俺物語!! 〜すれ違いの向こう側〜
朝の満員電車で痴漢から女子高生を救ったのは、身長2メートル・体重120キロの巨体を持つ高校2年生、剛田猛男。ゴリラのような顔立ちゆえに周囲から怖がられ、好きになった女子は3回連続で幼なじみのイケメン・砂川誠に告白されるという、不器用で報われない日々を送っていた。そんな猛男が助けた女子高生・大和凛子から届いた「たけおくん、だよね?」という一通のメッセージ。名前も連絡先も伝えていないはずの彼女は、なぜ猛男を知っているのか——。すれ違う想いと勘違いが織りなす、不器用な男の純情物語。
俺物語!! 〜すれ違いの向こう側〜 - ゴリラと天使、恋人になる
雪が、まだ降っていた。
六月の、ありえない雪。
ミナトサカ公園の噴水広場。水は止まり、白い雪だけが静かに積もっていく。ベンチも、桜の木も、遊具も、ぜんぶ真っ白に染まっていた。
剛田猛男は、その白い世界の真ん中に立っていた。
身長2メートル、体重120キロ。特注の4Lサイズの紺ブレザーが、雪の重みでぐっしょりと濡れている。角刈りの黒髪から、溶けた雪の雫が、ぽたり、ぽたりと落ちていた。奥二重の小さな黒い目。ゴリラのような濃い顔立ち。厚い唇。
その巨体が、今、小刻みに震えている。
寒さのせいじゃない。
胸の奥で、何かが爆発しそうだった。
(好きだ)
心の中で、叫ぶ。
(大和のことが、好きだ)
何度も、何度も、叫び続ける。
目の前には、大和凛子がいた。肩まで伸びた柔らかな栗色の髪。雪が、そのふわっとした毛先に、小さな白い花のように積もっている。ぱっちりとした大きな茶色の瞳は、涙でいっぱいだった。今にもこぼれそうな涙を、彼女は必死にこらえている。155センチの小さな体が、寒さと緊張で、かすかに震えていた。
「たけおくん……」
凛子の声は、雪の静けさに吸い込まれそうなくらい、小さかった。
猛男は、拳を握りしめた。
力が入りすぎて、指の骨が、みしりと鳴る。
(すなを、殴った)
さっきの光景が、頭の中をぐるぐる回る。
誠の家の前。雪の降る道。
『俺が嘘をついた。お前を試した』
そう言った誠の顔を、猛男は、思い切り殴った。
誠の体が、雪の中に倒れた。
それでも誠は、笑っていた。
『お前がいつもみたいに諦めるからだ』
誠の声が、まだ耳の奥に残っている。
『大和はお前を選んだ。お前が選ぶんだ』
(すな……)
猛男の胸が、ぎゅっと痛む。
怒りと、感謝と、申し訳なさが、ぐちゃぐちゃに混ざって、涙になりそうだった。
でも、今は、泣いている場合じゃない。
やらなきゃいけないことがある。
言わなきゃいけないことがある。
猛男は、雪を踏みしめて、凛子の前に立った。
どすん、と、地面が揺れる。
凛子が、顔を上げた。
大きな茶色の瞳が、猛男をまっすぐに見上げる。
(言うんだ。オレの気持ちを、全部)
猛男は、深く息を吸った。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってくる。
「大和」
声が、震えた。
「オレ、お前に、言わなきゃいけないことがある」
凛子は、こくん、と小さくうなずいた。
雪が、二人の間に、音もなく降り積もっていく。
猛男は、拳を、さらに強く握った。
「オレ、ずっと、勘違いしてた。お前が、すなのことが好きなんだって」
凛子の瞳が、大きく見開かれた。
「だって、オレなんかより、すなの方が、ずっとかっこいいし。お前みたいな、かわいい子は、すなみたいなやつが好きなんだって。今まで、そうだったから」
猛男の声が、だんだん大きくなる。
「でも、違った。お前は、オレのこと、好きだって言ってくれた。オレなんかのこと、好きだって。雨の日も、雪の日も、ずっと、オレに、伝えようとしてくれてた」
