真夜中の庭園—夢が根を張る場所
灰色に沈んだ村アッシュ・ホローでは、住民の希望を体系的に吸い尽くす呪いが長年の間、静かに蔓延していた。その暗き時代に、十六歳のリオラは一つの稀有な才能に目覚める—毎夜出現する幻想の庭園真夜中の庭園への侵入能力である。この領域は、眠る住民たちの夢から咲き出した花々で満ち、各花弁には忘れられた願い、放棄された愛情、失われた野心が符号化されていた。庭園そのものは欲望と記憶の重層テキストであり、その共同体が信じることを止めたすべてのものを収蔵する生きた記念碑である。
この孤立した使命を背負うリオラは、幼馴染のジュンに力を借りることになる。十七歳のジュンは機知と勇敢さで周囲を魅了するが、その本質は深い誠実さと超自然現象への知的好奇心に根ざしていた。リオラの直感的な信頼とジュンの論理的懐疑は相互補完し、庭園の導きに従う彼女と因果律を要求する彼は、二つの車輪となって物語を前へ押し進める。夢の花々を採集し、目覚めた村人たちの手に返すことで、呪いの反転を期待したのだ。
しかし庭園の深層へ足を踏み入れるたび、彼らは悪夢から生まれた寄生的存在シェイドウォーカーに直面する。そしてより不気味な出会いが待って
真夜中の庭園—夢が根を張る場所 - The Baker's Breath and the Boy Who Watched the Dark
燠火亭——灰谷の唯一の酒場——の前の通りは、まだ朝霧に包まれていた。
あの夜のことが、まだLioraの手のひらに残っている気がした。庭の冷たい土の感触。Jun の掌の温かさ。そして、時計の針が指していた、体感とはまるで違う時間。一時間以上、Junは暗い小屋の中で待ち続けていた——あの粗末な木の椅子に腰掛けて、秒針の音を数えながら。
Lioraは石畳を踏みながら、そのことをじっと考えた。
今日はElda のところへ行く。あの夜、花冠の野で見つけた琥珀色の花弁——錆びた赤の花ではなく、もっと温かみのある金色に近いもの——を、老パン焼きのElda に届けるために。
「緊張してる?」
隣を歩くJunが、ノートを脇に挟みながら聞いた。
「うん、少し」
「でも効くと思う。あの花弁の脈動の感じからして——」
「科学の話は後で」
「……うん、そうだね」
Lioraは少し笑った。Jun が黙ると、石畳の音だけが残った。
◇
Elda の家は村の南西端、鈍色の礼拝堂——もう誰も使わない、壁画が灰色に褪せた礼拝堂——のすぐ隣にある小さな石造りの建物だ。かつてはここから毎朝、灰焼きパン——Ashloaf と呼ばれる、直火の灰の中で焼く素朴なパン——の香りが漂っていたのだと、Dallaが昔話のように語っていた。今は窓が閉まったまま、扉も重い。
Lioraがノックすると、しばらくしてから扉が開いた。
老婆が顔を覗かせた。七十代だろうか。白髪が薄く、頬が落ちくぼんでいる。目には光が少ない。Elda——かつて灰谷で一番のパン職人だったという女性は、三年前からオーブンに火をつけていない。Dalla がそう言っていた。「理由は分からない。ある朝、急に止まったのよ」と。
「……誰?」
「Lioraです。Maren の孫の」
老婆の目がわずかに動いた。Maren の名前には、まだ反応する。
「なんの用?」
「これを、お届けしたくて」
Lioraは押し花帳から取り出した花弁を差し出した。琥珀色の、透明感のある花弁。親指と人差し指でそっと挟むと、微かな脈動が指先に伝わる。Elda の視線が花弁に落ちた。
「なに、これ」
「受け取ってもらえますか。Elda さんのものだから」
Elda は花弁を受け取った。皺だらけの掌の上で、琥珀色がじわりと光る。
数秒、老婆は黙っていた。
それから——
頬に、色が戻ってきた。
ほんの少し。ほんの、わずかに。でも確実に。灰色だった顔に、かすかな温かみが滲み出す。老婆の目が、ゆっくりと焦点を取り戻す。
「……なんか、思い出した」
「何を?」
「パンの、配合」
