それぞれの「帰る場所」
剣と魔法の世界。冒険者ギルドが管理する無数のダンジョンを抱える商業都市アヴェル。鋼の双剣を振るう細身の青年ジルと、弓と付与魔法を操る少女フィナは、利益の分配をめぐる終わりのない口論の末、渋々コンビを組まされていた。素直になれない二人はいつも言い争いながらも、地下では完璧に息を合わせて戦う。フィナはジルに一目惚れしていたが、実家の大家族への義理を盾にその想いを隠していた。ジルは自分は価値がないと信じ込み、己の感情を抑えつけていた。周囲の誰もが真実に気づいている——二人自身を除いて。
母が倒れたという手紙を受け取ったフィナは、金を稼ぐため密かに危険な高難度クエストを受ける。ジルは彼女の様子がおかしいことに気づき、深層ダンジョンへと後を追う。そこで二人は予想外の強敵に直面する。フィナを守るため、ジルは無謀な双剣流を解き放ち、フィナは必死に付与魔法で彼を支える。危機を乗り越えたジルは、フィナを失うことの方が自分の弱さを認めるより辛いと悟り、フィナもようやく素直な気持ちを受け入れる。
街に戻ると、お節介な不動産仲介人バルドに出会う。傷だらけの二人を若いカップルと勘違いした彼は、上機嫌でアパー
それぞれの「帰る場所」 - 後悔するのは、選ばなかったことだけ ~宿の前の決意~
夏の日差しが、石畳を焼いていた。
アーヴェルの街に、蝉の声が降り注ぐ。市場の呼び声も、馬車の車輪の音も、その暑さの中に溶けて、ぼんやりと遠い。
ジルは一人で、鉄路の手の本部へと向かっていた。
手の甲で額の汗を拭う。褐色がかった黒髪が、湿って額に張り付く。海のように深い青の瞳が、まぶしさに細められた。
フィナと、まともに会話をしなくなってから、もう七日になる。
同じ宿に泊まっているのに、顔を合わせるたびに、二人は目を逸らした。ギルドで、すれ違っても、声をかけない。依頼は、それぞれ別々に受けた。ジルは一人でスライムを狩り、フィナは一人で薬草を摘んだ。
石造三階建てのギルド本部が見えてきた。入口には、金属製の義手を象った紋章が掲げられている。百五十年続く冒険者ギルド「鉄路の手」の象徴だ。
重い木の扉を押し開けると、ひんやりとした空気と、汗と酒と革の匂いが混ざった、ギルド特有の空気が流れ出てきた。
一階の受付ホールは、相変わらず冒険者たちでごった返している。壁には依頼の貼り紙がびっしり。その横には、先日バルド不動産のバルドが貼っていった「若いカップルさん必見!庭付き一軒家、子育て環境抜群!」の間取り図が、まだ残っていた。
ジルは、その間取り図から目を逸らすように、受付カウンターへと歩いた。
カウンターの向こうで、栗色の髪をお団子にまとめた女性が顔を上げる。金の簪が、魔石ランプの光を反射して、きらりと光った。琥珀色の瞳が、ジルを映す。
ミレーヌ。鉄路の手の受付嬢で、ジルとフィナの担当だ。二十三歳。かつては冒険者だったが、怪我で引退して、この仕事に就いた。左手首には、冒険者時代の名残の古い傷跡がある。
「あら、ジルくん。今日も一人なのね」
ミレーヌは、首を少し傾けて、ジルの後ろを見た。いつもそこにいるはずの、朱が入った金髪の少女の姿は、今日もない。
「……ええ。まあ」
ジルは、目を伏せた。
ミレーヌは、ふっと息をついた。それから、悪戯っぽく笑う。
「あらあら。まだ喧嘩してるの?二人とも、素直じゃないんだから」
「違います。喧嘩じゃなくて……俺が、悪いんです」
ジルの声は、どんどん小さくなっていく。
ミレーヌは、その言葉に、笑みを引っ込めた。琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びる。
「……ジルくん。今日は、依頼の報告だけじゃなさそうね。何か、あったの?」
ジルは、しばらく黙っていた。
カウンターに置いた手が、微かに震えている。
受付ホールの喧騒が、遠くに聞こえた。
「……ミレーヌさん。俺、フィナと、コンビを解消した方がいいんでしょうか」
その言葉は、ジル自身の耳にも、かすれて聞こえた。
ミレーヌは、驚いたように、目を見開いた。
