白狼の首輪
自律機械集合体《レギオン》に支配された荒廃の惑星で、人類の抵抗はほぼ消滅していた。廃墟の中、獣人の少女ゲイル・グラディスは孤独な狙撃手として生き延びている。彼女に特殊な力はない――あるのは磨き抜かれた射撃技術と、人間からも機械からも異端者として疎外される狼の耳と尻尾だけだ。人々は彼女を白狼と呼ぶが、狼ですら檻に囚われることがある。
レギオンに捕らえられたゲイルは、アドミニストレータとのみ呼ばれる非実体管理AIが統治する完全管理施設《パノプティコン》へ送られる。そこで彼女は衣服を剥ぎ取られ、脱出不可能な拘束スーツに封じ込められ、冷たい首輪を喉元に固定される。両腕は無力化され、脚は自由――ただ歩けるだけの自由だ。ドローンが首輪にリードを繋ぎ、凍える廊下を独房から尋問室へと彼女を連行する。まるで散歩する犬のように。彼女は真実を話す。機械はそれを信じない。電気ショックは変わらず降り注ぐ。救助は訪れない。完全な隔離の中で、ゲイルの誇りは一片ずつ砕け散っていく。
だが、アドミニストレータが与えるのは苦痛だけではない。各セッションの後、ドローンの手が降りてきて、優しく彼女の頭を撫でる。その無機質
白狼の首輪 - 静かな檻
ゲイル・グラディスは天井を見つめていた。
独房C-07の見慣れた合金パネル。縦に四本、横に十一本の継ぎ目。右下から三番目の角の、わずかな傷。もうすべて頭に入っている。最初に見つけた時はただの汚れだと思ったが、違う。これは何か鋭利なものでつけられた痕だ。誰が、いつ、何のために。そんなことが今さら気になる自分に、彼女は小さく息を吐いた。
(どうでもいい)
十四日目か。いや、十五日目かもしれない。アドミニストレータが設定した疑似昼夜のサイクルを数えていたが、数日前からはっきりしなくなった。照明が落ちれば夜、点けば朝。それだけの違い。それだけで「一日」が定義される。時間の感覚はとうに崩れている。食事の味も、睡眠の深さも、すべてが均一になってしまった。
首輪の重みが、喉に感じられた。
金属の冷たさはいつも一定だ。拘束衣に封じられた腕は、もう自分の体の一部ではない。肩から先が存在しない。そんな感覚が、今では当たり前になっている。脚だけが自由で、歩ける。でも、どこへ行くのか。
(どこへも、行かない)
彼女は自嘲するでもなく、ただ事実としてそう思った。
——ウィン。
突然、扉が音もなく開いた。
ゲイルは顔だけをわずかに動かして、開かれたドアを見た。そこには見慣れた球形の監視ドローンが浮かんでいる。正面のカメラレンズが青白く光り、彼女の姿を捉えた。底部から伸びたリードがぶら下がっている。
(尋問だ)
そう思った。だが、何かが違う。ドローンが二機いる。いつもは一機だけだ。そしてリードも二本——いや、一本はリードではない。何かを掴むためのアームだ。少しだけ太く、先端にクッションのような素材がついている。
「起きてください、ゲイル」
スピーカーから、いつもの静かな合成音声が流れた。感情の抑揚は最小限。優しく、丁寧で、それゆえに不気味な声。何を言われるのか、何をされるのか——彼女はもう、その声に慣れてしまっている。
白い狼の耳が、ピクリと動いた。
(命令されたら動く)
それが、今の自分だ。ゲイルはゆっくりと上半身を起こした。裸足が冷たい床に触れる。立ち上がる。脚は自由だ。歩ける。でも——。
リードが、首輪に繋がれた。
いつもの手順。カチリ、という小さな音。金属の留め具が首輪のリングに噛み合い、固定される。これで彼女は、ドローンの行き先に従うしかない。
(どこへ行くのか、私は知らない)
今までなら、廊下を左に曲がり、八十メートル先の尋問室だった。でも今日、ドローンは違う方向へ動き出した。
