カルデアのにぎやかな一日
カルデアは、歴史を超えて集まった英霊たちが世界を守るために集う、不思議な場所だ。藤丸立香はある朝、枕がなくなっていることに気づき、食堂が戦場のように変わり果てているのを見て、ロマン博士が「今日は何の予定もない」と陽気に告げるのを聞く。
自由な一日。ついに。
しかし、それは全くの誤解だった。
アルトリア・ペンドラゴンは真剣な表情で現れ、藤丸に「ケーキを守ってほしい」と頼む。エミヤは頼まれもしないのにカルデア全員分の昼食を作り始め、あまりのサーヴァントの多さに材料が足りなくなってしまう。ギルガメッシュは威厳たっぷりに藤丸を自室に呼び出すが、ソファで昼寝をしているだけだった。スカサハは廊下で無許可の訓練を行い、逃げ出そうとする藤丸を徴兵する。そしてジャンヌ・ダルクは善意に満ちた「カルデアスポーツデー」を企画し、藤丸を総合責任者に任命する。
昼食時には、もはや「自由な一日」は完全に消え去っていた。
スポーツデーでは、英霊たちの競争心が完全に暴走する。綱引きは本気の戦いに発展し、ギルガメッシュは「我が物は一切貸さぬ」と言って宝探しの道具を一切貸さない。アルトリアはフェアプレイを宣言し、
カルデアのにぎやかな一日 - 枕がない! カルデア、今日も平和じゃなかった
枕がなかった。
それだけのことなのに、朝6時の藤丸立香には致命的な問題だった。
目が覚めた瞬間、頭の下に何もないと気づく。ベッドのスプリングが直接後頭部に当たっていて、じんわりと首が痛い。立香はしばらくそのまま天井を眺めた。白い天井。青白い照明。カルデアの朝はいつもこんな感じだ。
「……どこ行ったんだ」
声に出してみたが、もちろん枕は答えない。
布団をめくる。ない。ベッドの下をのぞく。ない。机の下まで確認する。絶対ないだろうと思いつつ確認する。やっぱりない。
藤丸立香、18歳。黒いショートヘアと深い茶色の目を持つ、スレンダーな体型の普通の人間。カルデアで唯一のマスターという肩書きがついているが、やっていることは毎日英霊たちに振り回されることで、自分の時間はほぼ皆無だ。前髪を無造作にかきあげる癖があって、今もぼんやりした表情のまま部屋をうろうろしている。白いシャツに黒のスラックスという格好は昨日から変わっていない。着替えるタイミングすら見つからなかったからだ。
枕を探しながら、立香はぼんやり考えた。
ここはカルデア。正式名称は「人理継続保障機関カルデア」。北極圏の雪山、標高6000メートルのところに建てられた、外界とほぼ完全に隔絶された施設だ。地上3階、地下5階。スタッフが約200人、それに加えて英霊——サーヴァントと呼ばれる過去の英雄たちが30騎から50騎ほど常時いる。外に出る方法はほぼなくて、行き来するには専用のヘリか、レイシフトという時空転移技術を使うしかない。
つまり、誰かに枕を盗られたとしたら、犯人はこの施設の中にいる。
「まあ……後で探そう」
とりあえずお腹が空いた。枕より飯の方が優先度が高い。
立香は部屋を出た。
廊下に出た瞬間、冷たい空気が肌に触れる。カルデアの廊下は室温22度に保たれているはずなのに、なぜかいつもちょっと寒く感じる。白い壁が延々と続いて、青い照明が等間隔に並んでいる。全長200メートルの長い通路で、左右に英霊の居住区や食堂への分岐が枝分かれしている。
立香は廊下の窓からちらりと外を見た。
真っ白だった。
吹雪だ。窓ガラスの向こうに広がるのは、雪と氷と岩だけの景色。最寄りの人間の居住地まで直線で300キロ。外気温はたぶん氷点下40度か50度くらい。ここは完全に、世界の果てみたいな場所だ。
だから廊下のぬくもりが余計に大事だし、だからこそ枕の一つくらいちゃんと確保したかった、と立香は思いながら歩いた。
食堂は地上1階の東側にある。朝6時に開くから、ちょうど開いたばかりのはずだ。
ドアの前まで来て、立香は手を止めた。
中から音がしない。いつもなら英霊たちの声やら食器の音やらが廊下まで漏れてくるのに、今朝は静かだった。
「……?」
首をかしげてドアを開けた瞬間、立香の目に飛び込んできたのは——
ひっくり返ったテーブル。壁に深々と刺さったフォーク。天井にめり込んだスプーン。椅子が3脚、見事に重なって隅に積み上がっている。
立香はしばらくそれを眺めた。
「……おはようございます」
「おはようございます、マスター」
奥から声がした。カルデアの調理スタッフの一人、眼鏡をかけた30代くらいの男性だ。疲れた笑顔でモップを持っている。目の下にクマがある。
「これ……」
「昨夜ですね」
男性スタッフはため息をついた。
「英霊の方々が深夜に集まりまして。最強の朝食メニューを決める会議、だそうで」
「……会議?」
「ええ。自主的に。誰も頼んでないのに30騎以上が集まって、互いに主張を譲らなくて……気づいたらこうなってました」
立香は天井のスプーンを見上げた。あれ、どうやって取るんだろう。
「英霊の方々は体が霊的に出来ていますから、力加減がちょっとずれるだけで」
「うん、まあ……そうだよね」
普通の武器じゃほぼ傷つかないくらいの存在が、普通の食堂でごはんの話をしたら、こうなるのは自然の摂理だと立香は思った。最初の頃はいちいち驚いていたけど、今はもう慣れた。こういうことが日常的に起きるのがカルデアだ。
