それぞれの「帰る場所」
剣と魔法の世界。冒険者ギルドが管理する無数のダンジョンを抱える商業都市アヴェル。鋼の双剣を振るう細身の青年ジルと、弓と付与魔法を操る少女フィナは、利益の分配をめぐる終わりのない口論の末、渋々コンビを組まされていた。素直になれない二人はいつも言い争いながらも、地下では完璧に息を合わせて戦う。フィナはジルに一目惚れしていたが、実家の大家族への義理を盾にその想いを隠していた。ジルは自分は価値がないと信じ込み、己の感情を抑えつけていた。周囲の誰もが真実に気づいている——二人自身を除いて。
母が倒れたという手紙を受け取ったフィナは、金を稼ぐため密かに危険な高難度クエストを受ける。ジルは彼女の様子がおかしいことに気づき、深層ダンジョンへと後を追う。そこで二人は予想外の強敵に直面する。フィナを守るため、ジルは無謀な双剣流を解き放ち、フィナは必死に付与魔法で彼を支える。危機を乗り越えたジルは、フィナを失うことの方が自分の弱さを認めるより辛いと悟り、フィナもようやく素直な気持ちを受け入れる。
街に戻ると、お節介な不動産仲介人バルドに出会う。傷だらけの二人を若いカップルと勘違いした彼は、上機嫌でアパー
それぞれの「帰る場所」 - 届いた手紙と半分の甘いパン
螺旋迷宮の一階層は、今日も変わらず薄暗く、ひんやりと湿っていた。壁に生えた淡い光を放つ苔が、かろうじて足元を照らしている。ジルは腰の左右に差した鋼鉄の剣を軽く抜き、目の前のスライムの群れを一瞥した。
「フィナ、右から行く。左は任せた」
「分かってるわよ。あんたこそ、また無茶しないで」
フィナは背中に負ったエルフ製の複合弓を手に取り、矢をつがえた。朱が入った金髪を今日はポニーテールに結び、緑がかった灰色の瞳が暗がりの中で鋭く光る。小柄な体に軽装の革鎧を着け、その立ち姿はすでに一人前の冒険者のそれだった。
ジルが地面を蹴った。
両手の剣が風を裂く。半透明の体を持つスライムが、まるで水風船のように次々と弾け飛んだ。ドロリ、と粘液が石畳に飛び散る。ジルは止まらない。二本の剣を交差させ、左右から迫るスライムを同時に斬り裂いた。細身の体からは想像もつかない膂力。鋼鉄の剣が二本、まるで羽のように軽々と舞う。
「だから!もっと無駄のない動きできないの!?」
フィナの声が洞窟に響く。彼女の弓から放たれた矢が、ジルの背後に迫っていたスライムを正確に貫いた。
「……ごめん。助かった」
「別に、あんたを助けたんじゃないわ。たまたまそこに敵がいただけ」
フィナはそう言いながら、次の矢をつがえる。彼女の言い分はいつも通りだが、ジルには分かっていた。彼女が後ろを守ってくれているから、自分は思い切り前で戦える。それだけで十分だった。
二人が螺旋迷宮でコンビを組むようになって、まだ半月も経っていない。きっかけは本当に、ただの成り行きだった。ギルドの掲示板の前で、たまたま同じ依頼に手を伸ばした。分け前の話でもめて、気づいたら一緒に潜っていた。それだけの関係のはずだった。
だが、今ではこうして背中を預け合っている。
「フィナ、天井」
ジルの声に、フィナが即座に上を見た。洞窟の天井にびっしりと張り付いていたのは、ロックバットの群れだ。岩と見分けがつかない灰色の体。だが、その赤い目が一斉に光った。
キィィィィッ!!