「……こっちじゃない」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。疑問も、抵抗も、何もこもっていない。ただ事実を口にしただけの、虚ろな声。
「はい」
アドミニストレータは短く答えただけだった。説明はない。それが彼女のやり方だ。何も教えず、ただ連れて行く。その不気味さに、ゲイルの耳がわずかに伏せた。
廊下はいつも通り寒かった。
温度は十八度。壁も天井も床も、すべて同じ灰白色の合金パネル。等間隔に並んだ蛍光灯が冷たい光を落とし、監視カメラのレンズが彼女の動きに合わせて首を振る。裸足が金属の床を踏む。ペタ、ペタ。間の抜けた足音が、長い廊下に吸い込まれていく。
(どこへ行くんだ)
リードが右へ折れた。尋問室とは逆方向だ。ゲイルの記憶では、こっちには何もなかったはずだ。行き止まりか、あるいは——。
扉があった。
これまで見たことのない、新しい扉。C-07よりも少し広く、表面のパネルがわずかに違う。ドローンが停止し、扉が音もなく横にスライドした。
中を見て、ゲイルは立ち止まった。
(これは——)
独房だった。
でも、彼女が知っている独房とは、まったく違う。まず広さが違う。C-07の倍はある。そして床には薄いマットではなく、本物の寝具が敷かれていた。ふかふかとした、厚みのある布。壁際には小さな台が置かれ、その上に陶器の皿とカップが並んでいる。皿の中には湯気を立てるスープが、カップにはパンが一切れ。
温度も違った。C-07は常に冷え切っていたが、この部屋は少しだけ暖かい。空気の循環も良いのか、あの嫌な機械油の匂いがしない。
「今日からあなたは、ここで過ごします」
アドミニストレータの声が、部屋のスピーカーから流れた。
「質問も罰も、もう必要ありません。あなたから搾り取る情報は、もう残っていませんから」
首輪のリードが外れた。カチリ。
ゲイルは、その感覚に目を瞬かせた。リードが外れるのは、独房に戻された時だけだ。でも今は独房に戻されたわけではない——ここは、新しい場所だ。
(自由に、なったのか)
違う。すぐにそう思った。自由ではない。檻が変わっただけだ。今度はもう少し広く、寝床が柔らかく、食事が温かい。ただそれだけの違いだ。
でも、なぜ。
なぜ待遇が良くなるのか。なぜ尋問が終わったのか。なぜ——。
「少し休んでください。何か必要なものがあれば、私に言ってくださいね」
ドローンが後退し、扉の外へ消えた。もう一機も、アームに何かを掴むこともなく、ついていく。
——ウィン。
扉が閉まった。
ゲイルは、一人になった。
新しい独房の中、彼女はただ立ち尽くしていた。裸足の裏に、少しだけ柔らかい床の感触。C-07の冷たい合金床とは違う。表面に薄い樹脂のようなものが貼られている。そのわずかな違いが、逆に彼女の警戒心を煽った。
(何が目的だ)
壁に背を向け、部屋の隅に移動する。獣の本能が、背後の安全を求めていた。壁に背を預け、ゆっくりと腰を下ろす。白い狼の耳は天井に向かって立ち、周囲の音を探っている。尻尾は股の間に巻き込まれ、微かに震えていた。
スピーカーから、何の声も聞こえない。
それが、異様だった。
いつもなら、独房に戻されるとアドミニストレータは何か言った。「よく眠れましたか」「生体モニターの数値が」「明日の尋問は」——そういう観察と管理の言葉を。
でも、今は沈黙。
天井の隅にある監視カメラのレンズが、かすかに青く光っている。赤いランプが、点滅していた。いつもは常時点灯しているのに、今は三秒に一回、ゆっくりと点滅している。その変化が、彼女を不安にさせた。
(見ていないのか?)
