ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 見守りアプリと冷たい視線
本栖湖から戻って、三日。
リンの指先は、まだ冷たかった。
教室の窓際。冬の陽が斜めに差し込む。頬に当たる光は薄い。温かくない。
スマホを開く。なでしこからのメッセージが、朝から何件も届いていた。
「リンちゃん!今日の購買、メロンパン最後の一個ゲットしたよ!なでしこの勝ち!」
「あ、でもリンちゃんはコーンスープ派だもんね!今度こそ負けないから!」
「今日もお疲れさま。帰り、一緒に帰れる?」
リンは、小さく息を吐いた。
(平和だ)
その平和が、逆に怖い。
夢の内容は、まだ頭の裏に張り付いている。雪。崖。オレンジのヘアピン。落ちていく、なでしこ。
コンパスは、今も制服のポケットの中にある。真鍮の冷たい感触が、太ももの上から伝わる。針は、まだ回っている。反時計回りに。ゆっくりと。
(どうにかしなきゃ)
そう思うのに、どうすればいいのか分からない。
放課後。
リンは、なでしこの誘いを断って、一人で各務原酒店へ向かった。
――――
各務原酒店。
浜松市南区の酒販店。駅から徒歩十二分。店の前に立つと、古い木の匂いと、ほのかな酒の香りが混ざって流れてくる。
リンは、引き戸を開けた。
「あら、リンちゃん。いらっしゃい」
なでしこの母、由美が、レジの奥から顔を出した。眼鏡をかけた、おっとりした雰囲気の女性。エプロンの紐を結び直しながら、柔らかく笑う。
「なでしこ、まだ学校だけど……あがって待つ?」
「……お邪魔します」
リンは、ぺこりと頭を下げた。
店の奥の居間。昭和レトロなソファ。座ると、スプリングがぎしりと鳴った。
(落ち着く)
この家は、いつ来ても静かで、温かい。
少しして、玄関が開く音。
「ただいまー!あれ、この靴……リンちゃん!?」
なでしこが、リビングに飛び込んできた。
明るい栗色のボブヘア。オレンジのヘアピン。大きな琥珀色の瞳。制服の上から、赤いマフラーを巻いている。
「どうしたの!?急に!もしかして、なでしこに会いたくなっちゃった?」
「別に。通りかかっただけ」
「えへへ、照れちゃって!」
なでしこが、リンの隣にどさりと座る。距離が近い。肩が触れる。
リンは、少しだけ体をずらした。
(近い)
でも、嫌じゃない。
なでしこが、首をかしげる。
「で、本当はどうしたの?リンちゃん、なんだか顔色よくないよ?」
リンは、黙った。
ポケットの中で、コンパスを握る。冷たい。
「……なでしこ」
「うん?」
「真面目な話がある」
リンの声が、いつもより低くなる。
なでしこの笑顔が、少しだけ引っ込んだ。
「……どうしたの?改まっちゃって」
リンは、天井を見た。
古い蛍光灯。小さな虫が一匹、光の周りを飛んでいる。
「夢を見たんだ」
「夢?」
「本栖湖で。お前が、崖から落ちる夢」
なでしこが、きょとんとした。
「え……なにそれ」
「猪之頭林道って、知ってるか。本栖湖の東側の。あそこの崖。お前が一人で立ってて、朝の五時四十七分に、足を滑らせて」
リンは、一気に喋った。
息が苦しい。
心臓が、変に速い。
「……お前が、死ぬ夢」
沈黙。
由美が、台所で何か洗っている音だけが聞こえる。
なでしこは、三秒ほど固まっていた。
それから。
「なーんだ!びっくりした!」
なでしこが、声を上げて笑った。
「夢でしょ?夢!大丈夫だよー!リンちゃん、心配性すぎ!」
「……でも」
「リンちゃん、最近キャンプ行きすぎで疲れてるんだよ。ほら、なでしこが温かいお茶入れてあげる!」
なでしこは、ぴょんと立ち上がった。
台所へ向かう。鼻歌が聞こえる。
リンは、ソファの上で、拳を握りしめた。
(信じてない)
当たり前だ。
夢の話を、真に受ける人間なんていない。
でも。
(お前が笑ってる場合じゃないんだ)