Elda は呟いた。それだけ言うと、扉を大きく開けて、中に引っ込んでいった。招き入れられたのかどうかも分からないまま、LioraとJunは顔を見合わせた。
Jun が小声で言った。「入る?」
「……入る」
◇
台所は埃っぽかった。でも五分後には、粉が舞っていた。
Elda は台の上に小麦粉を山盛りにして、両腕を突っ込んでいた。力強くこねる。リズムがある。かつての習慣が体の中から戻ってきているような動きだった。唇が微かに動いている——配合を呟いているのだと、しばらくして気づいた。「大麦一、小麦三、塩はひとつまみ……」
Junはノートを取り出して、端から端まで使ってメモを取り始めた。
「発症から効果発現まで、約四十秒……頬部の血色回復が先行して、その後に認知機能の——」
「はい、これ食べて」
Elda がこねたそばから一切れちぎったパン生地を、Junの口に突っ込んだ。
「——ぐっ」
「焼いてないけど、配合は合ってるから。どう?」
Junは生地を咀嚼しながら、ノートを握ったまま固まっていた。「……あの、これは生地の段階で——」
「味は?」
「……もっちりしてます」
「そう! そうなのよ。こねが足りないとふわっとしすぎる。分かった?」
「分かりました」
Junはノートの余白に「こね足りない→ふわふわ、こね過ぎ→? / 主観的評価に頼らざるを得ない状況」と書き込んだ。Lioraはその横でくつくつと笑いをかみ殺した。
Elda はオーブンに火をくべ始めた。三年ぶりに、鈍色の礼拝堂の隣の家に炎が灯る。
その光を見ながら、Lioraは胸の奥で何かが緩む感覚を覚えた。安堵、とも少し違う。もっと——静かで、温かいもの。
窓の外から、誰かが足を止めた気配がした。
のぞいてみると、通りに老農夫が立っていた。そして、その隣に別の人が来て。また別の人が。誰も何も言わず、ただ窓の向こうを見ている。Elda の台所から漂い始めた、酵母の香りを追ってきたのだ。パンの香り——三年間、この村からなくなっていたもの。多くの村人は、それが何の香りかすぐには思い出せなかったかもしれない。でも体は覚えていた。
Jun が窓の外を見て、小声で言った。「半径、何メートルだろ」
「測らなくていい」
「でも——」
「測らなくていい」
Junは黙った。それからゆっくり、ノートを閉じた。
二人は並んで、窓の外の人たちを見ていた。誰かが「パンの匂いがする」とようやく言葉にした。それだけで、通りにいた全員がほんの少しだけ顔を上げた。
Lioraは、生まれて初めてかもしれないくらい、素直に笑えた。
◇
Elda の家を出たのは昼前だった。
帰り道、二人は村の中央通りを通った。昨日より少しだけ人の顔が明るい気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいでも、別にいい。
Junが足を止めた。
Lioraも止まった。
鍛冶屋だった。正確には、もう鍛冶屋として機能していない——Junの父Torbenの作業場。石造りの小さな建物で、煙突は冷たく、扉は半開きになっている。中に人影が見えた。椅子に腰掛けて、炉を見ている男。かつて鉄を叩いていた大きな手が、今は膝の上に置かれたまま、何もしていない。
Junは建物に入らなかった。扉の前で立ったまま、中を見ていた。
Lioraはその横顔を見た。
感情が全部、表面をなぞるだけのような表情だった。怒っているのか、悲しいのか、それとも諦めているのか——全部少しずつあって、どれも中途半端に見えた。Jun がこういう顔をするのを、Lioraは久しぶりに見た気がした。
しばらくして、Junが口を開いた。「庭に行ける? 今夜」
「うん」
「父さんの花、探してほしい」
静かな声だった。いつもの飄々とした感じが、ほんの少し抜け落ちている。Lioraはその声の変化を、きちんと受け取った。
「分かった」
Junは少し間を置いた。「……もう断られる前に、うなずいてたよ、俺」
「気づいてた」
「恥ずかしいな」
「別に」
