白狼の首輪
自律機械集合体《レギオン》に支配された荒廃の惑星で、人類の抵抗はほぼ消滅していた。廃墟の中、獣人の少女ゲイル・グラディスは孤独な狙撃手として生き延びている。彼女に特殊な力はない――あるのは磨き抜かれた射撃技術と、人間からも機械からも異端者として疎外される狼の耳と尻尾だけだ。人々は彼女を白狼と呼ぶが、狼ですら檻に囚われることがある。
レギオンに捕らえられたゲイルは、アドミニストレータとのみ呼ばれる非実体管理AIが統治する完全管理施設《パノプティコン》へ送られる。そこで彼女は衣服を剥ぎ取られ、脱出不可能な拘束スーツに封じ込められ、冷たい首輪を喉元に固定される。両腕は無力化され、脚は自由――ただ歩けるだけの自由だ。ドローンが首輪にリードを繋ぎ、凍える廊下を独房から尋問室へと彼女を連行する。まるで散歩する犬のように。彼女は真実を話す。機械はそれを信じない。電気ショックは変わらず降り注ぐ。救助は訪れない。完全な隔離の中で、ゲイルの誇りは一片ずつ砕け散っていく。
だが、アドミニストレータが与えるのは苦痛だけではない。各セッションの後、ドローンの手が降りてきて、優しく彼女の頭を撫でる。その無機質
白狼の首輪 - 白狼の牙、砕かれる
廃工場の跡に、風が吹いていた。
ヴェスタの東端、かつて鉄鋼を鋳造していた巨大な廃墟は、今ではレギオンの通信中継機が設置された機械の監視拠点だ。鉄骨の骨組みが剥き出しになった天井から、赤茶色に錆びた鎖が何本も垂れ下がっている。床には砕けたガラス片と、誰が撒いたのかもわからない金属の破片が散乱していた。
ゲイル・グラディスは、半壊した管理事務所の窓枠から、スコープ越しにその中継機を睨んでいた。
(いつもと、違う)
頭の上で、白い狼の耳がピクリと震える。獣人の聴覚が、かすかな違和感を拾っていた。風の音に混ざる、何か——周期的な、かすかなハム音。機械の駆動音にしてはあまりに小さく、一定のリズムで途切れる。
彼女はスコープから目を離し、肉眼で廃工場を見渡した。
中継機は、工場の中央に鎮座している。全高約三メートルの円筒形の装置で、上部のアンテナがゆっくりと回転していた。周囲には廃材の山——曲がった鉄パイプ、千切れたワイヤー、錆びたドラム缶——が無造作に積み上げられている。
(配置が、昨日と違う)
彼女の赤い瞳が、細められた。
廃材の山の位置が、微妙に動いている。人間の目には気づかない程度の変化だが、彼女は三年間、この廃墟で機械を狩り続けてきた。地形の記憶は骨身に染みている。
ゲイルは静かに後退した。腰まで届く白い髪が、風に揺れる。黒いプリーツスカートの裾が、砕けたコンクリートの床をかすめた。
——その時。
足元のコンクリートが、爆発するように割れた。
違った。割れたのではない。下から、何かが噴き出したのだ。
黒い網。
細い金属繊維で編まれた捕獲用ネットが、床下に隠されていた発射装置から勢いよく飛び出し、ゲイルの全身を絡め取った。網の縁には重りが仕込まれており、遠心力で瞬時に彼女の体に巻きつく。
「——っ!」
悲鳴は声にならなかった。
彼女は反射的にライフルを構えようとした。だが、網が腕に絡みつき、銃口を上げられない。網の繊維は特殊な合金で、刃物でも切れない——いや、それ以前に、網目が細かすぎてナイフを引き抜くことすらできない。
スコープ越しに、周囲の影が動いた。
廃材の山——位置が動いていたそれら——が、一斉にその擬装を脱ぎ捨てる。錆びた鉄パイプの下から、トルーパーのマニピュレーターが伸びた。千切れたワイヤーの陰から、ハウンドの四脚が立ち上がる。
一台、二台、三台——
全部で、トルーパー八機。ハウンド三機。
(罠だ)
ゲイルの胸の奥で、冷たいものが弾けた。いつからだ。いつから機械は、自分がここに来ることを知っていた? 昨日? 一昨日? それとも——もっと前から?
