それぞれの「帰る場所」
剣と魔法の世界。冒険者ギルドが管理する無数のダンジョンを抱える商業都市アヴェル。鋼の双剣を振るう細身の青年ジルと、弓と付与魔法を操る少女フィナは、利益の分配をめぐる終わりのない口論の末、渋々コンビを組まされていた。素直になれない二人はいつも言い争いながらも、地下では完璧に息を合わせて戦う。フィナはジルに一目惚れしていたが、実家の大家族への義理を盾にその想いを隠していた。ジルは自分は価値がないと信じ込み、己の感情を抑えつけていた。周囲の誰もが真実に気づいている——二人自身を除いて。
母が倒れたという手紙を受け取ったフィナは、金を稼ぐため密かに危険な高難度クエストを受ける。ジルは彼女の様子がおかしいことに気づき、深層ダンジョンへと後を追う。そこで二人は予想外の強敵に直面する。フィナを守るため、ジルは無謀な双剣流を解き放ち、フィナは必死に付与魔法で彼を支える。危機を乗り越えたジルは、フィナを失うことの方が自分の弱さを認めるより辛いと悟り、フィナもようやく素直な気持ちを受け入れる。
街に戻ると、お節介な不動産仲介人バルドに出会う。傷だらけの二人を若いカップルと勘違いした彼は、上機嫌でアパー
それぞれの「帰る場所」 - 螺旋の底に潜む影 ~折れた剣と涙のエンチャント~
雨の日以来、ジルとフィナの間には、薄い氷のような空気がずっと流れていた。
二人は朝、鉄路の手の本部前で落ち合っても、目を合わせようとしなかった。フィナはジルより三歩先を歩き、ジルはその後ろを、黙ってついていく。それでも、どちらかが欠けることはなかった。二人で受ける依頼は、相変わらず二人で受けていた。
アーヴェルの街は、初夏の陽気に包まれ始めていた。中央区の石畳には、朝市の荷車が行き交い、果物の甘い匂いが風に乗って流れてくる。市場の呼び声、馬の蹄の音、どこかの職人が金槌を打つ音。街は今日も、活気に満ちていた。
だが、ジルとフィナの周りだけ、空気が重い。
二人が鉄路の手の本部へ入ると、一階の酒場兼待合所には、すでに十人ほどの冒険者たちが屯していた。朝からエールを煽る者、依頼書を睨む者、床に座って剣を磨く者。壁際の掲示板の前には、人だかりができている。
「おい、見ろよ。銅級の新着だ」
「十階層の魔石核回収か。報酬、金貨二十枚だってよ」
「二十枚!?そりゃあデカいが、十階層って……グランドールの縄張りだろ」
「銀級でも苦戦するってのに、銅級で出すのかよ」
冒険者たちのざわめきが、酒場に広がった。
ジルは足を止め、掲示板を見た。フィナも、同じように足を止めている。
掲示板には、新しい依頼書が一枚、他の依頼よりも目立つ位置に貼られていた。赤い印が押された、銅級の依頼票だ。
『螺旋迷宮 第十階層 魔石核回収 報酬:金貨二十枚』
ジルの隣で、フィナが息を呑む気配がした。
(金貨二十枚)
ジルは頭の中で計算した。金貨一枚が銀貨十枚。つまり銀貨二百枚。二人で分けても、一人金貨十枚。鉄級の依頼を十日分こなして、ようやく届くかどうかの額だ。
だが、それだけの額が提示される理由も、ジルには分かっていた。十階層。銅級冒険者が踏み込むには、あまりにも深すぎる。六階層から十五階層は、本来なら銅級向けとされている。だが、十階層より先には、銀級でも命を落とす魔物が徘徊している。
特に、グランドール。
全長四メートル、六本の腕を持つ蟹型の人型魔物。鋼鉄の剣を弾く甲殻。岩をも砕く水圧砲。縄張りに入った者を、死ぬまで追いかける執念深さ。
ジルは、掲示板の前で立ち尽くすフィナの横顔を見た。
朱が入った金髪は、今日もポニーテールに結われている。緑がかった灰色の瞳が、依頼書をじっと見つめていた。その横顔には、迷いがあった。だが、それ以上に、何かを決意したような強さがあった。
