群堂みすずは見ていた
幼い頃からずっと一緒だった幼なじみの智と淳一郎。智の初恋を実らせようと奮闘する親友・みすずだったが、淳一郎が他の女子に告白される現場を目撃してしまう。モヤモヤする胸の奥——その感情の正体に、みすず自身がまだ気づいていない。じれったくて、ほろ苦い、すれ違い青春ストーリー。
群堂みすずは見ていた - 嘘つくの下手ね ―― ファミマの夜、見抜かれた恋心
違う、と思った。
頭では分かっている。あの二人が近づくことは、私が望んだことのはずだって。なのに、なぜ胸の奥がこんなにざわつくのだろう。
群堂みすずは、放課後の教室で一人、窓の外を見ていた。十月下旬の空は、夕暮れが近づくにつれて、青から紫へとゆっくり色を変えていく。アオバ坂の銀杏が、ようやく黄色く色づき始めていた。
(明日は、文化祭か)
みすずは、切れ長の深い茶色の瞳を細めた。左目の下にある泣きぼくろが、窓ガラスに映る自分の顔の中で、やけに目立って見える。無意識に首をかしげる癖が出ていた。
教室の中は、がらんとしていた。
文化祭前日。ほとんどの生徒は、それぞれのクラスや部活の準備に追われている。みすずのクラスの出し物は、昨日のうちにほぼ完成していた。だから、みすずは一人、こうして窓の外を眺めている。
(……私、何してるんだろう)
淳一郎と智は、今頃、智のクラスの準備を手伝っているはずだ。淳一郎は、智に誘われたと言っていた。
『文化祭の準備、手伝ってくれよ』
智の声が、頭の中で再生される。淳一郎は、あの鈍感なくせに、そういう時だけは素直に頷くのだ。
(当たり前か。あんたたち、幼馴染みだもの)
みすずは、小さく息を吐いた。
その時、教室のドアが、ガラリと開いた。
「みすず!」
聞き慣れた声。振り返ると、相沢智が立っていた。明るい茶色のショートヘアが、走ってきたせいで少し乱れている。琥珀色の大きな瞳が、みすずをまっすぐに見つめていた。八重歯が、口元からちらりと覗いている。
「トモ。どうしたのよ、そんなに慌てて」
みすずは、窓から離れて、智の方へ歩いた。
「あのさ、悪いんだけど、ちょっと手伝ってくんない?」
智は、少し照れたように、頭をかいた。
「クラスの装飾、まだ全然終わってなくて。淳一郎は、男子の力仕事に借り出されちゃったし」
「あら、あんたが人に頼むなんて珍しいじゃない」
みすずは、口元に笑みを浮かべた。
「うっさい! いいから来いよ!」
智は、みすずの腕を掴むと、そのまま廊下へ引っ張っていった。
「ちょっと、引っ張らないでよ」
みすずは、されるがままに、智のクラスである1年3組の教室へ向かった。
教室に入ると、なるほど、装飾はまだ半分も終わっていなかった。折り紙で作った花や、色画用紙のチェーンが、机の上に山のように積まれている。教室の後ろには、大きな模造紙が広げられていて、何かの絵が描きかけだった。
「すごい量ね」
みすずは、思わず呟いた。
「だろ? うちのクラス、文化祭係がサボりまくっててさ。俺と淳一郎で、ほとんどやったんだよ」
智は、得意げに胸を張った。
「あんたたち、よくやったわね。でも、これ、明日までに終わるの?」
みすずは、積み上げられた折り紙の山を見て、首をかしげた。
「終わらせる!」
智は、力強く頷いた。
「よし、やるか。みすず、そっちのチェーン繋げるの手伝ってくれ」
「はいはい」
みすずは、椅子に座って、色画用紙のチェーンを繋げ始めた。智は、模造紙の絵の続きを描き始める。
しばらく、二人で黙々と作業を続けた。
教室の中は、折り紙の擦れる音と、ペンの走る音だけが聞こえる。窓の外からは、他のクラスの準備をする生徒たちの声が、遠く聞こえてくる。
夕日が、教室の中に差し込んでいた。
「……なあ、みすず」
智が、突然、手を止めた。
「なに?」
みすずも、手を止めて、智を見た。
智は、模造紙の絵を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私、淳一郎に、ちゃんと好きって言えてない気がするんだ」
みすずの指が、ぴたりと止まった。
色画用紙のチェーンが、机の上に、かさりと落ちる。
「……何、急に」
みすずは、平静を装って、智に尋ねた。
