夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 契約の夜明け ―― 選んだ手のまま
夜明け前の空気は、刃物だった。
ユウは、レイヴンに手首を掴まれたまま、夜明けの門の前に立っていた。裸足の足の裏から、石畳の冷たさが這い上がってくる。それでも、掴まれた右手首だけが、焼けるように熱かった。
レイヴンの指の一本一本が、ユウの細い手首に深く食い込んでいる。骨が軋むほどの力。痛みは、嫌ではなかった。この痛みが、今ここにレイヴンがいるという、たった一つの確かな証のように思えた。
門の前に、銀白の髪を固く結い上げた老女が立っていた。
オルガ・ヴェスペル。レイヴンの祖母であり、この家の家長。手にした杖の石突きは、レイヴンの左手甲に刻まれたものと同じ家紋の形をしている。灰色の瞳が、薄闇の中で冷たく光った。
「……夜明けの門が開く前に、出立の支度は済んだのか」
低く、重い声が、凍りついた空気を震わせた。ユウは身を竦ませる。オルガの視線は、ユウではなく、レイヴンだけを見ていた。契約の話でも、家の掟の話でもなく、ただ、出立の確認。それだけだった。
レイヴンは、答えなかった。
代わりに、ユウの手首を掴んだまま、半歩、前に出た。
「……祖母上」
声は、いつもと同じ、平坦なものだった。
でも、ユウには分かった。レイヴンの手が、さっきよりも、ほんの少しだけ強く、ユウの手首を握りしめている。指の力が、微かに震えている。
ユウは、レイヴンの横顔を見上げた。黒に近い焦げ茶の短髪。赤みを帯びた瞳。薄明かりの中で、その横顔は、彫像のように静かだった。眉一つ動いていない。唇も、固く結ばれたまま。
「俺は、契約を破棄する」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにもはっきりと、夜明け前の空気に響いた。
一瞬、何も聞こえなくなった。風の音も、夜守の足音も、遠くの霧狼の遠吠えも、全てが消えた。世界に、レイヴンの言葉だけが、残った。
ユウの心臓が、大きく、一度、跳ねた。
オルガは、動かなかった。灰色の瞳が、レイヴンをじっと見据えている。夜明け前の冷気が、一段と深くなった。
「……今、なんと言った」
「契約を破棄する。ユウは、返さない」
レイヴンの声は、揺るがなかった。
「俺が、ユウを選ぶ」
その言葉が、ユウの胸の奥に、深く、突き刺さった。
目の奥が、熱くなった。鼻の奥が、つんと痛む。視界が、じわりと滲んでいく。ユウは、唇を噛みしめた。
オルガは、ゆっくりと、目を細めた。
「……分かっておるのか。契約の破棄が、何を意味するか」
「分かっている」
「家の掟を捨てるということじゃ。七血盟家の秩序を、根底から揺るがす行為じゃ。お前の家だけの問題では済まぬ。盟約監査院が動く。財産は没収され、お前は、この屋敷も、家名も、全て失うことになる」
オルガの言葉は、一つ一つが鉛のようにユウの胸に落ちてきた。ユウの心臓が、今度は、別の意味で、大きく跳ねた。
「レ、レイヴンさん……僕、そんな……」
ユウの声は、震えていた。
レイヴンは、ユウの言葉を遮るように、言った。
「全て、承知の上だ」
淡々とした、短い言葉。
「家を守るために、ユウを手放す。それが、俺の務めだと思っていた。だが、違った」
レイヴンは、そこで初めて、ユウの方を向いた。赤みを帯びた瞳が、真っ直ぐに、ユウを捉える。
「守るべきものは、家でも、掟でもない。目の前にいる、こいつだ」
ユウは、呼吸を忘れた。胸の奥が、熱い。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙になって溢れ出そうになる。
