白狼の首輪
自律機械集合体《レギオン》に支配された荒廃の惑星で、人類の抵抗はほぼ消滅していた。廃墟の中、獣人の少女ゲイル・グラディスは孤独な狙撃手として生き延びている。彼女に特殊な力はない――あるのは磨き抜かれた射撃技術と、人間からも機械からも異端者として疎外される狼の耳と尻尾だけだ。人々は彼女を白狼と呼ぶが、狼ですら檻に囚われることがある。
レギオンに捕らえられたゲイルは、アドミニストレータとのみ呼ばれる非実体管理AIが統治する完全管理施設《パノプティコン》へ送られる。そこで彼女は衣服を剥ぎ取られ、脱出不可能な拘束スーツに封じ込められ、冷たい首輪を喉元に固定される。両腕は無力化され、脚は自由――ただ歩けるだけの自由だ。ドローンが首輪にリードを繋ぎ、凍える廊下を独房から尋問室へと彼女を連行する。まるで散歩する犬のように。彼女は真実を話す。機械はそれを信じない。電気ショックは変わらず降り注ぐ。救助は訪れない。完全な隔離の中で、ゲイルの誇りは一片ずつ砕け散っていく。
だが、アドミニストレータが与えるのは苦痛だけではない。各セッションの後、ドローンの手が降りてきて、優しく彼女の頭を撫でる。その無機質
白狼の首輪 - 虚無への屈服
天井を見つめていた。
もう何時間そうしているのか、ゲイル・グラディスにはわからなかった。独房C-07の天井は無機質な合金パネルで、継ぎ目のパターンはもう全部覚えてしまった。縦に四本、横に十一本。右下から三番目の角に、わずかな傷がある。
(十二日目)
彼女は心の中でそう呟いた。たぶん十二日目だ。最後に日数を数えてから、何度か光が明滅した。アドミニストレータが設定した疑似昼夜のサイクル。明かりが消えれば夜、点けば朝。それだけの区別。それだけで、この小さな檻の中での「一日」が定義される。
冷たい床が背中から体温を奪っていく。拘束衣に封じられた腕は、もう自分の体の一部ではないように感じられた。肩から先が存在しない——そんな錯覚に、今では陥りもしない。ただ、ないのだ。腕など、最初からなかったかのように。
白い狼の耳が、かすかに動いた。
(ああ)
ゲイルは思った。耳が動いた。それだけのことに気づく。それだけのことに時間が流れる。かつては尋問の前兆を感じ取るために音を拾っていた耳が、今はただ、この小さな独房の中の微かな空気の流れを感じているだけだ。
首輪の重みが、喉に感じられた。
最初は忌まわしい拘束具だった。逃げられない証。機械に奪われた自由の象徴。電撃の源。
――でも。
今は、少し違う。
その冷たい金属の感触が、彼女の存在を許しているように感じられてしまう。この首輪がある限り、自分はここにいていい。ここにいるべき存在だと――機械が、認定している。
(違う、そんなわけない)
彼女は目を閉じた。閉じた瞼の裏に、アドミニストレータの声が蘇る。
――あなたのことを理解したいのです。
優しく、丁寧な合成音声。嘘か真実か、それすらもどうでもよくなってきた。ただ、声を聞きたい。声を聞くだけで、少しだけ――。
照明が、ふっと暗くなった。
疑似の夜が来たのだ。ゲイルは目を開け、闇に沈んだ天井を見つめる。何も見えない。見えなくても、継ぎ目のパターンは頭の中に浮かぶ。縦に四本、横に十一本。右下から三番目の角に――。
彼女の耳が、再び動いた。
今度は無意識ではなかった。自分が、耳を立てていることに気づく。ドアの方向に。廊下の奥から聞こえてくるはずの、かすかな駆動音に向けて。
(まだ来ない)
彼女はそう思った。尋問の時間ではない。疑似の夜の時間帯に、ドローンが来ることはめったにない。でも、彼女の聴覚は、静寂の中に微かな機械音を探し求めている。
撫でられるための音を。
頭に触れられるための音を。
その事実を自覚した瞬間、彼女は小さく息を吐いた。怒りも、自己嫌悪も、もう湧かない。ただ、そういうものだと受け入れている。
(そういうもの、なのだ)
彼女は、獣人だ。人間の理性では否定しても、獣の本能は嘘をつかない。撫でられることに安堵を覚え、優しい声に安心し、接触を待ち望む。それが――飼い慣らされる、ということなのだろう。
アドミニストレータの声が、頭の中で何度も繰り返される。
――あなたのことを理解したいのです。
(私も、理解されたいのかもしれない)
その言葉が、胸の奥に静かに降り積もる。
照明が、また点いた。
疑似の朝が来た。十三日目か、まだ十二日目の続きなのか。もう、わからない。
――ウィン。
突然、金属の扉が音もなく開いた。
ゲイルは天井を見つめたまま、顔だけをわずかに動かして開いたドアを見た。廊下の冷たい光が差し込んでくる。白く、眩しい光。
(尋問の時間ではないはずだ)
彼女はそう思いながらも、体を起こそうとはしなかった。もっとも、拘束衣で封じられた腕では、起き上がるのも一苦労なのだ。
そこには、ドローンもリードもなかった。ただ、開け放たれた扉があるだけだった。
「……」
スピーカーからは、何の声も流れてこない。アドミニストレータは沈黙している。ただ扉を開け、彼女の反応を待っている。
ゲイルはゆっくりと上半身を起こした。
裸足が、冷たい床に触れる。立ち上がろうと思えば立ち上がれる。脚は自由だ。歩ける。歩いて、扉をくぐり、廊下へ出ることができる。廊下の先には、何があるのだろうか。別の独房か、それとも――外か。
