カルデアのにぎやかな一日
カルデアは、歴史を超えて集まった英霊たちが世界を守るために集う、不思議な場所だ。藤丸立香はある朝、枕がなくなっていることに気づき、食堂が戦場のように変わり果てているのを見て、ロマン博士が「今日は何の予定もない」と陽気に告げるのを聞く。
自由な一日。ついに。
しかし、それは全くの誤解だった。
アルトリア・ペンドラゴンは真剣な表情で現れ、藤丸に「ケーキを守ってほしい」と頼む。エミヤは頼まれもしないのにカルデア全員分の昼食を作り始め、あまりのサーヴァントの多さに材料が足りなくなってしまう。ギルガメッシュは威厳たっぷりに藤丸を自室に呼び出すが、ソファで昼寝をしているだけだった。スカサハは廊下で無許可の訓練を行い、逃げ出そうとする藤丸を徴兵する。そしてジャンヌ・ダルクは善意に満ちた「カルデアスポーツデー」を企画し、藤丸を総合責任者に任命する。
昼食時には、もはや「自由な一日」は完全に消え去っていた。
スポーツデーでは、英霊たちの競争心が完全に暴走する。綱引きは本気の戦いに発展し、ギルガメッシュは「我が物は一切貸さぬ」と言って宝探しの道具を一切貸さない。アルトリアはフェアプレイを宣言し、
カルデアのにぎやかな一日 - 騎士王とケーキ大作戦! 冷蔵庫を死守せよ
枕がない。
それだけのことで、立香の休日はもう朝から崩れていた。
タオルを丸めてみた。高さが足りない。シャツを重ねてみた。形が崩れる。昨日の夜からずっとそれを繰り返して、気づけば朝の10時になっていた。首の後ろがじんわりと痛い。眠れたような眠れなかったような、中途半端な意識のまま、立香はとうとうベッドから起き上がった。
「まあ……部屋にいても仕方ないか」
廊下に出たのは、半分は気分転換、半分はただの諦めだった。白い壁と青い照明が続くカルデアのメインコリドー——地上1階を東西に貫く全長200メートルの廊下——はいつもより静かだった。英霊たちの騒ぎが食堂に移動しているのかもしれない。
窓の外は真っ白だった。吹雪。最寄りの人間の街まで300キロある北極圏の雪山に建てられたこの施設では、窓の外がこの景色でも誰も驚かない。立香もとっくに慣れた。慣れはしたけれど、見るたびに少し遠い気持ちになる。
ぼんやり歩いていると、廊下の向こうから足音が聞こえた。
金属のこすれる音。甲冑の音だ。
カルデアの英霊の中でも、甲冑を着たまま廊下を歩くのはほぼ一人しかいない。立香はほんの少し身構えた。その足音の主が視界に入ってきたのは、次の瞬間だった。
鮮やかな金髪。澄んだ青い瞳。165センチの凛とした立ち姿。セイバークラスの英霊、アルトリア・ペンドラゴン——ブリテンの伝説に名を刻んだ騎士王だ。その表情が、尋常ではない真剣さをたたえていた。
立香の中で何かがピンと張った。
(これは……任務の顔だ)
英霊たちの中で、アルトリアはとりわけ真剣に物事に向き合う。フェアであることを何より重視し、いざ勝負事となれば全力で臨む。その彼女が、廊下でこの顔をしているとなれば——
立香はさっきまでの眠気を全部どこかに置いてきたような気持ちで背筋を伸ばした。緊急の特異点か。それとも施設で何かあったのか。
アルトリアが立香の前で足を止めた。
「マスター。ちょうど良かった」
「なに、どうした?」
「折り入って、頼みがあります」
アルトリアは立香の腕を掴んで廊下の隅に引っ張った。壁際に二人を寄せて、周囲をさっと確認する。その動作が、どこか密偵のようだった。
「あの、アルトリアさん?」
「声を落として。聞かれたくないのです」
立香は小声に切り替えた。何が起きているのか全くわからないが、アルトリアの真剣さは本物だ。冗談を言っている顔では絶対にない。
「今日、食堂の冷蔵庫に、月に一度だけ入荷する限定品のイチゴショートケーキが保管されているのです」
「……うん」
「カルデアの購買部が北極圏の外から特別に取り寄せるもので、一ホール15,000円相当。私は今日の午後にそれを食べる予定でした。しかし」
