群堂みすずは見ていた
幼い頃からずっと一緒だった幼なじみの智と淳一郎。智の初恋を実らせようと奮闘する親友・みすずだったが、淳一郎が他の女子に告白される現場を目撃してしまう。モヤモヤする胸の奥——その感情の正体に、みすず自身がまだ気づいていない。じれったくて、ほろ苦い、すれ違い青春ストーリー。
群堂みすずは見ていた - 鈍感野郎の言い分 ―― 輪の外で知った、十年分のすれ違い
違う、と思った。
頭では分かっている。あの二人の関係が、私の知らないところで勝手に進むはずがないって。なのに、なぜ胸の奥がこんなに痛むのだろう。
群堂みすずは、ミナギハ中央公園の噴水広場に立っていた。九月も下旬になった夕暮れの空気は、もう夏の名残をほとんど残していない。噴水の水音だけが、静かな広場に規則正しく響いている。
(私、何やってるんだろう)
肩につくかどうかの黒髪を、夕風がそっと揺らした。切れ長の深い茶色の瞳が、糸のように細くなって、広場の入り口を見つめる。左目の下にある泣きぼくろが、心なしか影を落としているように見えた。
放課後。みすずは淳一郎をここに呼び出していた。
あの日の見舞いの日から、ずっと引っかかっていることがある。淳一郎が、熱にうなされる智の頭を撫でた時の顔。そして、みすずに「トモってこんなに細かったんだ」と言った時の、あの真剣な声。
(あれから、あんたは何を考えたの)
みすずは、無意識に首をかしげた。これは、誰かをじっと見つめるときに出る、彼女の癖だった。
「おーい、みすず」
聞き慣れた声がして、みすずは顔を上げた。
久保田淳一郎が、アオバ坂の方向から歩いてくる。黒髪は短く刈り込まれていて、今日も朝の寝癖がそのまま残っている。左眉の上にある小さな切れ傷が、夕日に照らされてうっすらと浮かび上がっていた。濃い灰色の瞳が、みすずを捉える。
「遅いわよ。待ちくたびれたじゃない」
みすずは、腕を組んで淳一郎を睨んだ。
「悪い。部活の連中に捕まってた」
淳一郎は、考えるときの癖なのか、無意識に頭をかいた。
「で、なんで呼び出したんだよ。改まって」
みすずは、淳一郎の顔をじっと見た。物静かで、女子からの人気も高いこの幼馴染みは、今、何の悪気もない顔をしている。
「……あんたに聞きたいことがあるのよ」
みすずは、ゆっくりと言った。
「トモのこと、あの見舞いの日から、ちゃんと考えた?」
淳一郎は、少しだけ目を丸くした。
「考えたって……何を」
「はあ?」
みすずは、思わず声を荒げた。
「あんた、私が言ったこと忘れたの? トモのこと、女の子として見たことあるかって聞いたじゃない。あれから一週間以上経ってるのよ。ちゃんと考えなさいよって言ったでしょ」
淳一郎は、しばらく黙っていた。噴水の水音だけが、二人の間に流れる。
「……考えた」
淳一郎の声は、いつもより少しだけ低かった。
「でも、わかんねえままなんだ」
「わかんないって、何がよ」
「智のことを、女の子として見るってことが、どういうことなのか」
淳一郎は、みすずの目をまっすぐに見た。
「俺、智のことは、物心ついたときからずっと一緒にいたから。男とか女とか、そういうのを考える前に、智は智なんだよ」
みすずは、その言葉に、少しだけ胸を突かれた。
(そう。あんたは、そういう奴だったわね)
でも、みすずは、ここで引くわけにはいかない。
「じゃあ聞くけど、あんた、いつからトモのこと女の子だって認識したのよ」
淳一郎は、真剣な顔で考え込んだ。
「……風邪で倒れた時、かな」
「は?」
「だから、智が風邪で倒れた時。あ、こいつ細いんだって思って。それまでずっと、男だと思ってたから」
淳一郎は、平然と言い放った。
みすずは、開いた口が塞がらなかった。
(……今、なんて言った?)