凛子の目から、涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「オレ、バカだから。気づくのが、遅くなった。お前に、いっぱい、悲しい思いをさせた。雨の中、一人で待たせた。ごめん。本当に、ごめんな」
猛男は、頭を下げた。
2メートルの巨体が、折り曲げられる。
「たけおくん、顔を上げて」
凛子の、震える声が、降ってきた。
「うちも、言えなくて、ごめんね。たけおくんに、好きって、ちゃんと伝えられなくて。うち、不器用だから、お菓子作ることしかできなくて。でも、うち、たけおくんのことが、大好きなの」
凛子の言葉が、雪の空気を震わせた。
「うち、たけおくんに、助けてもらったあの日から、ずっと、たけおくんだけを見てきた。たけおくんの、まっすぐなところも、優しいところも、困ってる人を放っておけないところも、ぜんぶ、大好き」
凛子の涙が、雪の上に、ぽたぽたと落ちて、小さな穴を開けていく。
「たけおくんは、たけおくんのままでいいの。うち、たけおくんの、そのままが好きなの」
猛男の胸の奥で、何かが、弾けた。
ドクン。
心臓が、痛いくらいに脈打つ。
(好きだ)
(好きだ好きだ好きだ)
心の中で、叫び続ける。
もう、止められない。
「大和」
猛男は、顔を上げた。
奥二重の小さな黒い目から、涙が、あふれ出ていた。
「オレも、好きだ。大和のことが、好きだ。ずっと、前から、好きだった」
猛男の声が、雪の公園に、響き渡った。
「お前に、クッキーをもらった日も、ケーキを食べた日も、雨の日に、お前が震えてるのを見た時も、ぜんぶ、ぜんぶ、好きだった。でも、オレ、自分に自信がなくて、お前がオレなんかを好きになるわけないって、諦めてた。でも、もう、諦めない。絶対に、諦めない」
猛男は、凛子の両肩を、そっと掴んだ。
大きな手が、凛子の小さな肩を、包み込む。
「大和。オレと、付き合ってください」
猛男の、精一杯の告白。
雪が、しんしんと、降り続ける。
凛子は、一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、泣きながら、笑った。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、でも、世界で一番幸せそうな笑顔で。
「はい。うち、たけおくんと、お付き合いしたいです」
凛子の声は、涙で震えていたけれど、はっきりと、そう言った。
「うちも、ずっと、たけおくんだけ。ずっと、前から、たけおくんだけが好きだったの」
凛子は、何度も、繰り返した。
猛男の胸が、熱くなる。
(好きだ)
心の中で、叫ぶ。
(大和が、好きだ)
声にならない声が、雪の空に、溶けていく。
猛男は、凛子の小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。
2メートルの巨体が、155センチの少女を、雪から守るように、包み込む。
凛子の髪から、甘い匂いがした。
お菓子作りの時の、砂糖とバターの、優しい匂い。
「大和。もう、離さない。絶対に、離さないからな」
猛男は、凛子の耳元で、囁いた。
「うん。うちも、もう、離れないよ。ずっと、たけおくんの、そばにいる」
凛子は、猛男の胸に、顔を埋めた。
雪は、二人を、静かに、包み続けていた。
——
どれくらい、そうしていただろう。
猛男は、ふと、顔を上げた。
公園の入り口の方に、人影が見えた。
さらさらの黒髪。前髪を軽く流した爽やかな髪型。切れ長の涼しげな黒い瞳。
砂川誠だった。
誠は、雪の中に、立っていた。
猛男に殴られた頬が、赤く腫れている。
でも、誠は、笑っていた。
いつもの、クールな笑顔じゃない。
心から、ほっとしたような、柔らかい笑顔だった。
「猛男」
誠の声が、雪の静けさを破った。
猛男は、凛子を抱きしめたまま、誠を見た。
「すな……お前……」
猛男の声が、低くなる。
