ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 見晴らし岩と消えない不安
空は青い。冬の空気が、肌に刺さる。
志摩リンは、スクーターのエンジンを切った。
ヘルメットを外す。冷たい風が、汗ばんだ首筋に触れた。
(……来てしまった)
心臓が、妙に重い。
ポケットの中のコンパスを、指先で確かめる。真鍮の冷たい感触。針が、微かに震えている気がした。
「着いたー! ここが猪之頭林道の入り口だね!」
後ろから、明るい声。
振り返る。
各務原なでしこ。明るい栗色のボブヘア。オレンジのヘアピン。大きな琥珀色の瞳。白いダウンジャケットに、赤い手袋。首には、富士山柄のマフラー。
その笑顔は、今日も太陽みたいだ。
「リンちゃん、運転ありがとね。風、冷たくなかった?」
「平気」
リンは、スクーターのスタンドを立てた。
(本当は、来たくなかった)
(でも、確認しなきゃいけない)
夢で見た場所。なでしこが落ちる、崖。
猪之頭林道。本栖湖の東側から、猪之頭方面へ抜ける全長約八キロの林道。幅は狭く、ガードレールはない。冬は凍結する。
危険な場所だ。
だからこそ、自分の目で確かめたかった。
「ねえねえ、リンちゃん! 今日はここを探検するんだよね? 新しいキャンプ地、見つかるかなあ!」
なでしこが、ぴょんぴょん跳ねながら言う。
リンは、小さく息を吐いた。
「……ああ。いい場所があるか、下見」
「楽しみ! リンちゃんと一緒なら、どこでも楽しいよ!」
無邪気な言葉。
胸が、チクリと痛む。
(ごめん、なでしこ)
(本当の目的は、違うんだ)
リンは、心の中で謝った。
――――
林道を歩く。
舗装はされているが、ひび割れが多い。路肩には、枯れた草が覆いかぶさっている。
左側は、切り立った崖。右側は、深い谷。
下を見ると、木々の間から、本栖湖の水面がちらりと見えた。
「わあ、すごい! 湖が見えるよ!」
なでしこが、崖の縁に近づく。
「なでしこ、あんまり端に行くな」
リンの声が、自分でも驚くほど低くなった。
なでしこが、きょとんとした顔で振り返る。
「どうしたの、リンちゃん? 顔、こわいよ?」
「……端は、土が緩んでる。崩れる」
リンは、崖の縁を指さした。
土が、乾いてひび割れている。少し触っただけで、ぱらぱらと崩れ落ちそうだ。
「ほんとだ。ぼろぼろだね」
なでしこが、一歩後ろに下がる。
リンは、心の中で安堵した。
(これで、少しは危険だと分かっただろ)
でも、なでしこは、すぐに笑った。
「でも大丈夫だよ! なでしこ、落ちたりしないもん!」
「……そういう問題じゃない」
「リンちゃん、心配性すぎ! お母さんみたい!」
なでしこが、けらけら笑う。
リンは、何も言えなかった。
(笑い事じゃないんだ)
(お前が、ここで落ちるんだぞ)
夢の光景が、頭をよぎる。
雪。朝の五時四十七分。見晴らし岩。
なでしこが、笑っている。
こっちを見て。
手を振っている。
そして、一歩、後ろに下がる。
石が、落ちる。
なでしこの体が、傾く。
――――
「リンちゃん?」
なでしこの声で、現実に引き戻された。
「……何でもない。行こう」
リンは、歩き出した。
足元に注意しながら。
崖の縁の土を、目で追いながら。
――――
三十分ほど歩いた。
「ちょっと休憩しよ! お腹すいちゃった!」
なでしこが、リュックを下ろした。
中から、タッパーを取り出す。
蓋を開けると、おにぎりが五つ。
「今日はね、鮭と梅と昆布! それから、昨日の残りの唐揚げも持ってきたよ!」
なでしこが、嬉しそうに並べる。
「……お前、昼飯まだだろ。よく食うな」
「えへへ。歩くとお腹すくんだもん! リンちゃんも食べるでしょ?」
「……もらう」
リンは、鮭のおにぎりを受け取った。
まだ温かい。
(こいつの手作りか)
一口かじる。
塩加減が、ちょうどいい。
「おいしい?」
なでしこが、顔を覗き込んでくる。
距離が近い。
「……まあまあ」
「えへへ、まあまあかあ。次はもっとおいしく作るね!」
なでしこが、自分のおにぎりを頬張る。
その顔は、本当に幸せそうだ。
リンは、少しだけ、心が和むのを感じた。
(こいつと一緒にいると、嫌なことを忘れそうになる)
でも。
忘れちゃいけない。
リンは、ポケットのコンパスを握りしめた。
――――
再び歩き出す。
道は、さらに狭くなる。
崖の高さも、増していく。
下を見ると、谷底がはるか遠くに見えた。
(落ちたら、助からない)
そんな高さだ。