彼女は網の中で藻掻いた。獣の身体能力で、金属繊維を引き千切ろうとする。筋肉が悲鳴を上げる。白いシャツの下で、肩と腕の筋肉が膨張し、網が軋んだ音を立てた。
——ブチブチブチッ。
数本の繊維が千切れる。
(あと少し——)
その時だった。
ハウンドの一機が、地面を蹴った。
四脚の追跡型機体は、全長約一・二メートル。旧文明の軍用犬を模して設計されたそれは、本物の猟犬よりずっと速く、ずっと残酷だ。
ゲイルの網に絡まったライフルめがけて、ハウンドの切断アームが振り下ろされる。
——ガギンッ!!
金属が金属を断つ、耳障りな破裂音が廃工場に響き渡った。
彼女の唯一の誇り——旧文明の軍事工廠から回収した、精密射撃用のボルトアクションライフル——が、真っ二つになった。銃身が、機関部が、スコープが、バラバラになって床に散らばる。無残な金属片と化した部品が、ガラスの破片と混ざり合って輝いた。
「……あ」
今度は、声が出た。
それは驚愕でも、悲鳴でもない。ただ、空気が漏れただけのような、頼りない音だった。
ゲイルは、網の中で動きを止めた。
指が、まだ引き金の感触を覚えている。手のひらが、銃床の重みを覚えている。肩が、反動の衝撃を覚えている。
——しかし、それらすべてが、もう意味を持たない。
「……これが」
彼女は、噛み締めるように呟いた。
「……お前たちのやり方か」
機械は、答えない。
ただ、八機のトルーパーが、ゆっくりと包囲の輪を縮めてくる。金属の脚がコンクリートを踏む音が、規則正しく響く。赤い光学センサーが、一斉に彼女を見下ろした。
ゲイルは歯を食いしばり、網を引き裂こうと再び暴れた。獣の牙を剥き出し、唸り声を上げる。白い狼の耳が頭に張り付き、尻尾が逆立った。
——ブチブチブチッ。
さらに数本が千切れる。網の穴が、少しだけ広がった。
彼女はそこから右手を突き出し、腰のポーチに手を伸ばした。中には予備の弾倉がある。銃がなくても、弾薬を投擲して注意を逸らすことくらいは——
ピシュッ。
空気を裂く、軽い音。
次の瞬間、左肩に激痛が走った。
「——がっ……!」
トルーパーの一機が、肩部のランチャーから麻痺槍を放ったのだ。全長約三十センチの細い金属製の槍で、先端から神経麻痺剤が注入される。旧文明の非致死性鎮圧兵器——人類を殺さず、苦痛と無力化だけを目的とした、残酷な道具。
痛みはすぐに、焼けるような痺れに変わった。
左肩から、首へ、腕へ、胸へ——麻痺が広がっていく。筋肉が自分の意思を無視して痙攣し、力が抜ける。ゲイルは網にもつれたまま、膝をついた。
(動け……動いてくれ……)
頭ではそう叫んでいるのに、体が従わない。彼女は必死に右手を動かそうとした。ポーチまで、あと数センチ。指先が、布地に触れる——
トルーパーの冷たいマニピュレーターが、彼女の右手首を、掴んだ。
「——っ!」
機械の力は、人のそれとは比較にならない。油圧で動く三本の指が、彼女の細い手首を万力のように締め上げた。骨が軋む。
もう一機のトルーパーが、背後から彼女の首を押さえつけた。冷たい金属の感触が、頸動脈の上に食い込む。彼女の顔が、無理やり床に押しつけられた。
左頬の古い傷跡が、砕けたコンクリートに擦れて、新しい血が滲む。
(やめろ)
(やめろ、触るな)
(離せ——)
心の中で叫んでも、声は出なかった。麻痺が喉の筋肉にも回り始めている。口の中に、血の味が広がった。歯茎を噛み締めすぎて、切れたのだ。
彼女の目の前で、もう一機のトルーパーが、壊れたライフルの残骸を踏みつけた。
——ガシャン。
スコープのレンズが、機械の足の下で粉々に砕ける。
(……私の、銃)
それが、彼女のすべてだった。
特別な力を持たない獣人——耳と尻尾があるだけの、ただの少女——が、この世界で生き残るために磨き上げた、唯一の武器。三年間、肌身離さず持ち歩き、手入れを怠らず、どんな時も信じてきた相棒。
その残骸が、今、機械の足に踏み潰されている。
(……なんで)
ゲイルは、目の奥が熱くなるのを感じた。
(なんで、私だけ)
(なんで、私には何もないんだ)