Junはやっとすこし笑った。苦笑いに近い。それから懐から小さな紙を取り出した。丁寧に折りたたまれた、手書きのスケッチ。広げると、鍛冶用のハンマーが描いてあった。細部まで正確な、職人の仕事を観察してきた目の描き方だ。
「これ、褪色が始まる前の年に父さんが作ったもの。こういうの、庭で見つけたら分かる?」
Lioraはスケッチを受け取った。「花はこれと同じ形じゃないけど——でも、探すときの手がかりにする」
「ありがとう」
言葉が短かった。それ以上の言葉を、Junは持っていないようだった。Lioraもそれで十分だと思った。スケッチをコートのポケットにしまいながら、Torbenの後ろ姿を一度だけ見た。
あの人の夢は、まだ庭に咲いているだろうか。
◇
夜になった。
マレンの小屋——Lioraが一人で住む、祖母の遺した家——の居間に蝋燭が一本灯っている。Junは壁際に座って、Lioraの左手をしっかり握っていた。前回と同じ配置。でも今回は何も言わなかった。ただ、しっかりと握っている。
Lioraは目を閉じた。
薄明が完全に終わっている。庭視——Garden-Sight——が使えるのは、暗闇の時間だけだ。意識を集中する。現実の床の感触を保ちながら、別の場所への入り口を探す。
視界が滲んだ。重なる。
そして——開いた。
花冠の野。The Coronal Meadow。
無数の花が低く光っている。青、金、淡い赤、白。今夜は風がある。花々が一斉に揺れて、光の波が広がる。Lioraは深呼吸した。空気が庭の深いところまで入ってくる感じ。冷たくて、湿っていて、夢の匂いがする——甘くも苦くもある、形容しがたいもの。
探す。Torbenの花。
鍛冶師の情熱——かつて火を前にして、鉄を叩いていた男の夢。どんな色をしているだろう。どんな形をしているだろう。スケッチのハンマーを頭に浮かべながら、花の海を歩く。
すぐには見つからなかった。
明るい色の花ではない、と直感した。Elda の琥珀色とは違う。もっと落ち着いた、冷えた色のはず。鉄の色。火が消えた炉の色。
根絡みの径——The Tangleroot Path——に近い方向に、より暗い花の群れがある。Lioraはそこへ向かった。巨大な根が地面をうねるように走り、踏み外すと足をとられる。慎重に進む。Shadewalkersの気配を探る。今のところ——いない。
花の密度が薄くなる中に、それはあった。
低い花だった。花冠の野の花々と比べると、半分ほどの高さしかない。色は金属を冷やした時の青みがかった灰色——あの炉が消えた後の、鉄の色。花弁は内側に丸まっていた。閉じかけている。茎は細いが、根だけはしっかり地面を掴んでいた。
死んでいない。でも、ほとんど眠っている。
Torben の夢だ、とLioraは思った。確信はない。でも、確信は不要だと思った。
しゃがんで、花に手を伸ばす。
触れる直前——
来た。
音もなく。気配もなく。ただ突然、視界の端が黒くなった。
気づいた時には、もう背後にいた。
大きい——これまで見た中で一番大きい。二メートルを超えている。黒い煙状の人型から、無数の細い腕が伸びている。Shadewalker——影歩き。でも今回は違った。前回のように突進してこない。ただ、近づいてくる。ゆっくりと。まるで急ぐ必要がないとでも言うように。
Lioraは立ち上がって後退しようとした。足が動く。でも逃げ切れない距離だと分かった。
影歩きが、すぐ後ろに立った。
触れていない。触れていないのに——
何かが、頭の中に入ってきた。
音ではない。声でもない。でも、意味がある。言語として処理される前に、直接、感情として流れ込んでくる。
——あなたが来なくても、誰も気づかなかった。
Lioraの中で、何かが揺れた。
——この村の人たちは、あなたのことを必要としていない。
違う、とLioraは思った。思おうとした。Elda の顔が、今日戻ってきた頬の色が——
——あれはパンの香りのせい。あなたのせいではない。
体が冷えていく。指先から。手首へ。肘へ。
——八年間、誰も来なかった。誰もあなたの部屋の灯りを見に来なかった。それはなぜだと思う?