「てめえ、よくも、あんな嘘をつきやがったな。オレが、どんな気持ちで、お前の告白を聞いたと思ってんだ」
猛男は、凛子をそっと離すと、誠の方へ、一歩、踏み出した。
どすん。
地面が揺れる。
誠は、逃げなかった。
「ああ。悪かった」
誠は、素直に、頭を下げた。
「でも、あれしか、方法がなかった。お前は、俺が大和を好きだって言えば、身を引くだろ。それで、自分の気持ちに、向き合わざるを得なくなる。そう思った」
誠は、顔を上げた。
「お前は、いつも、そうだ。好きな子ができても、俺に譲ろうとする。自分には、ふさわしくないって、勝手に諦める。でも、大和は、違った。大和は、最初から、お前だけを見てた」
誠の声が、静かに、でも、はっきりと響く。
「お前が、いつもみたいに、諦めるからだ。俺は、お前に、気づいてほしかった。大和の気持ちにも、自分の気持ちにも」
猛男は、拳を握りしめた。
みしり、と、指が鳴る。
(こいつ、どこまで、オレのことを……)
猛男の目から、また、涙が、あふれ出た。
「すな……お前、オレのために、悪者になって……」
猛男の声が、震える。
「オレ、お前を、本気で、殴っちまった。お前の気持ちも、知らないで。ごめん。すな、ごめんな」
猛男は、誠の前で、深々と、頭を下げた。
誠は、苦笑いした。
「別に、謝らなくていい。お前の拳、相変わらず、硬えな。顎が外れたかと思った」
誠は、腫れた頬を、さすった。
「でも、これで、俺が悪者を演じた甲斐があったってもんだ」
誠の笑顔が、雪の中で、輝いていた。
猛男は、顔を上げた。
「次、やったら、許さねえからな」
猛男は、怒った顔で、そう言った。
でも、その口元は、笑っていた。
「おう。肝に銘じておく」
誠も、笑った。
雪が、三人の間に、静かに、降り積もっていく。
凛子が、猛男の隣に、ちょこんと立った。
「すなかわくん、ありがとう。うち、すなかわくんのおかげで、たけおくんと、ちゃんと向き合えた」
凛子は、誠に、深々と、頭を下げた。
「大和。お前は、何も悪くない。悪いのは、こいつの、ニブイ頭だ」
誠は、猛男を、指さした。
「お、おう。オレが、悪かったよ」
猛男は、ばつが悪そうに、頭をかいた。
三人の笑い声が、雪の公園に、小さく響いた。
——
誠は、先に帰ると言って、雪の中を、去っていった。
その後ろ姿を、猛男は、じっと見送った。
(すな。ありがとう)
心の中で、呟く。
(お前の気持ち、ちゃんと、受け取ったからな)
猛男の胸の奥で、友情が、静かに、でも、確かに、温かく脈打っていた。
「たけおくん」
凛子が、猛男の袖を、引っ張った。
「うち、たけおくんと、一緒に、帰りたい」
凛子は、少し照れながら、そう言った。
猛男の心臓が、また、ドクンと鳴った。
「お、おう。送ってく」
猛男は、うなずいた。
二人は、雪の積もった道を、並んで歩き始めた。
——
公園を出て、駅前の再開発地区の方へ。
雪は、まだ、降り続けていた。
街灯の光が、雪に反射して、あたりは、ぼんやりと明るい。
ミナトサカ駅前の「グランフロント・ミナトサカ」の建物群が、雪化粧をしていた。
「たけおくん、寒くない?」
凛子が、心配そうに、猛男を見上げた。
「だ、大丈夫だ。オレ、体温高いから」
猛男は、胸を張った。
「でも、たけおくん、ブレザー、びしょびしょだよ。風邪、ひいちゃう」
凛子は、眉を下げた。
「平気だって。オレ、風邪、ひいたことねえし」
猛男は、笑った。
凛子は、くすっと笑った。
「たけおくんって、ほんとに、すごいね」
凛子の笑顔が、雪の中で、ぱあっと輝いた。
猛男の胸が、きゅんと鳴る。
(好きだ)
心の中で、叫ぶ。
(大和の笑顔が、好きだ)
猛男は、凛子の手を、見た。
小さくて、白い手。お菓子作りで、少し荒れている手。
(手を、繋ぎたい)
猛男の心臓が、バクバクと、うるさく脈打つ。
(でも、いきなり、手を繋ぐのは、失礼じゃないか?)
