群堂みすずは見ていた
幼い頃からずっと一緒だった幼なじみの智と淳一郎。智の初恋を実らせようと奮闘する親友・みすずだったが、淳一郎が他の女子に告白される現場を目撃してしまう。モヤモヤする胸の奥——その感情の正体に、みすず自身がまだ気づいていない。じれったくて、ほろ苦い、すれ違い青春ストーリー。
群堂みすずは見ていた - 鈍感野郎とボーイッシュ幼馴染み ―― 言えない一言、見えない本音
教室の空気が、夏の名残をまだ抱えていた。
九月に入って三日目。私立アオバ学園の校舎には、夏休みの間に積もったざわめきがまだ溶けきらずに残っている。窓の外から聞こえる蝉の声は、先週よりずいぶん弱々しくなっていた。それでも、日差しは容赦なく照りつけて、ブレザーの下のシャツをじっとりと湿らせる。
群堂みすずは、一年三組の教室の入り口に立っていた。
肩につくかどうかの黒髪が、首をかしげるたびに毛先だけ跳ねる。切れ長の深い茶色の瞳が、糸のように細くなって、教室の中の二人をじっと見つめていた。左目の下にある泣きぼくろが、表情をほんの少しだけ憂鬱そうに見せる。
(ああ、またやってる)
みすずの視線の先では、相沢智が久保田淳一郎の頭を勢いよくはたいていた。
明るい茶色のショートヘアが、智が動くたびにふわりと揺れる。寝癖がつきやすいその髪は、今日も後ろの方が少し跳ねていた。琥珀色の大きな瞳が、怒っているのにどこか楽しそうに輝いている。八重歯がのぞく笑顔は、教室のどの女子よりも太陽に近い。
「いてっ」
淳一郎が大げさに頭を押さえた。黒髪は短く刈り込まれていて、朝の寝癖がそのまま残っている。左眉の上にある小さな切れ傷が、昔の喧嘩の名残だと言わんばかりに主張していた。濃い灰色の瞳は、智を見つめるときだけ、普段の物静かな色を失って、少年みたいに無邪気になる。
「なんで叩くんだよ、智」
「うっさい! お前が変なこと言うからだろ!」
「変なことって、スカート短くね? って言っただけだろ。寒くないのかって」
「九月に寒いわけねえだろ、バカ!」
智がもう一度、淳一郎の肩を叩いた。淳一郎は笑いながら、それを腕で受け止める。二人の間には、幼稚園の頃からずっと変わらない空気が流れていた。じゃれ合い。取っ組み合い。周りから見れば、ただの仲の良い幼馴染み。
でも、みすずだけは知っている。
智の気持ちは、あの夏の日からずっと、淳一郎に届いていない。
(進展ゼロどころか、マイナスよ。あれじゃあ、ただの兄弟喧嘩)
みすずは心の中で毒づいた。口には出さない。出す必要がない。この毒舌は、私の頭の中で完結するものだから。
でも、今朝はそれだけじゃなかった。
みすずの胸の中に、昨夜の光景がこびりついている。
駅東口のファミリーマート。夜の駐車場の隅。淳一郎が、小川という後輩の女子に告白されている場面。ガラス越しに聞こえた「好きです」という声。淳一郎が頭を下げる姿。
(断った。でも、智に言うべき?)
みすずは、教室の中の智の顔を見た。淳一郎に叩かれて、笑って、怒って、いつも通りの智。この子に、淳一郎が他の子に告白されたって伝えたら、どんな顔をするだろう。
(……言えない)
みすずは、唇を引き結んだ。言えるわけがない。智は、淳一郎のことがまだ好きなのに。
「みすずー!」
突然、教室の中から智の声が飛んできた。みすずは、びくりと肩を揺らす。
「なに突っ立ってんだよ。入ってこいよ」
智が、ひらひらと手を振っている。淳一郎も、隣でみすずを見ていた。
みすずは、小さく息を吐いてから、教室の中へ足を踏み入れた。
「別に、あんたたちの朝の漫才を眺めてただけよ」
「漫才ってなんだよ!」
「そのまんまの意味よ。あんたたち、毎朝同じことやってるわね。飽きないの?」
みすずは、智の隣の席に腰を下ろした。ここは智と淳一郎のクラス。みすずのクラスは隣だ。でも、朝はいつもこうして、智の顔を見に来る。それが、いつの間にか習慣になっていた。
「飽きるもなにも、淳一郎が毎回変なこと言うからだろ」
「俺は別に変なこと言ってねえよ」
「言ってるんだよ! この前なんて、私が髪切ったのに気づきもしなかったくせに!」
「え、切ったのか?」
智が、ぐっと拳を握った。みすずは、ため息をつく。
「淳一郎、あんたねえ……」
「なんだよ、みすず」
「あんた、トモが夏休みの終わりに髪切ったの、本気で気づいてなかったの?」
淳一郎は、きょとんとした顔で智の頭を見た。
「……言われてみれば、少し短いかも」
「少しじゃねえ! 五センチも切ったんだよ!」
智が、また淳一郎の肩を叩いた。淳一郎が笑いながら逃げる。二人の騒がしさが、教室の朝の空気に溶けていく。
みすずは、その光景を眺めながら、心の中でまた毒を吐いた。
(五センチよ。五センチ。女の子が髪を五センチも切ったら、普通は気づくものなんじゃないの?)
