カルデアのにぎやかな一日
カルデアは、歴史を超えて集まった英霊たちが世界を守るために集う、不思議な場所だ。藤丸立香はある朝、枕がなくなっていることに気づき、食堂が戦場のように変わり果てているのを見て、ロマン博士が「今日は何の予定もない」と陽気に告げるのを聞く。
自由な一日。ついに。
しかし、それは全くの誤解だった。
アルトリア・ペンドラゴンは真剣な表情で現れ、藤丸に「ケーキを守ってほしい」と頼む。エミヤは頼まれもしないのにカルデア全員分の昼食を作り始め、あまりのサーヴァントの多さに材料が足りなくなってしまう。ギルガメッシュは威厳たっぷりに藤丸を自室に呼び出すが、ソファで昼寝をしているだけだった。スカサハは廊下で無許可の訓練を行い、逃げ出そうとする藤丸を徴兵する。そしてジャンヌ・ダルクは善意に満ちた「カルデアスポーツデー」を企画し、藤丸を総合責任者に任命する。
昼食時には、もはや「自由な一日」は完全に消え去っていた。
スポーツデーでは、英霊たちの競争心が完全に暴走する。綱引きは本気の戦いに発展し、ギルガメッシュは「我が物は一切貸さぬ」と言って宝探しの道具を一切貸さない。アルトリアはフェアプレイを宣言し、
カルデアのにぎやかな一日 - コケてもゴール! それでも走るのがマスターだから
バトンが、手の中に収まった。
温かかった。
みんなの走りで温まった、白いバトン。立香はそれを両手で握ったまま、一瞬だけ動けなかった。
ゴールまで百メートル。
足は遅い。今日一日で擦り傷だらけになった膝は、まだじんじんしている。徹夜明けの体は、とっくに限界を超えている。それでも。
走り出した。
最初の十メートルは良かった。風を感じた。訓練場の人工照明が、コースの白線を綺麗に照らしている。観客席のスタッフたちが立ち上がって声を上げ始めた。
そこで、足がもつれた。
疲労と緊張が一気に来た。右足が左足に引っかかって、体が前に傾いて——。
ズドォン!!
顔面から砂に突っ込んだ。
盛大に。音まで立てて。砂埃がもうもうと舞い上がって、訓練場全体を白くかすませた。
観客席が、しん、と静まった。
ロマニの声が通信越しに漏れた。
「あっ……」
それだけだった。誰も何も言えなかった。
観客席のスタッフが隣と顔を見合わせた。「え、生きてる?」「動いてない……」「息してる?」声が、ざわざわと広がっていく。
立香は砂の中に顔を埋めたまま、数秒だけそのままでいた。
砂の味がした。ざらざらした、無味な砂の味。
膝の擦り傷が、また開いた感触がある。じわっとした熱さが布越しに伝わってくる。
(……コケた。めちゃくちゃコケた)
のそりと顔を上げた。砂まみれの顔で、コースを見た。ゴールまで、まだ七十メートルくらいある。
訓練場が、静かだった。
英霊も、スタッフも、誰も声を出していない。その沈黙が、どこか滑稽で。砂まみれの自分が、どこか滑稽で。
おかしくなってきた。
立香は砂をはたきながら、思わず笑い出した。こんな状況で笑えるのは、もう疲れ切って何も怖くないからかもしれない。
立ちあがろうとした、その瞬間。
「立て、マスター!」
アルトリアの声が、訓練場に飛んだ。
澄んだ、はっきりした声。騎士が戦場で叫ぶような、真剣な声だった。
一拍の間があった。
それから——。
「走れ、雑種。余が許可する!!」
金色のソファから、ギルガメッシュが立ち上がっていた。
ふだんは腕を組んで座ったまま命令を下すギルガメッシュが、立ち上がった。その事実に、訓練場にいた英霊全員が一拍遅れて気づいた。
空気が、変わった。
「足を止めるな! 訓練の成果を見せろ!」
スカサハが腕を組んだまま、真剣な目で言った。その声に、冗談の成分は一ミリもない。影の国の女王が、本気でそう言っている。
ジャンヌが両手をメガホンの形にして叫んだ。
「マスター、みんなが見てます! がんばって!!」
エミヤはカメラを構えたまま、立香を見ていた。その口元が、かすかに動いた。
「……まったく、手のかかるマスターだ。だが、嫌いじゃないぞ」
カメラ越しの、小さな声だった。聞こえるか聞こえないか、ギリギリのところで。
立香はそれを聞いた。
全部、聞いた。
さっきまで玉入れの籠を天井ごと吹き飛ばし、棒倒しで床にヒビを入れ、借り物競走を全拒否し、壁を突き破って隣室に消えていた英霊たちが。今この瞬間だけは、全員が同じ方向を向いて、立香の名前を呼んでいた。
その光景が、おかしくて。うれしくて。
砂まみれのまま、立香は笑いながら立ち上がった。
観客席のスタッフたちも立ち上がり始めた。声が重なった。「行け!」「走れ!」「諦めるな!」訓練場全体が、一つの声になっていく。
足が遅いまま走り出した。
カッコよくない。砂が頬にくっついたまま。膝の傷が少し滲んでいる。それでも、前に進んだ。一歩、また一歩。
英霊たちの声がどんどん大きくなった。
ゴールテープが、見えた。
突っ込んだ。
びりっ、とテープが切れた。
——と同時に、誰も順位を確認していなかった。
アルトリアが駆け寄ってきた。金色の長い髪を揺らして、真顔で。
「見事な走りでした、マスター!」
「……どこが!?」