(いや、でも、もう、恋人同士だし)
(手を繋ぐくらい、いいよな?)
猛男は、頭の中で、ぐるぐると考えた。
「たけおくん?」
凛子が、首をかしげた。
「お、おう。な、なあ、大和」
猛男は、勇気を振り絞った。
「て、手、繋いでも、いいか?」
猛男の顔が、真っ赤になった。
凛子も、顔を真っ赤にした。
「う、うん。うちも、繋ぎたい」
凛子は、小さく、うなずいた。
猛男は、ごくりと唾を飲み込むと、そっと、凛子の手に、自分の手を伸ばした。
大きな手が、小さな手を、包み込む。
凛子の手は、雪のせいで、ひんやりと冷たかった。
でも、触れた瞬間、猛男の体に、じんわりと温かいものが広がった。
「大和の手、冷たいな」
猛男は、凛子の手を、ぎゅっと握った。
「うん。でも、たけおくんの手、すごく温かい」
凛子は、嬉しそうに、笑った。
二人は、手を繋いだまま、雪の道を、ゆっくりと歩いていく。
——
パティスリー・ルミエールの前を通りかかった時だった。
駅前再開発地区の一角にある、オープン3年目の洋菓子店。ショーケースに、常時20種類以上のケーキが並ぶ、凛子のバイト先。
閉店後の店内に、明かりが灯っていた。
ガラス越しに、一之瀬昴の姿が見えた。
明るい茶色の髪を無造作にセットして、首に赤いバンダナを巻いている。甘いマスク。琥珀色の瞳。パティスリー・ルミエールのオーナー兼シェフが、厨房で、何かを仕込んでいた。
「あ、シェフだ」
凛子が、小さく声を上げた。
一之瀬も、二人に気づいた。
一之瀬の手が、止まった。
一之瀬の視線が、二人の繋いだ手に、吸い寄せられた。
一之瀬の顔が、一瞬、くしゃっと歪んだ。
悔しそうな、でも、どこか、ほっとしたような、複雑な表情。
「一之瀬さんに、報告しねえと」
猛男は、凛子の手を、ぎゅっと握った。
「うん。うちから、言うよ」
凛子は、猛男の手を、握り返した。
二人は、パティスリー・ルミエールの扉を、押し開けた。
カラン、と、ドアベルの音が、静かな店内に響く。
「……閉店後だよ。何の用かな」
一之瀬は、厨房から出てくると、腕を組み、仁王立ちで、二人を迎えた。
その目は、まっすぐに、猛男を見つめている。
「一之瀬さん。ご報告があります」
凛子は、一之瀬の前に、進み出た。
「うち、たけおくんと、お付き合いすることになりました」
凛子の声は、はっきりと、凛としていた。
一之瀬は、何も言わなかった。
ただ、じっと、凛子の顔を見つめた。
それから、猛男の顔を、見た。
猛男は、一之瀬の視線を、真っ直ぐに見返した。
(オレは、大和を、幸せにする)
心の中で、強く、誓った。
一之瀬は、深く、息を吐いた。
「……そうか」
一之瀬の声は、静かだった。
「凛子さんが、選んだなら、俺が口を出すことじゃない。君の、勝ちだよ、剛田くん」
一之瀬は、猛男に、向き直った。
「でも、忘れるな。俺は、まだ、諦めてない。凛子さんを、泣かせたら、すぐに、奪いに行くからな」
一之瀬の琥珀色の瞳が、燃えるように、光った。
猛男は、一之瀬の目を、じっと見つめ返した。
「おう。任せろ。俺が、大和を、世界一幸せにする」
猛男は、胸を張って、そう言った。
一之瀬は、一瞬、きょとんとした。
それから、ふっと、苦笑いした。
「言ったな。その言葉、覚えておくよ」
一之瀬は、猛男に、右手を差し出した。
猛男は、一之瀬の手を、握り返した。
一之瀬の手は、職人らしく、ごつごつとしていた。
猛男の大きな手が、一之瀬の手を、包み込む。