「ちょっと待ちなさいよ。あんた、今、中学までトモのこと男だと思ってたって言った?」
「え? 言ったけど」
「本気で?」
「本気も何も、智がスカート履いてるの見て、初めて女の子だって気づいたんだよ」
淳一郎は、不思議そうな顔で首を傾げた。
「なあ、みすず。それっておかしいことなのか?」
みすずは、言葉を失った。
いや、正確には、言葉が何百個も頭の中に浮かんで、どれから口に出せばいいのか分からなかった。
(おかしいに決まってるでしょ! 十年以上一緒にいて、スカート履くまで女だって気づかなかったの!? あんたの目は節穴なの!? トモはあんたのこと、ずっと……)
そこまで考えて、みすずは、はたと気づいた。
怒りと呆れの奥に、なぜか、ほんの少しの安堵があることに。
(……安堵? 私、なんで安心してるのよ)
みすずは、首を振って、その感情を追い払った。
「おかしいに決まってるでしょ。バカじゃないの?」
みすずは、いつもの毒舌で返した。でも、声が少しだけ震えていた。
「そうか……やっぱりおかしいのか」
淳一郎は、しょんぼりと肩を落とした。
「でも、仕方ねえだろ。智、小学校の時から、ずっと俺と一緒に空手の道場に通ってて、男みたいなことばっかしてたし。それに、智の家の道場って、男しかいねえし」
淳一郎は、そう言って、また頭をかいた。
「あと、智、俺のこと『お前』って呼ぶし。女の子って、もっとこう、かわいい感じじゃねえの?」
みすずは、深いため息をついた。
「……あんたねえ、トモが『お前』って呼ぶのは、あんたにだけよ。他の男子には、ちゃんと『君』とか『さん』とか付けてるわよ」
「え、そうなのか?」
淳一郎は、本当に驚いた顔をした。
「そうよ。あんたとトモの関係が、特別だからよ。それに気づかないなんて、あんた、本当にバカじゃないの?」
「バカじゃないのって、ひどくねえか」
「ひどいのは、あんたの鈍感さよ」
みすずは、ぴしゃりと言った。
淳一郎は、黙ってしまった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。噴水の水音が、やけに大きく聞こえた。
「……なあ、みすず」
淳一郎が、ぽつりと言った。
「何よ」
「俺さ、中学の時、智と距離置こうとしてた時期があったんだ」
みすずは、淳一郎の横顔を見た。夕日が、淳一郎の輪郭をオレンジ色に染めている。
「なんで?」
「小学校の時、智がランドセル重そうにしてたから、持ってやってたんだ。靴紐も、よく結んでやってた。そしたら、周りが俺と智のこと、夫婦みたいって囃し立ててさ」
淳一郎は、遠くを見るような目をした。
「俺、それが恥ずかしくて。中学入ってからは、智と距離置こうとしてたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、みすずの中で、何かが弾けた。
——小学校三年生の、秋の朝。
アオバ学園の前身、智と淳一郎が通っていた公立の小学校の昇降口。
淳一郎が、屈み込んで、智の靴紐を結んでいる。
「お前、また靴紐ほどけてるぞ」
「だって、結ぶのめんどくせえんだもん」
智が、明るい茶色のショートヘアを揺らして笑う。八重歯がのぞく、太陽みたいな笑顔。
「ほら、できた。これで転ばねえだろ」
「ありがと、淳一郎!」
智が、淳一郎に抱きつくようにして、満面の笑みを浮かべる。
淳一郎は、照れくさそうに、智の頭を軽く叩く。
「……バカ、大げさだな」
その光景を、みすずは、少し離れたところから見ていた。
ランドセルを、ぎゅっと抱えて。
二人の輪の、外側で。
(私、あの時、何を思ってたっけ)
みすずは、記憶の奥に沈んでいた光景を、ゆっくりと思い出していた。
(ああ、そうだ。私、思ってたんだ)
(あの二人には、私が入る隙間なんてないんだって)
(だから、私は、観察者でいいんだって)
十年間、胸に仕舞い込んできた記憶。誰にも言ったことのない、小さな、でも確かな痛み。
それが今、淳一郎の言葉をきっかけに、鮮やかに蘇ってきた。
「……みすず?」
淳一郎の声で、みすずは現実に引き戻された。
「どうした? ぼーっとして」
みすずは、慌てて表情を取り繕った。
「あんたねえ、十年も勘違いしてたって言うの? トモが可哀想でしょ、いい加減にしなさいよ」
みすずは、声を張り上げた。でも、声が震えている。自分でも分かるくらい、はっきりと。
「……みすず、なんか怒ってる?」
淳一郎は、不思議そうな顔で、みすずの顔を覗き込んだ。
「怒ってるわよ! あんたの鈍感さにね!」
みすずは、叫ぶように言って、その場を立ち去ろうとした。
その瞬間、淳一郎の手が、みすずの手首を掴んだ。
「待てよ」
みすずの足が、止まった。
淳一郎の手は、思ったより熱かった。
「……何よ。離しなさいよ」
みすずは、振り返らずに言った。
「お前には、いつも助けられてるからさ」
淳一郎の声が、みすずの背中に届く。
「トモのこと、お前が一番分かってくれてる気がするんだ。俺なんかより、ずっと」
みすずの胸の奥で、何かが、どくん、と脈打った。
(やめて。そんなこと、言わないで)
みすずは、心の中で叫んだ。
(あんたに、そんなことを言われたら、私……)
みすずは、振りほどくように、淳一郎の手を離した。
「……じゃあ聞くけど」