「だってさ、私、淳一郎に告白したの、一回だけだろ。それも、中学の時。あの時、淳一郎、『親友として好きだぜ』って返してきたじゃん」
智は、苦笑いを浮かべた。
「あれから、私、ちゃんと『好き』って言えてない。文化祭、一緒に回る約束したけど、それも、淳一郎の方から誘ってきただけで」
智の声が、少しだけ、震えている。
みすずは、智の横顔を見つめた。
琥珀色の瞳が、夕日に照らされて、きらきらと揺れている。八重歯を噛みしめるように、唇が、わずかに歪んでいた。
(この子は、ずっと、一人で抱えてきたのね)
(淳一郎に、もう一度、気持ちを伝える勇気が出せないまま)
みすずは、深く息を吸った。
「トモ」
みすずは、智の目を、まっすぐに見た。
「今度こそ、ちゃんと言いなさいよ。あんたの想い、ちゃんと伝えなさい」
みすずの声は、自分でも驚くほど、力強かった。
智は、目を丸くした。
「みすず……」
「淳一郎は、あんたが思ってるより、ずっと鈍感なんだから。あんたが言わなきゃ、一生気づかないわよ」
みすずは、智の肩を、ぽんと叩いた。
「文化祭、淳一郎と一緒に回るんでしょ? その時に、ちゃんと、あんたの口から言うのよ」
智は、しばらく黙っていた。
でも、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
智の声は、まだ少し震えていた。
でも、その顔は、笑っていた。
八重歯が見える、嬉しそうな、でも、どこか泣きそうな、そんな笑顔。
みすずは、その笑顔を見て、胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。
(なに、痛がってるのよ)
(あんたが、望んだことじゃない)
(トモが、淳一郎に、想いを伝える)
(それが、私の目標だったんでしょ)
みすずは、心の中で、自分に言い聞かせた。
でも、痛みは、消えなかった。
夕日が、教室の中を、オレンジ色に染めていく。
二人の影が、床に、長く伸びていた。
「……よし、やるか!」
智は、立ち上がると、再び模造紙に向かった。
「みすず、手伝ってくれて、ありがとな」
智が、振り返らずに言った。
「別に。あんたが一人でやると、ろくなことにならないからよ」
みすずは、チェーンを繋げる作業に戻った。
(ありがとう、か)
(淳一郎にも、トモにも、私は、ありがとうって言われるばかり)
(……それで、いいのよ)
みすずは、色画用紙を、一枚、また一枚と、繋げていった。
夕日が、沈んでいく。
教室の中が、少しずつ、暗くなっていく。
やがて、智のクラスの装飾は、なんとか明日に間に合うところまで、完成した。
「終わったー!」
智は、大きく伸びをした。
「お疲れ様。じゃあ、私、帰るわね」
みすずは、立ち上がって、鞄を手に取った。
「あ、ちょっと待って。一緒に帰ろうぜ」
智は、慌てて片付けを始めた。
「あんた、まだ片付け残ってるでしょ。私は先に帰るわよ」
「大丈夫だって! すぐ終わるから!」
智は、急いで折り紙の残りを、段ボール箱に放り込んだ。
みすずは、仕方なく、教室の入り口で智を待った。
数分後、智が、鞄を肩にかけて、教室から出てきた。
「待たせたな!」
「別に。ほら、行くわよ」
二人は、並んで、廊下を歩き始めた。
校舎を出て、アオバ坂を下る。
銀杏の葉が、夕闇の中で、かすかに黄色く浮かび上がっていた。風が吹くと、葉が、はらはらと舞い散る。
「なあ、みすず」
智が、突然、口を開いた。
「淳一郎と、文化祭、一緒に回ることになったんだ」
みすずの心臓が、一瞬、跳ねた。
(知ってるわよ)
(見てたもの)
(淳一郎が、あんたを誘ったの、アオバ坂で)
でも、みすずは、笑顔を作った。
「あら、よかったじゃないの」
みすずは、智の方を向いて、にこりと笑った。
「やっと、あんたたち、それらしくなってきたじゃない」
「それらしくって、なんだよ!」
智は、顔を真っ赤にして、みすずの肩を、軽く叩いた。
「痛いわよ、バカ」
みすずは、智の手を払った。
「で、みすずも、一緒に来てよ。文化祭、三人で回ろうぜ」
智が、屈託のない笑顔で、そう言った。
みすずは、一瞬、言葉に詰まった。
(三人で、回る?)
