ビートまりおとみんなのゆかいな日常
ここはいつも元気があふれる場所。歌って踊るVTuber・ビートまりおと、その仲間たちが集う陽気な事務所。
ビートまりおは同人音楽サークル「Cool&Create」のボス。東方アレンジで有名な歌い手だ。Live2Dの体は、愛する奥さんをモデルに特注で作ってもらった。だから「嫁が好き」が口ぐせで、朝のあいさつは「こんよめ」、夜のあいさつは「おつよめ」。ボイスチェンジャーは使わず、地声で通す。気さくな人柄で、みんなから親しみを込めて「まりおさん」と呼ばれている。
ある朝、まりおのもとに一通の手紙が届く。それは「VTuber事務所対抗・親睦運動会」の招待状だった。競技は玉入れ、パン食い競走、借り物競走。バトルではなく、みんなで楽しく盛り上がるお祭り的なイベントだ。だが、ひとつだけ大きな問題があった。運動会の当日、まりおには妻との大切な約束があったのだ。
さあ、どうするまりお。仲間たちは大騒ぎ。副代表のあまねは「予定をずらせばいいのでは?」と提案し、マネージャーのつむぎは「奥さんを連れてくればいいじゃないですか」とニヤリ。後輩のそよは「あの日は雨が降ると思います」と心配する。そして、まりお
ビートまりおとみんなのゆかいな日常 - 告白の日。まりお、奥さんとの約束を打ち明ける
秋の日差しが、クールアンドクリエイトの窓から差し込んでいた。
共有スペースのホワイトボードには、あまねの几帳面な文字で「運動会まであと2週間」と書いてある。その横には、そよの丸い字で「雲が変です。雨かも」というメモが貼ってあった。
まりおは配信ブースの椅子に座ったまま、スマホの待ち受け画面をじっと見つめていた。
そこには奥さんとのツーショット写真。どこかの公園で、二人で笑っている。奥さんはまりおの肩に寄りかかって、少し照れている。
「……はあ」
深いため息が、防音室の壁に吸い込まれていった。
黒の短髪をかき上げて、まりおは天井を見上げる。八重歯は、もう見えなかった。
「どうすんだよ、俺」
招待状が届いてから、一週間。
運動会の日は10月22日。それは、奥さんとの大事な約束の日だった。
誰にも言えないまま、時間だけが過ぎていく。
コンコン。
配信ブースのドアがノックされた。
「まりおさん、いますか」
透き通る声。紫がかったロングヘアを二つ結びにした、クールアンドクリエイトの副社長、あまねだ。銀色の切れ長の瞳が、ドアの隙間から覗いている。
「お、おう。いるぞ」
まりおは慌ててスマホをポケットに押し込んだ。
ガチャリ。
あまねが入ってくる。黒のカーディガンにチェックのスカート。耳にはいつものボールペン。手にはスケジュール帳。
「配信の準備は進んでいますか。今日は夜にコラボ配信の予定です」
「あ、ああ。大丈夫だ。マイクのチェックもしたし」
まりおは笑顔を作った。でも、その笑顔はどこかぎこちない。
あまねは銀色の瞳を細めて、まりおの顔をじっと見た。
「……まりおさん、最近おかしいです」
「え? おかしい? そんなことないだろ」
「おかしいです。ここ一週間、配信の準備にやたら時間がかかっています。昨日はマイクのコードを逆に挿していました。一昨日は配信画面に映す予定のイラストを間違えて、奥さんの写真を出そうとしていました」
「うっ」
まりおは言葉に詰まった。
あまねはスケジュール帳を開いて、ボールペンでとんとんとページを叩いた。
「それに、運動会の打ち合わせをしても、上の空です。私の話、聞いてますか」
「き、聞いてるって! 玉入れとパン食い競走と借り物競走だろ?」
「それは先週の話です。今日は、練習スケジュールの話をしていました」
まりおは頭をかいた。
「あー……わりい。ちょっと考え事してて」
「何を考えているんですか」
あまねは、ずいっと一歩前に出た。
152センチの小柄な体。でも、その銀色の瞳は、まりおを逃がさないとばかりに真っ直ぐ向けられている。
「まりおさん。隠し事をしていますね」
「なっ」