アルトリアの眉がかすかに険しくなった。
「昨夜の食堂の騒動で、冷蔵庫の場所が施設中に知れ渡った。情報によると、複数の英霊が自分たちに先に食べる権利があると主張している……そういうことになっているようです」
立香は少し間を置いた。
「……えっと」
「あのケーキを食べるまで、私は死ねない」
騎士王に死ねないと言われると、なんか普通に怖い。
「守ってほしいのです、マスター。あの冷蔵庫を。私が戻るまでの間だけ」
断ろうとした。口を開いた。「いや、でも今日は休み——」と言いかけた瞬間、アルトリアの青い瞳が正面からぶつかってきた。
騎士王の眼光というやつは、どうしてこんなに真っ直ぐなのか。
「……わかりました、守ります」
気づいたら答えていた。
「感謝します、マスター。フェアに任務を遂行してください」
アルトリアはそれだけ言い残して颯爽と廊下の奥に消えた。残された立香は「フェアに……って、どういう意味だ」と小声でつぶやきながら、とぼとぼと食堂へ向かった。
——食堂の冷蔵庫は、地上1階東側にある。朝は片付けが終わって、今は静かなはずだ。
静かなはずだった。
ドアを開けてみると、やや静かだった。昨夜ひっくり返ったテーブルは一つ直され、天井のスプーンもなくなっていた。スタッフさんが頑張ってくれたのだと思う。本当に申し訳ない。
立香は冷蔵庫の正面に立った。白い業務用冷蔵庫。扉に「個人の食べ物には手を触れないこと」と張り紙がある。誰が書いたのかは知らないが、守られているのを見たことがない。
「……まあ、なんとかなるよ」
つぶやいて、両手を後ろで組んで立った。番人スタイルだ。
5分で最初の英霊がやってきた。
「やあ、マスター。朝から熱心だな」
聞き慣れた声だ。立香は愛想よく笑いつつ、冷蔵庫の前から一ミリも動かなかった。
「ちょっと、そこだけ通してくれないか。喉が渇いた。水を取りたいだけだ」
「水は向こうの棚にありますよ」
「……ああ、そうか。そうだな」
一波目はあっけなく退散した。
10分後、二人目がやってきた。こちらはもっと自信満々だった。
「余の舌は人類史上最も優れた舌である。品質確認こそ余の務め。感謝して道を開けよ」
「品質は大丈夫です、確認済みです」
「誰が確認したのだ」
「僕が確認しました」
「マスターの舌で確認したとはおこがましい。余の舌と比べれば——」
「大丈夫です!」
「……む」
二波目も退散した。が、立香の脚はもうじんじんし始めていた。ずっと立ちっぱなしというのは地味につらい。
三波目は哲学的だった。
「食べ物というのは食べてこそ意味を持つ。食べられない食べ物は存在意義がない。今食べることは存在を肯定することに他ならない」
「午後になれば食べます、アルトリアさんが」
「その前にケーキが傷むとしたら?」
「業務用冷蔵庫です。傷みません」
「……」
「ありがとうございました」
立香は笑顔で頭を下げた。英霊は「論理的なマスターだ」とつぶやきながら去った。
そこからが本番だった。
英霊たちは一人で来ても無理だとわかると、二人・三人で雑談しながらやってくるようになった。問題は、雑談の方向が自然と冷蔵庫側に流れてくることだ。
「そういえば昨日の話なのだが——」と右から話しかけてくる英霊に立香が応答している間に、もう一人がするりと冷蔵庫の左側に回り込もうとする。
「待って! 後ろも見てますから!」
「見ていたのか」
「見ていました」
腕を横に広げて冷蔵庫をカバーしようとしたが、普通の人間の腕の長さでは冷蔵庫全体を覆うのは無理だ。物理的に無理だ。わかっていても、立香は横移動とブロックを繰り返した。
脚がガクガクしてきた。
三人組がやってきた時、立香はもう限界が近いと思った。正面から話しかけてくる英霊と、左から近づこうとする英霊と、右から「見ているか?」と試してくる英霊。人間の体は一つしかない。
「そこまでです!」
声を張り上げて、最後の気力で冷蔵庫の前に仁王立ちした。三人がそれぞれ少し驚いた顔をした。