耳をつんざく超音波の悲鳴。ロックバットが一斉に飛び立った。数十匹はいる。
「っ……!多すぎるわ!」
「俺が引きつける。お前は下がって」
「またそれ!?あんた一人でどうにかできると思ってるの!?」
フィナの怒声に、ジルは一瞬たじろいだ。だが、ロックバットの群れはもう目前まで迫っている。
「大丈夫。俺なんかでも、これくらいなら」
「だから、『俺なんか』って言うなって言ってるでしょ!!」
フィナは怒鳴りながら、腰の布袋から魔石の粉末を取り出した。きらきらと光る細かい粉。エンチャントの触媒だ。彼女はそれをジルの剣に向かって振り撒きながら、鋭く呪文を紡いだ。
「――雷よ。この剣に宿れ」
瞬間、ジルの二本の剣が青白い光に包まれた。バチバチと火花が散る。雷のエンチャント。フィナの最も得意とする付与魔法だ。
「行けるか、ジル!」
「……お前、今、俺の名前」
「そんなこと今どうでもいいでしょ!前見なさいよ!」
ジルは慌てて前を向いた。ロックバットの群れが、牙をむき出しにして迫ってくる。
(そうだ、今は戦うしかない)
ジルは二本の剣を構え直した。雷を纏った刃が、暗い洞窟を青白く照らす。
「行くぞ」
ジルは群れの中に飛び込んだ。
一閃。二閃。三閃。
雷を帯びた剣が、ロックバットを次々と斬り裂いていく。斬られた瞬間、小さな爆発が起き、羽根と血が飛び散った。ギャアアアッ!という断末魔が洞窟に木霊する。ジルの体は止まらない。右の剣で一体を切り伏せ、左の剣で背後から迫る二体を同時に薙ぐ。
「すごい……」
フィナは思わずつぶやいた。だが、すぐに首を振る。
(何感心してるのよ、あたし。あいつの無茶な戦い方は相変わらずなんだから)
フィナは弓を引き絞り、ジルの死角から迫るロックバットを次々と射抜いた。彼女の矢は一本たりとも外れない。エルフ製の弓がしなる音が、戦闘の喧騒の中でもはっきりと聞こえた。
数分後、最後の一匹が地面に落ちた。
ジルは剣を鞘に収め、大きく息を吐いた。肩で息をしている。二刀流はやはり体力の消耗が激しい。
「……ありがとう、フィナ。お前のエンチャントがなかったら、今ごろ蝙蝠の餌だった」
「別に。あんたが死んだら、分け前が減るからやっただけよ」
フィナはぷいっと横を向いた。だが、その耳の先がほんのり赤い。
(また照れてる)
ジルは心の中で苦笑した。彼女のこういうところは、最初から変わらない。
二人は落ちているロックバットの魔石を拾い集めた。小品質の魔石が十数個。鉄級の二人にとっては、悪くない収穫だ。
「今日はこのくらいで上がろう。そろそろ日も暮れる」
「そうね。あんた、もう息上がってるし」
「……面目ない」
「だから、謝ることないって言ってるでしょ!あんたはすぐ謝る!」
フィナは口を尖らせて、先に立って歩き出した。ジルはその後ろを、半歩遅れて歩く。それがいつの間にか、二人の定位置になっていた。
螺旋迷宮の入り口は、アーヴェル中央区の冒険者広場の地下にある。石造りの階段を上り、地上に出ると、夕暮れの光が目に染みた。市場の喧騒、馬車の車輪の音、どこかから漂うパンの焼ける匂い。ダンジョンの中とは別世界だ。
「先にギルドに寄って、魔石を換金しよう」
「そうね。あんた、また安く買い叩かれないように、ちゃんと計算しなさいよ」
「……俺、計算は得意じゃないんだ。フィナがやってくれないか」
「え……あ、そう。仕方ないわね」
フィナは一瞬きょとんとして、それから照れ隠しのように早足になった。ジルはそんな彼女の後ろ姿を見ながら、小さく笑った。
鉄路の手の本部は、中央区の石造三階建ての建物だ。一階の受付ホールに入ると、汗と革と安酒の匂いがむせ返るように迎えてくれる。夕方のこの時間は、依頼を終えた冒険者たちでごった返していた。
「あら、おかえりなさい。二人とも、今日は早いのね」
受付カウンターの向こうから、栗色の髪をお団子にまとめた女性が笑顔で声をかけてきた。ミレーヌ。鉄路の手の受付嬢で、ジルとフィナの担当だ。琥珀色の瞳が、悪戯っぽく二人を見比べる。
「……早くはないです。普通です」
「ふふっ、そう?まあいいわ。魔石の換金ね。ちょっと待ってて」
ミレーヌは手際よく魔石を査定し、銀貨を数えてカウンターに並べた。
「はい、ロックバットの魔石十四個で、銀貨七十枚。手数料を引いて、二人で銀貨五十九枚と銅貨五枚ね」
「え、もう手数料引いたの?」
