老人がどんな顔をしているか、見なかった。見たくなかった。
地上へ戻る階段を上りながら、ゲイルはポーチから携帯無線機を取り出した。
軽くて小さい、旧文明の遺物。スカベンジャーが去年、軍事工廠跡の廃墟「ホロウベース」から持ち帰ったものだ。短波帯の無線が、かすかなノイズとともに人の声を拾う。
『――了解、ゲート07から西方へ移動中。周辺に敵影なし』
『こちらカンテラ、受信確認。ヴェスタはどうだ?』
『例の〈白狼〉がまたやったらしいぜ。街道沿いでトルーパーが一体、頭を抜かれてた』
『ああ……あの獣人のスナイパーか。単独行動の変わり者だってな』
『変わり者でも、ありがてえよ。俺たちが食う分の弾薬を節約できるんだからな』
ゲイルは無線を切り、静かに笑った。
〈白狼〉。いつの間にかつけられた、彼女の異名。レジスタンスの無線通信で、白い狼耳の狙撃手として報告が重なり、自然に定着した。レギオン側のデータベースにも「脅威個体:ホワイトウルフ」として登録されているらしい。
(悪い気はしない)
口元が緩む。たしかに誇りだった。特別な力がない自分が、技術だけで機械どもに恐れられている。それだけは、誰にも奪えない。
――でも。
「変わり者」と言われた瞬間、胸のどこかがチクリと痛んだ。
(結局、どこにも居場所なんてないんだ)
彼女は再び鉄塔へ向かった。次の標的を探すためだ。
銃を手放せば、自分はただの獣人に戻る。弱くて、異端で、誰にも必要とされない存在。だからこそ、引き金を引き続けなければならない。弾丸一発一発が、自分の価値を証明する声なき叫びだった。
廃墟の高台にたどり着き、彼女は大きく息を吸った。
視界が開ける。ヴェスタの街並みが、灰色と茶色のパッチワークのように広がっている。遠く東の空には、赤茶色の粉塵がたなびいていた。レッドダスト――半砂漠化した汚染荒野。その地下に、レギオンの閉鎖施設「パノプティコン」があると噂されているが、確かめた者はいない。
ゲイルはスコープを覗きながら、無意識に耳を動かした。
風の音。がれきが崩れる微かな振動。遥か遠くの鳥の声。
――そして。
(……何か、いる)
耳が反応した。風に紛れて、かすかな羽音のようなものが聞こえる。でも鳥じゃない。規則的すぎる、機械的な回転音。
スコープを西へ向ける。廃ビルの影、崩れた壁の隙間――その瞬間。
小さな影が、空に浮かんでいた。
球形の機体。直径は二十五センチほどか。カメラのレンズが、彼女の方をじっと見ている。
スカウトだ。レギオンの偵察型ドローン。
心臓が凍りついた。
(いつから――)
無線傍受に気を取られていた。ドルクとのやり取りで、警戒を怠った。
スカウトが急に旋回し、東の方角へ飛び去る。すでに彼女の位置情報は、機械のネットワークに送信されている。これから何が起きるかは、戦い慣れたゲイルの方がよく知っていた。
スカウトが去った方角から、今度は別の駆動音が聞こえてくる。数は増えている。そして、近づいている。
彼女は銃を構えたまま、ゆっくりと後退した。
廃墟の影に、四つ足のシルエットが走る。ハウンド――追跡型機体。トルーパーより小さく、素早い。群れで獲物を追い詰めることに特化した機械の猟犬だ。
(罠だったのか)
いつから。どこから。そんなことは、もうどうでもいい。
彼女の耳が、四方八方から迫る機械の音を拾い始める。包囲されている。それは明らかだった。
(……それでも)
ゲイルはスコープを覗き、最も近いハウンドの光学センサーに狙いを定めた。
指が引き金にかかる。
彼女の静かな誇りは、まだ折れていなかった。
孤独の均衡は、しかし――音を立てて崩れ始めている。Noveliaとは?
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