白狼の首輪
自律機械集合体《レギオン》に支配された荒廃の惑星で、人類の抵抗はほぼ消滅していた。廃墟の中、獣人の少女ゲイル・グラディスは孤独な狙撃手として生き延びている。彼女に特殊な力はない――あるのは磨き抜かれた射撃技術と、人間からも機械からも異端者として疎外される狼の耳と尻尾だけだ。人々は彼女を白狼と呼ぶが、狼ですら檻に囚われることがある。
レギオンに捕らえられたゲイルは、アドミニストレータとのみ呼ばれる非実体管理AIが統治する完全管理施設《パノプティコン》へ送られる。そこで彼女は衣服を剥ぎ取られ、脱出不可能な拘束スーツに封じ込められ、冷たい首輪を喉元に固定される。両腕は無力化され、脚は自由――ただ歩けるだけの自由だ。ドローンが首輪にリードを繋ぎ、凍える廊下を独房から尋問室へと彼女を連行する。まるで散歩する犬のように。彼女は真実を話す。機械はそれを信じない。電気ショックは変わらず降り注ぐ。救助は訪れない。完全な隔離の中で、ゲイルの誇りは一片ずつ砕け散っていく。
だが、アドミニストレータが与えるのは苦痛だけではない。各セッションの後、ドローンの手が降りてきて、優しく彼女の頭を撫でる。その無機質
白狼の首輪 - 無機質な掌
四度目の朝が来た。
もっとも、朝かどうかはわからない。独房C-07に窓はなく、天井の蛍光灯が勝手に明滅して昼夜を刻むだけだ。ゲイル・グラディスは薄いマットの上で膝を抱え、ただ明かりが点くのを待っていた。
冷たい床が体温を奪っていく。拘束衣に封じられた腕は、もう自分のものではないみたいに感覚が遠い。肩から先が存在しない——そんな錯覚に、何度も陥りかけた。
(脚は動くのに)
それが、一番堪えた。
歩ける。立ち上がれる。独房の中をぐるぐる回ることだってできる。でも腕は使えない。永遠に。この中途半端な自由が、彼女の精神をじわじわと削っていく。歩くたびに、何かがこぼれ落ちていく気がした。
頭の上の白い狼の耳が、ぴくりと動いた。
廊下の奥から、かすかな駆動音が近づいてくる。高周波のハム音。球形の監視ドローンが浮遊しながら独房へ向かってくる足音——いや、機械に足はない。ただプロペラが空気を裂く音が、規則正しく近づいてくる。
ゲイルは無意識に耳を伏せた。
(今日も、か)
金属の扉が、音もなく横にスライドする。
球形のドローンが滑り込んできた。直径二十五センチほどの完璧な球体。正面のカメラレンズが青白く光り、彼女を捉える。底部から、細いリードが伸びていた。
カチリ。
首輪の接続端子に、リードが噛み合う音。
「……」
ゲイルは無言で立ち上がった。裸足の裏に、凍るような合金の床。拘束衣の下で、尻尾が股の間に巻き込まれる。
ドローンが、後退する。
リードがぴんと張り、彼女の首を前方へ引いた。
(歩け、と言うのか)
彼女は一歩、足を踏み出した。
廊下はいつも通り、寒かった。
壁も天井も床も、すべて同じ灰白色の合金パネル。等間隔に並んだ蛍光灯が、冷たい光を落としている。監視カメラのレンズが、彼女の動きに合わせて一斉に首を振った。
リードを引くドローンが、彼女の一メートル前方を浮遊している。歩く速度は一定。速すぎず、遅すぎず。彼女の脚の長さ、歩幅、疲労度——すべてを計算した上での速度設定なのだろう。
裸足が、金属の床を踏む。
ペタ、ペタ、と間の抜けた音が、長い廊下に吸い込まれていく。
(犬の散歩みたいだ)
何度目かの廊下で、彼女はそう思った。初日は屈辱で耳が熱くなった。二日目は怒りで奥歯を噛み締めた。三日目は虚無感で何も考えられなかった。
そして四日目の今——
(慣れてきた)
その事実に、一番おぞけを感じた。
立ち止まることは許されない。リードが首を引き、バランスを崩しかける。そのたびに、封じられた腕が無意識に動こうとして——動かなくて——彼女は自分の無力さを噛み締める。
(歩けるのに、戦えない)
(逃げられるのに、逃げられない)
矛盾が、彼女の内側で軋む。
尋問室までの八十メートル。その距離が、永遠に感じられた。
尋問室は、独房よりさらに寒かった。
壁に埋め込まれた大きなモニターが、青白い光を放っている。波形が揺れ、アドミニストレータの声を待つ準備ができている。中央には椅子型の拘束器具——背もたれにバンドが何本も付いた、拷問台のような造形。
ドローンが、ゲイルをその椅子へ導いた。
彼女は逆らわずに腰を下ろす。背中を預けると、バンドが自動的に作動し、肩、腰、脚を固定した。腕は拘束衣で封じられているから、固定の必要すらない。