「痛い痛い痛い! 握力がおかしい!」
一之瀬が、悲鳴を上げた。
「あ、すまん!」
猛男は、慌てて、手を離した。
「握手で、人の手を握りつぶす気か。相変わらず、とんでもない怪力だな」
一之瀬は、痛そうに、右手を振った。
「ははっ、ごめんごめん」
猛男は、笑った。
凛子も、くすくすと笑った。
一之瀬も、つられて、笑った。
奇妙な友情が、雪の夜のパティスリーに、静かに芽生えた。
——
翌日の夜。
猛男は、凛子の家に、夕食に招かれていた。
大和家は、ミナトサカ市南部の海寄りのアパート。築20年ほどの、こぢんまりとした4階建ての、3階の角部屋。
「お、お邪魔します」
猛男は、緊張で、声が裏返りそうになりながら、玄関をくぐった。
「いらっしゃい。剛田くん、よく来たわね」
凛子の母が、にこやかに、出迎えた。
ショートヘアの、優しそうな女性。凛子の柔らかい雰囲気は、母親譲りらしい。
「お邪魔します。あの、これ、つまらないものですが」
猛男は、手土産の、駅前の「ベイカリーハマダ」のプリンを、差し出した。
「まあ、気を使わなくていいのに。ありがとう」
凛子の母は、嬉しそうに、プリンを受け取った。
「うわ、でっか!」
凛子の弟が、リビングから、飛び出してきた。
小学生くらいの、元気そうな男の子。
「お姉ちゃんの彼氏、めっちゃでっかい! ゴリラみたい!」
弟は、猛男を見上げて、目を輝かせた。
「こら、失礼でしょ!」
凛子が、弟を、たしなめた。
「いや、いいんだ。よく言われる」
猛男は、苦笑いした。
「ねえねえ、お兄ちゃん、力持ち? 持ち上げてくれる?」
弟は、猛男に、まとわりついた。
「お、おう。いいぞ」
猛男は、弟を、軽々と、抱き上げた。
「うわあああ! すごい! 高い!」
弟は、大喜びで、キャッキャと笑った。
「たけおくん、ありがとう。この子、たけおくんに会えるの、ずっと楽しみにしてたの」
凛子は、嬉しそうに、笑った。
(大和の家族、みんな、いい人たちだ)
猛男の緊張が、少し、ほぐれた。
——
夕食は、凛子の母の手料理だった。
肉じゃが、筑前煮、ほうれん草のおひたし、味噌汁。家庭的な、温かい料理が、食卓に並んだ。
「剛田くん、たくさん食べてね。凛子から、剛田くんは、よく食べるって聞いてるから、いっぱい作ったのよ」
凛子の母は、山盛りのご飯を、猛男に差し出した。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
猛男は、緊張しながら、箸を取った。
「どう? お口に合うかしら」
「うめえ! めちゃくちゃ、うめえです!」
猛男は、肉じゃがを一口食べて、顔をほころばせた。
「よかった。剛田くん、いい食べっぷりね」
凛子の母は、嬉しそうに、笑った。
「たけおくん、おかわり、いっぱいあるからね」
凛子は、猛男の隣で、にこにこしながら、猛男の食べる姿を見ていた。
(大和の隣で、大和の家族と、飯を食う)
(こんな日が来るなんて、思わなかった)
猛男の胸が、じんわりと温かくなる。
「剛田くん」
食卓の上座に座っていた、凛子の父が、口を開いた。
眼鏡をかけた、穏やかそうな男性。
猛男は、背筋を伸ばした。
「凛子から、話は聞いている。君は、電車で、凛子を助けてくれたんだってね。ありがとう」
凛子の父は、猛男に、頭を下げた。
「い、いえ。当然のことをしただけです」
猛男は、慌てて、頭を下げ返した。
「それで、君と凛子が、お付き合いを始めたことも、聞いている。凛子は、君のことを、いつも嬉しそうに話してるよ」