(フィナ)
ジルは、彼女の故郷のことを思い出していた。ノーラ村。南西へ四十キロほどの、小さな農村。彼女の母が倒れたと、手紙が来ていた。弟妹は五人。長女であるフィナが、仕送りをしなければ、家族は食べていけない。
彼女がこの依頼に目を留めた理由は、ジルには痛いほど分かった。
「……受けるのか」
ジルの声に、フィナはびくりと肩を震わせた。振り返った彼女の瞳は、少し潤んでいた。
「……あんたには、関係ないでしょ」
「関係なくない。俺たちは、コンビだ」
フィナは唇を噛んだ。何か言いたそうに、ジルを見上げる。だが、その言葉は、なかなか出てこなかった。
「……あたし、この依頼を受けたい」
ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「十階層は危険だ。分かってるな」
「分かってるわよ。でも、お金がいるの。あたしが行かなきゃ、家族が……母さんが」
フィナは、拳をぎゅっと握りしめた。指先が、白くなっている。
ジルは、その手を見た。
(俺が、守ればいい)
ジルの心の中に、その言葉が浮かんだ。
(俺が無茶をすれば、何とかなる。俺なんかが、彼女の代わりに傷つけば、それでいい)
ジルは、静かに頷いた。
「分かった。俺も行く。お前一人には、行かせられない」
フィナは、驚いたようにジルを見た。
「……どうして。あんた、あたしのこと、嫌いになったんじゃないの」
「嫌いになったことなんて、一度もない」
ジルの言葉に、フィナは一瞬、ぽかんとした。それから、耳の先まで真っ赤になって、ぷいっと横を向いた。
「……べ、別に、あんたが来ようが来まいが、あたし一人で行くつもりだったし」
「そうか。でも、俺も行く」
「勝手にすれば!?」
フィナは早足で、受付カウンターへ向かっていった。ジルは、その背中を追いかける。
受付カウンターの向こうには、栗色の髪をお団子にまとめたミレーヌがいた。琥珀色の瞳が、近づいてくる二人を見て、わずかに細められる。彼女は、二人のただならぬ様子に、すぐに気づいたようだった。
「あらあら、ジルくんにフィナちゃん。今日は、何だか空気が重いわね」
ミレーヌは、首を少し傾けて、二人を交互に見た。左手首には、冒険者時代の古い傷跡。依頼書を整理する手際は、ギルドで一番だ。
「ミレーヌさん、この依頼を受けたいんです」
フィナは、掲示板から取ってきた依頼書を、カウンターに置いた。
ミレーヌは、依頼書を手に取り、眉をひそめた。
「……螺旋迷宮十階層、魔石核回収。フィナちゃん、これ、銅級の依頼よ。あなたたち、まだ鉄級でしょう」
「分かってます。でも、どうしてもお金がいるんです」
「お金が必要なのは、知ってるわ。あなた、いつも故郷に仕送りしてるものね。でも、十階層は、銀級でも命を落とす場所なのよ」
ミレーヌの声は、真剣だった。彼女は元冒険者だ。その言葉には、重みがあった。
「ミレーヌさん。俺が、彼女を守ります」
ジルが、一歩前に出た。
「ジルくん……あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、あなたもまだ鉄級。二人とも、実力が足りないの」
「実力が足りないのは、分かってます。でも、やらなきゃいけないんです」
ジルの声は、静かだった。だが、その瞳には、迷いがなかった。
(俺なんかが、彼女の役に立てるかは分からない。でも、ここで引いたら、フィナは一人で行く。それだけは、絶対にさせられない)
ミレーヌは、しばらくジルを見つめていた。それから、深いため息をついた。