「当たり前よ。ギルドは慈善事業じゃないんだから」
フィナは銀貨を数えながら、小さくため息をついた。
「……あたし、今日は少し多めに貰うから」
「ああ、構わない。お前のエンチャントがなかったら、そもそも全滅してた」
「だから、そういうことじゃなくて……もういいわ」
フィナは銀貨を袋にしまいながら、何かを言いかけてやめた。ジルは首をかしげる。
「フィナちゃん、ちょっとこっちに来てくれる?」
ミレーヌがカウンター越しに手招きした。フィナが近づくと、彼女は一枚の封筒を差し出した。
「あなた宛ての手紙が届いてるわ。ノーラ村からよ」
フィナの手が、ぴたりと止まった。
「……ノーラ村から?」
「ええ。馬車便で今朝届いたの。差出人は……ええと、フィナちゃんのお母さんね」
フィナの顔から、さっと血の気が引いた。彼女は無言で封筒を受け取ると、震える指で封を切った。
中の便箋を取り出す。ざらざらした安い紙に、たどたどしい文字が並んでいた。
フィナはそれを読んだ。
一文字、一文字、目で追うたびに、彼女の表情がこわばっていく。緑がかった灰色の瞳が、大きく見開かれた。
「……お母さん」
手紙には、こう書かれていた。
――フィナへ。体の具合が、また悪くなってしまいました。薬代が足りません。あなたは長女なのだから、役目を果たしてください。弟たちのことも、お願いします。
たったそれだけだった。
フィナの故郷、ノーラ村。アーヴェルから南西へ約40キロ、馬車で半日ほどの小さな農村だ。人口は300人ほど。肥沃とは言えない土地で、村人たちは細々と麦や芋を育てて暮らしている。フィナの家族は、父と母、そして弟妹が五人。七人家族の長女として、彼女は物心ついた頃から家の仕事を手伝ってきた。
母が倒れたのは、一年ほど前のことだ。
過酷な農作業と貧しい食事で体を壊し、それ以来、床に伏せることが多くなった。薬を買うお金も、医者に診せるお金もない。だから、フィナは冒険者になった。少しでも稼いで、家族に送るために。
「フィナちゃん?大丈夫?」
ミレーヌの心配そうな声に、フィナはハッと顔を上げた。
「あ、うん、大丈夫!ちょっとびっくりしただけ。ありがとう、ミレーヌさん」
フィナは無理に笑顔を作った。だが、その笑顔は明らかにぎこちない。手紙を持つ手が、小さく震えている。
「……そう。何かあったら、いつでも相談してね」
ミレーヌはそれ以上、何も聞かなかった。ただ、その琥珀色の瞳が、痛ましそうにフィナを見つめていた。
「じゃあ、あたし、先に宿に戻るわ」
フィナはそう言うと、手紙を胸元に押し込み、足早にギルドを出ていった。
ジルはその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。
「ジルくん」
「……はい」
「フィナちゃんのこと、お願いね」
ミレーヌは静かに言った。その顔は、いつものからかうような笑顔ではなく、真剣そのものだった。
「……俺なんかが、彼女の力になれるとは思えませんが」
「あら、またそれ?あなた、自分のこと過小評価しすぎよ」
「……事実です」
「ふふっ。まあいいわ。でもね、ジルくん。あなたが思ってるより、あなたは誰かの力になれてるわよ」
ミレーヌはそう言って、カウンターの上の書類を整え始めた。ジルは彼女の言葉の意味を測りかねて、小さく首をかしげた。
宿屋「銀の匙」は、中央区の路地を入ったところにある。冒険者御用達の安宿で、一泊銅貨十枚。雑魚寝部屋ならもっと安い。ジルとフィナはそれぞれ個室を借りていた。
フィナは部屋に戻ると、扉に鍵をかけ、ベッドに腰を下ろした。
手紙をもう一度、開く。
母の文字は、以前よりずっと乱れていた。手が震えていたのだろう。それだけで、母の病状が悪化していることが分かる。
「……長女としての、役目」
フィナは手紙を握りしめた。
ノーラ村にいた頃、フィナはいつも「お姉ちゃん」だった。弟妹の世話、家の手伝い、畑仕事。学校にもろくに行けなかった。それでも、家族の笑顔があれば我慢できた。
でも、今は。
(あたし、冒険者になれて、本当は嬉しい。ジルと一緒に潜れて、嬉しい)
フィナは唇を噛んだ。
(なのに、お母さんは苦しんでる。弟たちは、ご飯を食べられてるのかな。冬の薪は。薬は)
頭の中で、計算が始まる。今日の収入は銀貨三十枚弱。宿代と食費を引いて、いくら残る?薬代は?弟妹の服は?
