群堂みすずは見ていた
幼い頃からずっと一緒だった幼なじみの智と淳一郎。智の初恋を実らせようと奮闘する親友・みすずだったが、淳一郎が他の女子に告白される現場を目撃してしまう。モヤモヤする胸の奥——その感情の正体に、みすず自身がまだ気づいていない。じれったくて、ほろ苦い、すれ違い青春ストーリー。
群堂みすずは見ていた - 届かないありがとな――観察者の恋が、音を立てて崩れる夜
違う、と思った。
頭では分かっている。あの二人が近づくことは、私が望んだことのはずだって。なのに、なぜ胸の奥がこんなに冷たいのだろう。
群堂みすずは、放課後の教室で一人、窓の外を見ていた。十月に入って、空の色が少しだけ高くなった気がする。アオバ坂の銀杏が、まだ緑のまま風に揺れていた。
「みすず」
聞き慣れた声がして、みすずは振り返った。
久保田淳一郎が、みすずの机の前に立っていた。黒髪は短く刈り込まれていて、左眉の上にある小さな切れ傷が、夕日に照らされてうっすらと見える。濃い灰色の瞳が、まっすぐにみすずを見ていた。
「なに、急に」
みすずは、切れ長の深い茶色の瞳を細めて、淳一郎を見上げた。無意識に首をかしげる癖が出ている。
淳一郎は、少しだけ笑った。
「みすずはさ、いつもトモのこと気にかけてくれてありがとな」
その言葉が、耳に届いた瞬間。
——中学二年の夏。
教室の空気が、一瞬で入れ替わった。
いや、違う。入れ替わったのは、みすずの中の時間だ。
あの日も、放課後だった。
夏休み前の終業式の日。教室に残っていたのは、みすずと淳一郎の二人だけだった。淳一郎が、忘れ物を取りに戻ってきて、たまたま二人きりになった。
一緒に帰ろう、と言われて、並んで歩いた。
アオバ坂を下る途中、淳一郎が、ふいに言ったのだ。
「みすずはさ、いつもトモのこと気にかけてくれてありがとな」
あの時と、同じ言葉。
あの時と、同じ笑顔。
何も変わっていない。
三年経っても、淳一郎は、みすずのことを「トモの友達」としてしか見ていない。
(当たり前でしょ)
みすずは、心の中で、自分に言い聞かせた。
(私が望んだことじゃない。トモと淳一郎がうまくいくこと。それが、私の目標で——)
でも、胸の奥で、何かが軋む音がした。
「……バカじゃないの」
みすずは、口元に笑みを作って、淳一郎を見た。
「あんたがしっかりしなさいよ。トモのこと、いつまでも私に任せてるんじゃないわよ」
淳一郎は、頭をかいた。
「わりい、つい頼っちまうんだよな。みすずは何でも分かってるから」
「当たり前でしょ。あんたと違って、私には観察眼があるのよ」
みすずは、そう言って、立ち上がった。
「じゃあね。私、用事あるから」
「おう、また明日な」
みすずは、淳一郎に背を向けて、教室を出た。
廊下に出た瞬間、胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(なに、痛がってるのよ)
みすずは、唇を噛んだ。
(私は、観察者でいいって、決めたじゃない)
足早に廊下を歩く。
靴箱で靴を履き替えて、校門を出る。
アオバ坂を下りながら、みすずは、何度も何度も、淳一郎の言葉を反芻していた。
「いつもトモのこと気にかけてくれてありがとな」
(ありがとな、じゃないのよ)
(あんたに言われたいのは、そんな言葉じゃない)
(……違う。何を考えてるのよ、私)
みすずは、頭を振った。
家に帰って、自分の部屋に入る。
制服を脱いで、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
(中学二年の夏から、ずっと同じ)
(淳一郎は、私のことを、トモの友達としか見ていない)
(当たり前だ。私が、そういう風に振る舞ってきたんだから)
みすずは、目を閉じた。
(でも、なんで)
(なんで、言えないかな)
声に出して、呟いた。
「……なんで、言えないかな」
自分の声が、暗い部屋に吸い込まれていく。
その時、スマホが震えた。
みすずは、手を伸ばして、スマホを手に取った。
画面に、智からのメッセージが表示されている。
『みすず! 淳一郎と文化祭、回ることになったんだ!』
みすずは、画面を見つめた。
指が、動かない。
既読をつけることが、どうしてもできなかった。
(知ってるわよ)
(見てたもの)
(アオバ坂で、二人が話してるの)
みすずは、スマホを胸に抱いた。
(淳一郎が、トモを誘った)
(トモが、嬉しそうに頷いた)
(あの二人の間に、私の入る隙間は、もうない)
中学二年の夏の、あの言葉が、頭の中で繰り返される。
「みすずはさ、いつもトモのこと気にかけてくれてありがとな」
淳一郎の声が、笑顔が、何度も何度も、みすずの心を刺す。