凛子の父は、優しい目で、猛男を見た。
「あ、ありがとうございます」
猛男は、照れて、頭をかいた。
「お父さん、たけおくん、照れてるよ」
凛子が、くすっと笑った。
「はは、すまんすまん」
凛子の父も、笑った。
和やかな空気が、食卓を包んだ。
——
夕食が終わり、お茶を飲んでいた時だった。
「剛田くん、それと、凛子。二人に、話がある」
凛子の父が、急に、真剣な顔になった。
猛男と凛子は、顔を見合わせた。
「実はな、俺、来月から、スペインに転勤することになった」
凛子の父の言葉が、静かなリビングに、重く響いた。
「えっ」
凛子が、小さく、声を上げた。
「スペイン……?」
猛男も、言葉を失った。
「期間は、2年か、3年。長くなるかもしれない。それで、家族で行くか、凛子だけ日本に残るか、話し合おうと思ってる」
凛子の父は、凛子を、じっと見つめた。
「凛子。お前の気持ちを、聞かせてほしい」
凛子の母が、優しく、凛子に、声をかけた。
凛子は、うつむいた。
肩が、小刻みに、震えている。
「うち……」
凛子の声が、震える。
「うち、たけおくんと、離れたくない……」
凛子の目から、涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちた。
「せっかく、たけおくんと、お付き合いできるようになったのに。今、離れたら、また、会えなくなっちゃう。うち、たけおくんと、もっと、いっぱい、一緒にいたい」
凛子の涙が、テーブルの上に、小さな水たまりを作っていく。
猛男は、凛子の隣で、拳を、ぎゅっと握りしめた。
(大和が、泣いてる)
(オレのせいで、大和が、悲しんでる)
猛男の胸が、痛んだ。
でも、同時に、心の奥底から、熱いものが、こみ上げてきた。
(オレは、大和の彼氏だ)
(大和を、泣かせるわけには、いかない)
猛男は、顔を上げた。
「大和」
猛男の声が、凛子の涙を、そっと、包み込んだ。
凛子が、涙で濡れた顔を、上げた。
「オレ、待つよ。何年でも、待つ」
猛男は、凛子の目を、真っ直ぐに見つめた。
「大和が、スペインに行っても、オレは、大和のことが、ずっと好きだ。大和が、帰ってくるまで、オレ、ずっと、ここにいる。大和のことを、待ち続ける」
猛男の声は、震えていなかった。
真っ直ぐで、力強い、猛男の、心からの言葉。
「だから、大和。お前は、お前の人生を、大事にしろ。スペインで、お菓子作り、いっぱい勉強してこい。オレ、大和の作るケーキ、世界で一番好きだから。スペインで、もっと、すごいケーキを作れるようになった大和を、待ってる」
猛男は、凛子の手を、そっと握った。
大きな手が、凛子の小さな手を、温かく包み込む。
凛子の涙が、また、あふれ出た。
でも、それは、悲しみの涙じゃなかった。
「たけおくん……」
凛子は、猛男の手を、ぎゅっと握り返した。
「うち、頑張る。スペインで、お菓子作り、いっぱい勉強する。たけおくんに、おいしいって、言ってもらえるように、もっと、もっと、頑張る」
凛子の声が、涙で震えながらも、力強く響いた。
凛子の父と母は、顔を見合わせた。
それから、二人とも、優しく、微笑んだ。
「剛田くん。凛子を、よろしく頼むよ」
凛子の父は、猛男に、深々と、頭を下げた。
「はい。大和は、俺が、必ず、幸せにします」
猛男は、凛子の父の目を、真っ直ぐに見て、そう言った。
凛子の父は、猛男の真剣な表情を見て、少し安心したように、うなずいた。