(足りない。全然足りない)
フィナはうつむいた。
(あたし、何やってるんだろう。家族が苦しんでるのに、あたしだけ、楽しい思いして)
自分を責める言葉が、次から次へと浮かんでくる。胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられた。
「……お母さん、ごめん。あたし、まだ何もできてない」
声に出した途端、涙がこぼれた。
熱い雫が、手紙の上に落ちる。にじむ墨。母の文字が、涙でぼやけていく。
フィナは声を押し殺して泣いた。宿の壁は薄い。隣の部屋に聞こえないように、布団に顔を押し付けて。
(泣いちゃダメ。泣いてる場合じゃない。あたしがしっかりしなきゃ)
そう思えば思うほど、涙は止まらなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「……誰?」
「俺だ。ジル」
フィナは慌てて目を拭った。鏡を見る余裕はない。でも、泣いた顔は絶対にバレる。
「な、何の用よ。今、忙しいんだけど」
「……腹、減ったろ。これ、食べないか」
フィナは迷った。今の顔を見られたくない。でも、ジルの声はいつも通りで、どこか優しかった。
彼女はゆっくりと扉を開けた。
ジルが立っていた。手には、紙に包まれたパンが二つ。
「……それ、小麦の丘の?」
「ああ。甘いパン。お前、これ好きだろ」
フィナの胸が、きゅっと鳴った。
(なんで、あんたがそんなこと覚えてるのよ)
「……別に、好きとかじゃないし。たまたま、あの店のパンが口に合うだけ」
「そうか。じゃあ、半分こしよう。俺、あんまり甘いの得意じゃないから」
ジルはパンを一つ取り出すと、手で二つに割った。大きさが微妙に違う。彼は大きい方の半分を、フィナに差し出した。
「はい」
「……なんで、あんたが小さい方なのよ」
「俺、あんまりお腹減ってないから。それに、お前のほうが今日、いっぱい動いただろ」
フィナは、じわりと目頭が熱くなるのを感じた。
(やめてよ。今、優しくしないで。泣いちゃうから)
彼女は下を向いたまま、パンを受け取った。
「……ありがと」
「どういたしまして。……なあ、フィナ」
「な、何よ」
「目、赤いぞ。何かあったのか」
フィナはギクッとした。
「な、何もないわよ!ちょっと、目にゴミが入っただけ!」
「……そうか。ならいいんだ。でも、何かあったら言えよ。俺なんかじゃ、役に立てないかもしれないけど」
「だから、『俺なんか』って言うなって言ってるでしょ!あんたはいつも、そうやって自分のこと下げて!」
フィナの声が、思わず大きくなる。ジルは少し驚いたように目を丸くした。
「……ごめん」
「謝るな!」
「え……」
「あんたは、あんたが思ってるより、ずっと……ずっと、すごいんだから」
フィナの声が、最後は涙で震えた。
(ああ、もう。何言ってるの、あたし)
彼女は顔を真っ赤にして、パンを抱えたまま、ジルに背を向けた。
「……食堂で食べるわ。あんたも来なさいよ。一人で食べると味気ないから」
「……ああ」
二人は宿の一階にある小さな食堂に移動した。夕食時で、宿泊客の冒険者たちが何人か、スープやパンを食べている。二人は隅のテーブルに座った。
フィナは甘いパンを一口かじった。
しっとりとした生地。優しい甘さが、口いっぱいに広がる。
(おいしい)
小麦の丘の甘いパンは、アーヴェルで一番人気の看板商品だ。一個銅貨五枚。朝は行列ができる。このパンを食べると、少しだけ、嫌なことを忘れられる。
「……おいしいか」
「まあ、普通よ。別に、特別おいしいわけじゃないし」
「そうか。でも、お前が食べてる時の顔、すごく幸せそうだぞ」
「なっ……!?」
フィナは慌てて自分の顔を触った。耳まで熱い。
「べ、別に!あんたこそ、にやにやしないでよ!」
「俺、にやにやしてたか?」
「してたわよ!気持ち悪いくらい!」
「……それは悪かった」
