カルデアのにぎやかな一日
カルデアは、歴史を超えて集まった英霊たちが世界を守るために集う、不思議な場所だ。藤丸立香はある朝、枕がなくなっていることに気づき、食堂が戦場のように変わり果てているのを見て、ロマン博士が「今日は何の予定もない」と陽気に告げるのを聞く。
自由な一日。ついに。
しかし、それは全くの誤解だった。
アルトリア・ペンドラゴンは真剣な表情で現れ、藤丸に「ケーキを守ってほしい」と頼む。エミヤは頼まれもしないのにカルデア全員分の昼食を作り始め、あまりのサーヴァントの多さに材料が足りなくなってしまう。ギルガメッシュは威厳たっぷりに藤丸を自室に呼び出すが、ソファで昼寝をしているだけだった。スカサハは廊下で無許可の訓練を行い、逃げ出そうとする藤丸を徴兵する。そしてジャンヌ・ダルクは善意に満ちた「カルデアスポーツデー」を企画し、藤丸を総合責任者に任命する。
昼食時には、もはや「自由な一日」は完全に消え去っていた。
スポーツデーでは、英霊たちの競争心が完全に暴走する。綱引きは本気の戦いに発展し、ギルガメッシュは「我が物は一切貸さぬ」と言って宝探しの道具を一切貸さない。アルトリアはフェアプレイを宣言し、
カルデアのにぎやかな一日 - ごめんね、立香——弁当と謝罪と、最終走者の覚悟
壁が冷たかった。
訓練場——地下一階のシミュレーションルーム——の端。立香はそこに座ったまま、動けなかった。膝を抱えて、プログラム表を床に放って。肘と膝がじんじんする。ケガは大したことじゃない。でも、もっと奥のどこかが、ずっと痛い。
(俺がいてもいなくても、同じじゃないか)
訓練場の中央では、英霊たちがリレーの準備を始めていた。アルトリアが「フェアに、正々堂々と!」と叫んでいる。スカサハが「走ることに訓練的要素は十分ある」と腕を組んでいる。ギルガメッシュは例のソファに座って「余が走るなど……」とぼやいている。
誰も、立香を探していない。
足音が聞こえた。
静かな、迷いのない足音。振り返る気力もなくてそのままにしていると、足音は立香の隣でぴたりと止まった。
何かが、床に置かれた音がした。
コトン。
立香は顔を上げた。
弁当箱があった。白い布で包まれた、四角い弁当箱。隣には、エミヤが立っていた。黒い髪を後ろで束ねて、腕を組んで、訓練場の天井を見上げている。こちらを見ていない。
「……腹が減っては戦はできないだろ」
「え」
「开けろ」
そっぽを向いたまま言う。
立香は弁当箱を手に取った。布をほどく。蓋を開けた。
——鶏の唐揚げ。卵焼き。ほうれん草のごまあえ。ミニトマト。白いごはん。
全部、立香の好きなものだった。
「……なんで、俺の好物わかるの」
沈黙。エミヤの耳が、少しだけ赤くなった。
「……料理人は記憶力がいいんだ。感謝はしなくていい」
感謝しなくていいって言われると、逆にめちゃくちゃ感謝したくなる。立香はそれを口に出さずに、唐揚げを一つ摘んだ。
口に入れた。
おいしかった。
すごく、おいしかった。
「…………」
何も言えなかった。ただ黙って、咀嚼した。エミヤはずっとそっぽを向いて、でも立ち去らなかった。
しばらくして。
足音がまた来た。今度は複数。
アルトリアだった。神妙な顔で、騎士みたいにまっすぐ立って、立香の前に来た。金色の長い髪が揺れる。澄んだ青い瞳が、まじめそのものだ。
「マスター。騎士として、申し上げなければならないことがあります」
唐揚げを咀嚼しながら立香は顔を上げた。
「本日の騎馬戦にて。私の不注意により、貴方を危険な目に遭わせました。それは、騎士として恥ずべきことです」
ぺこり、と頭を下げた。完全に直角だった。
「いや、でも庇ってもらったじゃないですか」
「それはそれ、これはこれです。フェアに謝罪するのが、正しいあり方でしょう」
立香は卵焼きを箸で持ったまま固まった。
(フェアに謝罪……? フェアに謝罪ってなんだ……?)