「図星ですか」
「ち、違うって! 隠し事なんて」
「では、なぜ運動会の話になるといつも顔が暗くなるんですか。なぜスマホの待ち受けを見てため息をつくんですか。なぜ私と目を合わせようとしないんですか」
あまねは、淡々と、でも確実に、まりおを追い詰めていく。
「あまねちゃん、ちょっと待って。落ち着こう。な?」
「落ち着いています。落ち着いていないのは、まりおさんの方です」
まりおは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
配信ブースの中に、沈黙が落ちる。
壁に飾られた奥さんモデルのLive2Dイラストが、夕日に照らされて、静かに微笑んでいた。
まりおは、そのイラストをちらりと見た。
(奥さん……俺、どうすればいいんだ)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
あまねは、まりおの視線の先を追った。
「……やっぱり、奥さんに関係することですか」
まりおの肩が、ぴくりと跳ねた。
「なんで、そう思うんだよ」
「まりおさんがため息をつく時は、必ずスマホの待ち受けを見ています。その待ち受けは、奥さんとの写真です。つまり、奥さんに関係する悩みがある」
「すごいな、お前。探偵かよ」
まりおは、苦笑いした。
でも、もう逃げられない。
あまねの真剣な目が、そう言っていた。
まりおは、深く息を吸った。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……実は、運動会の日な」
「はい」
「奥さんと、大事な約束があるんだ」
まりおの声は、防音室の中で、やけに小さく響いた。
あまねは、瞬きを一つした。
「約束、ですか」
「ああ。絶対に破れない約束。10月22日は、俺たち夫婦にとって、すげえ大事な日なんだ」
まりおは、スマホを取り出した。
待ち受け画面。奥さんとのツーショット。
「この写真、見てくれ。これ、初めて二人で出かけた日に撮ったんだ。その日が、10月22日なんだよ」
まりおの指が、画面の奥さんの笑顔をそっと撫でる。
「だから、その日は毎年、二人で出かけることにしてるんだ。最初に行った場所を、もう一度巡るんだ。それが俺たちの約束で……俺、この約束だけは、何があっても守りたいんだ」
まりおの声は、真剣そのものだった。
あまねは、しばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「そういうことでしたか」
「ああ。だから、運動会に出られないかもしれない。でも、みんなには言えなかった。楽しみにしてるのに、水を差したくなかったから」
まりおは、うつむいた。
「情けねえよな。俺、みんなを裏切るかもしれないのに、ごまかしてた」
「裏切るなんて、誰も思いません」
あまねの声が、少しだけ柔らかくなった。
「それで、奥さんは運動会に来られないんですか」
「ああ。うちの奥さんはな、人前に出るのが苦手なんだ。配信にも出ないし、イベントにも来ない。家で俺の配信をこっそり見てるくらいで」
「そうなんですか」
「うん。だから、運動会に呼ぶのは難しいんだ。大勢の人がいる場所は、すごく緊張するらしくて」
まりおは、奥さんのことを思って、少しだけ笑った。
「でも、その分、二人でいる時はすごく笑うんだ。俺の前では、すげえかわいいんだよ」
「それは、いつものまりおさん節ですね」
「おっと、つい」
まりおは、照れくさそうに鼻をかいた。
あまねは、スケジュール帳をぱたんと閉じた。
「では、約束の日をずらしてもらえばいいじゃないですか」
「え?」
「運動会の日は10月22日です。でも、奥さんとの約束は、別の日にすればいい。そうすれば、両方解決です」
あまねは、にこりともせずに言った。
まりおは、首を横に振った。
「それは、できない」
「なぜですか。合理的な解決策です」
