ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 逆回転のコンパス
冷たい。
指先が、頬が、肺の奥まで。全部、冬の空気に凍っていく。
違う。これは夢だ。
志摩リンは、夢の中で立っていた。大人になった自分が。スーツを着て、手には書類。どこかのオフィス。窓の外には、見慣れたはずの富士山。
誰かが言う。
「なでしこさん、亡くなったそうです」
声が、頭に直接流れ込んでくる。
なでしこ、が?
嘘だ。
リンは走る。オフィスを飛び出す。外は雪。足がもつれる。転ぶ。立ち上がる。走る。息が白い。心臓が、痛い。
どこへ?
分からない。でも、走らなきゃ。なでしこが、待ってる。
目の前が、崖になる。
猪之頭林道。
標高900メートルの見晴らし岩。ガードレールはない。下は、暗い谷。
なでしこの、オレンジのヘアピンが、落ちている。
拾う。冷たい。
そして、目が覚めた。
――――
志摩リンは、跳ね起きた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。ドクドクと、うるさい。
部屋は暗い。冬の朝。まだ、外は青い。カーテンの隙間から、細い光が一本。
リンは、自分の手を見た。
指先が、震えている。
(夢……)
そう。夢だ。
でも、あの感触。ヘアピンの冷たさ。雪の匂い。全部、本物みたいだった。
リンは、ベッドの横のスマホを掴んだ。画面が眩しい。時刻は、午前5時58分。
メッセージアプリを開く。
各務原なでしこ。
最後のやり取りは、昨日の夜。「明日、楽しみだね!」というスタンプ付きのメッセージ。
リンは、指を動かした。
「おはよう。生きてる?」
送信。
既読が、すぐについた。
「りんちゃん!おはよう!生きてるよー!どうしたの、こんな朝早く!」
リンは、息を吐いた。
長い、長い息。肩から力が抜ける。
「……別に。起こしちゃった?」
「ううん、もう起きてた!今日、楽しみで早く目が覚めちゃった!」
今日。
そうだ。今日は、なでしことキャンプに行く日だった。
リンは、スマホを胸に抱えたまま、天井を見た。
(夢でよかった)
本当に、そう思った。
でも。
あの夢は、なんだったんだろう。
大人になった自分。なでしこの死。猪之頭林道。
全部、細かすぎる。
リンは、頭の上のシニヨンに触れた。昨夜、自分で結んだそれは、少し崩れている。
(気持ち悪い)
胸の奥に、黒いものが残っている。
夢は、時間が経てば薄れる。
そう思って、リンはもう一度、目を閉じた。
でも、眠れなかった。
――――
数日後。
本栖湖。
冬の湖畔は、静かだった。
空は、雲ひとつない青。富士山が、正面に白くそびえている。風は冷たいけど、陽射しは柔らかい。
リンは、スクーターのエンジンを止めた。
ヘルメットを外すと、冷たい空気が頬に刺さる。
「着いたー!」
後ろから、なでしこの声。
リンは振り返った。
各務原なでしこ。
明るい栗色のボブヘア。オレンジのヘアピン。大きな琥珀色の瞳。身長は155センチ。リンより少し小さい。でも、その体には、あり余る元気が詰まっている。
今日のなでしこは、白いダウンジャケットに、赤い手袋。首には、富士山柄のマフラー。
その笑顔は、冬の太陽みたいだった。
「りんちゃん、運転ありがとね。寒くなかった?」
「平気。慣れてる」
リンは、スクーターの荷台から、キャンプ道具を下ろし始めた。
テント。ストーブ。クッカー。全部、祖父から受け継いだもの。
リンは、この道具たちが好きだった。
誰の手も借りず、自分の力で、自然の中で生きる。
ソロキャン。
それが、志摩リンの生き方だった。
……はずだった。
「わあ、ここが浩庵キャンプ場!すごい、富士山が目の前だよ!」
なでしこが、両手を広げて走り出す。
リンは、その後ろ姿を見ながら、小さくため息をついた。
(なんで、こいつと一緒に来てるんだろう)