「……レイヴン、さん」
それ以上、言葉が続かなかった。
オルガは、長い沈黙の後、ゆっくりと、口を開いた。
「……後悔するぞ」
ただ、それだけだった。感情を挟まない、低い声。
「家のためを思えばこそ、お前を止めねばならぬ。だが、お前がそこまで言うなら、わしに止める権利はない。……好きにせい」
オルガは、杖を石畳に、コツン、と打ち付けた。その小さな音が、夜明け前の静寂に、やけに大きく響いた。
「ただし、忘れるな。掟は掟じゃ。破った者には、必ず、代償が訪れる。……お前の選んだ道の先に、何が待つか、思い知ることになるぞ」
オルガは、それだけを言い残すと、背を向けた。黒い衣服の裾が、冷たい風に、微かに揺れる。
「せいぜい、後悔せぬようにな」
従者も連れず、屋敷の奥へと消えていった。杖の音が、遠ざかっていく。コツン。コツン。やがて、それも聞こえなくなった。
門の前に、レイヴンとユウだけが、残された。
しばらく、誰も口を開かなかった。
レイヴンは、まだ、ユウの手首を掴んだままだった。相変わらず、強く。
ユウは、その熱を確かめるように、そっと、レイヴンの指に、自分の指を重ねた。レイヴンは、微かに、身じろぎした。でも、手は、離さなかった。
「……レイヴンさん」
小さく、呼んだ。
「ありがとう、ございます」
涙が、一筋、頬を伝った。
「僕、レイヴンさんに、何も返せないのに。レイヴンさんは、僕のために、全部、捨ててくれたのに」
声が、震える。
「ごめんなさい。僕のせいで、レイヴンさんが、こんな……」
「……違う」
レイヴンが、短く、遮った。
「俺が、選んだ。お前のせいじゃない」
「でも……!」
「お前が、帰さないでと言った。あの言葉がなければ、俺は、契約に従っていた。……お前が、俺の手を、掴ませたんだ」
その言葉は、ユウの胸の奥に、じわりと染み込んでいった。ユウは、涙を拭うこともせず、レイヴンの顔を見上げた。
「……僕、レイヴンさんが選んでくれたこと、絶対に、後悔させません」
震える声で、でも、はっきりと。
「僕、レイヴンさんのために、生きます。何があっても、離れません」
レイヴンは、何も言わなかった。ただ、ユウの手首を掴む手に、ほんの少しだけ、力が込められた。
それが、レイヴンの、答えだった。
ゴゴゴゴゴ……
重い音が、夜明け前の静寂を破った。屋敷の門が、開いていく。夜守の従者たちが、総出で、重い鉄扉を押し開いていた。
ユウは、息を呑んだ。夜明け前には必ず閉まっているはずの門が、今、ユウとレイヴンのために、開かれようとしていた。
「……行くぞ」
レイヴンは、ユウの手首を掴んだまま、歩き出した。ユウは、その一歩に、必死に続いた。裸足の足の裏に、冷たい石畳。でも、寒くはなかった。レイヴンの手の熱が、全身を内側から温めていた。
門が、完全に開いた。
その瞬間。
東の空から、一筋の光が、差し込んだ。
薄い金色の光が、霧深き森の向こうから、ゆっくりと、屋敷の門を照らし始める。
「……あ」
ユウは、思わず、足を止めた。
夜明けの光が、レイヴンの横顔を、金色に染めていく。黒い焦げ茶の髪が、光を受けて、微かに輝く。赤みを帯びた瞳が、朝の光の中で、ルビーのように透き通って見えた。
夜の闇の中で見るレイヴンも、怖いくらいに美しかった。でも、夜明けの光の中のレイヴンは、それとは全く違う、柔らかな美しさがあった。
レイヴンは、夜明けの光を、真っ直ぐに見ていた。ヴァンパイアであるレイヴンにとって、直射日光は、肌を焼き、体力を奪う。でも、レイヴンは、一歩も引かなかった。光の中を、歩き出した。
「レイヴンさん、光、大丈夫なんですか……?」
「……少しなら、問題ない」
淡々と答えて、前を向く。