リンは、唾を飲み込んだ。
(やっぱり、ここは危険だ)
ガードレールは、ない。
路肩の土は、どこも緩んでいる。
冬は、凍結する。
夢の通りだ。
全部、夢の通りだ。
「リンちゃん、見て! あれが見晴らし岩かな?」
なでしこが、前方を指さした。
あった。
見晴らし岩。
標高九百メートルの岩場。
本栖湖を一望できる場所。
そして。
なでしこが、落ちる場所。
――――
見晴らし岩に到着した。
「わああああ! すごい! 絶景だよ、リンちゃん!」
なでしこが、両手を広げて叫ぶ。
目の前には、本栖湖。
青い水面が、冬の陽を反射して、きらきらと輝いている。
その向こうには、富士山。
白く雪をかぶった、完璧な姿。
風が、吹き抜ける。
冷たい。
でも、気持ちいい。
「……ああ、すごいな」
リンは、素直に思った。
ここからの景色は、本当に美しい。
夢で見た場所とは、思えないほど。
「ねえ、リンちゃん」
なでしこが、リンの隣に立った。
肩が、触れるか触れないかの距離。
「今度、ここで一緒にキャンプしよう」
なでしこが、言った。
その声は、真剣だった。
「……ここで?」
「うん! ここでテント張って、焚き火して、朝日を見るの! 絶対、最高だよ!」
なでしこが、笑う。
「リンちゃんと一緒なら、きっと忘れられないキャンプになる!」
リンは、何も言えなかった。
胸が、締め付けられる。
(ここで、キャンプ)
(ここで、お前は)
夢の光景が、目の前の景色と重なる。
雪が降る。
朝の五時四十七分。
なでしこが、一人で立っている。
笑っている。
手を振っている。
そして。
落ちる。
――――
「リンちゃん? どうしたの?」
なでしこが、心配そうに覗き込んでくる。
リンは、無理やり笑顔を作った。
「……別に。いい場所だなって思ってた」
「でしょ! じゃあ、約束だよ! 今度、絶対ここでキャンプしようね!」
なでしこが、小指を差し出す。
リンは、その小指を見つめた。
(約束)
(今度、ここで)
(……そんな未来、来るのか)
分からない。
でも。
「……ああ」
リンは、なでしこの小指に、自分の小指を絡めた。
なでしこの指は、温かかった。
「やった! 約束ね!」
なでしこが、満面の笑みを浮かべる。
リンは、その笑顔を見ながら、心の中で誓った。
(この笑顔を、守る)
(絶対に)
――――
帰り道。
夕方に近づき、空がオレンジ色に染まり始めていた。
影が、長く伸びる。
「今日は楽しかったね! いっぱい歩いたし、お腹すいたね!」
なでしこが、スキップしながら言う。
「……お前、さっきおにぎり五個食っただろ」
「もう消化しちゃった! なでしこの胃袋は宇宙だよ!」
なでしこが、お腹をさする。
リンは、呆れたようにため息をついた。
(本当に、底なしだな)
その時。
なでしこが、崖の縁に近づいた。
「なでしこ、端に行くな」
リンの声が、鋭くなる。
「大丈夫だよー。ちょっと下を見たいだけだから」
なでしこが、笑いながら、崖の縁に立つ。
その足元の土が。
ぱらり。
崩れた。
「え?」
なでしこの体が、傾く。
――――
時間が、スローモーションになった。
なでしこの顔が、恐怖に歪む。
手が、空を掻く。
赤い手袋。
オレンジのヘアピン。
夢と、同じ。
全部、同じ。
(落ちる)
(なでしこが、落ちる)
リンは、飛び出していた。
考えるより先に、体が動いていた。
「なでしこ――!!」
叫ぶ。
手を伸ばす。
なでしこの腕を、掴む。
指が、食い込む。
「っ……!」
なでしこの体重が、腕にかかる。
重い。
リンは、足を踏ん張った。
地面に、靴がめり込む。
「リンちゃん……!」
なでしこの声が、震えている。
「離すな! 絶対に離すな!」
リンは、力任せに、なでしこを引き上げた。
腕が、悲鳴を上げる。
筋肉が、引きちぎれそうだ。
でも、離さない。
絶対に、離さない。
「う、あああああ――!!」
リンの叫び声が、林道に響く。
そして。
ドサッ。
二人は、道の真ん中に倒れ込んだ。
――――
息が、荒い。
心臓が、痛いほど脈打っている。
リンは、仰向けに倒れたまま、空を見上げた。
オレンジ色の空。
雲が、ゆっくり流れている。
「リンちゃん……ありがとう……」
隣で、なでしこが泣いていた。
「ごめんね……なでしこ、言うこと聞かなくて……」
なでしこの涙が、地面に落ちる。
リンは、体を起こした。
「……大丈夫か。怪我は」
「うん……大丈夫……リンちゃんのおかげで……」
なでしこが、涙を拭う。
