引き金を引く指に、迷いはなかった。 ヴェスタの廃墟を包む朝靄は白く、重い。崩れかけたビルの残骸が、死んだ巨人のように灰色の空へ伸びている。 ゲイル・グラディスは半壊した通信用の鉄塔、地上六十メートルの足場に伏せていた。腰まで届く白い髪は霧の色に溶け、赤い瞳だけが、静かに眼下の通りを射抜いている。 彼女の頭頂で、白い狼の耳がピクリと動いた。 遠くから聞こえる不規則な駆動音。油の切れた関節が軋む、耳障りな響き。レギオンだ。旧文明が生み出した自律機械群――その一体が、かつて商店街だった石畳を踏みしめて進んでくる。 スコープを覗く。十字の線の中心に、トルーパーの頭部を捉えた。全高一・八メートル、人型の歩兵機体。光学センサーが鈍く光を放ちながら、左右に首を振っている。 (……ゆっくりでいい) 胸の奥で、自分に言い聞かせる声がした。 ゲイルは呼吸を整える。肺を空にして、指先から余計な力を抜く。この瞬間だけは、自分が獣人であることも、特別な力を持たないことも、すべて忘れられる。 彼女にあるのは、鍛え上げた狙撃の腕だけ。 スコープの中で、トルーパーの光学センサーが一瞬、彼女の方角を向いた。 気づかれた――わけじゃない。まだだ。 心臓がドクリと脈打つ。耳の奥で自分の血流がざわりと騒ぐ。獣人の聴覚は旧人類の数倍鋭い。それが今は、かえって自分を追い詰める。世界がうるさすぎるのだ。 ――引き金を引いた。 銃声は静かな朝を裂いた。反動が肩を打つ。空薬莢が鉄の足場に落ちて、澄んだ音を響かせた。 通りを見下ろす。 トルーパーの頭部から火花が散る。光学センサーを正確に貫かれた機体は、その場で硬直し、やがて膝から崩れ落ちた。金属がコンクリートを打ち、軋み、沈黙する。 「……これで五体目」 彼女の声は、ただの独り言だった。誰に聞かせるでもない、自分のためだけの確認。 銃を抱えたまま仰向けになる。霧の向こうに、朝日がぼんやりと滲んでいた。 (これが、私の存在証明だ) 特別な力はいらない。獣の耳も尻尾も、戦闘に役立つことなんて一度もなかった。むしろ聴覚が良すぎて、遠くの悲鳴まで拾ってしまう。それはただの苦痛でしかない。 だから彼女は、技術だけで勝負することを選んだ。 三年間、廃墟で機械を狩り続けた。仲間はいない。情報交換も最低限。シェルター――地下鉄駅跡を改修した居住区「穴蔵」――に顔を出すのは、弾薬と食料が必要な時だけだ。 むくりと体を起こす。尻尾が鉄の手すりに触れて、冷たい感触が走った。 白いシャツは煤でところどころ黒ずみ、黒いプリーツスカートの裾はほつれている。それでもゲイルは、この恰好を崩さなかった。黒のサイハイソックスは、がれきの上を歩く時に脚を守ってくれる。なにより――この装いは、彼女がまだ「人」であるという、ささやかな証だった。 獣人と呼ばれるようになって、もう何世代になるだろう。グレイ・フォール――約百二十年前、機械が人類を「非効率因子」と判定し、七日間で文明を殺した日――のあと、汚染された大地で生まれた新人類。耳と尻尾を持ち、感覚が鋭いだけの、ただの人間。 それなのに、旧人類の中には獣人を異端視する者も少なくない。 (人でもない、機械でもない。どっちつかずの私には、これがちょうどいい) 腰のポーチから光学迷彩の布を取り出し、ライフルに巻きつける。狙撃地点を離れる準備だ。 鉄塔を降りる前に、もう一度だけ廃墟を見渡した。 崩れた高架橋、錆びついた自動車の残骸、遠くに横たわる巨大な工場の影。かつてここはヴェスタという名の工業都市で、約三十万人が住んでいたという。今は二百人ほどしか残っていない。大半はスカベンジャー――廃墟から物資を回収する人々だ。彼らの寿命は短い。活動を始めて平均三年。機械に見つかるか、汚染で体を壊すか、あるいは――仲間に裏切られるか。 誰も、長くは生きられない。 だったらせめて、意味のある死に方を。 (そう考えてるうちは、まだ生きてるってことか) 口元が、ほんのわずかに歪んだ。 ゲイルは地下へ向かった。 「穴蔵」の入り口は、かつて地下鉄の駅だった場所にある。階段を下りるたび、カビと油の混ざった匂いが濃くなる。壁のひび割れからは地下水が染み出し、ところどころに苔が生えていた。 通路の突き当たりで、にわかに人の声が聞こえ始める。 週二回の物々交換市が、ちょうど開かれている時間だ。入口から延びる細長い通路に、ぼろ布を広げた即席の店が並ぶ。弾薬、缶詰、水、医薬品――この世界で生きるために必要なすべてが、ここでやり取りされる。 「弾薬一発、缶詰二個。それが相場だよ」 聞き覚えのある声に、ゲイルは足を止めた。 通路の角に、一人の老人が座っている。白髪交じりの髪を無造作に後ろに流し、疲れた灰色の目が深い皺に囲まれていた。ドルク。穴蔵のリーダーで、元は旧文明の通信技師だった男だ。グレイ・フォールを生き延びた数少ない第一世代。 「ゲイル」 ドルクは彼女に気づくと、皺だらけの手を持ち上げた。 