「それに、お前が隣にいる。夜明けが、怖くない」
ユウの胸が、きゅう、と締め付けられた。掴まれた手首を、今度は自分から、ぎゅっと握り返した。レイヴンは、微かに、目を見開いた。でも、すぐに、また前を向いた。
その横顔の、口元が、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。
ユウには、確信がなかった。でも、そう思っただけで、胸の奥が、ぽかぽかと温かくなった。
二人は、夜明けの光の中を、並んで歩いていった。契約による許婚としてではなく、自分の意志で選んだ手のまま。
門を出て、しばらく歩いたところで、ユウは、思い切って口を開いた。
「あの、レイヴンさん」
「……なんだ」
「契約を破棄したら、レイヴンさんに、何が起こるんですか?」
声は、まだ少し震えていた。でも、知らなければならないことだと思った。レイヴンが、これから背負うことになる代償を、自分だけが知らないままでいるのは、嫌だった。
レイヴンは、少しの間、黙っていた。夜明けの光が、二人の影を、長く、地面に伸ばしている。
「……盟約監査院が動く。財産没収、家名剥奪。場合によっては、記憶改変の制裁もある」
淡々とした声。
「だが、お前には関係ない。お前は、人間だ。監査院の制裁対象は、契約を破棄したヴァンパイア本人と、その家だけだ」
「……代償は、俺が一人で負う」
ユウは、強く、首を振った。
「違います!」
声が、朝の静けさに、鋭く響いた。
「僕は、レイヴンさんに選ばれた人間です。レイヴンさんが一人で背負うなら、僕も、一緒に背負います」
レイヴンの手を、両手で、ぎゅっと握りしめる。
「僕、もう、何も知らないまま、守られてるだけの人間じゃ、いられません。レイヴンさんの隣に立つって、決めたんです」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに燃えていた。涙で潤んでいるのに、その奥には、強い意志の光があった。
レイヴンは、足を止めた。そして、初めて、ユウの方を、正面から見つめた。赤みを帯びた瞳が、真っ直ぐに、ユウの瞳を覗き込む。ユウは、その視線の強さに、心臓が跳ねるのを感じた。でも、目を逸らさなかった。
「……お前は、強いな」
レイヴンが、ぽつりと、呟いた。
「俺は、守るために、距離を取ることしか知らない。だが、お前は、違う。……隣に立つと、言う」
平坦な声だった。でも、ユウには、その言葉の奥に、微かな驚きと、ほんの少しの、温かい何かが、あるように感じられた。
「……そうか」
それだけ言うと、また、歩き出した。ユウの手を、離さないまま。
「レイヴンさん、待ってください。返事、まだ……」
「返事は、いらない。……隣に立つと決めたなら、勝手に立て」
ぶっきらぼうな言い方。でも、ユウは、なぜだか、嬉しかった。
ユウは、小走りに、レイヴンの隣に並んだ。そして、掴まれていた手首を、今度は、自分の方から、レイヴンの指に、絡めた。指と指を、ゆっくりと、絡めていく。
レイヴンの指は、冷たかった。でも、その冷たさが、ユウには、心地よかった。
「……おい」
レイヴンが、微かに、眉を動かした。
「えへへ。手、繋いじゃいました」
照れ隠しのように、笑う。
「レイヴンさんの手、冷たいですね。でも、気持ちいいです」
「……離さないのか」
「離しません。レイヴンさんこそ、離さないでくださいね」
繋いだ指に、ぎゅっと力を込めた。レイヴンは、何も言わなかった。でも、繋いだ指を、ほんの少しだけ、握り返してきた。
それが、レイヴンの、精一杯の答えだった。
二人は、夜明けの光の中を、手を繋いで、歩いていった。
屋敷に戻ったのは、太陽が、東の空に、すっかり昇りきった頃だった。