リンは、なでしこの体を確認した。
目立った外傷は、ない。
(よかった)
(本当に、よかった)
心から、そう思った。
その時。
ポケットの中で。
熱。
――――
コンパスが、熱い。
リンは、ポケットに手を突っ込んだ。
コンパスを取り出す。
真鍮の表面が、熱を帯びている。
蓋を開ける。
針が。
回っていた。
反時計回りに。
激しく。
狂ったように。
ぐるぐると。
「……なんで」
リンは、息を呑んだ。
針の回転が、指に伝わる。
速い。
今までで、一番速い。
(発動しなかった)
(時間は、巻き戻ってない)
(なのに、針が)
分からない。
でも、確かなことが一つ。
(これは、警告だ)
(次は、本当に落ちる)
リンの顔から、血の気が引いていく。
「リンちゃん? それ、何? コンパス?」
なでしこが、覗き込んでくる。
リンは、慌ててコンパスをポケットにしまった。
「……何でもない。古いものだ」
「ふうん。でも、リンちゃん、顔色が真っ青だよ?」
なでしこが、心配そうに言う。
「……疲れただけ。帰るぞ」
リンは、立ち上がった。
足が、震える。
(次は、本当に落ちる)
(このままじゃ、なでしこが死ぬ)
恐怖が、全身を駆け巡る。
でも。
なでしこは、笑った。
「びっくりしたー! でも、リンちゃんが助けてくれたから、大丈夫! リンちゃん、やっぱりすごいね!」
無邪気な笑顔。
リンは、その笑顔を見て、思った。
(お前は、何も分かってない)
(これが、始まりに過ぎないことを)
(私が、守らなきゃ)
(一人で)
リンは、拳を握りしめた。
――――
帰宅後。
リンは、自室のベッドに座り込んでいた。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込む。
手には、コンパス。
蓋を開ける。
針は、まだ回っている。
不規則に。
逆回転。
(止まらない)
(さっきから、ずっと)
リンは、コンパスを握りしめた。
冷たい。
さっきの熱は、もうない。
でも、針の動きは、明らかにおかしい。
(次は、本当に落ちる)
(助けられないかもしれない)
(もし、私が間に合わなかったら)
想像して、吐き気がした。
なでしこの体が、谷底に消えていく。
あの夢の光景が、何度も、何度も、頭の中で繰り返される。
「……どうすれば」
声が、震える。
その時。
スマホが、震えた。
画面を見る。
着信。
各務原桜。
――――
リンは、一瞬、迷った。
でも、出ないわけにはいかない。
通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「あんた、今日、なでしこと一緒にいたでしょ」
桜の声。
いつもの気怠げな口調。
でも、その奥に、鋭い刃物が隠れている。
「……ああ」
「見守りアプリ、また猪之頭方面を示してるのよ。あんた、何か知ってるでしょ」
桜の声が、低くなる。
「……別に。ただの下見だ」
「下見? あの崖の?」
桜が、詰め寄る。
「あんた、なでしこに何を吹き込んでるの? あの子、最近、一人で変なところに行くのよ。前から、おかしいと思ってた」
「……私は、何も」
「嘘」
桜の声が、冷たく響く。
「あんた、何か隠してるでしょ。なでしこのこと、何か知ってるんでしょ」
リンは、黙った。
(言えるわけがない)
(夢で、お前の妹が死ぬのを見た、なんて)
「……はあ。まあ、いいわ」
桜が、ため息をつく。
「でも、覚えておいて。もし、なでしこに何かあったら、私はあんたを許さないから」
声の温度が、さらに下がる。
「あの子は、私の大切な妹なの。あんたのせいで、あの子が危険な目に遭うなら、私は本気で怒るわ」
リンは、何も言えなかった。
「……切るわよ」
ツー。
通話が切れた。
――――
静寂。
部屋に、スマホの画面の光だけが残る。
リンは、スマホを握りしめたまま、動けなかった。
桜の言葉が、頭の中で繰り返される。
(もし、なでしこに何かあったら、私はあんたを許さない)
(分かってる)
(そんなこと、言われなくても)
リンは、コンパスを胸に抱いた。
針の回転が、心臓の鼓動と重なる。
速い。
(私が、守る)
(一人で)
(なでしこを、絶対に)
リンは、震える手で、コンパスを握りしめた。
窓の外。
月が、雲に隠れていく。
部屋が、暗くなる。
コンパスの針は、まだ、回っていた。
反時計回りに。
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