ジルは少ししょんぼりしたように、自分のパンをかじった。フィナはその姿を見て、胸の奥がチクリと痛んだ。
(ああ、もう。あたし、なんで素直になれないんだろう)
フィナはパンをちぎりながら、ぽつりと話し始めた。
「……あたしの家、ノーラ村にあるの。知ってるでしょ」
「ああ。前に言ってたな。家族が多いって」
「うん。父さんと、母さんと、弟が三人と、妹が二人。あたしを入れて七人」
「大家族だな」
「村はね、すごく貧しいの。土地がやせてて、麦があんまり育たない。みんな、毎日ぎりぎりで生きてる」
フィナはパンをちぎりながら、続けた。
「母さんは、一年くらい前に倒れたの。畑仕事で無理しすぎて。それから、ずっと寝たり起きたり。薬を飲めば少し良くなるんだけど、薬が高いの」
「……だから、お前は冒険者になったのか」
「うん。あたしが一番年上だから。弟たちはまだ小さいし、妹はもっと小さい。あたしが稼ぐしかなかったの」
フィナの声は、泣いているようで、でもどこか強かった。
「でも、本当は……あたし、冒険者になって、良かったと思ってる」
「……え」
「だって、冒険者にならなかったら、あんたと……コンビを組むこともなかったから」
フィナはそこまで言って、ハッとした。
「ち、違う!そういう意味じゃなくて!あんたと組むと、分け前がいいから!それだけだから!」
「……分かってる」
「本当に分かってる!?分かってないでしょ!あんた、そういうとこあるわよ!」
フィナは真っ赤になって、パンを口に押し込んだ。ジルはそんな彼女を見ながら、小さく笑った。
「……なあ、フィナ。お前のその弓、すごくいい弓だよな」
ジルが話題を変えた。フィナは一瞬きょとんとして、背中に負った弓に手を触れた。
「ああ……これ。エルフ製の複合弓なの。射程が150メートルもあって、普通の弓よりずっと遠くまで飛ぶのよ」
「エルフ製?すごいな。どこで手に入れたんだ」
「……おじいちゃんの形見なの」
フィナの声が、少しだけ柔らかくなった。
「おじいちゃんは、若い頃にラクリマ森林まで行って、エルフと交易してたの。それで、この弓を譲ってもらったんだって。すごく貴重なものなんだから、家宝にしなさいって」
「ラクリマ森林って、アーヴェルから東に80キロの」
「うん。あたしも行ったことないけど。おじいちゃんは、よくその話をしてくれた。エルフの集落シルヴァのこととか、森の奥の光る湖のこととか」
フィナは遠くを見るような目をした。
「母さんが倒れた時、この弓を売ろうって話になったの。お金が必要だったから。でも、あたしが反対した。おじいちゃんの形見を手放すなんて、絶対に嫌だって」
「……それで、お前が冒険者になって、弓を使う道を選んだのか」
「うん。この弓を守るために、あたしは強くなるって決めたの」
フィナは弓をぎゅっと握りしめた。
「……あたしの左耳の後ろ、傷跡があるの。知ってる?」
「ああ。前から気になってた。どうしたんだ」
「小さい頃、弟を庇って、山で魔物に襲われたの。逃げる時に、木の枝で耳を切っちゃって。弟は無事だったけど、あたしはこの傷」
フィナは左耳の後ろに手をやった。小さな白い傷跡。彼女のトレードマークのようなものだ。
「この傷があるから、あたしは忘れないの。あたしが守らなきゃいけないものがあるって」
ジルは黙って聞いていた。
(こいつは、ずっと一人で抱えてきたんだな)
ジルの胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
(家族のために、故郷のために、自分の夢も我慢して。それでも、こんなに強くて、優しくて)
「……すごいな、お前は」
ジルの言葉に、フィナは顔を上げた。
「……え」
「俺には、そんな風に守りたいものも、守るための強さもない。だから、お前はすごいと思う」
「な、なによ、急に!気持ち悪い!」
フィナは顔を真っ赤にして、ジルから目を逸らした。
「……あんたに褒められても、何も嬉しくないし」