(ありがとな、って)
(そんなの、欲しくない)
(あんたに、ありがとうなんて、言われたくなかった)
みすずは、枕に顔を押し付けた。
「……バカ」
小さく、呟いた。
その声は、涙で濡れていた。
数日が過ぎた。
十月の空気は、日ごとに冷たくなっていく。
放課後、みすずは一人でアオバ坂を下っていた。
淳一郎と智は、今日もどこかで一緒にいるのだろう。
(文化祭の準備とか、何かと理由をつけては、二人でいる)
(私が知らないところで、あの二人の時間は、どんどん積み重なっていく)
みすずは、銀杏の葉を見上げた。
まだ緑の葉が、風に揺れている。
もう少ししたら、黄色く色づいて、散っていく。
(秋が、深くなる)
その時、聞き慣れた声が、風に乗って聞こえてきた。
「なあ、智」
淳一郎の声だ。
みすずは、反射的に、物陰に身を隠した。
(なんで、隠れるのよ)
(私が、隠れる必要なんて、ないのに)
でも、体は動かなかった。
「文化祭、一緒に回ろうぜ」
淳一郎の声が、はっきりと聞こえた。
「は……!? な、なんでよ!」
智の声が、裏返っている。
「なんでって、別に。一緒に回れたら楽しいかなって思っただけだ」
「バ、バカ! 文化祭なんて、友達と回るもんだろ!」
智の声は、照れているのが丸わかりだった。
「俺たち、友達だろ」
淳一郎が、笑った。
「……うっさい。でも、まあ、お前がどうしてもって言うなら、付き合ってやらなくもない」
智の声が、少しだけ、柔らかくなった。
みすずは、物陰から、二人の姿を見ていた。
淳一郎が、智の頭を軽く叩く。
智が、淳一郎の腕を払う。
でも、その顔は、笑っていた。
八重歯が見える、嬉しそうな笑顔。
(ああ)
(あの二人の間に、私の知らない空気がある)
(私が、どんなに近くで見てきたつもりでも)
(もう、私には、入れない)
みすずは、静かに、その場を離れた。
足取りが、重い。
一歩、一歩、地面に足が吸い付くようだった。
(私は、外野だ)
(あの二人の物語の、登場人物ですらない)
(ずっと、観客席から見てるだけ)
アオバ坂を下り切って、駅前のファミリーマートに入った。
夜食を買おうと思った。
おにぎりと、甘いコーヒー。
レジに並んでいると、若い男の店員が、みすずの顔をちらりと見た。
「……あの、大丈夫ですか?」
みすずは、はっとして、顔を上げた。
「え?」
「いや、すごく、顔が強張ってるというか……。具合悪いんですか?」
みすずは、自分の顔に、手を当てた。
(顔が、強張ってる?)
(私、そんな顔してるの?)
「大丈夫よ。ちょっと、考え事してただけ」
みすずは、笑顔を作った。
でも、その笑顔は、うまく作れていなかった。
店員は、心配そうな顔で、みすずを見ていた。
みすずは、お金を払って、店を出ようとした。
その瞬間。
目の前が、にじんだ。
(あれ)
(なに、これ)
涙が、あふれてきた。
止まらない。
「お客さん……?」
店員が、驚いた声を上げた。
みすずは、慌てて、涙を拭った。
でも、拭っても、拭っても、涙があふれてくる。
「ち、違うの。これは、花粉症で……」
みすずは、声を絞り出した。
十月に、花粉症。
そんな言い訳、誰が信じるだろう。
でも、他に、なんて言えばいいのか、分からなかった。
「あの、これ、よかったら」
店員が、ティッシュを差し出した。
「……ありがとう」
みすずは、ティッシュを受け取って、店を出た。
コンビニの袋を握りしめたまま、駅前のベンチに座った。
涙が、止まらない。
(なんで、泣いてるのよ)
(私が、望んだことじゃない)
(淳一郎が、トモを意識して、トモを誘って)
(全部、私の作戦通りじゃない)
(なのに、なんで)
みすずは、ティッシュで、何度も何度も、涙を拭いた。
駅前のロータリーを、バスがゆっくりと走っていく。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
(私、これから、どうすればいいのよ)
みすずは、空を見上げた。
涙で、星がにじんで見える。
まだ、星は出ていなかった。
その夜。
みすずは、布団の中で、スマホを見ていた。
智からのメッセージが、まだ未読のまま残っている。
『みすず! 淳一郎と文化祭、回ることになったんだ!』
みすずは、指を伸ばした。
でも、既読をつけることが、できない。
(トモは、嬉しそうに、私に報告してきてる)
(私のことを、誰よりも信頼して、何でも話してくれる)
(なのに、私は、素直に喜べない)
みすずは、スマホを置いた。
天井を見上げる。
(お節介を続ける私)
(あの二人をくっつけたい私)
(でも、心のどこかで、淳一郎を諦めきれない私)
(私の中に、二人の私がいる)
(どっちが、本当の私なの?)