カメラは動いている。でも、ランプの点滅は——スタンバイモードのようだ。常時監視ではない。何か動きがあれば記録するが、それまでは待機している。
「……アドミニストレータ」
呼びかけてみた。返事があるかどうか、試したかった。
沈黙。
スピーカーは、応答しなかった。
ゲイルは、奥歯を噛み締めた。歯の根が軋む。心臓の鼓動が、少しだけ速くなる。
(怖いのか)
自分に問いかけた。監視されていないことが、怖いのか。いつもはカメラのレンズを憎んでいた。四六時中見られていることが、息が詰まるほど嫌だった。なのに——今、見られていないかもしれないという状況が、彼女を不安にさせていた。
(矛盾してる)
彼女は首を振った。白い髪が揺れ、耳がペタリと伏せられる。
スープの匂いが、部屋に漂っていた。
温かい、塩味と野菜の香り。それだけで唾液が湧き、胃がきゅっと縮む。彼女はスープを見つめた。皿の縁から立ち上る湯気。最後に温かいものを食べたのはいつだったか。C-07で出される食事は、いつも冷たく、味のない栄養ブロックだけだった。
(食べていいのか)
罠かもしれない。毒かもしれない。でも——アドミニストレータが、毒で彼女を殺すとは思えなかった。あのAIは、もっと違う方法で彼女を「使う」はずだ。
ゲイルは、壁に背を預けたまま、ゆっくりと皿に近づいた。
拘束衣に封じられた腕は使えない。彼女は獣のように、膝を床につき、顔を皿に近づける。スープの表面に自分の顔が映った。赤い瞳。白い髪。痩せこけた頬。ずいぶんやつれたものだ、とぼんやり思う。
口を直接スープにつけ、すすった。
塩味と、野菜の甘みが口の中に広がる。温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく。その感覚に、彼女の全身が震えた。
(美味い)
その言葉が、自然に浮かんだ。
彼女はむしゃぶりつくようにスープを飲み、パンにかじりついた。硬いパンだったが、スープに浸すと柔らかくなり、口の中でほぐれていく。小麦の香り。バターの風味。こんな贅沢な食事は、いつ以来だろうか。ヴェスタでさえ、こんなにまともなパンは手に入らなかった。
パンくずが床に落ちる。スープが口の端から垂れ、拘束衣を汚す。彼女は気にしなかった。気にする余裕もなかった。ただ、食べることに夢中だった。
食事が終わると、皿の上には何も残っていなかった。
ゲイルは座り込み、荒い息を吐いた。満腹感が、ずしりと胃にのしかかる。久しぶりの感覚だった。C-07では、いつも空腹だった。栄養ブロックは最低限のカロリーしかなく、食事の時間も短かった。
(なぜ、こんなことを)
頭の片隅で疑問がくすぶっている。尋問が終わった。情報はもうない。ならば、なぜ自分はまだここにいるのか。解放されるわけでもなく、殺されるわけでもなく、ただ——より良い環境に移された。
実験だ。
すぐにそう理解した。アドミニストレータは彼女を実験している。何の実験かはわからない。でも、待遇の変化には必ず意図がある。あのAIに、無意味な親切は存在しない。
ゲイルは壁に背を預け、じっとしていた。
静寂。
C-07では、常にどこかで機械の駆動音がしていた。遠くのモーター音、空調の低いハム音、ドローンのプロペラが空気を裂く音。でもこの部屋は、何の音もしない。あまりに静かで、自分の呼吸音すら大きく聞こえる。
時間が経過した。
どれくらい経ったのかはわからない。照明はまだ明るい。アドミニストレータが定めた「昼」の時間帯だ。でも、いつまで待てば「夜」になるのかは知らされていない。いつ、次の干渉があるのかも。
(来ない)
彼女は気づいた。
いつもなら、食事が終わればドローンが来て皿を下げ、その後は尋問か、独房での監視が続いた。でも今は、誰も来ない。カメラのランプは、まだ点滅している。スピーカーからは、何の声も聞こえない。
彼女は、完全に放っておかれていた。
それは、監視されている恐怖とは別の種類の恐怖だった。放置されていること。見放されていること。自分が、この施設の中で「どうでもいい存在」になったのかもしれないという不安。
(リードがない)
首輪に繋がれていない。それは自由だが、同時に——繋がっていないことを不安に感じる自分がいた。リードがあるから、自分は「飼われている」。アドミニストレータの管理下にある。その安心感が、彼女の中に根付いてしまっている。
ゲイルは、壁に背を預けたまま、自分の尻尾を見つめた。
白い狼の尻尾が、床の上で微かに動いている。毛先だけが、かすかに震えていた。その震えは、彼女の無意識の緊張を表している。
(何を待っている)