でも、淳一郎は気づかない。智の変化に、淳一郎はいつも鈍い。
(……ああ、もう。この鈍感野郎)
みすずは、自分の頬が少し熱くなっていることに、気づかないふりをした。
淳一郎が、智の髪をじっと見ている。その真剣な顔が、朝日を浴びて、やけに眩しく見えた。
(なんで、あんたはそうやって、無自覚に人の心をかき乱すのよ)
みすずは、視線を窓の外へ逃がした。
アオバ坂の銀杏並木が、遠くに見える。葉はまだ青い。秋は、もう少し先だ。
***
昼休み。
みすずは、智に手を引かれるようにして、中庭に出ていた。
私立アオバ学園の中庭は、昼休みになると弁当を広げる生徒で賑わう。四つのベンチはいつも満席で、小さな花壇の縁に座る生徒も多い。今日も、九月の日差しが中庭を明るく照らしていた。
「で、みすず。なんかあった?」
智が、ベンチに座るなり、みすずの顔をのぞき込んできた。琥珀色の大きな瞳が、まっすぐにみすずを見つめる。
みすずは、買ってきたパンの袋を開けながら、とぼけた。
「別に。なんにもないわよ」
「嘘つけ」
智が、ずいっと顔を近づける。
「みすず、嘘つくとき右眉上がるんだよ。今、上がってる」
みすずは、思わず自分の右眉に手をやった。
(……この子、意外とよく見てるわね)
みすずは、観念して、パンを一口かじった。コロッケパン。ミナギハ銀座商店街のパン屋「コムギノ」の朝の売れ筋だ。サクサクの衣と、甘いソースが口の中に広がる。
「……トモ」
「なんだよ」
みすずは、ゆっくりとパンを飲み込んでから、智の目を見た。
「あんた、淳一郎のこと、まだ好きなんでしょ」
智の手が、ぴたりと止まった。
持っていたカレーパンの袋が、かさりと音を立てる。智の耳が、みるみる赤くなっていく。
「な、なに言ってんだよ! そんなんじゃねえし!」
声が裏返っている。みすずは、智の反応を見て、確信した。
(やっぱり、まだ好きなんだ)
智は、カレーパンを口に押し込みながら、視線をあちこちに泳がせた。
「俺は、別に、淳一郎のことなんて……あいつはただの幼馴染みで、それに、あいつ、鈍感だし、バカだし、スカートの丈で寒さを心配するようなやつだし……」
「何もそこまで言ってないわよ」
みすずは、苦笑いした。
「うっさい! とにかく、違うから!」
智が、顔を真っ赤にして、カレーパンをむしゃむしゃと食べ始めた。耳の先まで赤い。
みすずは、その姿を見ながら、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
(この子、こんなにわかりやすいのに、なんで淳一郎だけが気づかないのよ)
智の不器用な一途さは、みすずが誰よりもよく知っている。
――あの日のことを、思い出す。
***
中学三年の冬。
十二月のサカミ川の土手は、冷たい風が吹き抜けていた。
みすずは、智に呼び出されて、土手に向かった。てっきり、三人で遊ぶのかと思っていた。でも、土手に着いたとき、そこにいたのは智と淳一郎の二人だけだった。
みすずは、少し離れた桜の木の陰に隠れて、二人の様子を見ていた。
冬の桜は、裸の枝を空に突き出している。夕日が、その枝の間から、川面に長い影を落としていた。
「淳一郎、話があるんだ」
智の声が、いつもより低くて、少し震えていた。
「おう、なんだ?」
淳一郎は、いつも通りの調子で、智の顔を見た。
智は、拳をぎゅっと握っていた。指の先が白くなっている。長い沈黙のあと、智は一気に言った。
「私、淳一郎のことが好きだ!」
みすずは、息を止めた。胸の奥で、何かが激しく脈打つ。
淳一郎は、一瞬きょとんとして、それから満面の笑みを浮かべた。
「おう、俺も親友として好きだぜ!」
――あの瞬間の、智の顔。
みすずは、今でもはっきり覚えている。
琥珀色の大きな瞳が、一瞬で強張った。笑顔を作ろうとして、失敗した。唇の端が、ひきつるように上がる。あれは笑顔じゃない。諦めの形をした、何か別のものだった。
「……そうだよな。親友だよな」