(淳一郎と、トモと、私で?)
(……私が、あの二人の間に、入るの?)
みすずの心の中で、何かが、ぎしりと軋んだ。
「バカね。あんたたち、せっかく二人で回れるんだから、私が邪魔するわけないでしょ」
みすずは、笑顔のまま、言い放った。
「邪魔って、そんな……」
智が、困ったような顔をした。
「いいから。私は、キャロルと回ってるから。あんたは、淳一郎と、二人きりで、楽しんで来なさいよ」
みすずは、智の背中を、ぽんと押した。
「……わかった。ありがとう、みすず」
智は、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、私、こっちだから」
みすずは、智と別れるために、足を止めた。
「おう、また明日な! 文化祭、絶対来てよ!」
智は、手を振りながら、自宅のある方向へ走っていった。
みすずは、その背中を見送った。
智の姿が、夕闇に溶けていく。
(私が入り込む隙間なんて、もう、どこにもないのよ)
みすずは、心の中で、呟いた。
(淳一郎と、トモ)
(あの二人の間には、私の知らない、二人だけの空気が流れてる)
(私は、それを、外から見てるだけ)
(ずっと、そうだった)
(これからも、そう)
みすずは、アオバ坂を下り、駅前へ向かった。
夜のミナギハ駅前。
ロータリーには、バスが何台か停まっていて、乗客がまばらに降りてくる。駅の明かりが、アスファルトを白く照らしていた。
みすずは、駅東口すぐのファミリーマートに入った。
夜食を買おうと思った。
おにぎりと、甘いコーヒー。
レジに並んでいると、若い男の店員が、みすずの顔をちらりと見た。
(また、顔色が悪いって言われるのかしら)
みすずは、無意識に、自分の頬に手を当てた。
でも、店員は、何も言わずに、商品を袋に詰めてくれた。
「ありがとうございます」
みすずは、袋を受け取って、店を出ようとした。
その時。
「あら、みすずちゃん」
ふわふわとした、柔らかい声が、後ろから聞こえた。
みすずは、振り返った。
キャロル・オールストンが、店の入り口に立っていた。ブロンドのゆるふわロングヘアが、店内の明かりに照らされて、金色に輝いている。空色の大きな瞳が、ぱちりと瞬いた。笑うと、頬に小さなえくぼができる。
「キャロル。あんた、こんな時間に、何してるのよ」
みすずは、毒を吐きつつも、少しだけ安心した。
「わたし、お茶を買いに来たの。夜に飲む、カモミールティーを探していたのよ」
キャロルは、にこにこ笑いながら、みすずの隣に並んだ。
「カモミールティーって、コンビニに売ってるの?」
みすずは、首をかしげた。
「売ってるわよ。ほら、あそこ」
キャロルは、小指を立てて、ドリンクコーナーの一角を指さした。
「へえ。あんた、意外とコンビニ通なのね」