リンは、口を開きかけた。
「なでしこ、あのさ」
「はーい、ちょっと待ってねー。急須どこだっけ」
「……聞けよ」
リンの声は、届かなかった。
なでしこは、台所で由美と何か話して、けらけら笑っている。
リンの手から、力が抜けた。
(……もういい)
言いたいことは、言った。
伝わらなかった。それだけだ。
リンは、ソファに深くもたれた。
天井の蛍光灯が、じじ、と音を立てた。
――――
翌日。
県立浜松北高校。
校門前は、下校する生徒で混雑していた。
部活帰りの運動部。塾へ向かう受験生。たわいない話で盛り上がる女子の群れ。
リンは、駐輪場から原付を出そうとしていた。
「志摩リンちゃん」
声。
低くて、少しだけ気怠い、女の声。
振り返る。
校門の柱に、もたれかかるように立っている女性がいた。
暗い茶色のロングヘア。ゆるく巻かれている。気怠げな印象の茶色の瞳。身長は百六十五センチ。リンより頭一つ高い。
グレーのロングカーディガン。黒いスキニー。肩から、小さめのバッグ。
各務原桜。
なでしこの姉。二十一歳。甲府の大学に通う大学生。
「久しぶり。覚えてる?なでしこの姉の、桜」
「……覚えてます」
リンは、原付のハンドルから手を離した。
桜が、ゆっくりと近づいてくる。
「ちょっと、話せる?」
「……何の話ですか」
桜は、リンの目をじっと見た。
気怠そうなのに、目だけは真剣だった。
「なでしこのこと」
リンの胸が、小さく軋んだ。
――――
校門から少し離れた、自動販売機の前。
冬の風が、校舎の間を抜けて吹く。
桜は、自販機でコーンスープを買った。
「はい。これ、好きでしょ」
「……ありがとうございます」
缶を受け取る。温かい。
桜は、自分の分のブラックコーヒーを開けて、一口飲んだ。
「あのさ、単刀直入に聞くけど」
桜の指が、スマホを操作する。
「なでしこのスマホに、見守りアプリ入れてるの。私が。位置情報が分かるやつ」
リンは、コーンスープを飲む手を止めた。
「それでね、ここ一週間の記録、見てたんだけど」
桜は、スマホの画面をリンに向けた。
地図。
赤いピンが、いくつも立っている。
「本栖湖。浩庵キャンプ場。猪之頭林道。……あんたと一緒に行った時もあるけど、一人で行ってる日も、あるみたいなのよ」
リンの指先が、冷たくなった。
「なでしこ、最近、一人で湖とか林道に近づきすぎじゃない?何か知ってる?」
桜の目が、真っ直ぐにリンを貫く。
気怠い口調。でも、声の芯は鋭い。
「……知りません」
リンは、目を逸らした。
「あんた、なでしこの一番の友達でしょ。何か聞いてないの?」
「……別に。なでしこがどこに行こうと、私には関係ない」
リンの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
桜が、コーヒー缶を傾ける。
「ふうん。関係ない、ね」
沈黙。
自動販売機の唸る音。
遠くで、部活の掛け声。
「ねえ、リンちゃん」
桜が、一歩、リンに近づいた。
「あんた、何か隠してるでしょ」
リンは、息が止まるかと思った。
(言えるわけない)
夢の話。逆回転するコンパス。時間が巻き戻る力。
全部、言えるわけがない。
「……隠してることなんて、ありません」
「目が泳いでるわよ」
桜の声が、一段低くなる。
「なでしこ、ああ見えて結構、無茶するの。昔から。あの子が一人で危ない場所に行ってるって分かったら、私、止めなきゃいけないのよ」
桜は、リンから目を離さない。
「あんた、なでしこと一緒に本栖湖行ったわよね。あの子、何か言ってなかった?」
「……何も」
「本当に?」
「……本当です」
リンは、コーンスープの缶を、ぎゅっと握った。
缶が、かすかに凹む。
(違う)
(本当は、私が一番、知ってる)
(なでしこが、危ないって)
(でも、言えない)