「お姉ちゃん、スペイン行くの? すごい!」
弟が、無邪気に、声を上げた。
「そうね。お姉ちゃん、スペインで、お菓子の修行してくるわ」
凛子は、涙を拭いて、弟に、笑いかけた。
(大和は、強い)
(オレも、負けてられない)
猛男は、心の中で、強く、誓った。
——
夕食の後、猛男は、凛子を、家まで送ることになった。
正確には、凛子が、猛男を、アパートの下まで見送る、という形になった。
「たけおくん、今日は、来てくれて、ありがとう」
凛子は、アパートの前で、猛男に、微笑んだ。
「お、おう。こっちこそ、ごちそうさまだった。お前の母さんの料理、めちゃくちゃ、うまかった」
猛男は、お腹を、さすった。
「えへへ。うちも、お母さんの料理、大好きなの」
凛子は、笑った。
「あのね、たけおくん」
凛子が、猛男を、見上げた。
「うち、スペインに行っても、たけおくんのこと、絶対に、忘れない。毎日、たけおくんのこと、考える」
凛子の大きな茶色の瞳が、街灯の光を反射して、きらきらと輝いていた。
「うち、たけおくんに、手紙、いっぱい書くね。それから、スペインのお菓子も、いっぱい勉強して、たけおくんに、食べてもらうの」
凛子の声が、夜の静けさに、優しく響く。
「だから、たけおくんも、うちのこと、忘れないでね」
凛子は、少し、不安そうに、そう言った。
猛男は、凛子の両肩を、そっと掴んだ。
「大和。オレが、お前を、忘れるわけないだろ」
猛男は、凛子の目を、真っ直ぐに見つめた。
「遠距離になっても、オレ、毎日、連絡する。手紙も書く。大和が、スペインにいても、オレの心は、変わらねえ。絶対に、変わらねえ」
猛男の声は、力強く、凛子の心に、まっすぐに、届いた。
「うん。うちも。うちも、たけおくんのことが、大好き。ずっと、ずっと、大好き」
凛子は、泣きながら、笑った。
猛男は、凛子の手を、ぎゅっと握った。
(好きだ)
心の中で、叫ぶ。
(大和のことが、好きだ)
声にならない声が、夜の空に、溶けていく。
猛男は、凛子の手を握る力を、少し、強くした。
凛子も、握り返した。
二人の前に、新たな試練、遠距離恋愛が、立ちはだかっていた。
でも、二人の瞳は、希望に満ちていた。
雪は、いつの間にか、やんでいた。
雲の切れ間から、星が、一つ、顔を出していた。
——
猛男は、凛子と別れた後、一人、夜道を歩いていた。
(スペインか)
(遠い国だ)
(でも、大和が、帰ってくるまで、オレは、ここで、待つ)
猛男は、空を見上げた。
星が、きらきらと、輝いていた。
(大和も、今頃、同じ空を見てるかな)
猛男は、携帯電話を取り出した。
凛子からの、メッセージが、届いていた。
『たけおくん、今日は、本当にありがとう。うち、たけおくんと、付き合えて、本当に幸せ。スペインに行っても、ずっと、たけおくんのこと、大好きだよ』
猛男の心臓が、ドクンと鳴った。
(好きだ)
心の中で、叫ぶ。
(大和のことが、好きだ)
猛男は、携帯を、胸に、ぎゅっと抱きしめた。
(オレ、絶対に、大和を、幸せにする)
(何年かかっても、大和が、帰ってきたら、今度こそ、ちゃんと、伝えるんだ)
(オレの、この気持ちを、全部)
猛男は、星の輝く夜空の下、一人、静かに、歩き続けた。
その足取りは、いつもより、少しだけ、力強かった。Noveliaとは?
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