みすずは、少し驚いた。
「まあ! 失礼しちゃうわ。わたしだって、コンビニくらい使うんだから」
キャロルは、ぷくっと頬を膨らませた。
「ごめんごめん。で、買うもの買ったら、一緒に出ましょうよ」
みすずは、そう言って、レジを後にした。
キャロルは、カモミールティーのペットボトルを手に、みすずの後を追ってきた。
「みすずちゃん、これから帰るの?」
キャロルが、隣に並んで、尋ねた。
「ええ。あんたもでしょ?」
みすずは、店の外に出た。
夜風が、ひんやりと頬を撫でる。
「わたし、もう少し、外の空気を吸ってから帰りたい気分なの。みすずちゃん、よかったら、少しだけ付き合ってくれない?」
キャロルは、空色の瞳で、みすずをじっと見つめた。
みすずは、一瞬、迷った。
でも、断る理由もなかった。
「……いいわよ。少しだけよ」
みすずは、小さく頷いた。
二人は、ファミリーマートの前にある、小さなベンチに並んで座った。
駅前のロータリーを、バスがゆっくりと走っていく。
街灯の明かりが、二人の影を、地面に落としていた。
しばらく、二人で、黙って、夜の街を眺めていた。
キャロルは、買ったばかりのカモミールティーを、小指を立てて、上品に口に運んだ。
みすずは、おにぎりを袋から取り出して、一口かじった。
「……みすずちゃん」
キャロルが、唐突に、口を開いた。
「なに?」
みすずは、おにぎりを咀嚼しながら、キャロルを見た。
キャロルは、前を向いたまま、静かに言った。
「ねえ、みすずちゃん。実はみすずちゃんも、ジュンくんのこと、好きなんじゃないの?」
みすずの手が、止まった。
おにぎりを握ったまま、指が、硬直する。
心臓が、大きく、跳ねた。
(今、なんて言った?)
(この子、今、なんて)
みすずは、ゆっくりと、キャロルの方を向いた。
キャロルは、変わらぬ微笑みを浮かべて、みすずを見つめていた。
空色の瞳が、夜の闇の中で、静かに光っている。
「……バカ、違うわよ」
みすずは、即座に否定した。
「なんで、私が、淳一郎なんかを好きにならなきゃいけないのよ。あんな鈍感で、空気読めなくて、トモのことばっかり見てる男を」
みすずは、早口で、まくし立てた。
「だって、みすずちゃん、いつもジュンくんのことを見てるもの」
キャロルは、小首をかしげた。
「見てないわよ。あれは、トモの付き添いで仕方なくよ」
みすずは、おにぎりを袋に戻して、強く握りしめた。
「そうかしら? みすずちゃん、ジュンくんがトモちゃんと話してるとき、いつも、少しだけ、悲しそうな顔をしてるわ」
キャロルの言葉が、みすずの胸に、深く突き刺さった。
(悲しそうな顔?)
(私が?)
(そんなはず、ない)
(私は、ずっと、笑ってる)
(笑顔で、あの二人を見守ってる)
(……そうでしょ?)