「10月22日じゃなきゃ、意味がないんだ。その日は、俺たちが初めて出かけた記念日なんだ。別の日じゃ、約束の意味がなくなっちまう」
まりおは、スマホをぎゅっと握りしめた。
「あまねちゃんには、分からないかもしれない。でも、俺にとっては、その日が全部なんだ。奥さんとの思い出が、あの日から始まったんだ」
まりおの声は、震えていた。
あまねは、まりおの顔をじっと見つめた。
「……分かりました」
「え?」
「まりおさんが、それほど大切にしている約束なら、私がとやかく言うことではありません」
あまねは、すっと背筋を伸ばした。
「でも、運動会も諦める必要はありません。何か方法があるはずです」
「あまねちゃん……」
その時だった。
「あらあら、何やら深刻そうな話をしてるわね」
ひょっこりと、配信ブースのドアから顔を出したのは、翠色のショートボブの女性。金色のたれ目が、にんまりと弧を描いている。
クールアンドクリエイトの担当マネージャー、つむぎ。
「つ、つむぎさん! いつからそこに」
「さっきからよ。まりおさんが奥さんの話を始めたあたりから、ずっと聞いてたわ」
つむぎは、口元に手をやって、ニヤリと笑った。
「やっぱり、そういうことだったのね。まりおさんが最近おかしいと思ってたのよ」
「おかしいって、そんなに分かるもんか?」
「分かるわよ。だって、まりおさんが奥さんの話をしない日なんて、今まで一日もなかったんだもの」
つむぎは、まりおの隣に立った。
「ここ一週間、まりおさん、奥さんの話をしてなかったわ。それって、すごく大きな変化なのよ」
「そ、そうか?」
「そうよ。まりおさんは、奥さんの話をしている時が一番生き生きしてるんだから」
つむぎの金色の瞳が、まりおを見つめる。
「それで、話は聞かせてもらったわ。運動会の日が、奥さんとの記念日で、でも奥さんは人前に出られない。板挟みってわけね」
「ああ。どうすればいいのか、全然分からなくて」
まりおは、力なく笑った。
「でも、解決策はあるわよ」
「え?」
まりおとあまねが、同時につむぎを見た。
「解決策、あるんですか」
「あるわ。まりおさんらしい、とびきりの方法がね」
つむぎは、にっこりと笑った。
「で、その方法は?」
まりおが身を乗り出す。
「それは、まだ内緒よ」
「ええっ!?」
まりおが素っ頓狂な声を上げた。
「なんでだよ! 教えてくれよ!」
「だって、今言ったら面白くないじゃない? まりおさんが、もうちょっと悩む姿を見ていたいのよ」
つむぎは、いたずらっぽく笑った。
「つむぎさん、それ、私も気になります」
「あまねちゃんも、もう少し待ってて。時期が来たら、ちゃんと話すわ」
「でも……」
「大丈夫。私の考えることだから、きっとうまくいくわ」
つむぎの言葉には、不思議な説得力があった。
まりおは、まだ納得いかない顔で、つむぎを見た。
「本当に、解決策があるのか?」
「あるわ。まりおさんの奥さん愛を、最大限に活用する方法がね」
「俺の奥さん愛を?」
「そう。まりおさんが奥さんを愛してるからこそ、うまくいく方法。それ以上は、今は言わないわ」
つむぎは、ひらひらと手を振った。
「さて、私はこれから打ち合わせがあるから、行くわね。まりおさん、あんまり悩みすぎて、奥さんの写真に話しかけるのはほどほどにね」
「してないって!」
「してたわよ。昨日、配信ブースで」
「うっ」
まりおは、真っ赤になった。
つむぎは、笑いながら配信ブースを出ていった。
残されたまりおとあまねは、顔を見合わせた。
「……まりおさん、昨日、奥さんの写真に話しかけてたんですか」
「ち、違う! あれは、その、配信の練習で」
「配信の練習で、奥さんの写真に『今日もかわいいな』と言うんですか」
「うっ」
まりおは、頭を抱えた。
「まあ、いいです。それより、つむぎさんの解決策が気になりますね」
「ああ。俺もすげえ気になる。でも、あの人が内緒って言ったら、絶対教えてくれないんだよなあ」
「そうですね。つむぎさんは、自分のペースを崩しませんから」
「だよなあ」