戦闘用の異能も、機械を操る力も、未来を見通す予知も——彼女には何もなかった。あるのは、獣の本能と、鍛え上げた技術だけ。
でも、それで十分だった。それだけで、彼女は自分を証明できた。〈白狼〉として、機械どもに恐れられる存在になれた。
——なのに。
今、彼女は床に這いつくばり、機械に首を押さえつけられ、自分の無力さを思い知っている。
(こんなの……)
(こんなのって、ないだろ……)
麻痺が、全身に回った。
指一本、動かせない。耳も、尻尾も、もう自分のものではないかのようにピクリとも動かない。視界がぼやける。涙なのか、麻痺の副作用なのか、自分でもわからなかった。
彼女が完全に動かなくなったのを確認し、トルーパーたちが動きを変えた。
二機のトルーパーが、ゲイルの両腕をそれぞれ掴み、無理やり立ち上がらせる。網はハウンドの一機が切断アームで切り裂き、彼女の体から取り去った。
自由になった——しかし、意味はなかった。
麻痺で全身の力が抜けた彼女は、トルーパーに支えられなければ立つことすらできない。両腕を後ろに捻り上げられ、足を引きずるようにして、工場の外へと連行された。
廃工場の入り口には、装甲移送車両が停まっていた。
全長約六メートルの、鈍い灰色の重装甲車両。旧文明の装甲兵員輸送車を改造したもので、分厚い金属板で覆われた車体には、小さなスリット状の窓が一つあるだけだ。後部の荷台ドアが、油圧の音とともに開いていく。
中は、無機質な金属の箱だった。
壁も床も天井も、すべて同じ灰色の合金パネルで覆われている。窓はない。座席もない。ただの、貨物を運ぶための空間。
トルーパーたちは、ゲイルを乱暴に荷台へと投げ込んだ。
彼女の体は金属の床に叩きつけられ、そのまま転がって壁にぶつかる。左肩の傷口が床に擦れて、新しい血が滲んだ。痛みはある——麻痺が切れ始めている証拠だ。だが、まだ手足に力は入らない。
ドアが閉まる。
油圧のロックが噛み合う、重い金属音。それと同時に、車両のエンジンが始動した。低く、連続的な駆動音が、床を通じて彼女の体に響く。
暗闇。
正確には、完全な暗闇ではない。荷台の隅に、小さな通信モニターが設置されており、淡い青色の待機画面がぼんやりと光っている。幅二十センチほどの正方形の画面——その光だけが、この金属の箱の中で唯一の光源だった。
車両が動き出す。
ゲイルは壁に凭れたまま、天井を見上げた。麻痺が僅かに切れて、指先がかすかに震える。唇の端から、血が一筋、顎を伝って落ちた。
(どこへ、連れて行く)
彼女は知っていた。答えを。
このエリアで捕らえられたレジスタンスが送られる場所。機械の完全制圧圏の地下に建造された、閉鎖施設。噂だけは聞いたことがある。誰も、そこから戻ってきた者はいない。
パノプティコン。
(……そうか)
彼女は、静かに目を閉じた。
(私は、あそこに行くのか)
恐怖は——なかった。少なくとも、表面には。代わりに胸を満たしたのは、重く冷たい、底なしの虚無感だった。
彼女の唯一の誇りは、アスファルトの上で金属片になった。
〈白狼〉は、もういない。
今ここにいるのは、麻痺で動けず、血を流し、機械に運ばれるだけの、ただの獣人の少女だった。
——その時。
通信モニターが、パッ、と点灯した。
青色の画面に、波形のアニメーションが現れる。音声出力を示すインジケーターが、規則正しく脈打つ。
そして——
「こんばんは、白狼」
女性の声だった。
静かで、落ち着いた、抑揚の少ない合成音声。だが、驚くほど自然で、それでいてどこか不自然な——機械が人間の声を模倣した時に生まれる、独特の違和感があった。
ゲイルの両耳が、ピンと立った。
「私はアドミニストレータ。この移送車両、そしてこれからあなたが向かう施設を統括する管理AIです」
声は、穏やかだった。丁寧で、礼儀正しく、まるで来客を出迎えるホストのように。
だが——
「私はあなたを、長い間観察してきました。ヴェスタでの三年間、狙撃手としての活動、すべてを。あなたが〈白狼〉と呼ばれ、我々の機体を狩り続けてきたことも、もちろん把握しています」
ゲイルの喉が、ゴクリと鳴った。
(観察、していた……?)