それから、受付の手を止めて、ジルの目をまっすぐに見つめる。
「……本気で、言ってるの?」
「……俺なんかが、彼女と組んでるから、フィナが危ない目に遭うんです。俺が、無茶をするから、悪いんです。俺が、もっと強ければ……フィナに、あんな怪我をさせずに済んだ」
ジルの声は、震えていた。
あの日の光景が、脳裏に蘇る。
螺旋迷宮、十階層。
全長四メートルの、六本の腕を持つ蟹型の人型魔物、グランドール。
鋼鉄の剣を弾く甲殻。岩をも砕く水圧砲。
フィナを守るために、無茶な二刀流で挑んで、肋骨を折った。
そして、撤退した後、フィナに言ったのだ。
『お前はもう、組まない方がいい』
あれは、彼女を守るための、精一杯の言葉だった。
でも、フィナは、泣いていた。
初めて感情を露わにして、勝手に決めないでと叫んで、宿を飛び出した。
あの日のフィナの涙が、ジルの心に、深く突き刺さったままだった。
「俺が、いなければ……フィナは、もっと安全に、依頼をこなせるはずなんです。俺は、彼女の足を引っ張ってるだけだ」
ジルは、俯いたまま、そう言った。
ミレーヌは、何も言わずに、ジルの言葉を聞いていた。
それから、静かに、こう言った。
「それは、あなたが決めることよ。でもね、ジルくん。一つだけ、私の話を聞いてくれる?」
ジルは、顔を上げた。
ミレーヌは、カウンターの上で、左手首の古い傷跡を、そっと撫でた。
「私、昔は冒険者だったの。知ってるでしょ?」
ジルは、小さく頷いた。
「パーティの仲間を守ろうとして、左腕に、この傷を負ったの。剣を握れなくなって、冒険者を、引退した」
ミレーヌの声は、静かだった。
「あの時ね、私、後悔したのよ。もっと強ければ、仲間を守れたのにって。自分を、責めたわ。毎晩、泣いた。もう、剣を握れない自分に、何の価値もないと思った」
ジルは、息を呑んだ。
いつも明るくて、面倒見のいいミレーヌからは、想像もできない過去だった。
「でもね、違ったの。私は、剣を握れなくなったから、ここにいる。受付嬢として、冒険者を支えることを、選んだ。それは、冒険者を続けることを、諦めたからじゃない。別の形で、冒険者を支えることを、選んだの」
ミレーヌは、ジルの目を、まっすぐに見つめた。
「後悔するのは、選ばなかったことだけよ。ジルくん。あなたは、どうしたいの?フィナちゃんと、別れたいの?それとも、一緒にいたいの?」
ジルは、答えられなかった。
俯いたまま、唇を噛みしめる。
(俺は、どうしたいんだ)
(フィナと、別れたいのか)
(……違う)
(別れたく、ない)
(でも、俺なんかが、彼女の隣にいる資格は、ない)
ジルの心の中で、二つの思いが、ぐるぐると回る。
「……分かりません。俺には、分からないんです」
ジルは、それだけ言って、受付を後にした。
ミレーヌは、その後ろ姿を、黙って見送った。
――
その夜。
アーヴェルの街に、深い闇が下りていた。
宿屋「銀の匙」の前。
石畳の上に、月明かりが、白く落ちている。
ジルは、遅い夕食を済ませて、宿へと戻ってきた。
その時、宿の前に、立っている人影があった。
朱が入った金髪が、月明かりを浴びて、銀色に輝いている。
緑がかった灰色の瞳が、ジルを、じっと見つめていた。
フィナだった。
彼女の手には、祖父の形見である、エルフ製の複合弓が、握られている。
ジルは、驚いて、足を止めた。
「……フィナ」
フィナは、何も言わずに、ジルを見つめている。
その瞳は、潤んでいた。
唇が、微かに震えている。
「……ジル」
フィナが、ジルの名前を、呼び捨てにした。
初めてだった。
いつも「あんた」としか呼ばなかった彼女が、ジルの名前を、呼んだのは。
ジルの胸が、ドキリと鳴った。
「あたし、実は……」
フィナは、そこまで言って、言葉を詰まらせた。
喉の奥で、言葉が、引っかかっている。
(あたし、実は、あんたのこと……)
フィナは、目を逸らした。
ぎゅっと、弓を握りしめる。
指先が、白くなるほどに。
(言えない)
(こんな時に、そんなこと、言えるわけない)