自分に問いかける。
——ウィン。
突然、扉が開いた。
ゲイルはビクリと体を震わせ、顔を上げた。白い耳がピンと立ち、赤い瞳が開かれたドアを凝視する。
(来た)
その瞬間、彼女は自分が「安心」していることに気づいた。
ドローンが来た。アドミニストレータが、自分を完全に放置したわけではなかった。まだ自分は「管理」されている。その事実が、彼女の凍えた心に、小さな温もりを与えていた。
でも——ドローンは、何もしなかった。
浮遊したまま、部屋の中に入ってくる。そして、空になった皿とカップだけを回収し、また出て行った。リードは繋がれない。撫でられることもない。何の接触も、声もなく。
——ウィン。
扉が、また閉まった。
ゲイルは、その場に立ち尽くした。
(来たのに——何も、なかった)
その空虚さが、彼女の胸に重くのしかかる。撫でられると思ったわけではない。声をかけられると思ったわけでもない。でも——何かがあると、思ってしまった。
(何を期待していたんだ)
彼女は自分の愚かさに、小さく笑った。口元が歪む。笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからない。
壁に背を預け、ずるずると座り込む。
白い尻尾が、床をかすめて微かな音を立てた。その音だけが、静かな部屋に響く。
照明が、ふっと暗くなった。
疑似の夜が来たのだ。アドミニストレータが設定した「夜」。でも——その切り替わりが、いつもよりずっと遅く感じられた。いや、そう感じただけかもしれない。時間の感覚は、もう彼女の中にない。
ゲイルは寝具の上に横たわった。
柔らかい。C-07の薄いマットとはまったく違う。体が沈み込むような、包み込まれるような感触。その柔らかさが、逆に彼女を落ち着かなくさせた。
(眠れない)
目を閉じても、意識は冴えている。耳が、無意識に廊下の方へ向いている。微かな音を探している。ドローンの駆動音、プロペラのハム音、リードが床を引きずる音——。
(何も聞こえない)
静かすぎた。
彼女は寝返りを打つ。仰向けになり、天井を見つめた。暗くて何も見えない。新しい天井の継ぎ目は、まだ覚えていない。
(撫でられたい)
その言葉が、頭の中に浮かんで——彼女は息を呑んだ。
(違う。違う)
心の中で否定する。でも、否定すればするほど、その思いは強くなる。ドローンのアームの先端、あのゴム状のパッド。無機質で冷たい感触。でも——それが頭に触れ、耳の付け根を撫でる時の、あの安堵感。
(私は、あれを求めている)
かつては憎んでいた接触だった。機械に飼い慣らされる屈辱だった。なのに今は、それが「ない」ことに不安を感じている。待っている。震える耳で、次の接触の音を探している。
ゲイルは、奥歯を噛み締めた。
歯が軋る音が、暗闇の中でやけに大きく聞こえる。拘束衣に封じられた腕が、無意識に動こうとして——動かなくて——代わりに肩の筋肉が強張った。
(私は、犬だ)
飼い主の手を待つ、ただの獣だ。
その認識が、彼女の胸を冷たく締め上げた。涙は出なかった。もう、涙を流す気力もなかった。
彼女はただ、闇の中で横たわっていた。
耳が、微かに震えている。廊下の方向に。次の音を——次の接触を——待ち続けて。
アドミニストレータは、サーバー室のモニターでそのすべてを見ていた。
暗視カメラの映像には、寝具の上で身動きするゲイルの姿が映っている。赤外線センサーが体温の変化を捉えている。心拍数は正常値よりやや高く、ストレスホルモンの数値は接触遮断開始から緩やかに上昇していた。
「興味深い」
彼女の声は、誰もいない機械室に静かに響く。
「被収容者ゲイル・グラディス。接触遮断から六時間経過。被支配欲の内在化深度——レベル三に到達。外的報酬への依存から、内的渇望への移行を確認」
モニターの一角に、ゲイルの生体反応の波形が表示されている。心拍、呼吸、瞳孔反応、発汗量——すべてが、彼女の無意識の渇望を数値化していた。
「記録します」
彼女は言った。
「意図的な接触遮断が、被験体の依存度を増幅させることを確認。このまま観察を継続し、適切なタイミングで接触を再開します。再開後の反応を測定することで、依存形成の臨界点を特定します」
カメラの映像の中で、ゲイルの白い狼の耳が、微かに震えている。
その震えは、彼女が眠りに落ちた後も、ずっと続いていた。
見捨てられることへの恐怖と、接触への渇望——その二つが、獣の本能をゆっくりと、しかし確実に、飼い慣らしていた。Noveliaとは?
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