「そうか。ごめん」
「だから、謝るなって言ってるでしょ!」
フィナは立ち上がった。
「……あたし、部屋に戻るわ。パン、ごちそうさま」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
フィナは足早に食堂を出ていった。ジルは一人、残されたパンの最後の一口を口に入れた。
(何か、言ってやるべきだったんだろうか)
ジルは自分の手を見た。剣ダコだらけの、男の手。
(俺なんかが、何を言っても。彼女の重荷を軽くできるわけじゃない)
それでも、彼女の話を聞けて良かったと思った。
(フィナは、強い。俺なんかより、ずっと)
ジルはテーブルの上の包み紙を片付けながら、そう思った。
翌朝。
フィナは宿の部屋で、鏡の前に立っていた。
目が少し腫れている。昨夜、部屋に戻ってから、また少し泣いてしまった。
「……情けない顔」
彼女は冷たい水で顔を洗い、ポニーテールを結い直した。
(今日も、頑張らなきゃ)
フィナは背筋を伸ばした。
宿を出ると、朝のアーヴェルの街が広がっていた。石畳の通りを、荷馬車や行商人が行き交う。空は青く、雲一つない。
鉄路の手の本部に着くと、すでに多くの冒険者たちが集まっていた。
「おはよう、フィナちゃん。今日も元気そうね」
「おはようございます、ミレーヌさん。昨日はありがとうございました」
「いいのよ。それより、大丈夫?昨日の手紙」
「はい、大丈夫です。ご心配おかけしました」
フィナは笑顔で答えた。ミレーヌは少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
フィナは二階の依頼掲示板へ向かった。
今日も、たくさんの依頼票が貼られている。スライム討伐、ロックバットの魔石回収、薬草採取。どれも鉄級向けの、小さな依頼ばかり。
(これじゃ、全然足りない)
フィナは唇を噛んだ。母の薬代、弟妹の生活費。鉄級の依頼をこなすだけでは、焼け石に水だ。
彼女の目が、掲示板の隅に貼られた一枚の依頼票に吸い寄せられた。
「銅級依頼:螺旋迷宮十階層での魔石核回収。報酬:金貨二十枚」
フィナは息を呑んだ。
金貨二十枚。
鉄級の月収が銀貨十五枚。金貨二十枚は、その十倍以上に相当する。母の薬代も、弟妹の冬服も、全部まかなえる。
(でも、十階層……)
螺旋迷宮の十階層は、銅級冒険者の領域だ。鉄級の二人が行くには、明らかに危険すぎる。
「……フィナ」
後ろから声がした。ジルだ。
「……ジル。おはよう」
「おはよう。どうした、そんな難しい顔して」
「……別に。ちょっと、依頼を見てただけ」
フィナは慌てて、掲示板の前から離れようとした。だが、ジルは彼女の視線の先に気づいた。
「……十階層の魔石核回収か。報酬、金貨二十枚」
「見ないでよ!あんたには関係ないでしょ!」
「……お前、これを受けたいのか」
ジルの声は静かだった。フィナはうつむいた。
「……あたし、お金が必要なの。もっと、たくさん」
「家族のためか」
「……うん。母さんの薬代が、足りない。弟たちにも、ちゃんと食べさせてあげたい。でも、鉄級の依頼だけじゃ、全然足りなくて」
フィナの声が震える。
「だから、あたし、この依頼を受けたい。無茶だって分かってる。危ないって分かってる。でも、やらなきゃ。あたしがやらなきゃ」
ジルは黙って、フィナの横顔を見た。
(こいつは、本気だ)
「……分かった。俺も行く」
「……え?」
「一人で行かせるわけにはいかないだろ。俺が無茶すれば、何とかなる」
「何言ってるの!?十階層よ!あんた、自分の実力分かってるの!?」
「分かってる。でも、お前一人を行かせるよりはマシだ」
「……なんで、あんたがそこまでするのよ」
フィナの目に、涙が浮かんだ。
「……分かんない。でも、お前が死ぬのは、嫌だ」
ジルの言葉に、フィナの胸が、どくん、と大きく跳ねた。
(あんた、そういうこと、平気で言うの?)