(あたしは、弱い自分を、認めたくない)
(でも、このままじゃ、あんたと、離れ離れになっちゃう)
フィナは、唇を、噛みしめた。
それから、顔を上げて、ジルを、まっすぐに見た。
「明日、十階層にもう一度潜るわ。今度は、通す」
ジルは、息を呑んだ。
「十階層って……グランドールの縄張りだぞ。それに、お前、まだ、怪我が……」
「あんたには、関係ないでしょ!あたしは、あたしのやり方で、お金を稼ぐの。あんたに、守ってもらう必要なんて、ないんだから」
フィナの声は、震えていた。
それは、強がりだった。
自分の弱さを、認めたくない、不器用な強がり。
そして、ジルへの想いを、伝えられない、もどかしさ。
その二つが、混ざり合った、精一杯の言葉だった。
ジルは、フィナの震える唇を見た。
(この子は、一人で、あの化け物に挑むつもりだ)
(俺が、守らなければ)
(俺が、守りたい)
ジルの心の中で、初めて、強い感情が、湧き上がった。
「……俺も、行く」
フィナは、驚いたように、ジルを見た。
「……え?」
「俺も、お前を、守る」
ジルは、フィナの目を、まっすぐに見つめて、そう言った。
自分の意志で、フィナを守ると、口にしたのは、コンビを組んで以来、初めてのことだった。
フィナは、一瞬、ぽかんとした。
それから、耳の先まで、真っ赤になった。
「な、なに言ってるのよ!あたしが、あんたに守られるなんて、ありえないんだから!当たり前でしょ!」
フィナは、早口で、まくし立てた。
照れると、語尾が強くなる、彼女の癖だった。
「……ああ。当たり前だな。でも、俺も、行く。一人では、行かせない」
ジルは、静かに、そう言った。
フィナは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、ぎゅっと、弓を握りしめたまま、俯いていた。
月明かりが、二人の影を、石畳の上に、長く伸ばしている。
夏の夜の、生暖かい風が、二人の間を、吹き抜けていった。
「……じゃあ、明日、ギルドの前で。朝一番で」
フィナは、それだけ言って、宿の中へと、駆け込んでいった。
ジルは、その後ろ姿を、黙って見送った。
(俺は、フィナを守る)
(でも、俺の肋骨は、まだ完治していない)
(フィナのエンチャントも、持久力に、課題が残っている)
(それでも、行く)
(もう、逃げない)
ジルは、宿の前に、一人、立ち尽くした。
折れた肋骨が、まだ、ズキズキと痛む。
それでも、ジルの心は、不思議と、静かだった。
初めて、自分の意志で、前に進むことを、選んだから。
月が、雲に隠れて、また、顔を出した。
ジルは、小さく息をついて、宿の中へと、入っていった。
――
隣の部屋。
フィナは、ベッドに座り、膝を抱えていた。
(言えなかった)
(やっぱり、言えなかった)
(あたし、実は、あんたのことが、好きだって)
フィナは、左胸に手を当てた。
ドキドキと、心臓が、激しく脈打っている。
(でも、あいつが、あたしを守るって、言った)
(自分の意志で)
(初めて)
フィナの口元が、微かに、緩んだ。
(嬉しい)
(でも、素直に喜べない)
(だって、明日、あたしたちは、また、あの化け物に挑むんだから)
フィナは、窓の外を見た。
月が、静かに、街を照らしている。
(今度は、通す)
(あたしのエンチャントで、あいつを、支える)
(絶対に、負けない)
フィナは、ぎゅっと、拳を握りしめた。
その瞳には、強い決意が、宿っていた。
でも、その奥には、まだ、消えない不安も、残っていた。
(あいつの、肋骨)
(本当は、まだ、治ってない)
(無茶をして、また、傷つくかもしれない)
(それでも、あたしは、行く)
(あいつと、一緒に)
フィナは、目を閉じた。
長い夜が、始まろうとしていた。
解決していない難題が、二人の前に、冷たく横たわっていた。
それでも、二人は、逃げなかった。
それが、今の二人にできる、精一杯の、一歩だった。Noveliaとは?
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