「転んでも立ち上がった。正々堂々でしょう」
満足そうに頷いた。本気でそう思っている顔だった。
ギルガメッシュがゆっくりと近づいてきた。鋭い赤い目が、砂まみれの立香を見下ろした。
「……余が認めてやる。おまえは余のマスターにふさわしい」
一拍置いた。
「まあ、辛うじてな」
鼻を鳴らした。
ジャンヌがぱあっと顔を輝かせながら走り込んできた。
「マスター! マスター、よかった、よかったです!!」
「泣かないでください!」
「泣いてないです! ……ちょっとだけ泣いてます!」
「どっちだよ!」
スカサハが無言で立香の横に立った。
「擦り傷の手当ては後でしろ。砂が入ると面倒だ」
「ありがとうございます……」
エミヤがカメラをかざした。
「いい記録が撮れた。永久保存版だな」
「どういう意味ですか!?」
ロマニの通信が入った。
「あはは……あの、立香くん、お疲れ様。本当に、お疲れ様」
声に笑いが混じっていた。でも、それだけじゃない何かも混じっていた。
訓練場がざわざわと温かい声で満たされていく中、エミヤが手持ちのカメラをちらりと見た。液晶画面の中に、転倒する立香、砂まみれで顔を上げる立香、よろよろ走る立香、ゴールする立香、その全てがしっかり収められていた。
観客席のスタッフが後でロマニに耳打ちした。「エミヤさん、あの、全部撮ってたんですけど……」「うん」「永久保存って……」「うん」ロマニは遠い目をした。
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夜になった。
立香の自室——地上二階の、十八平方メートルの個室——は、静かだった。
全身が痛かった。肘、膝、ついでに顔の砂の感触がまだ少し残っている。シャワーを浴びてさっぱりしたはずなのに、筋肉という筋肉が個別に主張してくる。
(今日だけで何キロ動いたんだ……)
ベッドに倒れ込んだ。
天井を見た。何もない白い天井。
そこで気づいた。
また、枕がない。
そうだった。今朝——というか昨日の朝から、枕はずっとなかった。朝起きたら消えていて、ずっとそのままだった。一日中走り回っていたせいで、完全に忘れていた。
(……タオルでも丸めるか)
起き上がろうとした、その時。
ノック、なしに。
ドアが開いた。
ギルガメッシュだった。
金色と赤のツートーンの長い髪、鋭い赤い目、いつもの傲岸な立ち姿。その右手に——立香の枕が、あった。
「……余がこれを管理していた」
立香はベッドの上でぽかんとした。
ギルガメッシュは部屋に入ってきた。特に許可を求めない。王様スタイルだった。
「理由か」
枕を片手で持ったまま、立香をまっすぐ見た。
一拍の沈黙があった。
「……おまえが探しに来ると思ったからだ。余の部屋に来れば返してやるつもりだった。だがおまえは来なかった」
そっぽを向いた。
「まあいい。返してやろう」
枕を立香に向けて放り投げた。
立香は受け取った。
しばらく、何も言えなかった。
枕を抱えたまま、ギルガメッシュを見た。ギルガメッシュは窓の外を見ていた。立香の方を見ない。
(……この人、枕一個で、ずっと拗ねてたの?)
朝から。玉入れが始まる前から。ずっと。立香が自分の部屋に来るのを待っていたのか、この三千百歳の王様が。
笑いが来た。力が抜けて、どうにも止まらない笑いが。
「ふふ……あはは……」
ギルガメッシュが眉をひそめた。
「なにがおかしい」
「ごめん、ごめんなさい。なんでもない。ほんとになんでもない」
笑いながら、枕を胸に抱えた。ふわふわした感触がした。ずっとなかった感触。
「ありがとう、ギルガメッシュ」
ギルガメッシュは何も言わなかった。
そっぽを向いたまま、踵を返した。ドアの方へ歩いていく。
「……余に礼は不要だ。当然のことをしたまでだ」
「そうかな」
「そうだ」
ドアが静かに閉まった。
ノック、なしに来て、ノック、なしに去っていった。完全に王様スタイルだった。
立香はベッドに沈み込んだ。
枕に顔をうずめた。ちゃんとした感触がした。柔らかくて、自分の匂いがした。
廊下の方から声が聞こえてきた。
アルトリアが何か叫んでいる。「フェアに明日のリレーの反省会を——」「リレーはもう終わりですわ」「終わってない! あの走りを振り返るべきでしょう!」ジャンヌが「スカサハさん、そこ通れませんよ、訓練は明日にしてください!」スカサハが「廊下は訓練の場だ」エミヤがため息をついている気配がした。「仕方ねぇな、全員食堂に集まれ。夜食を作ってやる」
うるさかった。
めちゃくちゃだった。
立香は枕に顔をうずめたまま、小さくつぶやいた。
「……悪くなかったな、今日。全然休めなかったけど」
廊下から声がまだ聞こえる。誰かが笑っている。誰かが言い合いをしている。誰かがエミヤに「夜食は何?」と聞いている。
urusai.
うるさくて、めちゃくちゃで。でも、なんだかんだ温かい場所。
立香は枕に顔をうずめたまま、すぐに眠りに落ちた。
カルデアの廊下では、今夜もまた誰かが騒いでいた。Noveliaとは?
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