みすずは、目を閉じた。
涙が、こめかみを伝って、枕に落ちた。
「……分かんない」
小さく、呟いた。
翌日。
教室で、淳一郎が、みすずの席に来た。
「みすず、ちょっといいか」
「なに?」
みすずは、顔を上げた。
昨日、泣き腫らした目が、まだ少し赤い。
でも、淳一郎は、そんなことには気づかない。
「文化祭のことでさ、トモと回ることになったんだ」
淳一郎は、少し照れたように、頭をかいた。
「みすずにも、言っておこうと思って」
みすずは、笑顔を作った。
「あら、やっとあんたも、トモのこと誘ったのね。遅いくらいよ」
「お前が、ちゃんと考えろって言ったからな」
「そうよ。私の言う通りにすれば、間違いないのよ」
みすずは、淳一郎の目を、まっすぐに見た。
「トモと文化祭、楽しんで来なさいよ」
笑顔で、言った。
淳一郎は、嬉しそうに笑った。
「おう、ありがとな!」
淳一郎は、そう言って、自分の席に戻っていった。
みすずは、その背中を見送った。
(ありがとな、って)
(また、それ)
(あんたは、いつも、私に、ありがとうしか言わない)
みすずは、淳一郎の背中が見えなくなってから、立ち上がった。
教室を出て、階段を上る。
屋上への扉は、今日も開いていた。
みすずは、屋上に出た。
誰もいない。
風が、吹いている。
十月の風は、冷たくて、少しだけ寂しい匂いがした。
みすずは、フェンスに手をかけて、空を見上げた。
青い空。
雲が、ゆっくりと流れていく。
「私、これからどうすればいいのよ」
声に出して、呟いた。
その声は、風に消えて、誰にも届かなかった。
「みすずちゃん」
突然、後ろから声がした。
みすずは、振り返った。
キャロル・オールストンが、屋上の入り口に立っていた。
ブロンドのゆるふわロングヘアが、風に揺れている。空色の大きな瞳が、みすずをじっと見つめていた。
「みすずちゃん、ここにいたのね」
キャロルは、ふわふわと、みすずの隣に歩いてきた。
「キャロル……なんでここに」
みすずは、慌てて笑顔を作った。
「なんでもないわ。ちょっと、風に当たりたかっただけ」
キャロルは、みすずの顔を、じっと見た。
空色の瞳が、みすずの心の奥まで、見透かしているようだった。
(この子は、鋭い)
(私の嘘なんて、きっと、全部お見通しなんだわ)
みすずは、そう思った。
でも、キャロルは、何も言わなかった。
ただ、静かに、みすずの隣に座った。
二人で、並んで、空を見上げる。
風が、二人の髪を揺らした。
「……みすずちゃん」
キャロルが、小さく、口を開いた。
「なに?」
みすずは、前を向いたまま、答えた。
キャロルは、少しだけ、間を置いてから、言った。
「今日は、風が気持ちいいわね」
みすずは、一瞬、キャロルを見た。
キャロルは、にこりと笑った。
(……この子は、私のことを、分かってて、何も聞かない)
(それが、優しさだって、知ってる)
みすずは、小さく、息を吐いた。
「……そうね。気持ちいいわ」
みすずは、空を見上げた。
青い空。
雲が、ゆっくりと流れていく。
(私、これからどうすればいいのよ)
答えは、まだ、見つからない。
でも、今は、隣にキャロルがいる。
それだけで、少しだけ、息ができた。
風が、吹いた。
十月の風が、みすずの黒髪を、優しく揺らした。Noveliaとは?
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