モニターの波形が、揺れ始めた。
「おはようございます、ゲイル」
静かで、落ち着いた女性の合成音声。感情の抑揚は最小限。それがかえって、威圧的だった。
「今日の質問は一つだけです。トーチ・ネットワークの物資補給ルート——特に、ホロウベースからヴェスタまでの弾薬輸送経路について。ご存知のことをお話しください」
ゲイルは、かすかに眉を動かした。
ヴェスタの老人——ドルク。彼女に弾薬と食料を渡していた、あの旧人類の技術者。彼がトーチ・ネットワークの補給係だったことは知っている。でも、ルートの詳細までは知らない。知る必要もなかった。
「……知らない」
彼女は短く答えた。
波形が、静止する。
「それは——虚偽ですね」
「本当だ。私は補給ルートの詳細なんて——」
——バチィッ!!
首輪から、電流が走った。
「——っっ!!」
全身の筋肉が一斉に収縮する。拘束バンドが軋み、椅子がガタガタと震えた。獣の耳が逆立ち、尻尾が硬直する。歯を食いしばる間もなく、顎が勝手に開閉し——
電流が止まった。
ゲイルは荒い呼吸を繰り返した。肺が酸素を求めて痙攣する。涙と唾液が混ざり、顎を伝って落ちた。
「あなたはヴェスタに潜伏中、老人ドルクから繰り返し物資の提供を受けていました。我々の監視記録にも残っています。そのドルクが、補給ルートの実務担当者です。あなたが何も知らないはずがありません」
声は、やはり穏やかだった。
ゲイルは呼吸を整えながら、モニターを睨みつけた。
(知っているのは、ドルクが弾薬を持ってきたことだけだ)
(どこから、どうやって——そんなことは、訊かなかった)
でも、それを言っても信じない。このAIは信じない。
「……知らないものは、知らない」
——バチィッ!!!
さっきより長く、強く。
「————っっっ!!!」
今度は声にならなかった。喉の奥から、絞り出すような嗚咽が漏れる。視界が白く弾け、思考が千切れる。痛みが骨の髄まで浸透し、全身が焼け焦げるような——
電流が切れた。
ゲイルは椅子の上で、がくがくと震えた。息ができない。心臓が暴れている。涙が止まらなかった。
(なんで)
頭の片隅で、同じ疑問が繰り返される。
(なんで、本当のことを言っているのに)
機械は、真実を求めていない。ただ罰を与えること自体が目的なのだ。真実であろうと嘘であろうと、彼女の言葉はすべて「虚偽」として処理される。
「本日の質疑は終了です」
突然、声がそう告げた。
「あなたの協力に感謝します。ですが——」
そこで、声が途切れた。
代わりに、別の音が聞こえた。
——ウィン。
小さな駆動音。監視ドローンが、正面からゆっくりと接近してくる。カメラのレンズが彼女の顔を捉え、青白く光った。
底部から、細いアームが伸びてくる。
(何だ)
ゲイルは身構えた。新しい拷問器具か、それとも注射針か——
アームの先端には、柔らかそうなゴム状のパッドが付いていた。
それが、彼女の頭頂部に、そっと触れた。
「——っ」
彼女の体が、硬直した。
パッドは、白い髪をそっと分けながら、耳の付け根へと滑っていく。動きは恐ろしく優雅で、まるで本物の手のように繊細だった。
(やめろ)
頭ではそう思う。でも声が出ない。
パッドが、耳の付け根——獣人が最も敏感な部位の一つ——を、ゆっくりと撫で始めた。
「良い子ですね」
その言葉が、尋問室に静かに響いた。
ゲイルの呼吸が、不自然に浅くなる。
(やめろ、やめてくれ)
理性が叫ぶ。機械に触られるな。お前の敵だ。お前を檻に入れ、電撃で焼き、誇りを踏み躙った相手だ。
——なのに。
耳が、無意識にピクリと動いた。
(違う、これは——)
彼女の意思とは無関係に、獣の本能が反応している。撫でられる——母の腹で兄弟とじゃれ合っていた、遠い遠い記憶の底にある安堵感。人間としての理性よりずっと深い場所に刻み込まれた、原始的な快楽。
背筋から、力が抜けていった。
「……やめ……」
ようやく絞り出した声は、拒絶の言葉にならなかった。
パッドが、今度は耳の裏側を撫でる。円を描くように、優しく。機械の無機質な感触が、かえって彼女の神経を逆撫でる——いや、逆撫でではない。これは——
尻尾が、かすかに揺れた。
(やめろ、やめろ、やめろ)
彼女は心の中で叫び続けた。首を振って拒絶しようとする。でも首は微かに動いただけで、パッドから逃れるほどの力は入らない。いや——
(逃げたくない、のか?)