智はそう言って、淳一郎の胸を軽く叩いた。いつも通りの、じゃれ合いの延長。でも、みすずには分かった。智の指先が、震えていた。
みすずは、その場から動けなかった。
何か言わなきゃ、と思った。でも、何を言えばいいのか分からない。あの鈍感野郎、と心の中で罵るのが精一杯だった。
淳一郎は、智の肩を組んで、笑っていた。
「これからも、ずっと親友だぜ!」
智は、笑った。声を上げて、笑った。
「おう! 当たり前だろ!」
でも、その笑い声は、冬の風に消えていった。
みすずは、桜の木の陰で、ただ立ち尽くしていた。
(なんで、あんたは気づかないのよ)
心の中で、何度も何度も繰り返した。
淳一郎の鈍感さに、怒りが湧いた。でも、それ以上に、智の震える指先を見ていたら、胸が締め付けられて、涙が出そうになった。
(この子は、こんなに、こんなに……)
みすずは、そのとき、初めて思った。
私が、この二人をくっつける。
智の初恋を、実らせる。
それが、私の役目だ。
でも――その決意の奥で、みすずはもう一つの感情に気づいていた。
淳一郎の笑顔を見たとき、自分の胸が、智と同じように痛んだことに。
(……違う。これは、智のための痛みよ)
みすずは、そう自分に言い聞かせた。
今も、そう言い聞かせ続けている。
***
放課後。
みすずは、一人でアオバ坂を下っていた。
長い上り坂は、下りになると足が軽い。銀杏並木の影が、夕日に伸びて、アスファルトの上にまだら模様を作っている。九月の風が、ブレザーの裾をふわりと揺らした。
(今日も、何も進展しなかったわね)
みすずは、心の中でため息をついた。
昼休みに智を問い詰めたが、結局、智は「違う」と言い張った。でも、耳が赤かった。あれは、図星の証拠だ。
(あの子、まだ淳一郎のこと好きなくせに、意地張って……)
みすずは、坂の途中で足を止めた。
群堂家は、このアオバ坂の途中にある。駅東口から学園へ向かう途中の、静かな住宅街の一角。智の家も、淳一郎の家も、ここから徒歩五分圏内だ。幼馴染み三人の家が、こんなに近くに集まっている。
(だから、余計に逃げられないのよね)
みすずは、また歩き出した。
そのときだった。
「おい、みすず」
後ろから、声がした。
振り返ると、淳一郎が小走りで追いかけてくるところだった。黒髪が風に揺れて、左眉の傷が夕日に浮かび上がる。
「……なによ、淳一郎」
みすずは、歩く速度を落とさずに言った。
淳一郎は、みすずの隣に並んだ。少し息が上がっている。
「みすず、ちょっと聞いてくれよ」
「聞いてるわよ。なに?」
淳一郎は、頭をかいた。考えるときの癖だ。
「あのさ、昨日の夜、小川って後輩に告白されたんだよ」
みすずの足が、一瞬止まりかけた。
(……知ってるわよ)
でも、そんなことは言えない。みすずは、平静を装って、また歩き出した。
「へえ。それで?」
「断った」
淳一郎の声は、あっさりしていた。
「なんで断ったかって、今はそういうの考えられないからって言ったんだよ。そしたら、小川、泣いちゃってさ。俺、なんか悪いことしたのかなって」
みすずは、淳一郎の顔を見た。
淳一郎は、本当に困った顔をしていた。悪意は一ミリもない。ただ、自分のしたことが正しかったのかどうか、本気で悩んでいる顔だった。
(この男は……)
みすずは、胸の奥で、安堵と怒りが同時に湧き上がるのを感じた。
安堵。淳一郎が、小川の告白を断ったこと。
怒り。淳一郎が、そのことを、よりにもよって私に報告してくること。
「……なんで、それを私に言うのよ」
みすずは、声が少し尖るのを抑えられなかった。
淳一郎は、きょとんとした。
「なんでって……みすずなら、どうしたらいいか分かるかと思って」
「は?」
「みすずってさ、そういうの詳しいだろ。智のことも、よく分かってるし。俺、小川に悪いことしたかなって、ずっと考えてたんだよ。でも、智に相談したら、なんか怒られそうだし」
みすずは、立ち止まった。
淳一郎も、つられて立ち止まる。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