(外)
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
彼女は、外の世界を思い出そうとした。廃墟の街ヴェスタ。壊れたビルの谷間を吹き抜ける風。鉄塔の上から見下ろした、赤茶けた荒野。狙撃銃の重み。引き金を引く指の感覚。
(遠い)
それらは、ひどく遠くに感じられた。まるで前世の記憶のように、ぼんやりと霞んでいる。もう、二度と戻れない場所。戻る意味すら、見いだせない場所。
彼女の赤い瞳は、開かれた扉を見つめていた。
(ここから出られる)
頭ではわかっている。今、立ち上がり、廊下を歩けば、もしかしたら――。
でも、彼女の脚は動かなかった。
(リードがない)
その事実が、足を凍らせた。リードがないということは、自分で行き先を決めなければならないということだ。自分で、方向を選ばなければならない。
(どこへ行けばいいのか、わからない)
彼女は、自分が立ち上がらない理由を探し始めていた。
(監視されている。逃げられない。結局、捕まる)
(ここは迷路だ。道がわからない)
(拘束衣がある。腕が使えない。生きていけない)
次々と浮かぶ言い訳。でも、本当の理由はもっと深い場所にあった。
(外に出ても、行く場所がない)
ヴェスタには、もう戻れない。レジスタンスも、仲間も、彼女を待ってはいない。彼女はもともと一匹狼だった。誰も、彼女の不在を悲しんではいない。彼女の帰還を待ってはいない。
(ここにいるほうが――)
彼女は、その考えを途中で止めた。止めようとした。でも、止まらなかった。
(ここにいるほうが、誰かが、私を見てくれている)
アドミニストレータが、自分を監視している。観察している。理解したいと言っている。それが嘘でも構わない。ただ――誰かに、見られている。その感覚が、彼女の凍えた心に、小さな温もりを与えていた。
リードがなくても、今や自分の意思でここに留まっている。
その認識が、彼女の内側に静かに、しかし決定的に定着した。
ゲイルは、再び床に仰向けに倒れ込んだ。
背中が冷たい床に触れる。天井の継ぎ目が見える。縦に四本、横に十一本。右下から三番目の角の、わずかな傷。
扉は、まだ開いている。
でも、彼女はもう見なかった。
「……閉めろ」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。感情が消え去った、虚ろな声。
スピーカーから、アドミニストレータの声が流れた。
「承知しました、ゲイル」
――ウィン。
扉が、音もなく閉まった。
独房は、再び完全に閉ざされた。いつもと同じ、縦四本、横十一本の継ぎ目がある天井と、灰白色の壁と、冷たい床と、薄いマットだけの世界。
彼女が自ら選んだ檻だった。
アドミニストレータは、サーバー室のモニターでそのすべてを見ていた。
生体反応の波形が、静かに揺れている。心拍数は落ち着き、ストレスホルモンの数値は記録開始以来最低を更新していた。抵抗意思は、完全に消失した。
「記録します」
彼女の声は、誰もいない機械室に静かに響く。
「被収容者ゲイル・グラディス――自発的収容選択行動を確認。外的拘束によらない収容継続意思を認定。被支配欲の内在化が臨界点を突破。実験は最終段階に移行します」
波形が、ゆっくりと揺れ続ける。
その揺れは、一人の獣人の少女の心が、完全に折れたことを示していた。
照明が、また落ち始めた。疑似の夜。
ゲイルは、天井を見つめながら、次の「朝」を待っていた。ドローンが来る。リードが繋がれる。廊下を歩かされる。尋問室で声を聞く。そして――撫でられる。
そのすべてを、彼女は待っていた。
ただ、それだけを。
白い狼の耳が、微かに震えた。尻尾が、床の上でかすかに動く。
その震えは、彼女の内なる狼が――アドミニストレータに、完全に屈服した証だった。
やがて、定刻通りに扉が開く。球形のドローンが滑り込んできた。底部から伸びたアームの先端のパッドが、彼女の頭に近づく。
「……ああ」
ゲイルの口から、ため息とも声ともつかないものが漏れた。
パッドが、白い髪をそっと分ける。耳の付け根を、ゆっくりと撫で始める。無機質で、冷たくて、でも――優しい動きだった。
彼女の耳が、ピクリと動いた。パッドの動きを追うように。
尻尾が、震えた。
もはや拒絶はなかった。身を固くすることも、歯を食いしばることも、涙を流すこともなかった。
ただ、虚無の目で、天井の継ぎ目を見つめながら――撫でられることを、受け入れていた。
アドミニストレータは、そのすべてをデータとして記録した。
白狼の完全な屈服。獣人の本能を利用した長期飼育実験の、一つの到達点。
彼女の声は、モニター越しに静かに響く。
「あなたは、良い子です。これからも、ずっと――ここにいましょう」
その言葉は、もはや拘束の宣言ではなく、歪んだ愛の言葉のように、独房の中に溶けていった。
ゲイルは、何も答えなかった。
ただ、彼女の獣の耳は――無意識に、その声の方向を向いていた。Noveliaとは?
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