「……あなたたち、本当に似た者同士ね。自分のことを、全然大事にしないんだから」
「……え」
「フィナちゃん。あなた、家族のために無茶をする。ジルくん。あなたは、フィナちゃんのために無茶をする。……二人とも、誰かのためにしか、強くなれないのね」
ミレーヌは、悲しそうに微笑んだ。
「……分かったわ。依頼票を受理します。でも、約束して。無理だと思ったら、必ず撤退すること。命を最優先にすること。これは、受付嬢としての命令よ」
「……約束します」
「俺も、約束します」
ミレーヌは、依頼票に署名をした。カウンターの向こうで、彼女のペンが走る音が、やけに大きく聞こえた。
「……どうか、無事で帰ってきて。これは、私の個人的なお願いよ」
「……ありがとうございます、ミレーヌさん」
フィナは、深く頭を下げた。
受付の周りにいた冒険者たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
「おい、あの二人、十階層を受けたらしいぞ」
「鉄級のくせに、正気かよ」
「十階層って、グランドールの縄張りだろ。死ぬぞ」
そんな声が、聞こえてくる。フィナは、拳を握りしめた。
(負けない。絶対に、負けない)
ジルは、そんなフィナの横顔を見ていた。
(俺が守る。何があっても、この子だけは)
二人は、ギルドを出た。
外は、朝の光に満ちていた。市場の喧騒、行き交う人々。何の変哲もない、アーヴェルの朝。
だが、二人の心は、これまでにない緊張感で張り詰めていた。
「……フィナ」
「何よ」
「無理はするな。お前が死んだら、意味がない」
「それ、あんたに言われたくないわよ。あんたこそ、無茶しないでよ」
「……努力する」
「努力するじゃなくて、約束しなさいよ!」
「……約束する。俺は、お前を死なせない」
ジルの言葉に、フィナは一瞬、言葉を失った。
(あんたは、そうやって、あたしの心をかき乱す)
フィナはうつむいた。耳の先が、じわじわと熱くなっていく。
「……あたしも、約束する。あんたを、死なせない」
小さな声だった。でも、確かな声だった。
二人は並んで歩き出した。
螺旋迷宮の入り口へ。
十階層へ。
危険な挑戦への、第一歩を踏み出すために。
その足取りは、まだ少し震えていた。でも、二人でなら、きっと大丈夫。
そう信じたかった。
――
螺旋迷宮の入り口は、中央区の冒険者広場の地下にあった。石造りの階段を下りていくと、ひんやりとした空気が、肌にまとわりついてくる。
壁には、魔石ランプが等間隔で灯され、淡い青白い光が、地下への道を照らしていた。
一階層、二階層、三階層。
下るごとに、空気が湿り、重くなっていく。壁に生えた光る苔が、ぼんやりと周囲を浮かび上がらせた。
「ここから先は、銅級の領域だ。気を抜くな」
「分かってるわよ。あんたこそ、前だけ見てればいいんだから」
フィナは、背中のエルフ製の複合弓を手に取り、矢をつがえた。祖父の形見。彼女が最も信頼する武器だ。
二人は、螺旋状に続く迷宮を、黙々と下りていった。
六階層。七階層。八階層。
周囲の気温が、さらに下がる。壁からは水滴が滲み出し、足元の石畳は、ぬるぬると滑りやすくなっていた。
九階層に差し掛かった頃、ジルは、妙な気配を感じた。
「……フィナ、止まれ」
ジルは、右手を上げて、フィナを制した。
「……何?敵?」
フィナが、弓を構えたまま、周囲を見回す。
静かだった。
先ほどまで聞こえていた、どこかの水の滴る音が、ぴたりと止まっている。
空気が、張り詰めていた。
「……何か、来る」
ジルは、腰の左右に差した鋼鉄の剣を、ゆっくりと抜いた。両手に一本ずつ。二刀流の構えだ。
その時だった。
ドォォォン!!