親の顔が浮かんだ。Ketterford——荊帳峠の向こうの町——へ行って、二度と戻らなかった両親。Lioraだけを置いて。
——あなたはずっと、うまく消えている。だからみんな、あなたなしでも困らない。
冷たさが肩まで来た。思考が遅くなる。この声は、Lioraの記憶の中から言葉を選んでいる。Lioraが一番怖い形で、Lioraに語りかけている。
——戻っても、誰も待っていない。
その時。
声が聞こえた。
Junの声だった。
「Liora」
現実の声だ。庭の外から来る、物理的な音。影歩きの声より小さい。でも確実に聞こえる。
「Liora!」
——誰も待っていない。
でも、Junの声は続く。名前だけを呼ぶ。それだけを繰り返す。影歩きの声が言うこととは、根本的に食い違っている。誰かが、今この瞬間、Lioraの名前を叫んでいる。
その矛盾が、引っかかった。
待っていない、と影歩きは言う。でも声は聞こえる。どちらかが嘘をついている。
Lioraは、Junの声の方向を探した。現実の方向。重力の方向。手が握られている感覚——まだある。冷たくなりながらも、まだ。
そこへ向かって、全力で引っ張った。
◇
バタン、と音がした。
Lioraは小屋の床の上に倒れていた。石の冷たさが背中に伝わる。荒い息。視界が揺れている。
Junが膝をついて、覗き込んでいた。
顔が青白い。片手は今もLioraの手を握っている。「Liora」 と言って、それ以上何も言えないでいた。
「……ただいま」
Junは返事をしなかった。Lioraの顔を見ている。目の動きを見ている。片方の目から次の目へ、確認するように。
Lioraは自分の手を見た。空っぽだった。Torbenの花は、持ってこれなかった。
「取れなかった」
「分かった」
「見つけたんだけど——途中で」
「無理しなくていい。今は」
Lioraは起き上がろうとして、少しよろけた。Junが支えた。自然な動作で、何も言わずに。
二人は居間の床に並んで座った。蝋燭の火が揺れている。外は静かだ。灰谷の夜はいつも静かだけど、今夜はその静けさが少し違って感じる。
しばらくして、Lioraが口を開いた。
「影歩きが、何か言ってきた」
「何を?」
「……誰もわたしを必要としていない、って。わたしがいなくても、誰も気づかない、って」
言葉にすると、ほんの少し軽くなった気がした。でも軽くなりきらないものも残った。
Junは何も言わなかった。
Lioraは横を見た。Junがノートを開いていた。今夜のメモ——入域時刻、体温の変化、回復の記録。ページを繰る手が、途中で止まった。
Junは最初のページまで戻った。EP1からの記録。丁寧な文字で書かれた数値が並んでいる。入域時間、回復時間、体温の正常化までの経過。
指が一列を追う。次の列へ。また次へ。
Lioraは何も言わずに待った。
Junが静かに言った。「冷たさが戻るまでの時間が、毎回少し長くなってる」
「……知ってた」
「俺は知ってた。データとして、ずっと見てた」
「うん」
「でも——」
Junは言葉を探しているようだった。いつも言葉が先に出てくる Jun が、珍しく時間をかけている。
「俺、お前を行かせすぎたと思う」
「わたしが毎回、自分で決めた」
「そう。でも俺が毎回、先に聞いてた」
Lioraはその言葉の重みを、しばらく黙って受け取った。
Junはノートをゆっくり閉じた。机の上に置く。力を抜いた感じで。
Lioraはコートのポケットから、Torbenのハンマーのスケッチを取り出した。今夜は使えなかった紙切れ。でも捨てる気にも、返す気にも、なれなかった。ただテーブルの上に、静かに置いた。
閉じられたノートと、ハンマーのスケッチが、蝋燭の光の中に並んでいた。
Junはそれを見た。Lioraも見た。
どちらも何も言わなかった。でもその問いは、テーブルの上で静かに、確かに、二人の間に置かれていた。Noveliaとは?
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