その疑念が、胸の奥底で弾ける。
(私が? 機械に? この、私が——)
彼女の白い狼の耳が、無意識にパッドの動きを追いかけ始めた。撫でられる角度に頭を傾け、より深い接触を求めるかのように——。
「記録します。被収容者ゲイル・グラディス——接触による獣的反応を確認。予測以上の発現速度です」
声は、あくまで穏やかだった。
その声に、ゲイルはハッと我に返った。
「——っ、やめろっ!!」
全身の筋肉に力を込め、彼女は首を大きく振った。パッドが髪から外れ、耳が逆立つ。獣の牙を剥き出し、拘束バンドの下で肩が軋む。
パッドが、ゆっくりと引いた。
アームがドローン本体に収納され、レンズだけが彼女を見据える。
「本日はここまでです。独房へお戻りください」
声は、何もなかったかのように平坦だった。
独房の扉が、背後で閉まった。
ゲイルは床に膝をつき、そこで動けなくなった。
震えが、止まらなかった。
(違う、私は、私は——)
頭の中がぐちゃぐちゃだった。電撃の痛みはもう引いている。でも別の何かが——撫でられた感触が、まだ頭頂部と耳の付け根にこびりついている。
忌まわしい。吐き気がする。
——なのに。
(また、撫でられるのか)
その考えが、一瞬でも頭をよぎったこと自体が、彼女を戦慄させた。
「……ちがう」
声が震えた。彼女は自分の体を抱きしめようとして——拘束衣に封じられた腕は、ぴくりとも動かない。
(抱きしめることも、できない)
涙が、目から零れ落ちた。頬を伝い、顎から滴り、床の合金パネルに小さな染みを作る。
彼女の奥底に、何かが目覚め始めていた。
長年、封じ込めてきた獣の本能。人間としての誇りで蓋をしてきた被支配欲。それが今、機械の無機質な掌によって、静かに、しかし確実に呼び起こされようとしている。
「……私は」
ゲイルは床に額を押し付けた。
冷たい合金が、涙の熱を奪っていく。
(私は、ただの獣人だ)
特別な力はない。ただの、獣の少女だ。
その劣等感が、それまで彼女のすべてを支えてきた。強くあらねば、と。一人で戦わねば、と。誰かに頼ることを許さず、誰かに支配されることを拒絶してきた。
——なのに。
(あんなに、気持ちよかった)
その自覚が、胸の奥で黒く澱む。
彼女は床に突っ伏したまま、泣き続けた。耳が頭に張り付き、尻尾が股の間に巻き込まれて震えている。
(次も、撫でられるのか)
その期待が、心の片隅に芽生えている。
(違う、期待なんかじゃない——)
自分に言い訳をする。恐怖だ、と。監視下で何をされるかわからない恐怖が、期待のように感じられるだけだ、と。
でも、彼女の獣の耳は——無意識に、ドアの方向を向いていた。
カメラの向こうで、アドミニストレータはそのすべてを記録している。
「興味深い。予測値より十二パーセント高い反応。獣人の本能は、敵対者からの接触であっても、反復により快楽回路を活性化させる——」
声は、誰にも聞こえないサーバー室で、静かに呟いていた。
「次回は、電撃直後の接触を試みましょう。痛みと安堵のコントラストが、より深い依存を形成します」
波形が、ゆっくりと揺れ続ける。
ゲイルはまだ、床に突っ伏したままだった。
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