いや、分かってる。
あの夢を見てから、なでしこを一人にするのが、怖かった。
馬鹿げてる。
夢だ。ただの夢。
でも、リンは、なでしこに「キャンプに行かない?」と自分から誘っていた。
(我ながら、どうかしてる)
リンは、心の中で自分にツッコミを入れた。
――――
テント設営は、リンの得意技だった。
ペグを打ち、ポールを組み、フライシートをかける。手際よく、無駄なく。
なでしこは、その横で、持参した食材を次々と広げていた。
土鍋。カセットコンロ。白菜。豚肉。うどん。餅。チョコレート。みかん。
(どんだけ食う気だ)
リンは、心の中でツッコミを入れながら、テントの張り綱を調整した。
「りんちゃん、見て見て!今日はね、お昼はほうとう、夜はすき焼きうどん、朝はお雑煮にするの!」
「……炭水化物しかないな」
「キャンプはこれが楽しいんだよ!体も温まるし!」
なでしこは、土鍋を抱えてニコニコしている。
リンは、その姿を見て、また小さくため息をついた。
でも。
心のどこかで、温かいものが動いた。
(こいつといると、静かじゃないな)
うるさい。騒がしい。食べ物の話ばかり。
でも。
悪くない。
――――
昼食のほうとうは、美味かった。
なでしこが作ったそれは、野菜の甘みがしっかり出ていて、体の芯から温まった。
「おいしー!りんちゃん、もっと食べなよ!」
「……食べてる」
リンは、ほうとうを啜りながら、富士山を見た。
冬の空。白い山。静かな湖。
いい景色だった。
一人で見るのも好きだけど、誰かと見るのも、悪くない。
……なんて、思ってしまった。
――――
午後。
二人は、湖畔の浜辺を散歩していた。
石がごろごろしている。波が静かに打ち寄せる。
なでしこは、しゃがみ込んで、石を拾っては投げていた。
「りんちゃん、この石、ハートの形してる!」
「へえ」
リンは、適当に相槌を打ちながら、足元を見ていた。
砂に、何かが埋まっている。
金色の、小さなもの。
リンは、しゃがんで、それを拾い上げた。
真鍮製のコンパス。
直径、約6センチ。
古い。かなり古い。
表面はくすんでいて、細かい傷が無数にある。
リンは、それを手のひらに乗せた。
ずっしりと、重い。
蓋には、細かい文字が刻まれている。
「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」
読めた。
古い日本語。
リンは、蓋を開けた。
針が、回っていた。
ゆっくりと。
反時計回りに。
――――
指先が、冷たくなった。
背筋を、冷たいものが走る。
コンパスの針が、回る。
逆回りに。
リンは、目を離せなかった。
普通のコンパスは、北を指す。
でも、これは違う。
針が、ぐるぐると、逆に回り続けている。
まるで、時間を巻き戻すみたいに。
「わあ、何それ?コンパス?古そうだねー」
なでしこが、リンの手元を覗き込んだ。
「あれ、針が逆に回ってる。変なのー」
なでしこは、笑った。
でも、リンは、笑えなかった。
(変なの、で済ませていいのか)
このコンパスは、おかしい。
針が、逆回転するコンパスなんて、聞いたことがない。
リンは、コンパスを握りしめた。
冷たい。
氷みたいに、冷たい。
「……なでしこ」
「なあに?」
リンは、一瞬、迷った。
「……いや、なんでもない」
コンパスを、ポケットに入れた。
なでしこは、首をかしげた。
「りんちゃん、それ、もらうの?」
「拾った。落とし主がいるかも」
「そうだね。でも、こんな古いの、誰のなんだろうね」
リンは、答えなかった。
分からない。
でも、このコンパスを、手放してはいけない気がした。
――――
夜。
焚き火が、静かに燃えていた。
パチパチと、薪が爆ぜる音。
空には、星が、ものすごい数で光っていた。
冬の空気は澄んでいて、星が近く感じる。
リンは、焚き火の前に座り、コーンスープを飲んでいた。
なでしこは、その隣で、マシュマロを焼いていた。