桜は、長いため息をついた。
「……はあ。煮え切らないわね」
桜は、飲み終えたコーヒー缶を、自販機横のゴミ箱に捨てた。
カン、と音がする。
「いい?これだけは言っておくわ」
桜が、リンに背を向ける。
「妹を、危ない目に遭わせないでよ」
低い声。
冷たい声。
「あんたが何を知ってるか知らないけど、もし、なでしこに何かあったら、私、あんたのこと、絶対に許さないから」
桜は、振り返らなかった。
グレーのカーディガンが、風に揺れる。
そのまま、駅の方へ歩いていく。
リンは、校門の前に、一人で立ち尽くした。
手の中のコーンスープは、もう冷めていた。
(……許さない、か)
当然だ。
私が、何もできてないから。
リンの喉の奥が、熱くなった。
でも、涙は出なかった。
――――
その夜。
リンは、書店「ブックスなぎさ」のバックヤードで、段ボールを開いていた。
アルバイト。時給千五十円。新刊の検品と棚出し。
無心で、本を並べる。
(何か、手がかりが欲しい)
(コンパスのこと。夢のこと。時詠みのこと)
シフトの合間、スマホを開いた。
検索エンジンに、文字を打つ。
「逆回転 コンパス」
検索結果。
方位磁針の故障。反時計回りの磁場。南半球のコンパス。
どれも違う。
「時を詠む」
検索結果。
和歌。短歌。古典の授業。
違う。
「時詠み」
検索結果。
――一件だけ、引っかかった。
富士山麓の郷土史。個人が運営する古いブログ。
リンは、指先で画面をスクロールした。
「……時を詠む者。富士山麓に古くから伝わる口伝。江戸期の修験者集団が、時間を操る技法を持っていたとされる」
心臓が、ドクンと鳴った。
「……その者たちは、『時詠み』と呼ばれ、特別な道具を依り代とした。道具は、逆向きに回る針を持つ、真鍮の円盤だったと伝わる」
リンの手が、震えた。
ポケットの中のコンパス。
真鍮の円盤。逆向きに回る針。
(……合ってる)
(夢でも、気のせいでもない)
リンは、さらに画面を進めた。
「……時詠みは、記憶を対価に時を紡ぐ。失われた時は戻らない。戻した時は、自分の記憶が代わりに消える」
そこまで読んで、リンは、スマホを閉じた。
手のひらが、汗で湿っている。
(記憶を対価に)
(……どういう意味だ)
分からない。
でも、嫌な予感だけが、体の中を這い回る。
――――
バイトが終わったのは、午後九時。
店を出ると、冬の夜風が、頬を刺した。
リンは、自転車を漕いで、家に向かう。
住宅街の細い道。街灯が、オレンジ色の光を落とす。
途中、古書店の前を通りかかった。
「古書 よろずや」
シャッターは、もう閉まっている。
でも、店先のワゴンだけが、まだ出ていた。
百円均一の古本。郷土資料のコーナー。
リンは、自転車を止めた。
(こんな時間に、何やってるんだ)
自分でも思う。
でも、足が勝手に動いた。
ワゴンの本を、一冊、手に取る。
『富士山麓 民俗誌 昭和十三年刊』
黄ばんだ表紙。かび臭い。
ページを開く。
活字が、古い。
目次。
「第一章 富士信仰と修験道」「第二章 湖畔の集落と生業」「第三章 口伝と奇譚」
リンは、第三章のページを開いた。
「……本栖湖の北岸に、時ヲ詠ム者アリ。彼ノ者、時ヲ巻キ戻ス力ヲ持ツ。サレド、其ノ力ヲ使ウ度、記憶ヲ失フ。故ニ、時詠ミハ、人ノ前ニ姿ヲ現サズ。人ト関ワラズ。独リ、時ノ狭間ニ生キルト云ウ」
古い文体。読みにくい。
でも、意味は、分かった。
「……時を詠む者は、記憶を対価に、時を紡ぐ」
リンは、本を閉じた。
(……本当に、そうなのか)
(コンパスを使えば、記憶が消えるのか)
まだ、使ったことはない。
でも、あの夜、コンパスの針が速くなった時。
確かに、何かが変わった気がした。
リンは、本をワゴンに戻した。
買わなかった。
(……家に帰ろう)
自転車にまたがる。
ペダルを漕ぐ。
冷たい風。