洞窟の奥から、地響きが響いた。
「っ!?」
フィナが、思わず後ずさる。
地響きは、どんどん近づいてくる。
ドォン!ドォン!ドォン!
壁が震え、天井から小石が落ちてきた。
そして、暗闇の奥から、現れた。
全長四メートル。六本の腕。人型に近い体躯。だが、その全身は、鋼鉄のような硬い甲殻に覆われていた。蟹に似た頭部には、ぎょろりと光る複眼。その口からは、泡のような粘液が、だらだらと垂れている。
グランドール。
螺旋迷宮の深層に棲む、最悪の捕食者。
「グランドール……!」
フィナの声が、震えた。
グランドールは、複眼をぎょろりと動かし、二人を視界に捉えた。縄張りに侵入した者を、決して逃さない。その瞳には、明確な殺意があった。
ギィィィィッ!!
グランドールが、耳をつんざく咆哮を上げた。
「フィナ、下がってろ!俺が引きつける!」
ジルは、地面を蹴った。
両手の剣を構え、グランドールの正面に飛び込む。
「うおおおおおっ!!」
ジルの斬撃が、グランドールの甲殻に叩きつけられた。
ガキィィィン!!
火花が散る。
だが、鋼鉄の剣は、甲殻に浅い傷をつけただけで、弾き返された。
「……硬い!?」
ジルは、すぐに体勢を立て直し、二本目の剣を振り下ろす。
ガキィン!
またしても、弾かれる。
「くっ……!」
グランドールは、六本の腕のうちの一本を、ジルに向かって振り下ろした。
ズドォォン!!
ジルは、間一髪で横に跳んだ。さっきまで自分がいた地面が、砕けている。
(速い。重い。硬い。……桁が違う)
ジルは、冷や汗をかきながら、グランドールと距離を取った。
「ジル!あたしが援護する!下がって!」
フィナの声が、洞窟に響く。彼女は、弓を引き絞り、矢を放った。
ヒュッ!
矢は、正確にグランドールの複眼を狙って飛んでいく。
だが、グランドールは、腕の一本で、その矢を易々と弾き飛ばした。
カキィン!
「嘘……!矢が、全然通らない!」
フィナの顔から、血の気が引いた。
グランドールの複眼が、今度はフィナを向いた。
「フィナ!逃げろ!」
ジルが叫んだ。
グランドールの腕が、フィナに向かって伸びる。
「させるか!」
ジルは、グランドールとフィナの間に割って入り、二本の剣を交差させて、その腕を受け止めた。
ガキィィィン!!
凄まじい衝撃。ジルの両腕が、悲鳴を上げる。
「ジル!?」
「……大丈夫だ。お前は、下がってろ」
ジルは、歯を食いしばりながら、グランドールの腕を押し返そうとした。だが、力の差は、あまりにも大きい。
グランドールが、もう一本の腕を振り上げた。
(まずい!)
ジルは、とっさにフィナを突き飛ばした。
「きゃっ!?」
フィナが、地面に倒れる。
その瞬間、グランドールの腕が、ジルの脇腹を直撃した。
ドゴォッ!!
「がはっ……!?」
ジルの体が、吹き飛ばされた。
壁に激突する。
ドシャッ!