みすずは、淳一郎の方を振り返って、まっすぐにその目を見た。
「あんた、トモと付き合うつもりはあるのよ」
淳一郎は、目を見開いた。
しばらく、淳一郎は黙り込んだ。
真剣に、考え込んでいる。
(あんた、今、ちゃんと考えてるわね)
みすずは、淳一郎の顔をじっと見つめた。
(その顔、覚えてるわ。トモのことを、真剣に考える時の顔)
淳一郎が、ゆっくりと口を開いた。
「……わかんねえ」
淳一郎の声は、低く、正直だった。
「付き合うって、どういうことなのか。まだ、ちゃんと分かってねえ。でも——」
淳一郎は、一度言葉を切って、それから、はっきりと言った。
「トモのこと、大事だと思う。それは本当だ」
みすずは、淳一郎の目を見た。
灰色の瞳は、嘘をついていない。
(……知ってるわよ。そんなこと、言われなくても)
みすずは、心の中で呟いた。
(あんたが、トモのことを大事に思ってるって、そんなの、ずっと前から知ってる)
(でも、それを、あんたの口から聞くと、こんなにも……)
みすずは、ぎゅっと拳を握った。
「……なら、ちゃんと伝えなさいよ」
みすずは、笑顔を作って言った。
「あんたの気持ち、ちゃんとトモに言いなさいよ。大事だと思うなら、言葉にしないと、トモには伝わらないんだから」
淳一郎は、みすずの笑顔を見て、少しだけ安心したように、頷いた。
「……わかった」
「わかったなら、いいのよ。私は、これで帰るから」
みすずは、淳一郎に背を向けた。
笑顔の裏で、胸が軋んでいた。
自分が一番近くで見てきた二人が、自分がいないところで繋がろうとしている。
それが、嬉しいはずなのに。
どうして、こんなに痛いのか。
(分かってる。分かってるわよ)
みすずは、アオバ坂を登り始めた。
(私の役目は、あの二人をくっつけること。それだけよ)
夕日が、みすずの影を長く伸ばしている。
(……それだけ、なのに)
みすずは、唇を噛んだ。
アオバ坂を登り切ったところで、みすずは、足を止めた。
坂の途中にある、小さな公園。その入り口に、見慣れた二つの人影があった。
智と、淳一郎だ。
淳一郎は、みすずと別れた後、すぐに智に会ったらしい。
「なあ、智」
淳一郎の声が、夕暮れの空気に溶ける。
「文化祭、一緒に回ろうぜ」
みすずは、物陰に身を隠した。
心臓が、うるさい。
(なんで、私が隠れなきゃいけないのよ)
智の顔は、ここからではよく見えない。でも、その声は、はっきりと聞こえた。
「は……!? な、なんでよ!」
智の声が、裏返っている。
「なんでって、別に。一緒に回れたら楽しいかなって思っただけだ」
淳一郎の声は、いつも通りだ。
「バ、バカ! 文化祭なんて、友達と回るもんだろ!」
智の声は、照れているのが丸わかりだった。
「俺たち、友達だろ」
淳一郎が、笑った。
「……うっさい。でも、まあ、お前がどうしてもって言うなら、付き合ってやらなくもない」
智の声が、少しだけ、柔らかくなった。
(……行くわ)
みすずは、その場を離れた。
二人の間に流れる、みすずが知らない空気。
あれは、確かに、何かが変わり始めている。
淳一郎が、智を誘った。
智が、それに応えた。
(良かったじゃない。私の作戦通りよ)
みすずは、心の中で、自分に言い聞かせた。
(淳一郎が、やっとトモを意識し始めた。これで、あの二人は、きっと……)
でも、胸の奥の痛みは、消えなかった。
駅前のファミリーマートに寄った。
夜食に、おにぎりと、甘いコーヒーを買う。
レジに並んでいると、店員の若い男の子が、みすずの顔をちらりと見た。
「……あの、大丈夫ですか? 顔色が……」
店員の声に、みすずは、はっとした。
「え?」
「いや、すごく、顔が強張ってるというか……。具合悪いんですか?」
みすずは、慌てて笑顔を作った。
「大丈夫よ。ちょっと、考え事してただけ」
みすずは、お金を払って、店を出た。
(顔が強張ってるって、そんなに?)
みすずは、スマホの画面を鏡代わりにして、自分の顔を見た。
……確かに、ひどい顔だった。
泣き出しそうなのを、必死に我慢している、そんな顔。
(私、何やってるんだろう)
みすずは、スマホをしまった。
家に帰って、自分の部屋に入る。
制服を脱いで、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
淳一郎の声が、耳に残っている。
「トモのこと、大事だと思う。それは本当だ」
智の声も。
「お前がどうしてもって言うなら、付き合ってやらなくもない」
二人の声が、頭の中で、何度も繰り返される。
(あの二人は、きっと、うまくいく)
みすずは、目を閉じた。
(淳一郎が、やっと目を覚ました。智の想いが、今度こそ、届くかもしれない)
(……それで、いいじゃない)
(私の目標は、あの二人をくっつけること。それが、叶おうとしている)
(なのに)
みすずは、枕に顔を押し付けた。
「……観察者でいいって、思ってたのよ」
声に出して、呟いた。
「でも——」
言葉の続きは、出てこなかった。
窓の外から、虫の声が聞こえる。
秋の虫の、か細い声。
みすずは、目を閉じたまま、静かに、長い夜の中に沈んでいった。
胸の奥の痛みだけが、暗闇の中で、はっきりと脈打っていた。Noveliaとは?
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