門をくぐると、セラフィが、駆け寄ってきた。
「レイヴン様! ユウ様! お二人とも、ご無事で何よりですわ!」
薄紫がかった銀の髪を揺らしながら、小柄な少女が、ぺこりと頭を下げる。エプロンのポケットから、小さな鍵束が、ちゃりん、と音を立てた。
「セラフィさん! ただいまです!」
「おかえりなさいませ、ユウ様。……それで、その、お手ては……」
セラフィは、二人の繋がれた手を、ちらりと見て、にこりと微笑んだ。
「ふふ、ようやく、素直になられましたのね、レイヴン様」
「……余計なことを言うな」
低い声で、そう言った。でも、繋いだ手は、離さなかった。
セラフィは、ますます笑顔になった。
「あらあら、これはこれは。お二人とも、朝食はまだですわよね? 今すぐご用意いたしますわ。今日は、ユウ様の好きな、焼きたてのパンと、温かいスープですのよ」
「わあ、嬉しい! ありがとうございます、セラフィさん!」
ユウは、ぱあっと顔を輝かせた。その笑顔を見て、レイヴンの口元が、また、ほんの少しだけ、緩んだ。
ユウは、その小さな変化を、見逃さなかった。
朝食を終えた後、レイヴンは、一人で、書庫へと向かった。ユウは、セラフィと一緒に、部屋の片付けをすると言って、レイヴンを見送った。
書庫の奥は、相変わらず、深い闇に包まれていた。窓のない部屋には、朝の光も届かない。レイヴンは、闇の中を、迷いなく歩いた。夜巡りの眼を持つヴァンパイアには、この闇は、昼間と同じように、はっきりと見えていた。
古い棚の前で、レイヴンは、足を止めた。契約書が消えた棚。盟約封緘ごと、失われた古い書。その空いた跡を、じっと見つめた。棚の縁に、指を這わせる。冷たい、木の感触。
その時、指先が、何かに触れた。
空っぽだったはずの棚の奥に、何かが、置かれている。レイヴンは、それを、ゆっくりと、引き出した。
一通の、文。黒い封筒に、灰色の刺繍が施されている。
レイヴンの目が、微かに、細められた。この刺繍は、知っている。盟約監査院。七血盟家の掟を守らせる、制裁執行組織。契約破棄者を追い、記憶改変や財産没収を行う、灰色の帳。
封筒を、裏返した。封蝋には、監査院の紋章が、押されていた。
レイヴンは、表情を変えなかった。ただ、静かに、その文を、手に取った。
文を、胸元に、しまい込む。そして、もう一度、空いた棚を見た。
レイヴンの赤い瞳が、闇の中で、静かに、光った。ユウを守るために選んだ道が、家の掟を執行する組織を、確かに、動かしていた。その事実を、レイヴンは、静かに、受け止めた。
書庫を出たレイヴンは、廊下で、ユウと鉢合わせた。
「あ、レイヴンさん! 書庫、終わったんですか?」
ユウは、小走りに、レイヴンの元へ駆け寄ってきた。
「……ああ」
「あの、レイヴンさん。よかったら、今から、中庭を散歩しませんか? セラフィさんが、中庭の花が、朝露で綺麗だって教えてくれたんです」
少し恥ずかしそうに、そう言う。
「それに、僕、まだ、この屋敷の外を、ちゃんと見たことがなくて。……レイヴンさんと一緒に、見てみたいなって」
レイヴンは、ユウの顔を、じっと見た。琥珀色の瞳が、期待と不安を混ぜて、レイヴンを見上げている。
「……行くぞ」
レイヴンは、ユウに背を向けずに、手を差し出した。
ユウは、一瞬、驚いた顔をした。でも、すぐに、満面の笑みで、その手を取った。
「はい!」
二人は、手を繋いで、中庭へと歩き出した。朝の光が、廊下の窓から、柔らかく差し込んでいた。
レイヴンの左手の甲に刻まれた古い家紋が、その光の中で、微かに、輝いていた。Noveliaとは?
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