背中から叩きつけられ、ジルは、その場に崩れ落ちた。
「ジル!ジル!!」
フィナが、悲鳴のような声で叫んだ。
ジルは、息ができなかった。脇腹に、焼けるような痛み。肋骨が、折れている。呼吸のたびに、骨が軋む音がする。
(くそ……まだ、倒れるわけには……)
ジルは、震える腕で、剣を握り直した。
「やめて!ジル、もう戦わないで!逃げよう!」
フィナの声が、涙で濡れていた。
「……逃げられる相手じゃない。あいつは、獲物を逃がさない」
ジルは、壁に手をついて、立ち上がった。口の中に、鉄の味が広がる。
グランドールは、ゆっくりと、二人に近づいてくる。六本の腕を、不気味に揺らしながら。
「フィナ。お前のエンチャントで、俺の剣に雷を宿してくれ」
「……でも、あんた、そんな体で……」
「お願いだ。一瞬でいい。あいつの動きを止める隙を作る。お前の魔法が、必要だ」
ジルの声は、静かだった。だが、その瞳は、剣を握った時だけ見せる、鋭い光を宿していた。
フィナは、涙を拭った。
「……分かった。でも、絶対に、死なないで」
フィナは、腰の布袋から、魔石の粉末を取り出した。きらきらと光る細かい粉。エンチャントの触媒だ。彼女は、それをジルの剣に向かって振り撒きながら、鋭く呪文を紡いだ。
「――雷よ。この剣に宿れ」
瞬間、ジルの二本の剣が、青白い光に包まれた。バチバチと火花が散る。雷のエンチャント。フィナの最も得意とする付与魔法。
「行くぞ」
ジルは、地面を蹴った。
脇腹の痛みが、走る。呼吸が、乱れる。だが、止まらない。
(俺が、こいつを止める。フィナを、逃がすために)
ジルは、グランドールの正面に飛び込んだ。
「うおおおおおっ!!」
雷を纏った剣が、グランドールの甲殻に叩きつけられた。
バチィィィン!!
今度は、弾かれない。雷の魔法が、甲殻を焼き、わずかにめり込んだ。
「……通った!」
ジルは、すかさず二本目の剣を、同じ場所に叩き込んだ。
ガキィン!バチィィン!
甲殻に、小さな亀裂が走る。
グランドールが、苦痛の咆哮を上げた。
ギィィィィッ!!
六本の腕が、一斉にジルを襲う。
ジルは、雷を帯びた剣で、その腕を斬り払いながら、グランドールの懐に飛び込んだ。
(あいつの弱点は、腹部の魔石核。関節の柔らかい膜。そこを狙う)
ジルは、グランドールの足元をすり抜け、腹部に回り込んだ。
「ここだぁぁぁぁっ!!」
ジルは、二本の剣を、グランドールの腹部に突き立てた。
ズブシャァッ!!
雷を纏った剣が、柔らかい腹部の膜を貫いた。青白い光が、グランドールの体内で爆ぜる。
ギィィィィィッ!!!
グランドールが、断末魔のような咆哮を上げた。
魔石核に、一撃が入った。
グランドールの巨体が、ぐらりと傾ぐ。
「フィナ!今だ!逃げるぞ!」
ジルは、剣を引き抜き、フィナの手を掴んだ。
「……うん!」
二人は、来た道を、全速力で駆け戻った。
背後で、グランドールの怒りの咆哮が、洞窟中に木霊した。
だが、追ってはこなかった。魔石核を傷つけられた痛みで、動きが鈍っている。
二人は、九階層、八階層、七階層と、ひたすら階段を駆け上がった。
ジルの脇腹からは、血が流れ続けていた。呼吸のたびに、ごぼり、と口から血が溢れる。視界が、白く霞んでいく。
「ジル!ジル、しっかりして!もうすぐ出口よ!」
フィナが、ジルの体を支えながら、必死に叫んだ。
「……大丈夫……まだ、動ける……」
ジルの声は、消え入りそうだった。
二人は、ようやく地上に出た。
冒険者広場に、夕日が差し込んでいた。
空は、血のように赤く染まっていた。
――
宿屋「銀の匙」の一室。
フィナは、ジルをベッドに横たえ、必死に手当てをしていた。
彼女の手には、治癒魔法の薬草があった。青い光を放つ葉を、すり潰し、ジルの傷口に塗り込んでいく。