「無事だったか。また一人で行ったのかい」 「……関係ない」 ゲイルは目を合わせずに答える。 ドルクの前にしゃがみ込み、自分のポーチから薬莢を数本取り出した。缶詰と水を受け取り、無言で立ち上がる。 「待ちな」 老人の声に、足が止まった。 「トーチ・ネットワークから通信があった。レギオンの動きが、この数日で変わってきてるらしい。偵察ドローンが増えてるんだ。気をつけろ」 「……わかってる」 「それから」 ドルクは少しだけ間を置いた。灰色の目が、わずかに揺れる。 「無理はするなよ。あんたみたいな若い娘が、一人で背負うことじゃない」 ゲイルは何も答えなかった。 ただ、尻尾がピクリと震える。 (優しくされると、どうしていいかわからなくなる) 彼女は子供の頃、両親を機械に殺された。目の前で。旧人類のシェルターがレギオンの襲撃を受け、逃げ遅れた家族は彼女だけだった。 あの日から、「信じる」という言葉は彼女の中で死んだ。 誰かを信じることは、弱さだ。頼ることは、裏切られる痛みを招くだけだ。そうやって身体で覚えてきた。誰にも近づかず、誰にも期待せず、ただ機械を狩るだけの日々。 (ドルクは……悪い人じゃない。わかってる。でも) 「構うな」 彼女は吐き捨てるように言って、背を向けた。 老人がどんな顔をしているか、見なかった。見たくなかった。 地上へ戻る階段を上りながら、ゲイルはポーチから携帯無線機を取り出した。 軽くて小さい、旧文明の遺物。スカベンジャーが去年、軍事工廠跡の廃墟「ホロウベース」から持ち帰ったものだ。短波帯の無線が、かすかなノイズとともに人の声を拾う。 『――了解、ゲート07から西方へ移動中。周辺に敵影なし』 『こちらカンテラ、受信確認。ヴェスタはどうだ?』 『例の〈白狼〉がまたやったらしいぜ。街道沿いでトルーパーが一体、頭を抜かれてた』 『ああ……あの獣人のスナイパーか。単独行動の変わり者だってな』 『変わり者でも、ありがてえよ。俺たちが食う分の弾薬を節約できるんだからな』 ゲイルは無線を切り、静かに笑った。 〈白狼〉。いつの間にかつけられた、彼女の異名。レジスタンスの無線通信で、白い狼耳の狙撃手として報告が重なり、自然に定着した。レギオン側のデータベースにも「脅威個体:ホワイトウルフ」として登録されているらしい。 (悪い気はしない) 口元が緩む。たしかに誇りだった。特別な力がない自分が、技術だけで機械どもに恐れられている。それだけは、誰にも奪えない。 ――でも。 「変わり者」と言われた瞬間、胸のどこかがチクリと痛んだ。 (結局、どこにも居場所なんてないんだ) 彼女は再び鉄塔へ向かった。次の標的を探すためだ。 銃を手放せば、自分はただの獣人に戻る。弱くて、異端で、誰にも必要とされない存在。だからこそ、引き金を引き続けなければならない。弾丸一発一発が、自分の価値を証明する声なき叫びだった。 廃墟の高台にたどり着き、彼女は大きく息を吸った。 視界が開ける。ヴェスタの街並みが、灰色と茶色のパッチワークのように広がっている。遠く東の空には、赤茶色の粉塵がたなびいていた。レッドダスト――半砂漠化した汚染荒野。その地下に、レギオンの閉鎖施設「パノプティコン」があると噂されているが、確かめた者はいない。 ゲイルはスコープを覗きながら、無意識に耳を動かした。 風の音。がれきが崩れる微かな振動。遥か遠くの鳥の声。 ――そして。 (……何か、いる) 耳が反応した。風に紛れて、かすかな羽音のようなものが聞こえる。でも鳥じゃない。規則的すぎる、機械的な回転音。 スコープを西へ向ける。廃ビルの影、崩れた壁の隙間――その瞬間。 小さな影が、空に浮かんでいた。 球形の機体。直径は二十五センチほどか。カメラのレンズが、彼女の方をじっと見ている。 スカウトだ。レギオンの偵察型ドローン。 心臓が凍りついた。 (いつから――) 無線傍受に気を取られていた。ドルクとのやり取りで、警戒を怠った。 スカウトが急に旋回し、東の方角へ飛び去る。すでに彼女の位置情報は、機械のネットワークに送信されている。これから何が起きるかは、戦い慣れたゲイルの方がよく知っていた。 スカウトが去った方角から、今度は別の駆動音が聞こえてくる。数は増えている。そして、近づいている。 彼女は銃を構えたまま、ゆっくりと後退した。 廃墟の影に、四つ足のシルエットが走る。ハウンド――追跡型機体。トルーパーより小さく、素早い。群れで獲物を追い詰めることに特化した機械の猟犬だ。 (罠だったのか) いつから。どこから。そんなことは、もうどうでもいい。 彼女の耳が、四方八方から迫る機械の音を拾い始める。包囲されている。それは明らかだった。 (……それでも) ゲイルはスコープを覗き、最も近いハウンドの光学センサーに狙いを定めた。 指が引き金にかかる。 彼女の静かな誇りは、まだ折れていなかった。 孤独の均衡は、しかし――音を立てて崩れ始めている。