二人は、同時にため息をついた。
その時だった。
コンコン。
事務所のドアが、ゆっくりとノックされた。
「……ん?」
まりおが顔を上げる。
「誰か来ましたね。私が出ます」
あまねが、配信ブースを出て、事務所のドアに向かった。
まりおも、後を追う。
ガチャリ。
あまねがドアを開けた。
そこに立っていたのは——
「……こんにちは」
のんびりとした、間延びした声。
グレイテスト商事のVTuber、スロー。
長い銀髪を無造作に垂らし、眠たげな半目の青年。身長は高く、ひょろりとしている。白いパーカーに、だぼだぼのジーンズ。
「あら、スローさん。どうしたんですか」
あまねが、銀色の瞳を丸くした。
「……ちょっと、聞きたいことがあって」
スローは、ゆっくりと首をかしげた。
「聞きたいこと?」
まりおが、あまねの後ろから顔を出す。
「あ、まりおさん。ちょうどよかった」
スローは、まりおを見ると、ほんの少しだけ目を開いた。
「借り物競争って、何を借りてもいいんですか」
「は?」
まりおは、きょとんとした。
「借り物競争。お題に書かれたものを、会場にいる人から借りる競技ですよね。それって、何を借りてもいいんですか」
「まあ、お題に合ってれば、何でもいいんじゃないか?」
「なるほど」
スローは、こくりと頷いた。
それから、間をたっぷり取って、こう言った。
「じゃあ、まりおさんの奥さんを借りてもいいですか」
一瞬、空気が凍った。
まりおの顔から、表情が消えた。
「……お前、今、なんて言った?」
まりおの声が、低くなる。
「借り物競争で、まりおさんの奥さんを借りてもいいですかって。お題が『大切な人』とかだったら、まりおさんの奥さんがぴったりかなと思って」
スローは、あくまでマイペースに言った。
「お前なあ」
まりおのこめかみが、ぴくぴくと動いた。
「うちの奥さんは、誰にも借りない!!」
まりおの大声が、事務所中に響き渡った。
「ぜってえ貸さない! 俺の奥さんは俺だけのものだ! 借り物競争の道具にするとか、万が一にも許さない! だいたい、奥さんは人前に出るのが苦手なんだよ! そんな大事な人を、競争の道具にできるわけないだろ!」
まりおは、まくし立てた。
「それに、お題が『大切な人』だったとしても、俺が一番大切なのは奥さんだ! でも、だからこそ、人に貸すなんてありえない! 奥さんは、俺が守るんだ! 誰にも渡さない! 絶対に!」
まりおの声は、どんどん大きくなる。
スローは、そんなまりおを、眠たげな目でぼんやりと見ていた。
「……そうですか。残念です」
「残念とか、そういう問題じゃない!」
まりおは、ぜえぜえと息を切らした。
あまねは、呆れたようにまりおを見た。
「……まりおさん、落ち着いてください。スローさんも、悪気があって言ったわけではないと思います」
「悪気は、ないです。ただ、借り物競争のルールを確認したかっただけです」
スローは、ゆっくりと瞬きをした。
「まりおさんが、そんなに奥さんを大切にしているとは、知りませんでした」
「知らなかったって、お前、俺の配信見たことないのか?」
「配信は、たまに。でも、寝てしまうことが多くて」
「寝てるんかい!」
まりおは、ずっこけた。
「まあ、とにかく、うちの奥さんは貸さないからな。絶対に」
まりおは、スローをじろりと睨んだ。
「分かりました。では、他の人を探します」
スローは、ゆっくりと背を向けた。
「……まりおさん」
「なんだよ」
「奥さんを、大切にしているんですね」
「当たり前だろ。世界で一番大切だ」
まりおは、胸を張って言った。
「そうですか。いいですね」
スローは、ふわりと笑った。
それから、のんびりとした足取りで、事務所を出ていった。
ドアが閉まる。
「……なんだったんだ、あいつ」
まりおは、ソファにどさりと座り込んだ。
「疲れました。大声出しすぎです」
「だって、あんなこと言われたら、大声も出るだろ」
「まあ、まりおさんの奥さん愛は、十分に伝わりました」