みすずは、唇を噛んだ。
「気のせいよ。あんた、たまに、変なこと言うのね」
みすずは、無理やり笑顔を作った。
でも、その笑顔は、うまく作れていなかった。
キャロルは、そんなみすずを、じっと見つめていた。
そして、静かに、微笑んだ。
「みすずちゃん、嘘つくの下手ね」
その一言が、みすずの心の奥底に、深く、深く、沈んでいった。
(嘘つくの、下手)
(……ええ、そうよ)
(私は、嘘をつくのが、下手くそなのよ)
みすずは、下を向いた。
涙が、こみ上げてくる。
でも、泣きたくない。
ここで泣いたら、全部、認めてしまうことになる。
「……違うわよ」
みすずは、声を絞り出した。
「違う。違うの。私は、淳一郎のことなんて、なんとも思ってない」
みすずの声は、震えていた。
「ずっと、トモと淳一郎をくっつけたくて、それで、二人のことを見てただけよ。私は、観察者で、それで、よかったの」
みすずは、自分の膝の上で、両手をぎゅっと握りしめた。
指が、白くなる。
「……みすずちゃん」
キャロルが、そっと、みすずの手に、自分の手を重ねた。
キャロルの手は、温かかった。
「わたし、ずっと見てたの。みすずちゃんが、どんなに、トモちゃんとジュンくんのことを想ってるか」
キャロルの声は、柔らかくて、優しかった。
「みすずちゃんは、二人のことを、誰よりも近くで、誰よりも深く、想ってる。……ジュンくんのことも、トモちゃんのことも」
キャロルの言葉が、みすずの心の奥に、染み込んでいく。
「……ずっと前から、好きだったのよ」
みすずの口から、言葉が、こぼれ落ちた。
「私、淳一郎のこと、ずっと前から、好きだった」
みすずの視界が、涙で、にじんでいく。
「でも、あの二人を見てたら、私が入り込む隙間なんて、ないって、わかってたの」
みすずは、声を詰まらせた。
「淳一郎は、トモのことしか見てない。トモも、淳一郎のことしか見てない。私は、二人の幼馴染みで、二人のことを、誰よりも近くで見てきた。でも、だからこそ、わかるの。あの二人の間には、私が入る余地なんて、最初から、どこにもなかったんだって」
みすずは、一気に、本音を吐き出した。
涙が、頬を伝って、膝の上に落ちた。
「だから、私は、観察者でいいって、思ってた。二人のことを、外から見てるだけでいいって。それが、私の役目だって」
みすずは、キャロルの手を、ぎゅっと握り返した。
「……なのに、淳一郎が、トモを、女の子として見始めた。トモのこと、大事だって、言った。文化祭に、トモを誘った。……私、嬉しかった。二人が、やっと、近づいてるって。でも、それと同時に、私の中の何かが、音を立てて、崩れていったの」
みすずは、声を震わせながら、続けた。
「私、淳一郎に、『トモのこと気にかけてくれてありがとな』って言われたの。中学の時と、まったく同じ言葉で。……ああ、この人は、私のことを、ずっと、『トモの友達』としか見てないんだって、わかったの」
みすずは、涙でぐしゃぐしゃの顔を、キャロルに向けた。
「私、これから、どうすればいいの? 淳一郎を、諦められない。でも、トモのことも、淳一郎のことも、幸せになってほしい。……私の気持ちなんて、邪魔なだけなのに」
みすずは、キャロルの胸に、顔を埋めた。
「……バカみたいでしょ。ずっと、わかってたのに。わかってたのに、諦められないの」
みすずの声は、くぐもっていた。
キャロルは、黙って、みすずの頭を、優しく撫でた。
しばらく、二人の間には、みすずの啜り泣く声だけが、静かに流れていた。
駅前のロータリーを、バスが、また一台、ゆっくりと走り去っていく。
夜風が、銀杏の葉を、はらはらと舞わせた。
「……みすずちゃん」
キャロルが、静かに、口を開いた。
「みすずちゃんは、優しすぎるのよ」
キャロルは、みすずの頭を撫でながら、言った。
「自分の気持ちを、ずっと、押し殺して。トモちゃんとジュンくんのことを、一番に考えて。……でも、優しいだけじゃ、自分の幸せは、掴めないわ」
キャロルの声は、夜の静けさの中に、はっきりと響いた。
「……わかってるわよ」
みすずは、キャロルの胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
「そんなこと、わかってる。私が、一番、わかってるのよ」