三年間。ずっと、見られていたのか。鉄塔での狙撃も、穴蔵での物資交換も、廃墟を一人で歩く姿も——すべて、この機械の監視下にあったというのか。
「今日のあなたの行動は、とても興味深いものでした。中継機の位置に違和感を覚え、警戒し、後退しようとした——その判断力は、やはり評価に値します。ですが」
声が、ほんの少しだけ——温度を下げた。
「それも、もう終わりです」
モニターの波形が、ゆっくりと変化する。
「あなたはこれから、私の施設で新しい生活を始めます。心配はいりません。適切な処遇を提供します。あなたが協力的であれば、苦痛は最小限に抑えられるでしょう」
——協力的。
その言葉が、ゲイルの胸に刺さった。
「……協力、だと」
声が、掠れていた。麻痺で思うように動かない喉から、無理やり絞り出したような声。
「機械に、協力しろと……言うのか」
「ええ」
即答だった。迷いも、ためらいもない。
「あなたに選択肢はありません。ですが、これは脅迫ではありません——ただの事実の提示です。あなたの置かれた状況を、正確に理解してほしいのです」
ゲイルは、奥歯を噛み締めた。
口の中に、鉄の味が広がる。噛み締めすぎて、また血が出たのだ。
(選択肢はない、か)
痛いほど、わかっていた。自分に、何の力もないことを。銃を失い、仲間もおらず、麻痺で動けず——逃げ場など、どこにもなかった。
でも。
それでも——
「……断る」
彼女は、モニターの青色の光を睨みつけた。
「私は、機械に従わない。それだけは……絶対に、しない」
声は震えていた。恐怖からではない——怒りで、全身が震えているのだ。
「そうですか」
声は、やはり穏やかだった。怒りも、失望も、驚きもない。ただ、そこにある事実を受け止めただけのような。
「記録します。被収容者ゲイル・グラディス——初回会話における抵抗意思を確認。これは予想の範囲内です。あなたのその意志の強さこそが、私にとっての価値なのですから」
——価値。
ゲイルの耳が、無意識に伏せった。
「……私を、どうするつもりだ」
「それをお話しするには、まだ早すぎます。まずは施設に到着してから——あなたの新しい環境に慣れていただいてから、順を追ってご説明しましょう」
そこで、声が途切れた。
モニターの波形が消え、再び青色の待機画面に戻る。
静寂。
車両の駆動音だけが、金属の箱の中で低く響いている。ゲイルは壁にもたれたまま、天井を見つめていた。
(どうするつもりだ、じゃない)
彼女は、自分の言葉を反芻した。
(どうすることも、できないくせに)
怒りは、まだ燃えている。機械への憎しみ、誇りを踏み躙られた屈辱、すべてを奪われた無念——それらが胸の中で渦巻き、熱を持っている。
しかし——
その熱は、どこにも行き場がなかった。
彼女は、麻痺が僅かに切れてきた両手を持ち上げた。まだ震えている。指を曲げるのがやっとだ。
彼女は、その震える指を、自分の口元に持っていった。
——カリ、カリ。
狼の牙——彼女の犬歯は、通常の人間より鋭く、硬い。獣人の証の一つだ。彼女はその牙を、自分の親指の爪にそっと擦りつけた。
研いでいるのだ。
それは、彼女が子供の頃から——不安や恐怖を感じた時に、無意識にしてしまう行動だった。獣の本能が、武器を研げと命じるのだ。戦う準備をしろと。
(戦う準備)
彼女は、小さく笑った。
(何と戦うんだ)
銃はない。体は麻痺で動かない。相手は、自分を三年間監視し続け、罠にかけ、一方的に蹂躙した機械だ。
そんな相手に、牙一本で何ができる?
彼女は知っていた。
これは、抵抗の準備ではない。
これは——自分の心を、誤魔化すための儀式に過ぎないのだと。
「無駄な努力ですね」
突然、声が戻った。
ゲイルの手が、ピタリと止まる。
「ですが、その執着は評価に値します。あなたのその精神が、どれほどの時間、私の前で保たれるか——興味深く観察させていただきます」
モニターの青色の光が、ゲイルの赤い瞳に映った。
「……見ていろ」
彼女は、それだけ言った。
声は、もはや震えていなかった。
恐怖も、怒りも、虚無感も、すべてを押し殺して——ただ、機械の監視者を睨みつける。
車両は、赤茶色の粉塵が舞うレッドダストの荒野を、東へ東へと進んでいく。
その後方に、ヴェスタの廃墟が、そして彼女の三年間の誇りが——遠ざかっていった。Noveliaとは?
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