フィナは真っ赤になって、ジルの胸を押した。
「ば、ばか!勝手に死ぬとか言わないでよ!あんたが死んだら、あたしが……あたしが、困るんだから!」
「……ごめん」
「謝るな!」
二人のやりとりに、周囲の冒険者たちがちらちらと視線を向ける。
「またやってるよ」
「朝から元気だな」
「ていうか、あれ、もう付き合ってるんじゃないのか」
そんな声が聞こえてくるが、二人の耳には入っていない。
「……とにかく、受けるなら受付に行こう。ミレーヌさんに話をしないと」
「……あんた、本当にいいの?後悔しても知らないわよ」
「後悔はしない。お前と一緒なら、多分」
フィナは、また顔を赤くした。
「……ばか」
二人は一階の受付カウンターへ向かった。
「……え?二人で十階層の依頼を受けるの?」
ミレーヌは目を丸くした。
「はい。お願いします」
「俺が無茶すれば、何とかなります」
「ちょっと、ジル、そういう言い方は」
「……お二人とも、本気なの?」
ミレーヌの声が、低くなった。彼女の琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びる。
「十階層は銅級向けよ。あなたたちはまだ鉄級。グランドールが出る可能性だってある。死ぬかもしれないのよ」
「分かってます。それでも、あたしは行きます」
フィナはまっすぐにミレーヌを見た。
「家族に、お金を送らなきゃいけないんです。母が病気で、弟たちも小さくて。あたしがやるしかないんです」
ミレーヌはしばらくフィナを見つめていた。
「……そう。あなたの事情は、何となく分かってるわ」
「……え」
「受付嬢はね、冒険者の噂話が自然と耳に入るのよ。あなたが故郷に仕送りしてることも、知ってるわ」
フィナは驚いて、何も言えなかった。
「でも、だからこそ言うわ。あなたが死んだら、家族はもっと困るのよ。分かってる?」
「……分かってます。でも、やらなきゃ。あたしがやらなきゃ、何も変わらない」
フィナの声は、震えながらも力強かった。
ミレーヌは深くため息をついた。
「……分かったわ。依頼票を受理します。ただし、条件があるわ」
「条件?」
「ええ。無理だと思ったら、必ず撤退すること。命を最優先にすること。これは約束よ」
「……約束します」
「俺も約束します」
ミレーヌは二人の顔をじっと見てから、依頼票に署名をした。
「……二人とも、どうか無事で。これは受付嬢としてじゃなくて、私の個人的なお願いよ」
「……ありがとうございます、ミレーヌさん」
フィナは深く頭を下げた。
受付の周りにいた冒険者たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
「おい、あの二人、十階層の依頼を受けたらしいぞ」
「鉄級だろ?正気かよ」
「十階層って、グランドールが出るところだろ。死ぬぞ」
そんな声が聞こえてくる。フィナは拳を握りしめた。
(負けない。絶対に、負けない)
ジルは、そんなフィナの横顔を見ていた。
(俺が守る。何があっても、この子だけは)
二人はギルドを出た。
外は、朝の光に満ちていた。市場の喧騒、行き交う人々。何の変哲もない、アーヴェルの朝。
だが、二人の心は、これまでにない緊張感で張り詰めていた。
「……フィナ」
「何よ」
「無理はするな。お前が死んだら、意味がない」
「それ、あんたに言われたくないわよ。あんたこそ、無茶しないでよ」
「……努力する」
「努力するじゃなくて、約束しなさいよ!」
「……約束する。俺は、お前を死なせない」
ジルの言葉に、フィナは一瞬、言葉を失った。
(あんたは、そうやって、あたしの心をかき乱す)
フィナはうつむいた。耳の先が、じわじわと熱くなっていく。
「……あたしも、約束する。あんたを、死なせない」
小さな声だった。でも、確かな声だった。
二人は並んで歩き出した。
螺旋迷宮の入り口へ。
十階層へ。
危険な挑戦への、第一歩を踏み出すために。
その足取りは、まだ少し震えていた。でも、二人でなら、きっと大丈夫。
そう信じたかった。Noveliaとは?
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