あまねは、小さくため息をついた。
「でも、スローさん、あの様子だと、まりおさんの反応をそのまま持ち帰りそうですね」
「持ち帰るって、何を?」
「まりおさんが、奥さんを借り物競争に出されることを、あんなに怒った、という情報です」
「あー……」
まりおは、天井を見上げた。
「なんか、嫌な予感がするな」
「私もです」
二人は、同時にため息をついた。
その頃、スローは、グレイテスト商事のオフィスに戻っていた。
シェアオフィスの一角。入口には「目標:業界トップ3」と書かれた横断幕。でも、中は散らかっていて、パワーのトレーニング器具と、スローの昼寝用クッションが場所を占拠している。
「ただいま」
スローが、のんびりと言った。
「おかえりー! どうだった、クールアンドクリエイトの偵察は!」
元気すぎる声が、オフィスに響く。
グレイテスト商事のパワー。赤い髪をポニーテールにした、元気いっぱいの少女。目は大きく、声は大きい。
「偵察、というか、借り物競争のことを聞きに行った」
「借り物競争? なんで?」
「お題が『大切な人』だったら、まりおさんの奥さんを借りようと思って」
「えっ!? それで、まりおさんはなんて言ってた!?」
パワーが、目を輝かせて身を乗り出す。
「すごく怒られた。『うちの奥さんは誰にも借りない!』って、大声で」
「大声で!?」
「うん。あんなに大声のまりおさん、初めて見た」
スローは、眠たげな目をこすった。
パワーは、腕を組んで考え込んだ。
「ふーん……まりおさんが、奥さんを借り物にされることを、あんなに怒るってことは……」
パワーの目が、きらりと光った。
「つまり、まりおさんは、運動会に奥さんを絶対に連れてくるつもりなんだ!」
「そうなのか?」
「そうだよ! だって、奥さんを借り物にされたくないから怒るってことは、奥さんを会場に連れてくる予定があるってことじゃん! 連れてこないなら、借り物にされる心配もないはずだし!」
パワーは、自信満々に言った。
「なるほど。そういう解釈か」
「そういう解釈だよ! よーし、それなら、こっちも奥さん役を用意しなきゃ!」
「奥さん役?」
「借り物競争で、こっちも『大切な人』を借りられるように、奥さん役の人を用意するの!」
「誰が奥さん役をやるんだ?」
「私がやる!」
パワーは、胸を張った。
「私が、スローの奥さん役をやれば、借り物競争で『大切な人』を借りられるでしょ! 完璧な作戦だよ!」
「でも、お前は俺の奥さんじゃない」
「細かいことは気にしない! 勝つためには、なりきりも大事なんだよ!」
パワーは、やる気満々だ。
スローは、ぼんやりとパワーを見た。
「……そうか。まあ、いいか」
「いいのか! よーし、それじゃあ、奥さん役の練習を始めるよ!」
「練習?」
「借り物競争で、『大切な人』を借りるときの、動きの練習! 私が奥さん役で、スローが借りる側! 本番に備えて、完璧に仕上げるんだ!」
「面倒くさい」
「面倒くさがらない! 勝つためだよ!」
パワーは、スローの手を引っ張って、オフィスの真ん中に立たせた。
「ほら、スロー! 『私の大切な人を借ります!』って、大きな声で言ってみて!」
「……私の大切な人を借ります」
スローは、眠そうな声で言った。
「声が小さい! もっと元気に!」
「私の大切な人を借ります」
「まだ小さい! 腹から声を出す!」
「無理」
「無理じゃない! ほら、私みたいに! 私の大切な人を借ります!!」
パワーの大声が、オフィスに響き渡った。
隣のシェアオフィスから、何かが壁に当たる音がした。
「……うるさい」
「うるさくない! これが勝つための第一歩なんだから!」
パワーは、全然めげなかった。
一方、クールアンドクリエイトの事務所では。
まりおとあまねが、共有スペースのソファに並んで座っていた。
「はあ……」
まりおは、深いため息をついた。
「どうしましたか。まだ、スローさんのことが気になりますか」
「いや、そうじゃなくて。つむぎさんの解決策が気になって」