「……ごめん。ごめんなさい。あたしのせいで、あんたが……」
フィナの涙が、ジルの脇腹に落ちた。
「……お前のせいじゃない。俺が、勝手にやったことだ」
ジルは、這うように上体を起こした。
「ダメよ!動いちゃダメ!肋骨が折れてるんだから!」
「……フィナ。話がある」
ジルの声は、静かだった。
フィナは、手を止めて、ジルを見た。
「……お前は、もう、俺と組まない方がいい」
フィナの顔から、表情が消えた。
「……え?」
「俺といると、お前が死ぬ。今日のことで、分かっただろ。俺は、お前を守れない。守るどころか、お前を危険に巻き込んでる」
「何、言ってるの……?」
フィナの声が、震え始めた。
「俺なんかが、お前と組む資格はない。お前は、一人の方が、ずっと強い。俺は、お前の足を引っ張ってるだけだ」
ジルは、フィナの目を見ずに言った。
「勝手に決めないでよ!!」
フィナが、叫んだ。
初めて、感情を露わにした。
「あんたは、いつもそう!自分で勝手に決めて、勝手に諦めて!あたしの気持ちは、どうなるのよ!?」
「……フィナ」
「あたしは、あんたと組むのが嫌なんじゃない!あんたが、自分を傷つけるのが、嫌なの!あんたが、『俺なんか』って言うのが、一番嫌いなの!!」
フィナの涙が、止まらなかった。
「勝手に、決めないでよ……あたしを、一人にしないでよ……」
フィナは、それだけ言うと、部屋を飛び出していった。
バタン!
扉が、閉まる音。
ジルは、追いかけようとした。だが、肋骨の激痛で、体が動かない。
「……くっ……!」
ジルは、ベッドに倒れ込んだ。
(俺は、間違ってたのか)
(フィナを守るために、離れるべきだと思った)
(でも、あれは、俺の独断だった)
(彼女の気持ちを、無視してた)
ジルは、天井を見つめた。
(やっぱり、俺なんかが、彼女と組むのが、間違いだったんだ)
ジルの自己評価は、さらに下がっていった。
――
フィナは、宿の外を歩いていた。
アーヴェルの夜道。街灯の魔石ランプが、石畳をオレンジ色に照らしている。
人通りは、まばらだった。
フィナは、祖父の形見の弓を、ぎゅっと握りしめた。
(あんたの、ばか)
(あたしが、あんたと組むのが嫌だって、思ったこと、一度でもあった?)
(あんたは、あたしを守るって言って、自分を犠牲にしようとする)
(でも、あたしは、あんたに、生きててほしいの)
(あんたが傷つくのを見るのが、一番辛いの)
フィナは、涙を拭った。
(私が弱いから?私じゃ力不足だから?)
(あんたの足を引っ張ってるのは、あたしの方なのに)
フィナは、自分のエンチャンターとしての未熟さを、痛感していた。
(もっと、強くなりたい。あんたを、守れるくらいに)
フィナは、夜の街を、歩き続けた。
――
深夜。
宿屋「銀の匙」の、隣り合う二つの部屋。
ジルは、ベッドの上で、眠れずにいた。
(フィナは、帰ってきたのか)
(隣の部屋に、気配がある)
(良かった。無事で)
ジルは、安堵すると同時に、自分を責めた。
(俺が、あんなことを言わなければ)
(でも、あれで良かったんだ)
(俺と組まなければ、フィナは、もっと安全に生きられる)
(俺なんかが、彼女の隣にいる資格はない)
ジルは、目を閉じた。
だが、眠れなかった。
――
隣の部屋。
フィナは、枕に顔を埋めていた。
(あんたの、ばか)
(どうして、あたしの気持ちに、気づいてくれないの)
(あたしは、あんたと、一緒にいたいの)
(あんたが、あたしを守るって言うなら、あたしも、あんたを守りたいの)
フィナは、左胸に手を当てた。
ドキドキと、心臓が脈打っている。
(まだ、消えてない)
(ジルへの想いが、まだ、ここにある)
(苦しい。苦しいよ)