「……あんた、ほんと鈍感野郎ね」
みすずの口から、毒が漏れた。
でも、その毒は、自分に向けられたもののような気がした。
淳一郎は、首をかしげた。
「鈍感? 俺が?」
「そうよ。あんた、なんで智に相談しないのよ。智は、あんたの幼馴染みでしょ。一番近くにいるのは、智じゃない」
淳一郎は、少し考えてから言った。
「……智は、なんか違うんだよ」
「違うって、なにが」
「智は、そういう話、あんまり真面目に聞いてくれなさそうだろ。殴られて終わりだ」
みすずは、思わず笑ってしまった。
「……それ、一理あるわね」
淳一郎も、つられて笑った。
「だろ? だから、みすずに聞いたんだよ」
淳一郎の笑顔が、夕日に照らされて、やけに柔らかく見えた。
みすずは、胸の奥で、また何かが脈打つのを感じた。
(なんで、あんたはそうやって、無自覚に……)
みすずは、その感情に名前をつけるのを、やめた。
「……小川さんのことは、ちゃんと断ったなら、それでいいのよ。あんたが泣かせたのは事実だけど、告白を断るときに、相手を傷つけない方法なんてないんだから」
みすずは、ゆっくりと言った。
「でも、次に誰かに告白されたら、ちゃんと考えなさいよ。あんたの気持ちを。誰かを好きになるってことが、どういうことなのか」
淳一郎は、真剣な顔でみすずを見た。
「……わかった」
「わかったなら、いいわよ。じゃあ、私はこっちだから」
みすずは、淳一郎に背を向けた。
群堂家の門が見えている。
「みすず」
淳一郎の声が、背中に届いた。
「ありがとな。聞いてくれて」
みすずは、振り返らなかった。
「……別に。あんたの相談に乗っただけよ」
そう言って、みすずは家の門をくぐった。
心臓が、うるさかった。
(なんで、私がこんなに動揺してるのよ)
淳一郎が、私に相談してきた。ただ、それだけのことなのに。
みすずは、玄関のドアを開けながら、唇を噛んだ。
***
夜。
みすずは、布団の上でスマホをいじっていた。
部屋の電気は消してある。窓の外から、虫の声が聞こえる。夏の終わりの、か細い声。
(今日は、色々ありすぎたわ)
朝は、智と淳一郎のじゃれ合い。昼は、智の問い詰め。放課後は、淳一郎の相談。
みすずは、天井を見上げた。
淳一郎の「ありがとな」という声が、耳に残っている。
(あの鈍感野郎。なんで、あんな顔で笑うのよ)
みすずは、枕に顔を押し付けた。
そのとき、スマホが震えた。
画面を見ると、智からのメッセージだった。
『なあ、みすず。私、もう一回淳一郎に告白しようと思うんだ。今度こそ、ちゃんと伝えたい』
みすずの手が、止まった。
画面の文字を、何度も読み返す。
『今度こそ、ちゃんと伝えたい』
智の決意が、画面越しに伝わってくる。
みすずは、スマホを握りしめた。
「……バカね、あんた」
声に出して、呟いた。
でも、その声は、静かな部屋に溶けていった。
みすずは、返信を打とうとして、指を止めた。
(私は、智を応援しなきゃいけない)
そうだ。私の役目は、智と淳一郎をくっつけること。
智が、もう一度告白する。今度こそ、淳一郎に届くように。
私は、それを支えなければいけない。
(……なのに、なんで)
みすずは、スマホを胸の上に置いた。
淳一郎の笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
放課後のアオバ坂。夕日に照らされた淳一郎の顔。
「ありがとな、みすず」
その声が、何度も何度も、頭の中で繰り返される。
(違う。私は、智の味方よ)
みすずは、目を閉じた。
でも、胸の奥のざわつきは、消えなかった。
窓の外で、虫の声が、静かに続いている。
みすずは、スマホを握りしめたまま、返信を打てずにいた。
智のメッセージに、なんて返せばいいのか。
「応援してる」と、送ればいい。
それだけのはずなのに。
みすずの指は、動かなかった。Noveliaとは?
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