意味がわからなかった。でも、アルトリアの顔は本気だった。これ以上ないくらい本気だった。
「……ありがとう、ございます」
「正々堂々でしょう」
そう言って、満足そうに一歩引いた。
次に来たのはジャンヌだった。亜麻色の長い髪を揺らして、小走りで近づいてきた。青い目が、すでに潤んでいた。
嫌な予感がした。
「マスター……私、ずっと、みんなが楽しければいいって思ってたんです。でも、マスターのことを全然考えてなかった。一番大変だったのは、マスターだったのに……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「泣かないでください!」
「ごめんなさい……ごめんなさいね、マスター……」
さらに盛大に泣き始めた。肩が震えている。本気で泣いている。善意が全部涙になって出てきているやつだ。
「大丈夫だから、ほんとに、泣かないで……」
「大丈夫じゃないですよ! マスターが一人で全部抱えてたのに——!」
「あーもう、ほんとに泣かないで……!」
エミヤが横で「……仕方ねぇな」とつぶやいて、そっとハンカチを差し出した。誰に向けてかは言わなかった。ジャンヌが受け取って、盛大に鼻をかんだ。
その時、壁に寄りかかっていた人影がゆっくりと動いた。
スカサハだった。深い赤紫の髪を束ねたまま、腕を組んで、壁から離れた。無表情で立香を見る。
沈黙が三秒続いた。
「……すまんな」
ぼそり、と言った。
「鍛えるつもりが、追い詰めていたか」
それだけ言って、また黙った。それ以上は何も言わない。でも、その短さがスカサハだった。影の国の女王にして武芸の師が、あれだけの言葉を絞り出すのに、どれくらいかかったか。
(……スカサハさんにしては、めちゃくちゃ長い謝罪だ)
立香はごまあえを食べながら、そう思った。
そこへ。
金色のソファが、訓練場の端からゆっくりと近づいてきた。ギルガメッシュがそこに腰かけたまま、腕を組んで、足を組んで、完全に王様の姿勢でいた。
「余は謝らんぞ」
「……そうですよね」
苦笑いしかけた、その時。
ギルガメッシュが続けた。
「だが。」
間があった。
「最終走者は貴様がやれ、雑種。それが王の命令だ」
「え、急に?」
「急ではない。余は最初からそう決めていた」
そっぽを向いた。鋭い赤い目が、ちらりと立香を見て、また逸れた。
その場にいた全員が、何も言わなかった。
ジャンヌだけが目を輝かせた。
「ギルガメッシュさん、それって優しさですよね!?」
「黙れ」
即答だった。
エミヤが小さく鼻を鳴らした。アルトリアが視線を天井に向けた。スカサハは相変わらず無表情だった。でも、誰もツッコまなかった。
立香は弁当箱の最後のミニトマトを食べた。
そこで、通信端末が震えた。
画面を見る。ロマニ・アーキマンの名前だった。
出た。
「立香くん。僕からも、一つだけ」
通信越しでも、あの温かい声だとわかる。
「カルデアのマスターはきみだけだ。きみがいないと、英霊たちはただの……すごく強い人たちの集まりでしかない」
立香は膝の上で弁当箱を持ったまま、動かなかった。
「きみがいるから、チームになれるんだよ」
通信が終わった。
立香は、少しの間だけ、顔を下に向けた。
目に、じわっと何かが来た。
袖で、ぐしっと拭った。
ギルガメッシュが小声でぼやいた。
「……ドクターが余より先に、余の言いたいことを言ったな」
エミヤが同じく小声で返した。
「言えなかっただろ、どうせ」
「黙れ」
立香は笑った。笑えた。
弁当箱を布に包んで、立ち上がった。
「わかった。最終走者、やるよ」
全員がこちらを見た。
「でも俺、足遅いからね? コケても知らないよ?」
アルトリアが真顔で答えた。
「それでもフェアに応援しますわ」
---
全員リレーが始まった。
訓練場が、瞬時に戦場に変わった。
第一走者のアルトリアが「フェアに!」 と叫んで飛び出した瞬間、地面が軋んだ。コーナーを曲がった時、壁に風圧のヒビが走った。パキパキと、亀裂が広がっていく。
「壁が……割れてる!!」
バトンが渡った。
スカサハが走り出した。廊下でも無言で速い女が、訓練場では更に速い。それはいい。問題は、走りながら右手が無意識に腰元へ伸びていったことだ。
「槍、槍を取ろうとしないでください!!」
ジャンヌが走りながら叫ぶ。スカサハが走りながら「本能だ」 と答える。二人が走りながら揉めている間も、スピードは一切落ちなかった。むしろ速くなっていた。
観客席のカルデアスタッフたちから悲鳴と歓声が上がる。エミヤだけがカメラを構えて、一番楽しそうな顔で記録していた。
バトンが渡った。
ジャンヌが受け取った。全力で走った。善意の塊が全速力で走ると、こんなに速いのかと立香は思った。コーナーを曲がる。今度は曲がり切れた。壁は無事だった。
バトンが渡った。
ギルガメッシュの前に、バトンが差し出された。
一瞬の沈黙。
「……余が走るなど」
「走ってください!!」
「……まあいい。特別だ」
バトンを受け取った。
走った。
誰より、堂々としていた。速い遅いとか関係なく、その走りには王者の風格があった。金色と赤のツートーンの髪が風に流れる。鋭い赤い瞳がまっすぐ前を見ている。観客席が一瞬、静かになった。
そしてバトンが——立香の手前まで来た。
ギルガメッシュが最後の一直線を走りきって、腕を伸ばした。
その瞬間、訓練場にいた全員が、一度だけ立香の方を向いた。
アルトリアが。スカサハが。ジャンヌが。エミヤがカメラを下ろして。ギルガメッシュが走りながら横目で。スタッフたちが。
全員の視線が、立香一人に集まった。
立香はその視線を、全部受け取った。
両手を差し出した。
バトンが、手の中に収まった。
温かかった。みんなの走りで温まった、白いバトン。
立香は前を向いた。ゴールまで、あと百メートルある。足は遅い。コケるかもしれない。それでも。
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