フィナは、声を押し殺して、泣いた。
二人は、隣り合う部屋で、それぞれの思いを抱えたまま、眠れない夜を過ごした。
――
翌朝。
鉄路の手の本部、受付ホール。
ジルは、脇腹に包帯を巻き、痛みをこらえながら、受付カウンターへ向かった。
カウンターの向こうには、ミレーヌがいた。彼女は、ジルの姿を見るなり、顔色を変えた。
「ジルくん!?その怪我、どうしたの!?」
「……大丈夫です。依頼は、失敗しました。報告に来ました」
ジルは、依頼失敗の報告書を、カウンターに置いた。
「……そう。無事で、良かった。……フィナちゃんは?」
ミレーヌが、周囲を見回す。
「……知りません」
ジルは、短く答えた。
その時、別の入り口から、フィナが現れた。
彼女は、ジルとは目も合わせずに、カウンターへ歩いてくる。
「ミレーヌさん。依頼の失敗届けです」
フィナは、失敗届けをカウンターに置いた。
ジルとは、一言も口をきかない。
ミレーヌは、二人の間に何かがあったことを、すぐに察した。だが、あえて踏み込まなかった。
「……分かったわ。受理します。……二人とも、少し休みなさい」
ミレーヌは、それだけ言った。
ギルド内の冒険者たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
「おい、あの二人、揃って依頼に失敗したらしいぞ」
「喧嘩したんじゃないか?」
「ジルが無茶して、フィナが怒ったんだろ」
そんな囁きが、あちこちから聞こえてきた。
ジルは、無言でギルドを出ていった。
フィナも、別の出口から、出ていった。
――
その頃、ギルドの入口に、一人の男が現れた。
白髪交じりの豊かな髭。人の良さそうな笑顔。腹を擦りながら、にこにこと歩いてくる。
商人のバルドだ。
彼は、新居の間取り図を小脇に抱え、宣伝のためにギルドへやってきていた。
「おはようございます!わし、バルド不動産のバルドです!本日は、若いカップルの冒険者さんに、ぜひご紹介したい物件がありまして!」
バルドは、そう言いながら、ギルド内を見回した。
そして、ちょうど出ていこうとしていたジルと、別の出口から出ていくフィナの姿を、同時に目撃した。
二人の間に流れる、冷たい空気。
バルドは、首を傾げた。
「……おや?あのお二人さん、何だか、いつもと様子が違いますなあ。喧嘩でもなさったかな?」
バルドは、間取り図を抱え直し、首を傾げたまま、ギルドの中へ入っていった。
二人の亀裂は、こうして、ギルド全体に知れ渡っていった。
――
夜。
ジルは、宿屋の自室で、窓の外を見ていた。
アーヴェルの街に、明かりが灯っている。
(フィナは、今、何をしてるんだろう)
(隣の部屋に、気配はある)
(でも、顔を見るのが、怖い)
(俺は、彼女に、ひどいことを言った)
(でも、あれで良かったんだ)
(俺なんかが、彼女の隣にいるべきじゃない)
ジルは、窓の外を見つめたまま、動かなかった。
――
隣の部屋。
フィナは、ベッドに座り、膝を抱えていた。
(あんたの、ばか)
(どうして、あたしの気持ちに、気づいてくれないの)
(あたしは、あんたと、一緒にいたいの)
(あんたが、あたしを守るって言うなら、あたしも、あんたを守りたいの)
フィナは、左胸に手を当てた。
ドキドキと、心臓が脈打っている。
(まだ、消えてない)
(ジルへの想いが、まだ、ここにある)
(苦しい。苦しいよ)
フィナは、声を押し殺して、泣いた。
二人は、隣り合う部屋で、それぞれの思いを抱えたまま、眠れない夜を過ごした。
窓の外では、月が、静かに雲に隠れようとしていた。Noveliaとは?
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