星が、遠くで光っていた。
――――
自宅。
リンの部屋。
ベッドに寝転がって、スマホを開く。
SNSのアプリ。
何気なく、検索窓に「本栖湖 コンパス」と打った。
検索結果。
キャンプの写真。湖の風景。釣りの記録。
どれも、普通の投稿。
(……何を期待してるんだ)
リンは、自分に呆れた。
その時。
画面の下のほうに、一枚の写真が表示された。
投稿者は「@kagerou_time」。
アイコンは、黒い背景に、白い渦。
写真。
――コンパス。
真鍮の古いコンパス。
リンの持っているものと、同じ。
いや。
(……まったく同じだ)
蓋の刻印まで、同じ。
「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」
写真の背景。
湖。
富士山。
朝焼け。
本栖湖だ。
間違いない。
投稿の日付は、三日前。
キャプション。
「また、針が回り始めた」
リンの背中を、冷たいものが走った。
首筋から、腰へ。
(……誰だ)
(こいつは、誰なんだ)
リンは、そのアカウントのプロフィールを開いた。
名前:カゲロウ
自己紹介:時を詠む者たちの記録。富士山麓のどこかで。
フォロワー:0
フォロー:0
投稿:1件だけ。
その1件が、あのコンパスの写真。
リンは、スマホを握りしめた。
指が、震える。
(……カゲロウ)
(時を詠む者たちの記録)
(……仲間、なのか)
(それとも)
分からない。
でも、確かなことが一つ。
(私以外にも、このコンパスを知ってる奴がいる)
――――
その夜。
リンは、夢を見た。
雪が、降っていた。
暗い。
朝の五時四十七分。
猪之頭林道。
標高九百メートル。
見晴らし岩。
ガードレールは、ない。
なでしこが、立っている。
一人で。
オレンジのヘアピン。
白いダウンジャケット。
赤い手袋。
富士山柄のマフラー。
なでしこが、笑っている。
こっちを見て。
「リンちゃん」
手を振っている。
リンは、叫ぶ。
「来ちゃダメ!」
声が、出ない。
なでしこが、一歩、後ろに下がる。
崖の縁。
石が、落ちる。
カラカラと、音を立てて。
なでしこの体が、傾く。
ゆっくりと。
まるで、映画のスローモーションみたいに。
――今度は、前より、長く。
鮮明に。
なでしこの顔が、恐怖に歪む。
「リンちゃん」
声。
聞こえた。
「助けて」
なでしこの手が、伸びる。
リンの手が、届かない。
指先と指先が、触れる。
――触れた。
でも、掴めない。
なでしこの体が、落ちていく。
暗い谷へ。
雪の中へ。
「なでしこ――!!」
――――
リンは、飛び起きた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
ドクドクと、うるさい。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、月明かりが、細く差し込む。
リンは、震える手で、ポケットを探った。
コンパス。
取り出す。
月明かりに、真鍮が鈍く光る。
針が、回っていた。
反時計回りに。
――前より、速い。
明らかに、速い。
ぐるぐると、不規則に、狂ったように回っている。
リンは、息を呑んだ。
(……これ、マジでやばいやつだ)
声に出して、呟いていた。
コンパスを握りしめる。
冷たい。
針の回転が、指に伝わる。
(なでしこが、死ぬ)
(このままじゃ、本当に)
リンは、もう一度、スマホを開いた。
画面が眩しい。
「@kagerou_time」の投稿画面。
真鍮のコンパス。
本栖湖の朝焼け。
「また、針が回り始めた」
リンは、その画面を、じっと見つめた。
月明かりの中で。
コンパスの針は、まだ、回っていた。
速く。
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