「ごめんね、片付け大変で」
「いえ、慣れてますよ。また英霊の方々が……ってやつです」
男性スタッフは本当に慣れた笑顔で言って、モップを動かし続ける。その横で立香はとりあえずひっくり返っていないテーブルを一つ見つけ、椅子を引いて座った。食堂のカウンターには、かろうじて無事だったパンが数個残っていた。立香はそれを一個もらって、ぼんやりかじった。
静かだった。スタッフが掃除する音だけが響く。
枕のこと、ちょっと忘れかけていた。
そのとき、腰のポーチに入れていた通信端末が振動した。
立香は画面を見た。ロマニ・アーキマンからだ。
ロマニは医療主任——カルデアのお医者さんみたいなポジションで、マスターの体調管理や英霊たちの霊基チェックをしている。温厚で少し頼りない雰囲気の人で、立香には兄みたいな感じがする。いつも少し眠そうな顔をしている。
端末を開くと、音声メッセージが入っていた。
「おはよう、立香くん! 今日の予定なんだけど……特異点の修復任務なし! システムのメンテもなし! 完全フリーだよ! ゆっくり休んでね!」
メッセージの最後に「ほんとに何もないから安心して!」という一言が付け加えられていた。
立香はしばらく端末を見つめた。
それから、パンをテーブルに置いた。
……休み。今日は休みだ。
胸の奥で、何かがじわりと緩む感じがした。
カルデアに来てから、まともに休めた日がどれくらいあったか。特異点の修復任務——歴史が歪んだ場所に英霊たちと一緒に乗り込んで、ぼろぼろになりながら修正して帰ってくる——それが基本的な立香の仕事で、任務と任務の間に少し休める日もあるにはあるけど、英霊たちに何かしら巻き込まれることの方が多い。
今日は、そういうのがない。
「やった」
声に出したら、掃除中のスタッフが振り返った。立香は少し照れくさくて前髪をかきあげた。
「ゆっくりします、今日は」
「お疲れ様です、マスター。どうかゆっくりなさってください」
枕の件はまあ、今日は後回しでいい。部屋に戻って横になって、のんびりしよう。それだけでいい。シンプルでいい。
立香はパンを食べ終えて食堂を後にした。
廊下を西に向かって歩く。自室は地上2階で、階段を上ればすぐだ。
角を曲がったところで、立香の足が止まった。
壁に張り紙がある。
白い紙に、丁寧な字で書かれていた。
【カルデア親善大運動会・近日開催! 実行委員長募集中! ※適任者が見つからない場合はマスターに一任します】
立香は3秒間、その張り紙を見た。
「……見なかった」
小声でつぶやいて、視線をそらした。足早に歩き出す。今日は休みだ。今日は関係ない。休みの日に張り紙を読んだとしても、読まなかったことにしてもいい。そういうルールが世界にはある。たぶん。
廊下を歩きながら、でも頭の片隅にあの文字がちらついた。
《実行委員長募集中》
《適任者が見つからない場合はマスターに一任》
「……一任って何」
つぶやいてから、立香は首を横に振った。考えない。今日は何も考えない。部屋に帰る。それだけだ。
部屋に戻って布団に倒れ込んだ。
「……ふぁ」
天井を見上げる。白い天井。いつもと同じ天井。今日はこれをのんびり眺めていればいい。
首が痛かった。
「あ、そうだ枕」
枕がない。後頭部が布団に直接当たっている。微妙に角度が悪い。
立香はタオルを取り出して、くるくると丸めてみた。頭の下に置く。……高さが微妙に合わない。もう少し高い方がいい。別のタオルをもう一枚重ねてみる。今度は高すぎて首が浮く感じがする。
ポジションを変えてみる。横を向いてみる。うつぶせにしてみる。仰向けに戻す。
どうにもしっくりこない。
引き出しを開けて、着替えを引っ張り出した。シャツを丸める。高さはちょうどいいけど、形が変でじわじわと崩れてくる。5分後にはペシャンコだ。
「……なんで枕ってこんなに大事なんだ」
廊下から声がした。英霊たちの笑い声だ。続いて怒号。何かが床に落ちる音。また笑い声。カルデアの朝は、外が吹雪でも中はうるさい。
立香はタオルを枕代わりにしたまま、目を閉じようとした。
眠れない。
廊下の声は止まらない。どたどたと走る足音。何かが壁にぶつかる音。英霊たちは力加減というものを廊下でも忘れがちだ。
立香は目を開けた。天井を見る。
休めるのかな、今日。
そうぼんやり思った瞬間だった。
——ズシン、と床全体が揺れた。
一発だけ。でも確実に、建物全体を揺らすような衝撃。廊下の青い照明がビリビリと震えて、部屋の小型冷蔵庫の上に置いていた本が一冊、ぱさりと落ちた。
地下1階の方向だ。訓練場——シミュレーションルームがある方向だ。
立香はしばらく天井を見つめていた。
「……今日は関係ない」
自分に言い聞かせるように、小声で言った。
「今日は休みだから、関係ない」
もう一度言った。
それでも目が冴えていた。廊下はまだうるさかった。タオルはやっぱりしっくりこなかった。そして頭の片隅には、あの張り紙の文字がちらちらと残っていた。
《マスターに一任します》
立香は目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
休める気が、あんまりしなかった。Noveliaとは?
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