その時、食堂の入り口から、足音が聞こえた。
重い足音。甲冑の音。
アルトリア・ペンドラゴンが食堂の入り口に立っていた。
冷蔵庫の前でぐったりしている立香と、それを取り囲んでいた英霊三人を、青い瞳がゆっくりと見渡した。
一秒、沈黙。
アルトリアは、無言で腰の聖剣の柄に手をかけた。
抜かない。ただそれだけ。
だが——その瞬間、食堂の空気が変わった。
騎士王の本気。その気配が、部屋全体に満ちる。英霊たちは超人的な力を持つ存在だ。普通の武器では傷つかない。だが、同じ英霊の本気の殺気は別の話だ。
「……あ、そういえば」
「急に用事を思い出した」
「腹は、別に、減ってなかった」
三人は自然な流れで、しかし驚くほどの速さで食堂を後にした。最後の一人が角を曲がったのを確認して、立香はその場にへたり込んだ。
膝をついて、床に手をついて、大きく息をついた。
「……ご苦労でした、マスター」
アルトリアが立香の前に立った。剣の柄から手を離し、ぱっと見にはいつもの凛とした騎士王に戻っている。
「守りました……」
「見ていました。よく守った」
アルトリアは冷蔵庫を開けた。取り出した箱の中には、白い生クリームとみずみずしいイチゴが乗ったショートケーキ——月に一度の限定品が、ちゃんとそこにあった。
立香は床に座ったまま、その光景を見ていた。アルトリアはケーキを取り出し、丁寧にカットし始めた。見事な手際だ。騎士王なのに、こういうことが得意なのはどういうわけだろう。
切り分けた一切れをアルトリアの分として皿に置き——それから、もう一切れ、ずっと小さな一口分を切って、床に座ったままの立香の前に置いた。
「報酬です。フェアに」
立香は少し間を置いてから、その一口を口に入れた。
甘かった。
疲労と、安堵と、なんだかんだでちゃんと役に立てたという満足感が全部混ざって——今日唯一の、本当においしい何かになった。
「なんで守ったケーキを食べてるんだろう、僕」
思わず笑ってしまった。アルトリアは自分の皿に視線を落としながら、口元がほんの少し柔らかくなっていた。
「……正々堂々でしょう」
「そうですね」
二人しかいない食堂で、しばらく黙ってケーキを食べた。外は相変わらず吹雪だった。廊下の向こうがまた少しざわめいたが、今は関係ない。
ケーキを食べ終えて、立香はやっと立ち上がった。脚がまだほんの少し震えていた。
「じゃあ、今度こそ部屋で休みます」
「お疲れ様でした、マスター」
食堂を出ようとしたその時、入り口の壁に貼られた紙が目に入った。
朝、廊下で見かけたあの張り紙とは別の紙だ。今日のうちに誰かが貼ったのだろう。白い紙に、丁寧な字でこう書いてある。
【カルデア親善大運動会・競技プログラム(案)掲示中! ご意見・ご要望はマスターまで!】
その下に、何枚もの紙がピンで留めてあった。棒倒し、借り物競走、全員参加リレー——競技案がびっしり書き込まれている。どれを見ても「マスター実行委員長」という文字が既に刷り込まれていた。
立香は3秒間、その紙を見た。
「……なんで窓口が僕なんだ」
脱力しながら、ボロボロの体を引きずって廊下へ出た。自室は地上2階。階段を上れば、ようやく横になれる。
角を曲がったところで、足が止まった。
廊下の床に、英霊が何人か転がっていた。訓練場——地下1階のシミュレーションルームから吹っ飛ばされてきたとしか思えない状態で、白い廊下に大の字になっている。
「……大丈夫ですか」
「問題ない。スカサハ殿の授業が少々——」
「少々じゃないだろこれ」
廊下の奥から、まだ何かが轟いている。スカサハの指導が今日も絶賛進行中らしい。
立香は転がっている英霊たちを横目に、もう一度前を向いた。
自室はまだそこにある。枕は相変わらずない。首は痛い。でも今日は、ケーキが一口あった。
まあ、なんとかなるよ——と立香は小さくつぶやいて、また歩き始めた。Noveliaとは?
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