みすずは、ゆっくりと、キャロルから体を離した。
涙で濡れた顔を、空に向ける。
夜空には、星が、かすかに瞬いていた。
「でも、私、あの二人の笑顔を見てると、自分の気持ちなんて、どうでもよくなっちゃうの。トモが、淳一郎のことを、嬉しそうに話すのを見ると、私も、嬉しくなっちゃうの」
みすずは、涙を拭いながら、笑った。
「バカでしょ。私、本当に、バカなのよ」
みすずの笑顔は、涙で濡れていて、今にも崩れそうだった。
キャロルは、そんなみすずを、黙って見つめていた。
そして、そっと、みすずの肩に、手を置いた。
「みすずちゃんは、バカなんかじゃないわ。……みすずちゃんは、ただ、優しすぎるだけ」
キャロルは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、静かに、みすずの隣に、座り続けていた。
みすずも、それ以上、何も言わなかった。
二人で、並んで、夜空を見上げていた。
涙が、乾いていく。
夜風が、冷たくて、気持ちよかった。
「……ありがとう、キャロル」
みすずが、小さく、呟いた。
「いいえ。……みすずちゃん、少し、楽になった?」
キャロルが、優しく尋ねた。
「……わかんない。でも、誰かに言えただけで、少しだけ、息ができた気がする」
みすずは、空を見上げたまま、答えた。
「そう。よかったわ」
キャロルは、微笑んだ。
「……帰りましょ。明日は、文化祭だもの」
みすずは、立ち上がった。
「ええ。そうね。……明日は、晴れるかしら」
キャロルも、立ち上がった。
「晴れるわよ。きっと」
みすずは、空を見上げた。
星が、瞬いていた。
二人は、並んで、夜道を歩き始めた。
街灯の明かりが、二人の影を、長く、長く、伸ばしていた。
翌朝。
文化祭当日。
空は、雲一つない、青空だった。
みすずは、アオバ坂を、一人で登っていた。
銀杏の葉が、朝日に照らされて、金色に輝いている。風が吹くと、葉が、はらはらと舞い散って、坂道に、黄色い絨毯を作っていた。
「みすずー!」
後ろから、元気な声が聞こえた。
振り返ると、智が、全速力で走ってきていた。
明るい茶色のショートヘアが、風に揺れている。琥珀色の瞳が、太陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。八重歯が、笑顔と一緒に、こぼれている。
「トモ。おはよう。相変わらず、朝から元気ね」
みすずは、立ち止まって、智を待った。
「おはよう! みすず!」
智は、みすずの隣に並ぶと、肩で息をしながら、笑った。
「なあ、みすず。今日の文化祭、絶対来てよ! 応援してくれないと、私、頑張れないから」
智が、真剣な顔で、みすずの目を見つめた。
みすずは、一瞬、言葉に詰まった。
(応援してくれないと、頑張れない)
(この子は、私に、そう言ってくれる)
(淳一郎のことも、私のことも、同じくらい、信頼してくれてる)
(……だから、私は、この子の笑顔を、守りたいのよ)
みすずは、深く息を吸った。
そして、笑顔を作った。
「当たり前でしょ。あんたの晴れ舞台、見逃すわけないじゃない」
みすずは、智の肩を、ぽんと叩いた。
智は、ぱあっと、顔を輝かせた。
「ありがとう! みすず!」
智は、嬉しそうに、みすずの手を握った。
「じゃあ、また後でな! 私、クラスの準備があるから、先に行く!」
智は、みすずの手を離すと、再び走り出した。
「ええ。頑張りなさいよ」
みすずは、走り去る智の背中に、声をかけた。
智は、振り返らずに、手を大きく振った。
みすずは、その背中を、見送った。
智の姿が、アオバ坂の上にある、アオバ学園の校門に、吸い込まれていく。
(……バカね)
みすずは、心の中で、呟いた。
(私も、大概、バカよ)
みすずは、空を見上げた。
青い空。
雲一つない、青い空。
文化祭の日は、いつも、こんな風に晴れている。
みすずは、小さく息を吐いて、再び、アオバ坂を歩き始めた。
銀杏の葉が、足元で、かさりと音を立てた。
(今日は、トモの晴れ舞台)
(淳一郎が、トモのことを、ちゃんと、女の子として見る日)
(……私の役目は、もうすぐ、終わる)
みすずは、前を向いて、歩き続けた。
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