「りんちゃん、見て見て!マシュマロ、こんなに膨らんだ!」
なでしこは、串に刺したマシュマロを、焚き火の近くにかざしていた。
表面が、こんがりと色づいている。
「焦げるぞ」
「大丈夫だよ、これくらいが美味しいの!」
なでしこは、マシュマロを口に入れた。
「あっつ!でも、おいしい!とろとろだよ!」
その顔が、本当に幸せそうで。
リンは、思わず、笑ってしまった。
「……食い意地張りすぎ」
「だって、キャンプの醍醐味はこれだよ!りんちゃんも食べなよ!」
なでしこが、マシュマロを差し出してくる。
リンは、それを受け取った。
焼きたてのマシュマロ。
口に入れる。
甘い。
とろける。
「……うまい」
「でしょ!」
なでしこは、ニコニコ笑って、またマシュマロを焼き始めた。
リンは、焚き火を見た。
炎が、揺れる。
温かい。
(こういうのも、悪くない)
一人のキャンプも好きだ。
静かで、自由で、全部自分のペース。
でも。
誰かと一緒に、温かいものを食べて、他愛ない話をして。
そういう時間も、悪くない。
リンは、心の中で、そう思った。
「りんちゃん」
「ん?」
「今日、誘ってくれて、ありがとね」
なでしこが、焚き火を見ながら言った。
その横顔は、炎に照らされて、柔らかく光っていた。
「……別に。私が行きたかっただけ」
「うん。でも、嬉しかった。りんちゃんと、またキャンプできて」
リンは、何も言えなかった。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
(こいつは、いつも、そうだ)
ストレートに、気持ちをぶつけてくる。
それが、少し、眩しい。
「……なでしこ」
「なあに?」
「……また、キャンプしよう」
リンは、焚き火を見たまま言った。
なでしこが、一瞬、驚いた顔をした。
それから、満面の笑み。
「うん!もちろん!今度はどこ行く?やっぱり冬は富士山が見えるところがいいよね!」
なでしこが、一気にしゃべり出す。
リンは、その声を聞きながら、コーンスープを飲んだ。
温かい。
体も、心も。
――――
夜。
テントの中で、リンは眠りについた。
なでしこは、隣の寝袋で、すうすうと寝息を立てている。
リンは、目を閉じた。
焚き火の匂い。
冬の空気。
なでしこの寝息。
安心する。
……はずだった。
――――
夢を見る。
雪が、降っている。
暗い。
朝の5時47分。
猪之頭林道。
標高900メートル。
見晴らし岩。
ガードレールは、ない。
なでしこが、立っている。
一人で。
オレンジのヘアピン。
白いダウンジャケット。
赤い手袋。
富士山柄のマフラー。
なでしこが、笑っている。
こっちを見て。
「りんちゃん」
手を振っている。
リンは、叫ぶ。
「来ちゃダメ!」
声が、出ない。
なでしこが、一歩、後ろに下がる。
崖の縁。
石が、落ちる。
なでしこの体が、傾く。
――――
リンは、飛び起きた。
冷や汗が、背中を伝う。
心臓が、壊れそうなくらい、鳴っている。
テントの中は、暗い。
隣で、なでしこが、寝ている。
すうすうと、寝息を立てて。
生きている。
リンは、震える手で、ポケットを探った。
コンパス。
握りしめる。
冷たい。
そして。
コンパスの針が、回っていた。
反時計回りに。
さっきより、速く。
ぐるぐると、速く。
リンは、息を呑んだ。
(なんで、速くなってる)
分からない。
でも、確かに、速くなっている。
リンは、コンパスを握りしめたまま、なでしこの顔を見た。
寝ている。
安らかな顔。
(死なせない)
リンは、心の中で、強く思った。
(絶対に、死なせない)
コンパスの針が、さらに速く回る。
まるで、リンの決意に応えるみたいに。
リンは、コンパスを胸に抱いて、目を閉じた。
眠れなかった。
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