「ああ、そうでしたね。私も気になります」
「なあ、あまねちゃん。つむぎさんが言ってた『奥さん愛を最大限に活用する方法』って、なんだと思う?」
まりおが、あまねの顔を覗き込む。
「分かりません。つむぎさんの考えることは、いつも斜め上ですから」
「だよなあ。あの人は、本当に何を考えてるのか分からん」
まりおは、ソファにだらりと寄りかかった。
「でも、まあ」
まりおは、天井を見上げた。
「お前たちに話せて、ちょっと楽になったよ」
「そうですか」
「ああ。ずっと一人で抱えてたから、なんだか、すごく重かったんだ」
まりおは、少しだけ笑った。
「ありがとな、あまねちゃん。話を聞いてくれて」
「いえ。私も、まりおさんが隠し事をしていないと分かって、安心しました」
あまねは、銀色の瞳を少しだけ和らげた。
「まりおさんが、何か重大な問題を抱えているのかと思って、心配していました」
「心配かけて、ごめんな」
「いえ、大丈夫です。それより、運動会と約束、両立できるように、私も協力します」
「あまねちゃん……」
まりおは、じんと胸が熱くなった。
「でも、具体的にどうすればいいかは、まだ分かりません。つむぎさんの解決策が、早く聞きたいですね」
「だなあ」
まりおは、窓の外を見た。
秋の空が、茜色に染まっている。
「10月22日、か」
まりおは、ポケットからスマホを取り出した。
待ち受け画面。奥さんとのツーショット。
「俺、どうするんだろうな」
まりおのつぶやきは、静かな部屋に溶けていった。
夕日が、奥さんの笑顔を、やわらかく照らしていた。
その夜。
グレイテスト商事のオフィスでは、パワーがスローに借り物競争の特訓を続けていた。
「ほら、スロー! もっと感情を込めて! 『私の大切な人を借ります!』」
「……私の大切な人を借ります」
「棒読み! 全然ダメ! まりおさんに負けちゃうよ!」
「別に、勝ち負けはどうでもいい」
「よくない! 私たちは、グレイテスト商事の代表として、絶対に勝つんだから!」
パワーの声が、夜のオフィスに響く。
スローは、大きなあくびをした。
「……眠い」
「眠くない! ほら、もう一回!」
「無理」
「無理じゃない!」
そんな二人のやりとりを、チビくんがデスクの陰からこっそりと見ていた。
小さな体を丸めて、目を輝かせて。
「師匠……まりお師匠は、奥さんをあんなに大切にしてるんだ……」
チビくんは、まりおの東方アレンジに影響されてVTuberになった、生粋のファン。
「僕も、師匠みたいに、奥さんを愛せる人になりたい……」
チビくんの心の中で、何かが静かに燃え始めていた。
一方、クールアンドクリエイトの事務所では、あまねが一人、ホワイトボードの前に立っていた。
運動会のスケジュール表を見つめながら、ボールペンをくるくると回す。
「奥さんに、連絡を取る方法……」
あまねは、小さくつぶやいた。
「まりおさんの奥さんは、人前に出るのが苦手。でも、声だけなら、配信で聞いたことがあるはず」
あまねの銀色の瞳が、きらりと光る。
「つむぎさんの解決策を待つより、私が動いた方が早いかもしれません」
あまねは、スケジュール帳を開いた。
「まりおさんの奥さんの連絡先……確か、緊急連絡先として、事務所の書類に書いてあったはず」
あまねの指が、ページをめくる。
「見つけました」
あまねは、そこに書かれた連絡先を、じっと見つめた。
「でも、勝手に連絡するのは、まりおさんに怒られるかもしれません。でも……このままでは、まりおさんが困ったままです」
あまねは、しばらく考えてから、こくりと頷いた。
「まりおさんのためです。私が、なんとかします」
あまねは、決意を固めた。
秋の夜風が、窓をかすかに揺らした。
遠くで、電車の音が聞こえる。
まりおの悩みは、まだ解決していない。
でも、仲間たちが、静かに動き始めていた。
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